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好きになった

 文化祭まで、あと十八日。


 翌朝、俺はコンビニ前で莉乃を見つけた瞬間、無意識に彼女の額を見てしまった。


 当然だが、何もついていない。


 昨夜、俺が唇を触れさせた痕跡など残っているはずもない。それなのに、莉乃は俺の視線に気づくと、自分の額へそっと手を当てた。


「ここ、見てた?」


「見てない」


「昨日、清太がしてくれたところ」


「朝から言うなよ」


「消えてないよ」


「何が?」


「感触」


 莉乃は頬を赤くしながら、幸せそうに笑った。


 やめてくれ。


 登校前から昨日の記憶を鮮明に再生させるな。


 俺は一晩中、あの瞬間を思い返していた。


 莉乃を抱きしめたこと。


 会いたかったと伝えたこと。


 そして、俺から額へ口づけたこと。


 全部、俺が選んだ。


 雰囲気に流されたわけでも、莉乃から迫られて仕方なく応じたわけでもない。


 だからこそ、破壊力が高い。


 自分の行動で自分の青春コンプレックスへ致命傷を与える男。それが現在の俺だった。


「清太」


「なに?」


「今日もして」


「しない」


「即答」


「学校へ行くんだぞ」


「帰りなら?」


「場所を変えればいいって話じゃない」


「じゃあ清太の家」


「さらに駄目だろ」


「私の家は来てくれたのに」


「文化祭の写真を見るだけの予定だったからな」


「でも抱きしめてくれた」


「莉乃が飛び込んできたからだ」


「抱きしめ返してくれた」


「……そうだな」


 否定しなかった俺を見て、莉乃の瞳が嬉しそうに細められる。


 以前なら、言葉の意味を薄めようとしただろう。


 事故だった。


 流れだった。


 深い意味はない。


 そう言い訳を重ねて、いつでも離れられる場所へ戻ろうとしたはずだ。


 でも昨日のことを、なかったことにはしたくなかった。


「嫌だった?」


「嫌ならしないよ」


 自然に答えると、莉乃がその場で足を止めた。


 俺も数歩進んでから振り返る。


「どうした?」


「清太、今のもう一回」


「何を?」


「嫌ならしないって」


「聞こえてたならいいだろ」


「つまり、したかったってこと?」


 言葉の罠だった。


 俺は完全に誘導されている。


「……学校行くぞ」


「逃げた」


「遅刻回避だ」


「清太、耳赤い」


「朝日だよ」


「今日は曇ってるよ」


 莉乃は楽しそうに俺の隣へ並び、そのまま腕を絡めてきた。


「近い」


「昨日はもっと近かったよ」


「比較対象がおかしいだろ」


「清太の胸、あったかかった」


「思い出すな」


「心臓、すごく速かった」


「報告するな!」


 俺の心臓は、今日も朝から過労状態だった。


 ※ ※ ※


 教室へ入ると、原と篠崎がすぐに異変を察知した。


 正確には、異変があったのは莉乃だ。


 席に着いてからも何度も額へ触れ、そのたびに頬を緩ませている。


 どう見ても何かあった人間の挙動だった。


「莉乃」


 原が机へ両手をつき、顔を寄せる。


「昨日、高原くんの家行った?」


「行ってないよ」


「じゃあ高原くんが莉乃の家に行った?」


「うん」


「清太!」


 勢いよく名前を呼ばれ、俺は反射的に肩を揺らした。


「なんだよ」


「昨日、莉乃の家行ったの?」


「文化祭の写真を確認しただけだ」


「写真を確認するだけで家まで行く?」


「流れで」


「その流れ、詳しく」


「個人情報だ」


 原は俺から莉乃へ視線を戻す。


「何があったの?」


「秘密」


 莉乃は額に触れたまま答えた。


「清太と私だけの、大事な秘密」


 教室の空気が一瞬でざわついた。


「言い方!」


「莉乃、その言い方は色々想像されるよー」


 篠崎が眠そうに指摘する。


 だが莉乃は、むしろ満足そうだった。


「想像しても、本当のことは私と清太しか知らないから」


「莉乃」


「なに?」


「俺まで社会的に死ぬからやめろ」


 俺が額を押さえると、原が目を細めた。


「高原くん、その反応……本当に何かあったね?」


「何もない」


「清太」


 莉乃が俺を呼ぶ。


 嫌な予感しかしない。


「何もなくはないよ」


「莉乃!」


「一生忘れないことがあった」


 教室のざわめきが大きくなる。


 俺は机へ突っ伏した。


 もう駄目だ。


 文化祭前に俺の高校生活が炎上する。


「でも、誰にも教えない」


 莉乃はそう言って、机の下で俺の小指へ自分の小指を絡めた。


 周囲からは見えない。


 二人だけの接点。


 昨日、誰もいない教室で交わした出来事を思い出し、俺はそれ以上何も言えなくなった。


 莉乃は秘密を隠しているのではない。


 二人だけのものとして、大切に抱えている。


 そう思うと、少しだけ胸が温かくなってしまう。


「顔が赤いよ、高原くん」


「教室が暑い」


「窓開いてるけどー」


「篠崎まで追及するな」


 俺の味方はどこにもいなかった。


 唯一、隣にいる莉乃は俺の味方であると同時に、事件の主犯だった。


 ※ ※ ※


 放課後になると、文化祭実行委員の集まりが開かれた。


 各クラスの進捗を確認し、当日の校内配置や注意事項を共有するための会議である。


 俺と莉乃は資料を持ち、特別教室へ向かった。


 教室内には、各クラスから選ばれた男女二名ずつが集まっている。


 俺は少し緊張しながら、空いている席へ座った。


 莉乃が隣。


 それだけで、呼吸は少し楽になった。


 しかし、会議が始まってすぐに別の問題が発生した。


「宣伝用の校内ポスターに、各クラスの代表写真を載せます」


 実行委員長らしい上級生が、前方で説明する。


「来週、出し物の衣装や小道具を用意したうえで、代表者二名の写真を撮影します。基本的には実行委員の二名でお願いします」


 俺は資料から顔を上げた。


 代表写真。


 ポスター。


 校内へ掲示。


 つまり、俺と莉乃が同じエプロン姿で並んだ写真が、全校生徒の目に触れるということだ。


 無理だ。


「別の人に頼もう」


 俺が小声で言うと、莉乃がこちらを向く。


「どうして?」


「俺がポスターに載る必要はないだろ。莉乃と原さんなら見栄えもいいし」


「清太がいい」


「宣伝なんだから見栄えを優先しろよ」


「私は清太と撮りたい」


 莉乃の声が少しだけ硬くなる。


「文化祭実行委員は私と清太だよ」


「でも」


「私の隣に、別の人を置くの?」


 瞳から、ゆっくり光が薄れていく。


 これは嫉妬というより、不安に近かった。


 昨日、俺と一緒に撮った集合写真を宝物にすると言った莉乃。


 文化祭の思い出には、俺がいてほしいと願った莉乃。


 そんな彼女にとって、代表写真で俺が別の誰かへ役目を譲ることは、単なる役割交代ではないのだろう。


「清太は、私と写るの嫌?」


「嫌じゃないよ」


「じゃあ、どうして逃げるの?」


 その言葉に、胸の奥が痛んだ。


 逃げる。


 そうだ。


 俺はまた、怖くなった瞬間に自分を外そうとした。


 写真へ載れば、注目される。


 何か言われるかもしれない。


 莉乃の隣に立つのが釣り合わないと、笑われるかもしれない。


 その未来を想像し、自分から消えようとした。


「……怖いから」


 俺は正直に答えた。


 会議中の小さな声。


 それでも、莉乃には届いた。


「全校に見られるのは、やっぱり怖い。俺なんかが莉乃の隣にいたら、何か言われると思う」


「俺なんか、って言わないで」


 莉乃の指先が、机の下で俺の手へ触れる。


「清太は、私が隣にいてほしい人だよ」


「でも、周りはそう思わないかもしれない」


「周りがどう思っても、私が選ぶ」


 莉乃の指が、俺の指の間へ入り込む。


「私が清太の隣に立ちたい。清太にも、私の隣に立ってほしい」


 まっすぐな言葉だった。


 仕事では、多くの人の隣へ立つ莉乃。


 俳優。


 モデル。


 ほかのアイドル。


 けれど学校の文化祭では、俺を選ぶと言う。


「写真、嫌なら無理しなくていい」


 莉乃は少しだけ声を弱めた。


「でも、自分が釣り合わないからって理由で消えないで。清太がいなくなると、私は嫌だから」


 胸の奥に、ゆっくり言葉が沈む。


 俺は莉乃の手を握り返した。


「……わかった」


「撮ってくれる?」


「莉乃となら」


 莉乃の顔が一気に明るくなった。


「うん」


「ただし、変に近づきすぎるなよ」


「衣装の確認だから肩くらいはくっつけるよ」


「もう決定なのか」


「手も繋ぐ?」


「ポスターで公開する気か?」


「清太が嫌なら、見えないところで繋ぐ」


 結局繋ぐらしい。


 俺は小さくため息を吐いた。


 それでも、先ほどより不安は軽くなっていた。


 会議が終わり、俺たちは特別教室を出た。


 廊下を歩きながら、莉乃は繋いだ手を離さなかった。


「清太」


「なに?」


「写真、楽しみ」


「俺は緊張する」


「私だけ見てればいいよ」


「撮影なのにカメラを見ないのか?」


「撮る直前まで私を見て」


 以前の集合写真と同じだった。


 莉乃を見ていれば、少しだけ自然に笑える。


 それを彼女は覚えている。


「それなら、何とかなるかもしれない」


「じゃあ撮るとき、私が清太に好きって言う」


「余計に顔が変になるだろ」


「笑うよ」


「赤くなるだけだ」


「それでもいい。私にしか見せない顔だから」


 莉乃は足を止め、俺の正面へ回った。


 放課後の廊下には、ほかの生徒も少ない。


 彼女は俺の制服の襟元へ手を伸ばし、少し曲がっていた部分を整えた。


「写真の日も、私が直してあげる」


「自分でできるよ」


「髪も整える」


「そこまで乱れてない」


「エプロンも結ぶ」


「それも自分でできる」


「全部、私がしたい」


 襟へ触れていた手が、そのまま胸元へ残る。


 近い距離で、莉乃が俺を見上げる。


「清太を、私の隣に立つ人にしたいから」


 心臓が大きく鳴った。


 それは衣装の話だけではない気がした。


「莉乃」


「なに?」


「そういう言い方、ずるい」


「清太も昨日ずるかった」


 莉乃は額へ触れる。


 俺が口づけた場所。


「今日もしてくれたら、引き分け」


「何の勝負だよ」


「好きにさせた回数」


「それなら俺が一方的に負けてるだろ」


 口から出た言葉に、俺自身が固まった。


 莉乃も動きを止める。


「清太、今……」


「忘れろ」


「私が清太を好きにさせてるって認めた?」


「言葉の綾だ」


「好き?」


「違う、今のは」


 莉乃が一歩近づく。


 俺は一歩下がり、背中が壁へ触れた。


 逃げ道が消える。


 莉乃は俺を押さえつけていない。


 ただ、至近距離から見上げている。


「清太」


「……なに?」


「私のこと、好きになってきてる?」


 答えられない。


 否定すれば嘘になる。


 肯定するには、まだ怖い。


 俺が黙っていると、莉乃の表情から少しだけ期待が薄れていく。


 その顔を見たくなかった。


 だから俺は、考えるより先に手を伸ばした。


 莉乃の手首を掴み、引き寄せる。


 彼女の身体が俺の胸へ触れた。


「清太?」


「……なってきてるよ」


 耳元で、小さく答える。


 莉乃の身体が震えた。


「好きに」


「最後まで言わせるな」


「聞きたい」


「今はこれが限界」


「でも、認めてくれた」


「少しだけな」


「少しでもいい」


 莉乃は俺の胸へ顔を埋め、腕を背中へ回した。


 俺も、彼女の背中へ片腕を添える。


「もっと好きにする」


「宣言するなよ」


「文化祭までに、いっぱい思い出作る」


「文化祭の目的が変わってる」


「清太が私を好きになる文化祭」


「クラス全体を巻き込むな」


 莉乃は小さく笑った。


 その声が胸元へ直接響く。


「清太」


「なに?」


「好きになってくれて、ありがとう」


「まだ途中だよ」


「途中でも、私のほうに来てくれてる」


 その言葉を聞き、抱く腕へ少しだけ力を込めた。


 俺はまだ怖い。


 関係に名前をつけることも、自分の気持ちをはっきり認めることも。


 けれど、進んでいる方向だけはもう誤魔化せなかった。


 莉乃から離れたいのではない。


 もっと近づきたいと思っている。


 ただ、その速度に心が追いついていないだけだ。


「急ぐなよ」


「うん。清太が来るまで待つ」


「逃げたら?」


「追いかける」


「待つんじゃなかったのか」


「逃げるのと立ち止まるのは違うから」


「厳しいな」


「清太専門だから」


 俺たちは少しだけ抱き合ったあと、誰かが来る前に離れた。


 それでも、手はすぐに繋ぎ直した。


 文化祭まで、あと十八日。


 来週には、二人で代表写真を撮る。


 そして俺は今日、莉乃を好きになり始めていることを、とうとう自分の口で認めてしまった。

最後まで読んでいただき、ありがとうございます!

このお話が少しでも面白いと感じていただけたら、ぜひ「♡いいね」や「ブックマーク」をしていただけると嬉しいです。

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