名前の無い関係に、名前がつくまで
文化祭まで、あと九日。
この日、俺たちのクラスでは本番を想定した模擬営業が行われることになった。
教室の机は壁際へ寄せられ、代わりに二人掛けの席がいくつも並べられている。窓には橙色の薄紙が貼られ、電灯にも暖色のカバーが取りつけられていた。
黒板の前には、皆で完成させた『喫茶・夕暮れ』の看板。
何も知らずに教室へ入れば、本当に小さな喫茶店だと思うかもしれない。
「高原、会計の準備できた?」
「釣り銭用の硬貨は本番まで使えないから、今日は紙の金で代用する。伝票の番号と注文表も確認した」
「さすが実行委員」
「莉乃が作った配置表がわかりやすかったからだよ」
接客班の男子へ答えると、少し離れた場所にいた莉乃が反応した。
白いフリル付きのエプロンを着たまま、嬉しそうにこちらを見る。
「清太、今私のこと褒めた?」
「事実を言っただけ」
「もう一回言って」
「仕事しろ」
「清太に褒めてもらうのも大事な仕事」
「そんな担当はない」
莉乃は楽しそうに笑いながら、トレーへグラスを並べ始めた。
今日の模擬営業では、接客班と調理班以外のクラスメイトが客役を務める。
本番と同じように注文を取り、品物を運び、伝票を会計へ回す。実際の飲食物は使えないため、グラスは空で、皿の上には紙で作ったホットケーキや焼き菓子が載っていた。
俺は基本的に会計担当だった。
しかし、混雑した際には接客も手伝うことになっている。
「それじゃあ、模擬営業始めるよー!」
原の声を合図に、教室の扉が開かれた。
客役のクラスメイトたちが入ってくる。
莉乃は入口の前に立ち、柔らかな笑顔で頭を下げた。
「いらっしゃいませ。喫茶・夕暮れへようこそ」
教室内から歓声が上がった。
当然だ。
現役トップアイドルが、制服姿にエプロンを着けて接客しているのだ。文化祭本番でも、この光景を目当てに大量の客が押し寄せることは容易に想像できる。
「星宮さん、こっちの席担当して!」
「写真撮ってもいい?」
「本番もいるよね?」
莉乃の周囲に、男子の客役が集まる。
全員同じクラスの生徒だ。
ただの接客練習。
莉乃も困らない程度に、笑顔で対応している。
それなのに。
胸の奥が、妙にざわついた。
莉乃が別の男子へ笑いかける。
名前を呼ばれる。
楽しそうに話している。
仕事では、もっと多くの男と並ぶこともある。撮影で腕を組んだり、恋人役を演じたりすることだってある。
それが仕事だと理解している。
理解しているのに、今は目の前で見ていられなかった。
「清太」
会計台の前から、莉乃が俺を呼んだ。
顔を上げる。
「これ、二番の伝票」
「そこに置いて」
「……うん」
俺の返事が思ったより冷たく聞こえたのだろう。
莉乃の笑顔がわずかに揺れた。
「清太、どうしたの?」
「何でもない」
「何でもない顔じゃない」
「今は練習中だろ」
「でも」
「早く戻れよ。客待ってるから」
また冷たい言葉が出た。
莉乃は一瞬だけ俯く。
それから、仕事用の笑顔を作り直して席へ戻っていった。
言いすぎた。
わかっている。
莉乃は何も悪くない。
ただ、俺の中に生まれた感情をどう扱えばいいのかわからなかった。
嫉妬。
たぶん、これはそういうものだ。
莉乃がほかの男子に笑いかけるのが嫌だった。
俺だけに見せてほしいと、一瞬でも思った。
自分勝手だ。
関係に名前すらつけられず、好きだと言い切ることもできないくせに、莉乃がほかの誰かへ向ける笑顔だけは独占したい。
そんな資格が自分にあるとは思えなかった。
だから、冷たくした。
莉乃ではなく、自分の感情から逃げるために。
模擬営業が終了した瞬間、俺は会計表を原へ渡し、教室を出た。
「少し備品確認してくる」
返事も聞かず、廊下を歩く。
向かったのは、文化祭用の材料を保管している空き教室だった。
段ボール箱の中身を確認するふりをして、一人になる。
馬鹿だ。
莉乃に謝らなければならない。
そう思うのに、すぐには戻れなかった。
昔からそうだった。
感情をうまく伝えられない。
傷ついたり、不安になったりすると、先に距離を取る。
相手を拒絶すれば、自分が拒絶される前に終わらせられるから。
でも、もう同じことはしたくなかった。
「清太」
背後から声がした。
振り返る。
扉の前に莉乃が立っていた。
エプロン姿のまま、少し息を切らしている。
「練習は?」
「終わった」
「片づけは?」
「原さんたちに任せた」
「戻ったほうがいいだろ」
「清太より大事な片づけはない」
莉乃は扉を閉め、俺の前まで歩いてきた。
瞳の奥には不安が浮かんでいる。
「私、何かした?」
「してないよ」
「じゃあ、どうして冷たくしたの?」
「……ごめん」
「謝ってほしいんじゃない」
莉乃の指が、俺の制服の裾を掴む。
「理由が知りたい。わからないまま清太に離れられるの、怖い」
離れたつもりはなかった。
でも莉乃から見れば、俺の行動はそう見えたのだろう。
怖くなったら言う。
逃げる前に話す。
自分で決めたことなのに、俺はまた同じことをしようとしていた。
「……嫉妬した」
どうにか言葉を絞り出した。
莉乃の目が見開かれる。
「男子に囲まれて、莉乃が笑ってるの見てたら嫌になった。でも、接客なんだから仕方ないし、莉乃は何も悪くない。それなのに勝手に不機嫌になって、冷たくした」
「清太」
「俺たち、まだ何でもないのに」
その言葉を口にした瞬間、莉乃の表情が凍った。
しまったと思った。
だが、もう遅い。
「何でもない?」
莉乃の声が震えていた。
「名前呼んで、手を繋いで、抱きしめて、額にキスしてくれたのに?」
「そういう意味じゃない」
「私だけが大事だと思ってた?」
「違う」
「清太にとって、私はまだ何でもないの?」
莉乃の瞳から光が薄れていく。
俺は反射的に彼女の手を掴んだ。
今度こそ、逃げてはいけない。
「違うって」
自分のほうへ引き寄せる。
莉乃の身体が胸元へ触れた。
「関係に名前がないって言いたかっただけだ。莉乃が何でもないなんて、一度も思ってない」
「じゃあ、何?」
「大事な人」
「それだけ?」
「一番近い」
「ほかには?」
莉乃は俺の胸元を掴み、逃がさないように見上げている。
答えを求める瞳。
俺も、もう曖昧な言葉だけで逃げ続けることはできなかった。
「俺がいないところで、ほかの男に笑ってほしくないって思った」
口にするたび、自分の醜い部分が露わになる。
「莉乃が俺に向ける顔を、ほかの人にも向けてるのが嫌だった。俺だけのものだと思いたかった」
莉乃の瞳が大きく揺れる。
「勝手だろ。莉乃はアイドルで、皆に笑うのも仕事なのに」
「清太」
「しかも俺は、まだちゃんと好きだって言えてない。それなのに嫉妬だけするなんて――」
「嬉しい」
遮られた。
莉乃は泣きそうな顔で笑っている。
「私、すごく嬉しい」
「なんで?」
「清太が私を独り占めしたいって思ってくれたから」
「そんな綺麗なものじゃないよ」
「私も綺麗じゃないよ」
莉乃は俺の胸元へ顔を寄せた。
「清太が原さんや篠崎さんと話すだけでも、本当は嫌。清太の知らない時間があるのも嫌。昔好きだった人が清太の中に残ってることも、全部嫌」
俺の背中へ両腕が回る。
「でも、清太が困るから我慢してる」
「我慢してるように見えないときもあるけど」
「すごくしてる」
「基準が怖いな」
「だから、お揃い」
莉乃は俺の胸へ頬を押しつけた。
「清太も私を独り占めしたい。私も清太を独り占めしたい」
「言葉にすると危険すぎるだろ」
「でも嬉しい」
俺は少し迷ってから、莉乃の背中へ腕を回した。
抱きしめる。
彼女の身体から、ゆっくり力が抜けていく。
「さっきはごめん」
「もう一回、冷たくする?」
「しないようにする」
「絶対?」
「怖くなったら、先に言う」
「嫉妬したら?」
「……それも言う」
「じゃあ私も言う」
「莉乃は言いすぎるくらい言ってるだろ」
「もっと言う」
「増やすなよ」
莉乃が胸元で笑った。
しばらく抱き合ったあと、彼女は顔を上げる。
「清太」
「なに?」
「私がほかの人に見せる笑顔と、清太に見せる顔は違うよ」
「そうなの?」
「うん。仕事の笑顔は、見てくれる皆のため。でも清太に笑うときは、清太に好きになってほしくて笑ってる」
心臓が強く鳴った。
「清太が私を見てくれると嬉しい。名前呼んでくれると、もっと嬉しい。触ってくれたら、その日ずっと幸せ」
「重いな」
「清太にだけ」
莉乃は俺の手を取り、自分の頬へ触れさせた。
柔らかな感触。
俺の手へ、安心したように顔を預ける。
「この顔は、清太にしか見せない」
「どんな顔?」
「清太が好きで仕方ない女の子の顔」
耐えられず視線を逸らしかける。
だが、莉乃の手が頬に触れ、俺の顔を戻した。
「逃げないで」
「近いよ」
「嫌?」
「嫌じゃない」
「じゃあ、見て」
空き教室。
積み上げられた段ボール。
廊下から遠く、片づけをするクラスメイトたちの声が聞こえる。
俺と莉乃だけが、文化祭の喧騒から切り離されたように向かい合っていた。
「清太」
「なに?」
「嫉妬してくれたお礼していい?」
「お礼が発生する感情じゃないだろ」
「私にはご褒美だったから」
莉乃が少し背伸びをする。
顔が近づいた。
俺は一瞬、唇が触れるのだと思った。
身体が固まる。
莉乃の唇は、俺の頬へそっと触れた。
ほんの一瞬。
柔らかな感触を残して、すぐに離れる。
俺は動けなかった。
「……莉乃?」
「額にしてくれたお返し」
「頬は聞いてない」
「嫌だった?」
「それは……」
嫌ではなかった。
むしろ、触れた場所だけが熱い。
莉乃は俺の反応を見ながら、不安そうに頬を染めている。
俺が拒絶しないか、待っている。
「嫌じゃないよ」
答えると、莉乃の瞳が明るくなる。
「もう一回していい?」
「調子に乗るな」
「じゃあ、清太から」
「しない」
「即答」
「今日はな」
言ってから、莉乃が固まる。
俺もまた、余計な言葉を付け足したことに気づいた。
「今日は?」
「言葉の流れだ」
「明日はしてくれる?」
「予約するなよ」
「文化祭当日は?」
「だから――」
「楽しみに待ってる」
莉乃は幸せそうに笑い、もう一度俺の胸へ抱きついた。
俺は頬へ残った感触を意識しながら、その背中を抱き返す。
文化祭まで、あと九日。
模擬営業で俺たちは少しだけすれ違い、初めて互いの嫉妬を言葉にした。
そして莉乃がほかの誰かへ笑いかけても、俺へ向ける顔だけは違うのだと知った。
頬に残された小さな熱と一緒に。
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