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その関係は一体

 莉乃の家へ向かう間、俺たちは一度も手を離さなかった。


 学校を出てしばらくは人目があったため、制服の袖が触れ合う程度の距離を保っていた。けれど駅から離れ、人通りの少ない道へ入った瞬間、莉乃の指が俺の手を探すように触れてきた。


 俺が握り返すと、莉乃は何も言わずに少しだけ笑った。


 それ以来、そのままだ。


 文化祭準備を終えた男女が、夜道で手を繋いで帰る。


 しかも向かっている先は、女子の家。


 冷静に状況を整理した瞬間、俺の青春コンプレックスが警報を鳴らし始めた。


 危険。


 ラブコメ濃度が規定値を大幅に超過しています。


 速やかに手を離し、健全な距離を確保してください。


 しかし、莉乃の手は温かかった。


 今日、集合写真に入ることを怖がった俺を待ってくれた手。


 誰もいない廊下で、逃げずにいられた俺を握ってくれた手。


 それを自分から離したいとは思えなかった。


「清太」


「なに?」


「今日、ずっと手繋いでるね」


「今それを意識させるなよ」


「私はずっと意識してた」


「言わなくていい」


「清太の手、好き」


「手だけを評価されても困る」


「手も、声も、顔も、性格も、面倒くさいところも全部好き」


「最後のは褒めてないだろ」


「好きって言ってるから褒めてる」


 莉乃は俺の手を揺らしながら、本当に楽しそうに歩いている。


 俺は顔を見られないよう、前を向いた。


「清太は?」


「何が?」


「私のどこが好き?」


 心臓が跳ねた。


 俺はまだ、莉乃へ明確に好きだとは言っていない。


 大事な人。


 一番近い。


 今の俺の中にいるのは莉乃。


 帰りたいと思うのは莉乃のところ。


 そこまで言っておきながら、肝心の二文字だけは避け続けている。


 我ながら往生際が悪い。


「質問の前提がおかしいだろ」


「嫌い?」


「嫌いじゃない」


「大事?」


「大事」


「一番近い?」


「……近い」


「じゃあ、好き?」


「段階を踏んで追い詰めるな」


 莉乃は満足そうに笑った。


「逃げてもいいよ」


「いいのか?」


「うん。今日はね」


 その言葉に違和感を覚えて隣を見る。


 莉乃は笑っていた。


 けれど、繋いだ手に少しだけ力が入っている。


「いつか清太から言ってくれるまで待つ」


「……そうか」


「でも、それまでは隣にいる。逃げ道の近くにも私がいるから」


「それは逃げ道って言わないだろ」


「清太が一人になる道だけ塞ぐの」


 やはり重い。


 しかし、その重さに以前ほど怯えなくなった自分もいる。


 莉乃の言葉の奥にあるのは、俺を支配したい気持ちだけではない。


 俺がまた一人で苦しみ、誰にも何も言わずに消えてしまうことへの恐怖だ。


「一人になりたいときもあるぞ」


「そのときは少し離れたところで待つ」


「帰らないのか」


「帰ってきた清太を最初に見たいから」


 俺は返事の代わりに、繋いだ手を少しだけ握り直した。


 莉乃は何も言わなかった。


 ただ、肩を寄せてきた。


 ※ ※ ※


 高級タワーマンションのエントランスを抜け、エレベーターへ乗る。


 扉が閉まると、急に周囲が静かになった。


 狭い空間。


 二人きり。


 鏡張りの壁には、制服姿の俺と莉乃が並んで映っている。


 繋いだ手も、そのままだ。


 莉乃は鏡越しに俺を見ていた。


「なに?」


「一緒に帰ってきたみたい」


「実際、一緒に帰ってきただろ」


「そうじゃなくて」


 莉乃は俺の肩へ少しだけ頭を寄せた。


「同じ家に帰ってきたみたい」


 やめろ。


 エレベーターという逃げ場のない空間で、その想像をさせるな。


 俺の脳内に、頼んでもいない未来予想図が展開される。


 仕事を終えた莉乃と待ち合わせて、同じ家へ帰る。


 夕食を食べる。


 カードゲームをする。


 『青春いらない!!』の最新話を見ながらくだらない感想を言い合う。


 そんな生活。


 あり得ない。


 まだ高校一年生だ。


 関係にすら名前がない。


 それなのに、不思議と想像できてしまった。


「清太、顔赤い」


「エレベーターが暑いんだよ」


「涼しいよ」


「俺には暑い」


「じゃあ、もっとくっついたら倒れる?」


「試すなよ」


 言った直後、莉乃が俺の腕へ両腕を絡めてきた。


 肩だけでなく、身体ごと寄り添われる。


 柔らかな感触と甘い香りが一気に近づき、心臓が非常事態を宣言した。


「莉乃」


「なに?」


「近い」


「倒れたら支える」


「原因がお前なんだよ」


「嫌なら離れる」


 そう言いながらも、莉乃は離れなかった。


 俺も、離れろとは言わなかった。


 そのまま目的の階へ到着し、扉が開く。


 莉乃は名残惜しそうに腕を解いたが、今度はすぐに俺の手を握った。


「いらっしゃい、清太」


「お邪魔します」


「ただいま、って言ってもいいよ」


「俺の家じゃないだろ」


「そのうち同じになるかもしれない」


「何年先まで考えてるんだ」


「ずっと先まで」


 莉乃は当然のように答え、玄関の鍵を開けた。


 部屋の中は以前来たときと変わらず、整然としていた。


 綺麗すぎて生活感が薄いリビング。


 壁際には『青春いらない!!』のタペストリー。


 棚には漫画とカード用品。


 その一角だけは、星宮莉乃ではなく、ただの莉乃が暮らしている場所のように見える。


「清太、座ってて。着替えてくる」


「わかった」


 莉乃が部屋の奥へ消える。


 一人残された俺は、ソファへ腰を下ろした。


 スマホを開くと、クラスのグループに今日の集合写真が送られていた。


 看板を囲むクラスメイトたち。


 中央に俺と莉乃。


 莉乃はカメラではなく、少しだけ俺のほうを見ている。


 俺はその隣で、ぎこちなく笑っていた。


 でも、嫌な顔ではなかった。


 中学時代の集合写真とは違う。


 あの頃の俺は、自分が一人だと証明するような写真が嫌いだった。


 今日の写真には、莉乃がいる。


 俺の小指へ、自分の小指を絡めている。


 画面には映っていない。


 でも、俺たちだけが知っている。


 俺は無意識に写真を保存していた。


「清太も保存したんだ」


 耳元で声がした。


「うわっ!」


 驚いて振り返ると、いつの間にか莉乃がソファの後ろから画面を覗き込んでいた。


 制服から淡い色のルームウェアへ着替え、長い髪を下ろしている。


 学校にいるときより、ずっと無防備に見えた。


「音もなく後ろに立つなよ」


「清太が写真に夢中だったから」


「確認してただけだ」


「保存してた」


「消す必要もないだろ」


「嬉しい」


 莉乃はソファの背もたれを回り込み、俺の隣へ座った。


 隣と言っても、座面には十分な余裕がある。


 なのに、わざわざ肩が触れる場所を選んでいる。


「見せて」


「同じ写真持ってるだろ」


「清太のスマホに入ってるのを見たい」


「違いがあるのか?」


「清太が自分で保存したっていう違い」


 莉乃は俺の手ごとスマホを引き寄せた。


 画面を覗き込むため、顔が近づく。


 頬が触れそうな距離。


 俺は少しだけ身体を引こうとした。


 だが、莉乃の手が俺の腕を掴んだ。


「逃げる?」


「近すぎるだけだ」


「嫌?」


「……嫌じゃないけど」


 口に出した瞬間、莉乃の瞳が揺れた。


「じゃあ、このまま」


「写真を見るだけだぞ」


「うん」


 莉乃は返事をしながら、さらに俺へ身体を預けた。


 肩に頭が乗る。


 髪が首元へ触れる。


 心臓の音が、莉乃に聞こえそうだった。


「清太」


「なに?」


「今日の写真、私たちだけ切り取ってもいい?」


「もうやったんだろ」


「清太のスマホでも」


「どうして俺のまで」


「同じの持ちたい」


 仕方なく、写真編集画面を開く。


 二本の指で範囲を調整し、俺と莉乃が中央に残るよう切り取る。


 文化祭の看板。


 同じエプロン。


 寄り添う肩。


 見る人によっては、かなり誤解を招く写真だった。


「これでいいか?」


「うん」


「どこに保存するんだよ」


「待ち受け」


「俺のスマホだぞ」


「私の連絡先の画像でもいい」


「どちらも嫌だ」


「じゃあ、私とのトーク画面の背景」


「選択肢が全部怖い」


「消されるのが一番怖い」


 最後の一言だけ、声が小さかった。


 俺は莉乃を見る。


 彼女は写真へ視線を向けたまま、少しだけ唇を結んでいる。


「消さないよ」


「ほんと?」


「今日、俺も入ってよかったって思ってるから」


 莉乃が顔を上げた。


 近い。


 鼻先が触れそうなほど近かった。


 互いの呼吸が混ざる。


 時間が止まったように感じた。


「清太」


 莉乃の声が、いつもよりずっと小さい。


「もし私たちが、本当にそういう関係だったら」


「……そういうって?」


「言わせるの?」


 莉乃の瞳が、俺だけを映している。


 逃げようと思えば逃げられる。


 彼女は俺を押さえつけていない。


 腕に触れてはいるが、力は入っていない。


 それでも、俺は動けなかった。


 莉乃の顔が少しずつ近づく。


 睫毛の一本まで見える。


 俺の心臓が壊れそうなほど鳴っている。


「清太は、嫌?」


 唇が触れる直前の距離で、莉乃が止まった。


 俺の答えを待っている。


 以前の莉乃なら、勢いのまま距離を奪ったかもしれない。


 けれど今は待っていた。


 俺が選ぶのを。


「……嫌じゃない」


 喉から、かすれた声が出た。


 莉乃の瞳が大きく揺れる。


 俺自身、自分が何を許したのかわからなかった。


 ただ、莉乃が近づくことを拒みたくなかった。


「じゃあ」


 莉乃があと少しだけ顔を寄せる。


 その瞬間。


 テーブルの上に置かれていた莉乃のスマホが、大きな音を立てて震えた。


 俺たちは同時に身体を離した。


 莉乃は真っ赤な顔でスマホを見る。


 画面には、マネージャーからの着信。


「……出たほうがいいんじゃないか」


「出たくない」


「仕事かもしれないだろ」


「今のほうが大事」


「莉乃」


「あと十秒遅ければよかったのに」


 莉乃は本気で悔しそうに唇を尖らせた。


 俺は自分の顔を片手で覆う。


 危なかった。


 何が危なかったのか。


 いや、考えなくてもわかる。


 あと数秒、電話が遅ければ。


 俺は莉乃と――。


「清太」


「電話に出ろ」


「続き、していい?」


「今聞くな!」


「あとで?」


「だから聞くなって!」


 莉乃は不満そうにしながら着信へ応答した。


 仕事用の落ち着いた声に切り替わる。


 俺はその横で、暴れ続ける心臓を必死に落ち着かせた。


 視線を逸らそうとして、スマホの画面が目に入る。


 切り取られた俺と莉乃の写真。


 肩を寄せ、同じエプロンをつけ、穏やかに笑っている。


 さっきまでより、その写真の意味が変わって見えた。


 俺は嫌ではないと言った。


 莉乃と触れそうになることを。


 拒むどころか、最後まで目を逸らさなかった。


 それが何を意味するのか、もう気づかないふりをするにも限界が近かった。


「清太」


 通話を終えた莉乃が、俺の袖を掴む。


「明日、急に撮影が入った」


「そうか」


「帰り、一緒に帰れない」


「仕事なら仕方ないだろ」


「だから今、もう少し近くにいたい」


 莉乃が再び肩を寄せる。


 今度はさっきほど近づかなかった。


 ただ、俺の肩へ頭を預ける。


 俺は少し迷ってから、莉乃の髪へ手を乗せた。


 ゆっくり撫でる。


 莉乃の身体が小さく震えた。


「清太?」


「疲れてるんだろ」


「うん」


「少し休めよ。起きるまではいるから」


「敬語じゃない」


「そこかよ」


「頭、撫でてる」


「嫌ならやめる」


「やめないで」


 莉乃は俺の制服の裾を握り、目を閉じた。


「さっきの続きもしないでいいから、今はこれがいい」


「……そうか」


「でも、いつかはしてね」


「予約するな」


「嫌じゃないんでしょ?」


 答えなかった。


 答えられなかった。


 代わりに、莉乃の髪をもう一度撫でる。


 俺の沈黙を、莉乃は拒絶とは受け取らなかったらしい。


 安心したように、身体の力を抜いた。


「清太」


「なに?」


「今日、帰らないでって言ったら?」


「帰る」


「即答」


「でも、眠るまではいる」


 莉乃が目を開けた。


 驚いたように俺を見つめる。


「ほんと?」


「仕事が急に入ったなら、疲れてるだろ。少しくらい付き合うよ」


「清太」


「なに?」


「好き」


「知ってる」


 以前なら、どう返せばいいかわからず黙っていた。


 今は自然に言葉が出た。


 莉乃は泣きそうに笑い、俺の胸元へ額を寄せた。


「知ってて、そばにいてくれるんだ」


「……うん」


「それ、期待するよ」


 その言葉に、俺はすぐには答えなかった。


 期待させるのが怖かった。


 誰かの好意を受け取ることも、自分の好意を認めることも。


 でも今、俺の腕の中には莉乃がいる。


 逃げようとは思わなかった。


「期待していいよ」


 小さな声で答える。


 莉乃が顔を上げる。


 また近い距離で視線が重なった。


 今度は莉乃から近づかなかった。


 ただ、待つように俺を見ている。


 俺は彼女の頬へ手を伸ばしかけた。


 けれど、触れる直前で指を止める。


 まだ怖い。


 それでも、手を引っ込めることはしなかった。


 指先で、濡れてもいない莉乃の髪を耳へかける。


「今日は、ここまで」


 俺が言うと、莉乃は少し残念そうにしながらも笑った。


「うん。今日はね」


 俺たちの距離は、さっきよりほんの少しだけ開いていた。


 それでも肩は触れ、莉乃の手は俺の手へ重なっている。


 触れなかった唇の代わりに、指が絡んだ。


 文化祭まで、あと二十日。


 俺たちの関係には、まだ名前がない。


 けれどその境界線は、もう触れれば崩れてしまいそうなほど薄くなっていた。

最後まで読んでいただき、ありがとうございます!

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