夫婦みたい? そんな訳ないだろ!
文化祭まで、あと十五日。
校内宣伝用ポスターの撮影日がやって来た。
放課後の教室では、接客班の生徒たちが衣装の最終確認を行い、装飾班は完成した看板や小道具を廊下へ運び出している。
そして俺は、黒板の前で男子用エプロンを身につけたまま、莉乃から身だしなみの検査を受けていた。
「清太、動かないで」
「もう十分だろ」
「襟が少し曲がってる」
「さっき直したよな?」
「そのあと清太が触ったから戻った」
莉乃の指先が、制服の襟を丁寧に整えていく。
顔が近い。
近いのだが、最近はこの程度では動揺しなくなってきた。
いや、嘘だ。
心臓は普通にうるさい。
ただ、表面上は耐えられるようになっただけである。青春コンプレックスが連日の酷使によって、悲鳴を上げる体力すら失いつつあるともいう。
「次、髪」
「そこまでやる必要ある?」
「ある」
莉乃は俺の前髪へ手を伸ばし、指先で形を整え始めた。
仕事で何度も人に身支度を整えてもらっているからか、手つきは慣れている。
「清太、少し下向いて」
「こう?」
「うん」
素直に従うと、莉乃の顔がさらに近づいた。
睫毛の一本一本まで見える。
昨日、廊下で聞かれた言葉を思い出した。
『私のこと、好きになってきてる?』
そして俺は答えた。
『なってきてるよ』
思い返した瞬間、身体の奥から熱が上がってくる。
俺は視線を逸らした。
「清太」
「なに?」
「顔赤い」
「教室が暑い」
「窓開いてるよ」
「エプロンが厚いんだよ」
「腰から下しかないけど」
莉乃が楽しそうに笑う。
逃げ道を一つずつ潰すな。
「もしかして、近いから?」
「自覚があるなら離れろ」
「嫌」
即答だった。
「今日の清太を一番近くで見たい」
「これから写真に残るだろ」
「写真と本物は違う」
莉乃は髪を整え終えても、すぐには離れなかった。
俺の頬へ手を添え、正面から顔を確かめる。
「うん。かっこいい」
「言うなよ」
「本当だもん」
「余計に緊張する」
「じゃあ、私だけ見て」
「撮影なのに?」
「撮る直前まで」
以前にも言われた言葉だった。
集合写真に入ることを怖がっていた俺へ、莉乃は自分を見ていればいいと言った。
今日も同じだ。
全校生徒が目にするポスター。
莉乃の隣へ立つ俺。
想像するだけで、胸の奥がざわつく。
だが、逃げようとは思わなかった。
「わかった」
「ほんと?」
「莉乃を見てれば、少しは平気だから」
俺が答えると、莉乃の手が頬の上で止まった。
「清太」
「なに?」
「撮影が終わったら、抱きしめてもいい?」
「どうしてそうなる」
「今の言葉が嬉しかったから」
「文化祭の撮影と関係ないだろ」
「ご褒美」
「誰への?」
「私に」
「自分で自分へ設定するな」
莉乃は不満そうに頬を膨らませたが、ようやく俺から離れた。
「終わったあと、二人になれたらね」
小さく付け加える。
俺は何も答えず、エプロンの紐を確認した。
だが拒否もしなかった。
莉乃はそれだけで満足したらしく、嬉しそうに自分のエプロンへ手をかけた。
「莉乃、後ろの紐ねじれてる」
「え?」
「動くなよ」
俺は莉乃の背後へ回り、エプロンの結び目を解いた。
昨日までは、莉乃が俺にしていたことだ。
紐のねじれを直し、腰の後ろで結び直す。
細い腰。
髪から漂う甘い香り。
意識した瞬間、指がうまく動かなくなりかけた。
「清太」
「動くなって」
「清太が私のエプロン結んでくれてる」
「見ればわかるだろ」
「写真撮りたい」
「この状態でどうやって撮るんだよ」
「原さんに頼む」
「頼むな」
だが、時すでに遅かった。
「呼んだ?」
少し離れた場所で小道具を確認していた原が、にやにやしながらスマホを持っていた。
「呼んでない」
「今のめっちゃいいじゃん。高原くんが莉乃のエプロン結んでるところ」
「撮るなよ」
「もう撮った」
「消せ」
「莉乃に送るね」
「ありがとう」
「莉乃も礼を言うな!」
篠崎までこちらを眺めながら、眠そうな声で呟く。
「結婚式前の準備みたいだねー」
「文化祭だよ」
「返しが早くなったねー」
周囲から笑い声が上がる。
俺は顔が熱くなるのを感じながらも、途中で投げ出さず、莉乃のエプロンを結び終えた。
「これでいい」
軽く結び目を引き、確認する。
莉乃が振り返る。
「ありがとう、清太」
「どういたしまして」
自然に答えると、莉乃は背中へ手を回し、俺が作った結び目へ触れた。
「今日、絶対解かない」
「着替えるとき困るだろ」
「家まで着て帰る」
「制服の上にエプロンで帰る気か?」
「清太が結んでくれたから」
「明日また結んでやるよ」
言葉が口から出た瞬間、莉乃が固まった。
俺も遅れて自分の発言を理解する。
また結んでやる。
まるで、これからも何度だって莉乃のそばにいることが当然のような言い方だった。
「清太」
「……なに?」
「明日も?」
「文化祭当日にも着るだろ」
「そのときも結んでくれる?」
「自分でできないなら」
「できない」
「即答するな」
絶対にできる。
だが、莉乃は幸せそうに自分の背中を押さえている。
その顔を見たら、訂正する気が失せた。
※ ※ ※
撮影場所は、昇降口近くの広い廊下だった。
各クラスの出し物を紹介するため、順番に実行委員が撮影されていく。
お化け屋敷の衣装。
縁日用の法被。
演劇の派手なドレス。
その中で俺たちは、完成した看板とメニュー表を持ち、同じエプロン姿で並んだ。
撮影担当の先輩が、カメラの位置を調整する。
「星宮さん、もう少し中央へ。高原くんも隣に寄って」
言われるまま、一歩近づく。
肩が触れた。
莉乃の指先が、看板の陰で俺の手へ触れる。
「清太」
「なに?」
「緊張してる?」
「かなり」
「私を見て」
莉乃を見る。
彼女はカメラへ向ける完璧な笑顔ではなく、俺だけに見せる柔らかな表情で笑っていた。
「清太、今日もかっこいいよ」
「撮る直前に言うな」
「私の隣にいてくれて嬉しい」
「莉乃」
「好き」
「今はやめろって」
思わず笑ってしまった。
同時にシャッター音が鳴る。
「今のいいね!」
撮影担当の先輩が声を上げた。
しまった。
カメラではなく莉乃を見たまま笑ってしまった。
「もう一枚、今度は二人とも正面を向いてください」
「はい」
莉乃が返事をしながら、看板の陰で俺の小指へ自分の小指を絡める。
誰にも見えない。
俺たちだけの接点。
今度は正面を見る。
だが、隣から伝わる体温のおかげで、以前ほど怖くなかった。
「撮ります。三、二、一」
シャッターが切られた。
何枚か撮影したあと、先輩が画面を確認する。
「すごく雰囲気いいですね。二人とも自然だし、この写真を使おうかな」
見せられた画面には、同じエプロンを着て並ぶ俺と莉乃が映っていた。
莉乃は綺麗に笑っている。
俺も思っていたより自然な顔をしていた。
肩は触れ合い、身体は少し互いのほうへ傾いている。
写真の下に『喫茶・夕暮れ』と文字が入れば、そのまま店の宣伝になりそうだった。
ただし、出し物より俺たちの関係を宣伝しているようにも見える。
「清太、この写真欲しい」
「後でデータをもらえるだろ」
「二人だけのも欲しい」
「今撮ったのがそうだろ」
「誰にも見せないやつ」
「どう違うんだよ」
莉乃が俺の袖を引く。
「もっと近い写真」
「ポスター撮影中だぞ」
「終わってから」
撮影担当の先輩が、俺たちの会話を聞いて笑った。
「よかったらスマホでも撮りましょうか?」
「お願いします」
「頼むなよ」
しかし、莉乃はすでに自分のスマホを差し出していた。
俺たちは看板を床へ置き、並び直す。
「高原くん、もう少し星宮さんに寄れますか?」
先輩に言われる。
俺がわずかに身体を近づけると、莉乃はその隙間を埋めるように腕を絡めてきた。
「莉乃」
「もっと近くって言われたから」
「限度があるだろ」
「嫌?」
「……嫌じゃない」
莉乃が俺の肩へ頬を寄せる。
俺の腕に、両腕を絡めたまま。
「撮りますよ」
カメラを向けられる。
俺は正面を見ようとした。
その直前、莉乃が耳元で囁く。
「清太、大好き」
「お前――」
振り向いた瞬間、撮影された。
画面には、莉乃へ顔を向けた俺と、俺だけを見て笑う莉乃が映っていた。
鼻先が触れそうな距離。
互いに身体を寄せ合い、莉乃は俺の腕を離していない。
撮影した先輩が一瞬黙る。
「……これ、ポスターより自然ですね」
「こっちを使いますか?」
莉乃が嬉しそうに聞く。
「使うな」
「でも宣伝効果ありそう」
「何の宣伝だよ」
先輩は笑いをこらえながらスマホを莉乃へ返した。
「これはお二人用にしておきましょう」
「ありがとうございます」
莉乃は受け取った写真を見つめ、すぐに大事そうに保存した。
「清太にも送る」
「いらない」
「送った」
俺のスマホが震える。
拒否権が存在しない。
画面を開くと、至近距離で見つめ合う俺たちの写真が表示された。
消そうとは思わなかった。
それどころか、反射的に保存してしまった。
「保存した?」
「……念のため」
「何の?」
「莉乃が紛失したとき用」
「二人で同じ写真持ってるんだ」
莉乃は本当に嬉しそうだった。
その顔を見て、俺も少しだけ口元が緩んだ。
撮影を終え、教室へ戻ろうとしたときだった。
廊下の先から、数人の女子生徒が歩いてくる。
そのうちの一人が莉乃に気づき、声を上げた。
「星宮さんだ!」
あっという間に視線が集まった。
「文化祭の写真撮ってたの?」
「隣の男子って誰?」
「同じクラスの実行委員?」
悪意のない好奇心。
それでも、俺の身体は反射的に硬くなった。
莉乃の隣にいる俺が見られている。
釣り合わない。
どうしてあいつが。
まだ誰もそんなことを言っていないのに、頭の中では勝手に声が作られる。
俺は半歩、莉乃から離れかけた。
その瞬間、莉乃が俺の手を握った。
隠さずに。
廊下の中央で。
「清太」
強くは引かない。
ただ、そこにいることを確かめるように握っている。
女子生徒たちの視線が、繋がれた手へ向かう。
ざわめきが広がる。
「莉乃、人が見てる」
「うん」
「大丈夫なのか?」
「清太は?」
莉乃が聞き返す。
俺は周囲を見る。
怖い。
注目されるのは、今も苦手だ。
逃げたい気持ちもある。
けれど、手を離したくはなかった。
「……少し怖い」
「じゃあ、隠れる?」
「いや」
俺は莉乃の手を握り返した。
「教室まで、このまま行く」
莉乃の瞳が大きく揺れる。
「いいの?」
「莉乃が隣にいるなら」
今度は、自分から一歩近づいた。
肩が触れ合う距離へ戻る。
周囲がどんな顔をしているのか、なるべく見ない。
代わりに、莉乃を見る。
彼女は泣きそうなほど嬉しそうに笑っていた。
「清太」
「なに?」
「今、抱きつきたい」
「廊下だから我慢しろ」
「教室に着いたら?」
「皆がいるだろ」
「二人になれる場所を探す」
「その執念を文化祭準備に使えよ」
俺たちは手を繋いだまま歩き出した。
背後から小さなざわめきが聞こえる。
怖さは消えていない。
それでも、足は止まらなかった。
以前の俺なら、誰かの視線を感じた瞬間、莉乃から離れただろう。
彼女へ迷惑をかけないためと言い訳しながら、本当は自分が傷つかないために。
今日は違う。
莉乃は俺の隣にいることを望んでいる。
俺も、隣を歩きたいと思っている。
なら、少しくらい怖くても離れたくなかった。
「清太」
「なんだよ」
「文化祭当日も、手繋いで歩きたい」
「人が多すぎる」
「今日できた」
「今日はまだ少ないだろ」
「じゃあ、少しだけ」
「……休憩中なら」
「約束?」
「約束」
莉乃の指が、俺の指へ深く絡む。
文化祭まで、あと十五日。
宣伝用ポスターには、莉乃の隣で笑う俺が載る。
そして俺たちのスマホには、それよりもずっと近い、誰にも見せる予定のない一枚が残った。
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