文化祭まで残り
文化祭まで、あと七日。
つまり一週間。
たった一週間である。
教室の後ろに積まれていた段ボールはほとんど姿を消し、代わりに完成した装飾品が壁や窓を埋め始めていた。
『喫茶・夕暮れ』
金色の文字でそう書かれた看板は黒板の前に置かれ、橙色の光を模した飾りが窓辺を彩っている。机には深い茶色のクロスがかけられ、メニュー表もほぼ完成していた。
そして。
「高原、ニュースだ」
「嫌な予感しかしない」
朝、席へ着いた直後。
クラスメイトの男子が、妙に真剣な顔で俺の机へ両手をついた。
「一年の出し物で、うちのクラスが一番注目されてるらしい」
「莉乃がいるからだろ」
「それもある」
「じゃあ他に何があるんだよ」
男子は無言で俺を見る。
なぜ俺を見る。
やめろ。
俺はそんな目で見られるような人間ではない。
「高原と星宮さんの写真」
「……」
「めっちゃ話題」
「帰っていい?」
「まだ朝だぞ」
俺は机へ額をつけた。
終わった。
文化祭が始まる前から、俺の精神が閉幕した。
原因はわかっている。
校内へ掲示された宣伝用ポスターだ。
同じエプロン姿で並んだ俺と莉乃。
肩が触れるほど近い距離。
俺は莉乃を見たあとだったため、普段より自然に笑っている。
さらに撮影後、俺たちが手を繋いで廊下を歩いていたところを複数人に目撃された。
噂が広がらないほうがおかしい。
「高原、お前さ」
「何も聞きたくない」
「星宮さんと結局どういう――」
「おはよう、清太」
聞き慣れた声がした。
顔を上げる。
莉乃が俺の隣に立っていた。
「おはよう」
俺が答えると、莉乃は嬉しそうに微笑んだ。
それだけで、目の前の男子が何とも言えない顔になる。
「……じゃあ俺、行くわ」
「どこに?」
「青春の邪魔しないように」
「待て。誤解を解いてから行け」
男子は逃げた。
俺は追わなかった。
というより追えなかった。
莉乃が俺の制服の袖を掴んだからだ。
「清太」
「なに?」
「さっき、何の話してたの?」
「莉乃と俺の写真が話題になってるらしい」
「嬉しい」
「どうしてそうなる」
「清太と私が一緒にいること、皆が覚えてくれるから」
「文化祭の宣伝写真だぞ」
「でも一緒」
莉乃の理論は相変わらずだった。
だが、以前の俺なら、この時点でかなり動揺していたと思う。
写真を外してほしい。
莉乃から少し離れたほうがいい。
そう考えただろう。
今も怖さはある。
ただ、それ以上に。
「清太」
「なに?」
「今日、一緒に登校できなかった」
「朝から仕事だったんだろ?」
「うん。だから寂しかった」
「数時間だろ」
「長い」
莉乃はそう言いながら、俺の袖を掴んだまま少しだけ身体を寄せてくる。
俺は周囲を見る。
クラスメイトたちは、すでにこちらをちらちら見ていた。
今さらだった。
「昼は一緒に食べよう」
俺から言うと、莉乃が目を見開いた。
「清太から?」
「毎日一緒だろ」
「でも清太から言ってくれた」
「嫌なのか?」
「嬉しすぎる」
莉乃は俺の袖を胸元へ抱えるように握った。
「じゃあ、倉庫裏」
「うん」
「仕事の話も聞くよ」
言った瞬間、莉乃の瞳が揺れた。
「……清太」
「なんだよ」
「今日、好きって十回くらい言っていい?」
「いつもそれくらい言ってるだろ」
「じゃあ二十回」
「増やすな」
莉乃は幸せそうに笑った。
その笑顔を見ていると、俺も少しだけ笑ってしまう。
そして俺は、そのことに気づいた。
以前は、莉乃に笑いかけられるたびに逃げようとしていた。
今は違う。
次に会う約束を、自分からするようになっている。
変化としては、かなり重症だった。
※ ※ ※
放課後。
文化祭まで一週間ということもあり、教室にはほぼ全員が残っていた。
本日の作業内容は、接客の最終確認。
そして――制服以外での衣装チェックだった。
「それじゃあ女子は一回着替えてきまーす!」
原の声で、女子たちが衣装を持って教室を出ていく。
莉乃もその中にいた。
男子側の衣装は以前と変わらず、制服の上から腰巻きエプロンを着けるだけだ。
だが女子側は、少しだけ変更されたらしい。
レトロ喫茶の雰囲気に合わせ、白いブラウスに膝下丈の黒いスカート、そしてフリル付きのエプロン。
派手なコスプレではない。
ただ、制服とはかなり印象が変わる。
教室の扉が開いた。
女子たちが戻ってくる。
俺は無意識に、莉乃を探していた。
そして見つける。
「清太」
白いブラウス。
黒いスカート。
腰には白いエプロン。
長い髪は、普段とは違って片側へまとめられている。
ステージ衣装よりずっと地味だ。
けれど。
だからこそ、俺には刺さった。
普通の女子高生が、文化祭のために着た衣装。
莉乃がずっとやりたかった普通の文化祭。
それを、今こうして一緒に過ごしている。
「どう?」
莉乃が俺の前で立ち止まる。
「……似合ってる」
「それだけ?」
「可愛いよ」
以前なら、かなり勇気が必要だった言葉。
今は少しだけ自然に言える。
莉乃は頬を赤くした。
「清太、その言い方ずるい」
「自分で聞いたんだろ」
「でも、前より普通に言う」
「嫌か?」
「もっと言って」
「調子に乗るな」
莉乃が笑う。
その笑顔を見ていたら、ふとエプロンの肩紐が少しねじれていることに気づいた。
「莉乃、動くなよ」
「え?」
俺は彼女の肩へ手を伸ばす。
ねじれた紐を指で直す。
莉乃の身体が固まった。
「清太?」
「紐ねじれてる」
「……触った」
「必要だからだろ」
「清太から」
「服を直しただけだよ」
「嬉しい」
また記念日にされそうなので、俺はすぐに手を離した。
しかし、その瞬間。
「じゃあ次は私」
「何が?」
「清太のエプロン」
「自分で結べる」
「知ってる」
「じゃあ」
「でも私がしたい」
莉乃は俺の背後へ回った。
結んでいた紐を解く。
「莉乃」
「動かないで」
背後から腰へ指先が触れる。
制服越しだというのに、身体が妙に意識してしまう。
細い指が紐を取り、ゆっくり結び直す。
「きつくない?」
「大丈夫」
「本当に?」
「うん」
「じゃあ完成」
莉乃が正面へ戻る。
俺の腰の後ろには、彼女が作った結び目。
少し離れたところから、原が何とも言えない顔で俺たちを見ていた。
「もう突っ込むの疲れたんだけど」
「何が?」
「何でもない」
原は遠い目をしていた。
篠崎が隣で眠そうに言う。
「放っておこー」
「そうする」
「扱いが雑になってないか?」
「慣れた」
慣れられていた。
俺たちの距離感に。
それはそれで問題がある気がする。
しかし、そのとき。
「星宮さん、ちょっといい?」
男子の一人が莉乃を呼んだ。
「なに?」
「接客の動線なんだけど、一緒に確認してほしくて」
「うん、いいよ」
莉乃が俺から離れていく。
男子と二人で、机の間を歩き始めた。
以前なら、ここでまた胸がざわついたかもしれない。
事実、少しはざわついた。
しかし前回の模擬営業とは違う。
莉乃は何度もこちらを見ていた。
一度。
二度。
三度。
視線が合うたびに、少しだけ笑う。
まるで。
ちゃんとここにいるよ。
そう伝えるように。
俺は小さく息を吐いた。
そして、自分でも驚くことをした。
莉乃が接客動線の確認を終えて戻ってきた瞬間、俺から声をかけた。
「莉乃」
「なに?」
「終わった?」
「うん」
「じゃあ、こっち手伝って」
莉乃の目が大きくなる。
「清太が呼んでくれた」
「作業の話だよ」
「でも、来てって言った」
「手伝ってって言ったんだ」
「同じ」
「違うだろ」
莉乃は嬉しそうに、俺の隣へ来た。
そして、周囲には聞こえないくらい小さな声で囁く。
「嫉妬した?」
「少し」
今度は誤魔化さなかった。
莉乃が固まる。
「清太」
「でも、仕事だから仕方ないってわかってる。それでも、早く戻ってこないかなとは思ってた」
「……無理」
「何が?」
「好きすぎる」
「声大きくするなよ」
「清太」
莉乃は俺の袖を両手で握った。
「今、抱きついていい?」
「だめ」
「どうして?」
「皆いるだろ」
「じゃああとで」
「予約するな」
「予約した」
勝手に決定された。
そして、予告どおり。
作業終了後。
俺と莉乃は、また教室に残っていた。
理由は単純。
実行委員として最終確認があるからだ。
クラスメイトたちが帰り、原と篠崎も「戸締まりよろしく」と教室を出ていく。
二人きりになった瞬間。
「清太」
「なに?」
振り返るより先に、身体へ柔らかな感触がぶつかった。
莉乃が抱きついてきた。
「おい」
「予約した」
「予約は認めてない」
「でも清太、離さない」
俺は反射的に莉乃の背中へ腕を回していた。
言われて気づく。
確かに、離していない。
「今日、清太から呼んでくれた」
「手伝いを頼んだだけだよ」
「戻ってきてほしいって思ってくれた」
「……まあ」
「嫉妬もした」
「言わせるなよ」
「全部嬉しい」
莉乃は俺の胸へ頬を寄せる。
俺もその髪へ軽く顎を乗せた。
「俺は面倒くさいと思うけど」
「どこが?」
「嫉妬したり、いなくなると寂しかったり」
「私も同じ」
「莉乃のはもっと重いだろ」
「お揃い」
「量が違う」
「清太もこれから重くなるよ」
「嫌な予言するな」
莉乃が小さく笑う。
その声が胸元へ響く。
「清太」
「なに?」
「私、本番の日が来るの、少し怖い」
意外な言葉だった。
「どうして?」
「終わっちゃうから」
「まだ始まってもないだろ」
「でも、終わる」
莉乃は俺の制服を掴んだ。
「準備してる今がすごく幸せだから。放課後も一緒で、買い出しもして、写真も撮って、毎日清太と文化祭の話してる」
「本番が終わっても会えるよ」
「でも文化祭は終わる」
「来年もある」
「今の文化祭は今年だけ」
重い。
けれど、少しわかる気もした。
俺だって、文化祭が終わることを想像すると妙な気持ちになる。
最初は逃げたかった。
青春コンプレックス最大級の難所だと思っていた。
それが今では。
「俺も少し寂しいかも」
言うと、莉乃が顔を上げた。
「ほんと?」
「うん。準備、思ってたより楽しかったから」
「私と一緒だったから?」
「かなり」
莉乃の瞳が揺れた。
「かなり?」
「かなり」
「一番?」
「何の順位だよ」
「楽しかった理由」
「……一番だよ」
答える。
莉乃は何も言わなくなった。
ただ俺を見る。
目元が少し潤んでいる。
「泣くなよ」
「泣いてない」
「嘘つけ」
「清太が拭いてくれたら泣く」
「じゃあ泣くな」
「意地悪」
莉乃が笑った。
俺は、その頬へ手を伸ばした。
目元へ溜まりかけた涙を、親指でそっと拭う。
莉乃の身体が止まる。
俺たちの距離は近い。
抱きしめたまま。
俺の手は彼女の頬。
莉乃の腕は俺の背中へ回っている。
「清太」
「なに?」
「今日もしてくれる?」
何をとは聞かなかった。
額への口づけ。
たぶん、そういう意味だ。
以前なら、少し迷ったと思う。
今日は違った。
「目閉じて」
莉乃の瞳が大きくなる。
「清太?」
「早く」
「う、うん」
莉乃は目を閉じた。
俺は彼女の前髪を指で分ける。
ゆっくり顔を近づけた。
額へ唇を触れさせる。
一秒。
二秒。
以前より少し長く。
莉乃の指が、俺の背中をぎゅっと掴んだ。
唇を離す。
莉乃はすぐには目を開けなかった。
「莉乃?」
「……もう一回」
「調子に乗るな」
「一回だけ」
「さっき一回しただろ」
「だから、あと一回」
「増えてるじゃないか」
莉乃が目を開ける。
期待に満ちた瞳。
俺はため息を吐いた。
そして、もう一度。
今度は額ではなく――莉乃の髪へ、軽く唇を触れさせた。
莉乃が固まる。
「清太?」
「これで二回」
「場所が違う」
「嫌だった?」
「違う」
莉乃は俺の胸へ顔を埋めた。
「嬉しくて無理」
「最近そればっかりだな」
「清太がどんどん近くなるから」
俺は莉乃の髪を撫でる。
自然に。
以前より、ずっと自然に。
「俺も、莉乃が近くにいるのが普通になってきた」
その言葉に、莉乃が顔を上げる。
「普通?」
「うん」
「隣にいるのも?」
「普通」
「手繋ぐのも?」
「……まあ」
「抱きしめるのも?」
「それはまだ少し緊張する」
「キスは?」
「額だけな」
「唇は?」
「聞くなよ」
莉乃が笑う。
でも、追及はしなかった。
「じゃあ、待つ」
「うん」
「でもずっとは待てないかも」
「どっちだよ」
「清太が遅すぎたら、私から行く」
「怖い宣言するな」
「嫌?」
俺は答えなかった。
否定もしなかった。
それだけで、莉乃は満足したらしい。
俺の胸へ、もう一度頬を預ける。
「清太」
「なに?」
「文化祭が終わっても、こうしてくれる?」
俺は彼女の背中へ回した腕へ、少しだけ力を込めた。
「文化祭が終わっても、莉乃は莉乃だろ」
「うん」
「なら、変わらないよ」
莉乃の身体が震えた。
「清太」
「なに?」
「今の言葉、一生忘れない」
「知ってる」
「来年も?」
「覚えてるだろ」
「十年後も?」
「莉乃ならな」
「ずっと?」
「たぶん」
「絶対にする」
莉乃はそう言い切った。
文化祭まで、あと七日。
俺たちはまだ、本番を迎えていない。
けれど俺にとっては、準備している今この瞬間さえ、もう失いたくない青春になり始めていた。
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