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怖い気持ちと恋心

 文化祭まで、あと十二日。


 校内宣伝用のポスターが掲示された。


 朝、昇降口へ入った俺は、靴を履き替えるより先にその事実を知ることになった。


 理由は単純だ。


 掲示板の前に、生徒が集まりすぎていた。


「星宮さん、めっちゃ可愛い!」


「これ一年の喫茶店だよね?」


「隣の男子って誰?」


「同じクラスの実行委員らしいよ」


 聞こえてくる声だけで、何が起きているのか理解できる。


 見たくない。


 しかし、自分が写っている以上、確認しないわけにもいかなかった。


 人の隙間から、掲示板を覗き込む。


 文化祭の出し物を紹介する色鮮やかなポスター。その中央付近に、『喫茶・夕暮れ』の宣伝写真が載っていた。


 同じ黒いエプロンを身につけた俺と莉乃。


 肩を寄せ、完成した看板を二人で持っている。


 莉乃はカメラへ柔らかく微笑み、俺もその隣で、思っていたより自然に笑っていた。


 写真としては悪くない。


 むしろ、文化祭の宣伝としてはかなり完成度が高い。


 問題は、俺が星宮莉乃の隣へあまりにも当然のように収まっていることだった。


「この二人、距離近くない?」


「幼馴染なんでしょ?」


「でも手とか繋いでるって噂あるよ」


「まさか付き合ってる?」


 心臓が縮む。


 背中に冷たいものが流れた。


 誰も俺を直接責めてはいない。


 それでも、声が勝手に過去の記憶と重なっていく。


『どうしてあいつが』


『勘違いしてるんじゃない?』


『近づかないでくれる?』


 俺は半歩、後ろへ下がった。


 ここから離れたい。


 写真を外してほしい。


 莉乃の隣に立つべきではなかった。


 そんな考えが一気に胸を埋め尽くす。


「清太」


 後ろから名前を呼ばれた。


 振り返ると、莉乃が立っていた。


 俺の顔を見た瞬間、彼女の表情が変わる。


「怖くなった?」


「……少し」


 以前なら、大丈夫だと答えていた。


 けれど、今は誤魔化さなかった。


 莉乃は俺の隣へ並び、掲示板を見る。


 周囲の生徒たちが気づき、少しずつ道を空けた。視線が一斉に集まる。


 莉乃は写真を見つめたあと、小さく笑った。


「清太、いい顔してる」


「そこじゃないだろ」


「私は好き」


「だから、今はそれが問題なんだよ」


「どうして?」


「俺が莉乃の隣にいること、皆が見てる」


「うん」


「何か言われるかもしれない」


「もう言われてるね」


 莉乃は周囲のざわめきを聞きながらも、平然としていた。


「平気なのか?」


「清太と写ってること?」


「俺のせいで、変な噂が広がること」


 莉乃は俺を見た。


 その瞳に迷いはなかった。


「清太のせいじゃないよ」


「でも」


「私は清太の隣で撮りたかった。手を繋いで歩いたのも、私がそうしたかったから」


 莉乃はさらに一歩近づいた。


 制服の袖が触れる。


「清太だけが悪いみたいに言わないで」


「悪いとは言ってない」


「言ってるよ。自分がいなければって顔してる」


 胸を突かれた。


 莉乃は俺が逃げることより、自分を責めて消えようとすることを嫌う。


「私、あの写真好きだよ」


「莉乃はそうでも、周りは」


「清太は?」


 莉乃が遮った。


「清太は、あの写真嫌い?」


 掲示板へ視線を戻す。


 莉乃の隣にいる俺。


 緊張していた。


 怖かった。


 それでも莉乃を見たあと、少し笑えた。


 二人で文化祭準備を進めた証拠。


 俺が逃げずに、莉乃の隣へ立った記録。


「……嫌いじゃない」


「じゃあ消えないで」


 莉乃の指先が、俺の手の甲へ触れた。


 周囲には大勢いる。


 すぐに握ることはしなかった。


 ただ、俺が選ぶのを待っている。


 俺は一度だけ深く息を吸った。


 視線が怖い。


 噂も怖い。


 莉乃の隣にいる資格を問われることも怖い。


 それでも、自分から写真の中を空席に戻したくはなかった。


 俺は莉乃の手を取った。


 強くは握らない。


 だが、隠しもしなかった。


 周囲のざわめきが大きくなる。


「清太」


「教室までだぞ」


「うん」


「あと、走るなよ」


「清太が離さなければ走らない」


「俺のせいにするな」


 莉乃は嬉しそうに笑った。


 俺たちは手を繋いだまま、掲示板の前を離れた。


 背中へ視線が刺さる。


 それでも、足を止めなかった。


 教室へ入ると、原がすぐに俺たちを見つけた。


「おはよー……って、朝から繋いでる!」


「声が大きい」


「ポスター見た!? めちゃくちゃ評判いいよ!」


「評判の中身が怖いんだよ」


「うちのクラス、絶対客来るって!」


 原は完全に売上のことしか考えていない。


 篠崎は自分の席で眠そうに頬杖をつきながら、俺たちの手を見る。


「宣伝効果、完璧だねー」


「喫茶店の宣伝になってるのか?」


「二人を見に来る人、多そう」


「それは店の目的と違うだろ」


 俺が手を離そうとすると、莉乃の指が強く絡んできた。


「莉乃」


「まだ教室まで」


「もう着いたぞ」


「席まで」


「条件を追加するな」


 結局、俺の席の横まで繋いだままだった。


 莉乃はようやく手を離すと、自分の席へ座る。


 それでも、どこか不安そうに俺を見ていた。


「清太、今日の放課後も残る?」


「残るよ。接客の練習あるだろ」


「途中で帰らない?」


「帰らない」


「私の隣にいる?」


「役割次第だろ」


 答えた瞬間、莉乃の顔が少し曇った。


 俺は小さく息を吐く。


「休憩時間は一緒にいる」


 付け加えると、すぐに笑顔へ戻った。


「約束?」


「約束」


 莉乃は机の下で小指を差し出す。


 俺も自分の小指を絡めた。


 文化祭の準備が始まってから、約束が増えた。


 写真では隣にいる。


 怖くなったら言う。


 文化祭当日は一緒に休憩する。


 終わったあとも、一緒に帰る。


 曖昧な関係のくせに、未来の予定だけは次々と決まっていく。


 ※ ※ ※


 放課後、接客班の練習が行われた。


 机を実際の配置に並べ、客役と店員役に分かれて注文から会計までの流れを確認する。


 莉乃は白いフリル付きのエプロン。


 俺は会計係の予定だったが、当日の人手不足を想定し、接客も練習することになった。


「いらっしゃいませ。お二人ですか?」


 俺が原と篠崎を席へ案内する。


 原は腕を組み、妙に偉そうな顔で頷いた。


「窓際の特等席を頼む」


「教室に特等席はない」


「店員が客へ反論した」


「練習だろ」


「清太、笑顔」


 莉乃が横から小声で注意する。


「これで十分だろ」


「全然笑ってない」


「接客用の笑顔なんて持ってない」


「私を見て」


 またそれだ。


 俺は莉乃を見る。


 彼女はトレーを胸元へ抱え、柔らかく笑っている。


 つられて、少しだけ口元が緩んだ。


「それ」


「何が?」


「今の顔で接客して」


「無理だよ」


「私に向ける顔をほかの人にも見せるのは嫌だけど、文化祭だから我慢する」


「複雑な許可を出すな」


 莉乃は自分で言いながら、本当に少し不満そうだった。


「高原くん、注文いい?」


 原が手を挙げる。


「青春クリームソーダを一つ」


「まだ採用されてない」


「莉乃との恋人ストロー付きで」


「そんなオプションは存在しない」


「じゃあ高原くんが飲ませてくれるサービス」


「出禁にするぞ」


 篠崎が眠そうな顔のまま、メニュー表を指差した。


「私は純恋紅茶ー」


「普通の紅茶だ」


「高原くんと莉乃が淹れた愛情入り?」


「お湯と茶葉しか入らない」


「清太、愛情は?」


 なぜか莉乃まで会話へ入ってくる。


「業務に私情を入れるな」


「私の分だけ入れて」


「自分で飲むのかよ」


 接客練習は、予定より長引いた。


 原因の半分は原と篠崎の悪ふざけだったが、残りの半分は俺と莉乃のやり取りを周囲が面白がったせいだった。


 それでも、以前のように逃げ出したいとは思わなかった。


 笑われている。


 けれど、拒まれてはいない。


 その違いを、少しずつ身体で理解できるようになっていた。


 練習が終わるころには、外は暗くなっていた。


 クラスメイトたちは片づけを終えると、順番に帰っていく。


「二人とも、戸締まりよろしく!」


 原が手を振り、篠崎と一緒に教室を出た。


 扉が閉まる。


 静かになった教室に、俺と莉乃だけが残された。


「また二人きりだな」


 言うと、莉乃が手にしていた布巾を置いた。


「清太」


「なに?」


「今日は、怖かった?」


 朝のことだろう。


 俺は少し考え、頷いた。


「怖かった」


「今も?」


「少しは」


「手、繋ぐ?」


 莉乃が右手を差し出す。


 俺はその手を見た。


 だが、すぐには取らなかった。


 代わりに一歩近づく。


 莉乃の目が少し大きくなる。


「清太?」


「朝、莉乃がいなかったら、たぶん逃げてた」


「うん」


「写真から自分を消したいって思った」


「……うん」


「でも、莉乃が隣に立ちたいって言ってくれたから、残れた」


 莉乃の瞳が潤む。


 俺は彼女の差し出した手を取り、そのまま自分のほうへ引いた。


 莉乃の身体が近づく。


 胸元へ触れる寸前で、俺は両腕を背中へ回した。


 自分から抱きしめる。


 莉乃の身体が固まった。


「清太……?」


「今日は、俺から」


 そう言うと、莉乃の腕がゆっくり俺の背中へ回る。


「いいの?」


「莉乃がいてくれて助かったから」


「お礼?」


「それだけじゃない」


「じゃあ、何?」


 耳元で聞かれる。


 俺は答えに迷った。


 寂しかったから。


 触れたかったから。


 隣にいることを確かめたかったから。


 どれも正しい気がした。


「抱きしめたかった」


 結局、一番そのままの言葉が出た。


 莉乃の身体が大きく震える。


 背中へ回された腕に力がこもった。


「清太、それ、無理」


「何が?」


「嬉しすぎる」


「泣くなよ」


「清太が泣かせてる」


 莉乃は俺の胸へ顔を埋めた。


 俺は彼女の髪へ頬を寄せる。


 教室には、完成した看板。


 積み上げられた装飾。


 文化祭当日用の机と椅子。


 少し前まで、俺には縁のない青春の風景だった。


 今はその中心で、莉乃を抱きしめている。


「清太」


「なに?」


「もう一回、額にして」


 身体がわずかに固くなる。


 莉乃はすぐに付け加えた。


「無理ならいいよ」


 俺の背中から腕を離そうとする。


 その動きを止めるように、俺は抱く腕へ力を込めた。


「離れるなよ」


 自分でも驚くほど低い声が出た。


 莉乃が顔を上げる。


 近い距離で、視線が重なる。


「清太?」


「今は、離れてほしくない」


 莉乃は何も言わなかった。


 ただ、涙を浮かべながら俺を見ている。


 俺は彼女の額へかかった前髪を、指先でそっと横へ払った。


 前回よりもゆっくり顔を寄せる。


 莉乃は目を閉じた。


 額へ唇を触れさせる。


 一度。


 離れかけて、もう一度。


 今度は少し長く。


 莉乃の指が、俺の制服を強く掴む。


 唇を離すと、彼女は額へ手を当てた。


「二回」


「一回じゃ足りないと思って」


「清太から、二回」


「数えるなよ」


「全部覚える」


 莉乃は泣きながら笑った。


 その顔を見ていると、胸の奥が苦しくなるほど温かい。


「清太」


「なに?」


「好きになってきてる?」


 以前にも聞かれた質問。


 あのときは、なってきていると答えた。


 今は、さらに進んでいる。


 それでも、まだ怖い。


 だから俺は、すぐには答えなかった。


 代わりに莉乃の頬へ手を添える。


 彼女はその手へ、自分の頬を預けた。


「昨日よりは」


「好き?」


「……昨日より、もっと」


 莉乃の瞳が揺れる。


「明日は?」


「もっとかもしれない」


「文化祭当日は?」


「それまでに、俺の心臓が持てばな」


 莉乃は笑いながら、俺の胸へ再び抱きついた。


「持たせる」


「どうやって?」


「私が大事にする」


「壊してるのも莉乃だろ」


「壊れたら、私のを半分あげる」


「心臓は分けられない」


「じゃあ、ずっとくっつけておく」


「余計に壊れるよ」


 そう言いながらも、俺は莉乃を離さなかった。


 文化祭まで、あと十二日。


 校内のポスターには、莉乃の隣で笑う俺がいる。


 そして誰もいない教室では、その写真よりずっと近い距離で、俺たちは互いの体温を確かめていた。

最後まで読んでいただき、ありがとうございます!

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