それはホンモノのキスなのか
文化祭まで、あと十九日。
昨日、莉乃と唇が触れそうになった。
触れてはいない。
マネージャーからの電話によって、直前で中断された。
だから何も起きていない。
理屈の上では、そのはずだった。
「清太、おはよう」
「……おはよう」
翌朝、いつものコンビニ前で莉乃と顔を合わせた瞬間、俺たちは揃って視線を逸らした。
何も起きていない人間同士の反応ではない。
莉乃は頬を赤くしながら、両手で鞄の持ち手を握っている。俺も彼女の顔をまともに見られず、近くの自動販売機の商品名を意味もなく眺めていた。
昨日の距離が蘇る。
息が触れるほど近かった顔。
俺だけを映していた瞳。
『嫌じゃない』
自分の口から出た言葉。
そして最後に言った。
『期待していいよ』
何を期待していいのか。
俺は一体、何を許可したのか。
過去の俺を捕まえられるなら、肩を掴んで問い詰めたい。どうしてそんな終盤のラブコメ主人公みたいな台詞を吐いた。お前の物語はまだ文化祭準備編だぞ。進行速度を考えろ。
「清太」
「なに?」
「昨日のこと、後悔してる?」
莉乃は俺を見ていなかった。
声も小さい。
昨日までなら、もっと強引に尋ねてきただろう。けれど今の莉乃は、俺の答えを怖がっている。
俺が距離を置くのではないか。
あれは間違いだったと言うのではないか。
きっと、そう思っている。
「してないよ」
俺は答えた。
怖くないわけではない。
思い出すだけで心臓が暴れるし、今でも少し逃げたい。
でも、後悔はしていなかった。
「本当に?」
「うん。あそこで止まったのは、たぶんよかったと思う」
莉乃の表情が曇りかける。
「でも、嫌だったわけじゃない」
続けると、彼女が目を見開いた。
「俺がまだ、自分の気持ちに追いついてないだけだ。莉乃が近づいてくるのが嫌だったわけじゃないし、昨日言ったことも取り消さない」
「期待していいって?」
「……うん」
「いつまで?」
「期限を聞くなよ」
「待つから、目安が欲しい」
「告白の予約受付みたいにするな」
莉乃は少しだけ笑った。
その笑顔を見て、俺もようやく肩の力を抜く。
「急がなくていいよ」
莉乃はそう言いながら、俺の袖をつまんだ。
「でも、逃げないでね」
「逃げそうになったら言う」
「そのときは?」
「少し待ってくれ」
「うん。待つ」
莉乃は袖をつまんだまま、俺の隣へ並んだ。
手は繋がなかった。
昨日までなら物足りないと感じたかもしれない。けれど今日は、このわずかな距離がちょうどよかった。
触れそうで、触れない。
それでも互いに離れようとはしない。
俺たちはそのまま、いつもより少し静かに学校へ向かった。
※ ※ ※
その日の午後、莉乃は撮影のため早退した。
「終わったら連絡する」
「無理しなくていい。遅くなるんだろ?」
「でも清太と話したい」
「今日も文化祭の準備で残るから、返事が遅れるかもしれないぞ」
「じゃあ、私の分まで頑張って」
「莉乃の担当まで押しつける気か」
「お礼する」
「何をする気だよ」
聞くと、莉乃は昨日のことを思い出したのか、耳まで赤くなった。
「……まだ秘密」
「聞くんじゃなかった」
莉乃は名残惜しそうに何度も振り返りながら、教室を出ていった。
その背中が見えなくなる。
たったそれだけで、隣の席がやけに広く感じた。
終礼後、文化祭の準備が始まった。
今日の作業は、教室内の飾り付けと接客班の練習だった。
俺は会計表の清書を終えたあと、莉乃が担当する予定だった衣装班の確認作業まで引き受けた。
別に、莉乃のためだけではない。
実行委員として、遅れている作業を進める必要があっただけだ。
そう自分に言い聞かせていたら、原が隣から会計表を覗き込んできた。
「高原くん、莉乃がいないと静かだね」
「いつも通りだろ」
「教室じゃなくて、高原くんが」
「俺は元々静かだ」
「でも今日、三回くらい莉乃の席見てたよ」
「見てない」
「五回だねー」
紙花を作っていた篠崎が訂正する。
「増やすなよ」
「数えてたからー」
俺は反論をやめ、会計表へ視線を戻した。
確かに、莉乃の席を何度か見た。
いつもなら視線を向けるたび、莉乃がこちらを見ている。目が合えば笑い、時にはメモが飛んでくる。
それが今日はない。
静かで作業に集中できるはずなのに、少しだけ落ち着かなかった。
「寂しいんじゃない?」
原がにやにやしながら聞いてくる。
「撮影が終われば連絡が来る」
「答えになってないけど、答え出てるね」
俺は無視した。
しかし、胸の奥では否定できなかった。
寂しい。
たぶん、そうなのだろう。
莉乃が隣にいることを、俺はいつの間にか当たり前だと思い始めている。
人と近づくことを怖がっていた俺が、誰かの不在を寂しいと思う。
それは昔なら、考えられない変化だった。
午後六時を過ぎるころ、残っている生徒は俺と原、篠崎の三人だけになった。
「そろそろ帰ろっか」
原が伸びをしながら言う。
「高原くんは?」
「この配置表だけ終わらせてから帰る」
「明日でもよくない?」
「明日は別の資料を作らないといけないから」
「莉乃の分?」
「実行委員の分だ」
「はいはい」
原は楽しそうに笑い、篠崎と一緒に教室を出ていった。
一人になる。
夕方を越えた教室は、昼間とはまるで違う場所に見えた。
窓の外は暗く、廊下から聞こえる声も少ない。
俺は文化祭用の配置表へ向き直った。
昔の俺なら、放課後の教室に一人残ることなどなかった。
学校にいるだけで苦しかった。
誰もいない教室に取り残されれば、自分だけが世界から外れているように感じた。
けれど今は違う。
机の周囲には、皆で作った装飾品が置かれている。
黒板の前には完成した看板。
俺のスマホには集合写真。
そして、帰れば莉乃から連絡が来る。
自分の居場所が、少しずつ形になっている。
配置表の最後の欄を書き終えたとき、教室の扉が開いた。
「清太」
聞き慣れた声だった。
顔を上げる。
扉の前に、莉乃が立っていた。
制服ではない。
撮影で着たのか、淡い色のワンピースの上から薄い上着を羽織り、髪も普段とは違う形に整えられている。薄く施された化粧も残っていて、教室の中にいるにはあまりにも華やかだった。
「どうしてここに?」
「撮影が近くで終わったから。まだ清太がいるかもって思って」
「もう校門閉まるぞ」
「マネージャーさんにお願いして、先生にも許可もらった」
そこまでして来たのか。
莉乃は教室を見回し、それから俺の机に積まれた資料へ視線を落とした。
「私の分もやってくれたの?」
「遅れてたから進めただけ」
「ありがとう」
「仕事だったんだから仕方ないだろ」
莉乃は俺の前まで来た。
そして、何も言わずに両腕を広げた。
「……なに?」
「お礼」
「抱きつくのがお礼なのか?」
「清太が選んで」
「選択肢が見えないんだけど」
「私が抱きつくか、清太から抱きしめるか」
「どちらにしても抱きしめるんだな」
「うん」
莉乃は真剣だった。
俺は周囲を見る。
教室には誰もいない。
廊下にも人の気配はない。
だからといって、抱きしめる理由にはならない。
ならないはずなのに。
今日、何度も空席を見た。
莉乃がいないことを寂しいと思った。
今、目の前にいる彼女を見て、安心している。
その気持ちを、言葉だけで誤魔化したくなかった。
「莉乃」
「なに?」
「おかえり」
莉乃の瞳が揺れた。
次の瞬間、彼女が俺へ飛び込んでくる。
胸元に柔らかな身体が触れ、甘い香りが広がった。
俺は少しよろめきながら、莉乃を受け止める。
背中へ腕を回す。
自分から抱きしめ返した。
「清太」
「うん」
「会いたかった」
「朝も会っただろ」
「午後ずっと会えなかった」
「数時間だぞ」
「長かった」
莉乃は俺の胸へ頬を押しつけ、背中に回した腕へ力を込めた。
俺も離さなかった。
誰かを抱きしめる。
それは手を繋ぐよりも、もっと近い。
莉乃の体温も、呼吸も、俺の胸元で小さく動く肩も、全部伝わってくる。
「俺も」
言葉が口元で止まる。
莉乃が顔を上げた。
「清太も?」
期待に揺れる瞳。
もう逃げられない。
いや、逃げたくなかった。
「俺も、会いたかった」
莉乃の目に涙が浮かんだ。
「今日、何回か莉乃の席見た」
「何回?」
「覚えてない」
「原さんたちは?」
「三回とか五回とか言ってた」
「清太が私を探してた」
「大げさに言うなよ」
「だって嬉しい」
莉乃は泣きそうに笑い、再び俺の胸元へ顔を埋めた。
「私がいないと寂しかった?」
「……少し」
「少しだけ?」
「かなり追及するな」
「聞きたい」
俺は莉乃の背中へ置いた手を、少しだけ動かした。
撫でるように。
莉乃の身体が小さく震える。
「寂しかったよ」
正直に答えた。
莉乃の腕が、さらに強く俺を抱く。
「清太」
「なに?」
「もう今日、帰りたくない」
「帰らないと駄目だろ」
「でも、今離れたら、今日の清太がいなくなる」
「明日も俺はいるよ」
「同じ清太?」
「急に哲学的なことを聞くな」
「今日、私を探してくれた清太」
「明日になっても覚えてる」
「会いたかったって言ってくれた清太」
「忘れないよ」
「抱きしめてくれた清太」
莉乃が顔を上げる。
俺たちは抱き合ったまま、近い距離で見つめ合った。
「それも、明日まで残ってる?」
「残ってる」
「ずっと?」
「……残すよ」
俺が答えると、莉乃は目を閉じた。
昨日の夜と同じ。
少しずつ顔が近づく。
今度は電話も鳴らない。
誰かが入ってくる気配もない。
俺の腕は莉乃の背中へ回ったまま。
彼女の腕は俺の身体を離さない。
「清太」
触れそうな距離で、莉乃が呼んだ。
「昨日の続き、してもいい?」
心臓が激しく鳴る。
逃げようと思えば、まだ逃げられる。
莉乃も強引には近づいてこない。
ただ、俺の答えを待っている。
怖い。
この距離を越えれば、本当に何かが変わる。
今までのように、友達以上という曖昧な言葉で誤魔化すことが難しくなる。
それでも。
今日は莉乃がいないだけで寂しかった。
会えたことが嬉しかった。
抱きしめたのも、今離したくないと思っているのも、俺自身だ。
「……少しだけ」
莉乃の瞳が揺れた。
「少しだけ?」
「まだ、怖いから」
「うん」
「でも、逃げたくはない」
「うん」
莉乃はそれ以上近づかなかった。
代わりに、俺の答えを待つ。
昨日は莉乃から近づいてきた。
今日は、俺が選ぶ番だった。
俺は莉乃の頬へ触れた。
指先に、柔らかな感触が伝わる。
彼女の睫毛が震える。
ゆっくり顔を寄せる。
あと少し。
息が混ざる。
そして俺は――莉乃の額へ、そっと唇を触れさせた。
ほんの一瞬。
触れた直後、恥ずかしさに耐えられず顔を離す。
莉乃は完全に固まっていた。
「……清太?」
「今日は、ここまで」
「今、キスした?」
「額にだけ」
「清太から?」
「見ればわかるだろ」
「私に?」
「他に誰がいるんだよ」
莉乃の顔が一気に赤くなる。
彼女は自分の額へ手を当て、その場へしゃがみ込みそうになった。
俺は慌てて抱き留める。
「莉乃?」
「無理」
「大丈夫か?」
「嬉しすぎて立てない」
「大げさだろ」
「清太からしてくれた」
莉乃は俺の胸元に顔を隠し、震える声で繰り返した。
「私、待ってたら、清太から来てくれた」
「唇はまだ無理だったけど」
「それでいい」
莉乃は顔を上げ、涙を浮かべながら笑った。
「清太が自分で選んでくれたから、何でもいい」
その言葉に、胸が熱くなる。
俺は莉乃の頬に触れたまま、親指で目元の涙を拭った。
「泣くなよ」
「清太のせい」
「悪かった」
「もっとしてくれたら許す」
「調子に乗るな」
「じゃあ、もう一回だけ」
「今日はここまでって言っただろ」
「明日は?」
「予約するなよ」
莉乃は笑いながら、俺の胸へ再び身体を預けた。
俺たちはしばらく、誰もいない教室で抱き合っていた。
黒板の前には、皆で作った看板。
壁には未完成の装飾。
窓の外には、すっかり暗くなった校庭。
中学時代の俺が逃げ続けた、放課後の教室。
その場所で今、俺は一番会いたいと思った人を抱きしめている。
「清太」
「なに?」
「文化祭当日も、こうしてほしい」
「教室で抱き合う気か?」
「二人きりになれる場所探す」
「文化祭を何だと思ってるんだ」
「清太との思い出を作る日」
「クラス行事だよ」
「どっちも大事」
莉乃は俺から少しだけ離れた。
それでも手は、俺の制服を掴んだままだ。
「帰ろうか」
「うん」
「手、繋ぐ?」
「今さら聞くのか?」
俺から手を差し出す。
莉乃は驚いたあと、嬉しそうにその手を取った。
指を絡める。
教室の電気を消し、廊下へ出る。
莉乃の額には、さっき俺が触れた場所がある。
目には見えない。
けれど彼女は時々、確かめるようにそこへ触れていた。
「清太」
「なに?」
「今日のこと、一生忘れない」
「知ってる」
「初めて清太からキスしてくれた日」
「額だからな」
「初めては初めて」
「人に言うなよ」
「私たちだけの秘密?」
「……そういうことにしておけ」
「うん。二人だけの大事な秘密」
莉乃は繋いだ手を胸元へ寄せた。
文化祭まで、あと十九日。
唇はまだ触れていない。
それでも俺たちの間にあった境界線は、昨日より確実に薄くなっていた。
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