一生の思い出
文化祭まで、あと三日。
ここまで来ると、教室の空気は普段の学校生活とは完全に別物になっていた。
授業が終わる。
机を動かす。
エプロンをつける。
看板を確認する。
装飾のずれを直し、メニュー表の最終版を配り、接客班と会計班の動きを確認する。
俺にとって、放課後に教室へ残ることが当たり前になっていた。
少し前までなら、考えられなかったことだ。
「清太、これ」
莉乃が俺の前へ一枚の紙を差し出した。
当日のシフト表だった。
「修正版?」
「うん」
俺は受け取り、内容を確認する。
俺は午前中の前半が会計。
その後、一時間ほど接客。
昼過ぎに休憩。
莉乃は午前中から接客で、俺とほぼ同じ時間に休憩へ入るようになっていた。
「……偶然か?」
俺が聞く。
莉乃は笑った。
「どう思う?」
「莉乃」
「なに?」
「正直に言え」
「頑張って調整した」
「やっぱりか」
俺はシフト表へ視線を戻す。
周囲の人間の希望も崩していない。
単純に自分と俺の休憩時間が重なるよう、うまく調整したらしい。
「他の人に迷惑かけてないだろうな」
「かけてないよ。全員に確認した」
「ならいいけど」
「嬉しい?」
「まあ」
「清太」
「……嬉しいよ」
答えると、莉乃は満足そうに頷いた。
「じゃあ、当日は一緒に回ろうね」
「休憩一時間だけだぞ」
「一時間もある」
「人多いと思うけど」
「清太がいるから大丈夫」
「それ、逆じゃないか?」
普段なら、トップアイドルの莉乃のほうが人に囲まれる。
俺が守るというより、俺まで巻き込まれる可能性のほうが高い。
「清太が手繋いでくれたら、迷子にならない」
「高校生が文化祭で迷子になるなよ」
「人が多いから」
「手を繋ぐ理由作ってるだろ」
「ばれた?」
「わかりやすすぎる」
莉乃は楽しそうに笑った。
そんな会話をしながら、俺はシフト表を壁へ貼る。
文化祭当日。
今までは、そこへ向かって準備してきた。
だが、いざ近づいてくると胸の奥が落ち着かなくなる。
楽しみ。
怖い。
終わってほしくない。
早く当日になってほしい。
いくつもの感情が混ざっていた。
「清太」
莉乃の声が近くで聞こえる。
「また考えてる?」
「少し」
「怖い?」
「それもある」
「ほかは?」
俺は教室を見回した。
皆が作った装飾。
完成した看板。
何度も修正したメニュー。
集合写真。
買い出し。
雨宿り。
接客練習。
莉乃との手繋ぎ。
抱擁。
額への口づけ。
文化祭準備という一か月の中に、思っていた以上の記憶が詰まっている。
「終わるのが、少し寂しい」
俺が言うと、莉乃の表情が柔らかくなった。
「私も」
「最初は逃げたかったんだけどな」
「自宅待機する予定だったもんね」
「覚えてたのかよ」
「清太の言葉は覚えてる」
「便利なところだけ忘れてくれ」
「嫌」
莉乃は俺の隣へ並んだ。
肩が触れる。
「でも、文化祭が終わっても、思い出は消えないよ」
「うん」
「清太も消えない?」
「どういう意味だよ」
「文化祭が終わったからって、私から離れない?」
声が少しだけ震えていた。
俺は莉乃を見る。
彼女は笑っていなかった。
文化祭準備が終わる。
毎日放課後まで一緒にいる理由がなくなる。
実行委員という関係も、区切りがつく。
莉乃は、そんなことまで不安に思っているのだろう。
「離れないよ」
俺は答えた。
莉乃の瞳が揺れる。
「文化祭がなくても、朝は会うし、昼も一緒に食べるだろ」
「うん」
「放課後も、仕事がなければ一緒に帰る」
「うん」
「カードもするし、『青春いらない!!』も読む」
「……うん」
「だから、文化祭が終わったくらいで変わらないよ」
そこまで言ってから気づく。
俺はいつの間にか、莉乃との未来を当然のように予定へ入れていた。
来週も。
来月も。
もっと先も。
以前の俺なら、約束を避けた。
失うのが怖かったから。
期待するのが嫌だったから。
でも今は、自分から言っている。
「清太」
莉乃が俺の制服の袖を掴む。
「それ、ずっと?」
「期間を延ばすなよ」
「どこまで?」
「……今は決めなくていいだろ」
「でも、清太の未来にいたい」
莉乃らしい重い言葉だった。
俺は少しだけ笑う。
「今のところ、いるよ」
「今のところ?」
「少なくとも、文化祭が終わってもいる」
「来年は?」
「いるんじゃないか?」
「卒業するときは?」
「気が早い」
「卒業したあとは?」
「莉乃」
「なに?」
「一つずつにしよう」
俺は莉乃の手を取った。
袖ではなく、手。
指を絡める。
「俺、先のことを考えるのがまだ少し怖いから」
莉乃の表情が少し曇る。
俺はその手を握り直した。
「でも、今の莉乃とは離れたくない」
言った瞬間、自分でも驚いた。
莉乃は完全に固まっている。
「清太」
「なに?」
「もう一回」
「無理」
「聞きたい」
「今ので終わり」
「じゃあ覚える」
「どうせ覚えるだろ」
「一生」
「やっぱり期間が長い」
莉乃は俺の胸元へ額を寄せた。
俺は周囲を見る。
教室にはまだ数人残っている。
原と篠崎もいる。
だがもう、少し身体を寄せられたくらいで慌てて離れる気にはならなかった。
「高原くーん」
原の声が飛んでくる。
「もう少しで最終確認だから、二人の世界から戻ってきてねー」
「聞こえてるよ」
「返事が自然すぎる」
篠崎が眠そうに笑った。
莉乃は俺の胸元から離れず、むしろ少しだけ額を押しつける。
「莉乃、作業」
「あと十秒」
「長い」
「じゃあ五秒」
「三秒」
「七秒」
「増やすなよ」
結局、十秒ほどそのままだった。
俺が離さなかったせいでもある。
※ ※ ※
最終確認を終えたころには、教室に残っているのは俺と莉乃だけだった。
「戸締まり、俺がするよ」
「私もいる」
「知ってる」
窓を閉める。
備品を確認する。
エアコンを切る。
最後に黒板の前に立つ。
『喫茶・夕暮れ』
完成した看板。
その下には、全員で撮った集合写真が小さく貼られていた。
俺と莉乃が中央にいる。
「清太」
「なに?」
「写真撮ろ」
「今?」
「今の教室と」
莉乃がスマホを取り出す。
俺は少し迷ってから、隣へ並んだ。
「誰が撮るんだよ」
「タイマー」
スマホを机へ置き、莉乃が急いで俺のところへ戻ってくる。
十秒。
九秒。
莉乃が俺の隣へ並ぶ。
八秒。
肩が触れる。
七秒。
莉乃が手を握る。
六秒。
「清太」
「なに?」
五秒。
「こっち見て」
言われるまま、莉乃を見る。
四秒。
彼女が俺を見つめている。
三秒。
顔が近づく。
二秒。
「莉乃?」
一秒。
莉乃が、俺の頬へそっと口づけた。
シャッター音。
俺は完全に固まった。
莉乃は顔を離し、真っ赤になりながらスマホへ走る。
「撮れた」
「莉乃」
「なに?」
「今、何した?」
「写真撮った」
「そこじゃない」
「頬にキスした」
「なんで普通に言えるんだよ」
「清太もしてくれたから」
「俺は額だろ」
「場所は違うけど、キスはキス」
莉乃は撮れた写真を見る。
俺も覗き込んだ。
写真の中で。
莉乃が俺の頬へ唇を触れさせている。
俺は目を見開き、完全に無防備な顔をしていた。
後ろには完成した看板。
誰もいない教室。
文化祭三日前。
「これ、誰にも見せるなよ」
「うん」
「絶対だぞ」
「二人だけの秘密にする」
莉乃は写真を大事そうに保存した。
俺のスマホも震える。
「送った」
「いらないって言ってないけど」
「保存して」
「命令かよ」
「お願い」
俺は写真を開いた。
消す理由はなかった。
だから保存する。
「保存した」
莉乃が嬉しそうに笑った。
「清太」
「なに?」
「文化祭が終わっても、この写真見たら思い出せるね」
「何を?」
「私たちが、ここまで近くなったこと」
俺はもう一度、写真を見る。
文化祭が始まる前。
莉乃とは、まともに話したことすらなかった。
今は名前で呼び合い。
手を繋ぎ。
抱きしめ。
口づけまで残っている。
唇同士ではない。
けれど、距離はもう以前とは比べものにならなかった。
「清太」
「なに?」
「あと三日だね」
「うん」
「一緒に楽しもうね」
「……うん。一緒に」
俺たちは教室を出る。
電気を消す直前。
俺はもう一度だけ振り返った。
完成した喫茶店。
皆で作った看板。
昔の俺が、絶対に手に入らないと思っていた学校行事の思い出。
今度は、逃げずに当日を迎えられそうだった。
莉乃が俺の手を握る。
俺も自然に握り返した。
文化祭まで、あと三日。
そして俺はもう、この文化祭を楽しみにしている自分を否定しなくなっていた。
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