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いてもいい空気

 文化祭まで、あと二十日。


 放課後の教室には、絵の具と段ボールの匂いが混ざっていた。


 机はすべて後ろへ寄せられ、床には大きな模造紙が広げられている。装飾班が描いた下書きに沿って、何人ものクラスメイトが筆を動かしていた。


 中央に書かれているのは、俺たちのクラスが出すレトロ喫茶の店名。


『喫茶・夕暮れ』


 名前を考えたのは篠崎だった。


 普段は眠そうにしているくせに、こういうときだけ妙に洒落た案を出してくる。原が大絶賛し、その場の勢いで採用された。


 俺は看板の端に金色の線を引きながら、全体のバランスを確認した。


「高原、そこもう少し太くしてもいいかも」


「これ以上太くすると、文字より目立たないか?」


「確かに。じゃあそのままで」


 クラスメイトの男子に答え、再び筆を動かす。


 誰かと相談しながら物を作る。


 自分の意見を出して、それを受け入れてもらう。


 以前の俺なら、それだけで身体が強張っていた。


 自分の判断が間違っていたらどうしよう。


 相手が内心では迷惑だと思っていたらどうしよう。


 失敗して、空気を悪くしたらどうしよう。


 そんな考えが先に立ち、意見を求められても「何でもいい」と答えていた。


 今も怖さがなくなったわけではない。


 だが最近は、怖くなったときに右隣を見る癖がついている。


 今日、右隣にいる莉乃は、白い絵の具の入った紙皿を持ちながら、真剣な顔で看板へ筆を走らせていた。


 絵の具が制服につかないよう、文化祭用の黒いエプロンを身につけている。長い髪は後ろで一つにまとめられ、普段より少し幼く見えた。


 ステージの上で完璧に踊るアイドルではない。


 放課後の教室で、クラスメイトと看板を作る普通の女子高生。


 莉乃が望んでいた文化祭の姿だった。


 その顔を見ていると、俺の胸に残っている不安も少しだけ静かになる。


「清太」


「なに?」


「見すぎ」


 莉乃は看板へ視線を向けたまま言った。


「見てない」


「三十秒くらい見てた」


「数えるなよ」


「清太に見られてる時間は全部わかる」


「特殊能力みたいに言うな」


 莉乃は嬉しそうに口元を緩めた。


「でも、見てていいよ」


「作業しろ」


「清太も見ながら作業する」


「事故が起きるぞ」


 言った直後、莉乃の筆先が俺の頬へ触れた。


 一瞬、何が起きたのかわからなかった。


 莉乃も固まっている。


 頬に、ひんやりした感触が残った。


「……莉乃」


「ごめん」


「言った直後に事故を起こすな」


「清太が近かったから」


「ずっと同じ位置にいただろ」


 俺が頬へ触れようとすると、莉乃が慌てて手首を掴んだ。


「待って。広がるから」


 莉乃はポケットからハンカチを取り出し、俺の頬へ顔を近づけた。


 柔らかな布が絵の具を拭う。


 距離が近い。


 吐息まで感じる。


 教室にはほかの生徒もいるのに、莉乃は完全に俺の頬だけを見つめていた。


「取れたか?」


「まだ少し」


「水で洗えばいい」


「私がつけたから、私が取る」


 妙に責任感を発揮するところが違う。


 莉乃の指が、ハンカチ越しに頬をなぞる。


 俺は動けなかった。


 いや、動けばさらに注目されると思っただけだ。


 断じて、莉乃に触れられているのが嫌ではないから動かなかったわけではない。


「はい。綺麗になった」


「ありがとう」


「でも、少し惜しい」


「何が?」


「清太に私の色がついてたのに」


「絵の具を独占欲の表現に使うな」


 莉乃は本気で残念そうだった。


 その様子を見ていた原が、少し離れた場所から声を上げる。


「文化祭準備って、もっとこう……皆で友情を育むものじゃなかったっけ?」


「育んでるだろ」


「そこだけ別のものが育ちすぎてるんだよね」


 篠崎も看板用の紙花を作りながら頷いた。


「もう大樹だねー」


「何の話だよ」


「二人の関係」


「木に例えるな」


 教室のあちこちから笑い声が上がる。


 俺は以前ほど、その笑いに恐怖を覚えなかった。


 馬鹿にされているわけではない。


 それくらいは、少しずつわかるようになってきた。


 莉乃は恥ずかしそうにしながらも、俺から離れなかった。


 むしろ、俺のエプロンの裾を軽く掴んでいる。


「清太」


「なに?」


「今、逃げたくならなかった?」


 周囲には聞こえない小さな声だった。


 莉乃は、俺が笑われることに敏感なのを知っている。


 昔の記憶が刺激されることも。


「少し恥ずかしかったけど、平気」


「ほんと?」


「うん。今のは嫌な笑い方じゃないってわかるから」


 そう答えると、莉乃は安心したように微笑んだ。


「清太、変わったね」


「莉乃のせいでな」


「私のおかげ?」


「半分くらい」


「残り半分は?」


 俺は教室を見回した。


 原が大げさに筆を振り回し、篠崎に注意されている。


 男子たちは看板を立てるための土台を組みながら、強度について言い争っていた。


 誰かが失敗すれば、別の誰かが笑って直す。


 完璧ではない。


 だからこそ、昔の俺が思い描いていた恐ろしい集団とは違って見えた。


「皆が、思ってたより普通だったから」


「普通?」


「失敗しても、怒鳴ったりしない。意見が違っても、それだけで嫌われたりしない」


 言っているうちに、胸が少し痛くなる。


 俺はそんな当たり前のことすら、ずっと信じられなかった。


「俺が勝手に怖がってただけの部分も、あったのかもしれない」


「勝手じゃないよ」


 莉乃はすぐに否定した。


「清太が怖くなったのには理由がある。だから、昔の清太を責めなくていい」


「でも」


「昔の清太が逃げたから、今の清太が生きてるんでしょ?」


 その言葉に、何も返せなくなった。


 逃げた。


 俺はずっと、そのことを恥じていた。


 教室から。


 学校から。


 友達から。


 青春から。


 逃げた自分は弱くて、情けなくて、誰にも必要とされない人間だと思っていた。


 けれど莉乃は、その逃げたことまで否定しなかった。


「生きるために逃げたなら、それは悪いことじゃないよ」


 莉乃は俺のエプロンを掴んだまま、静かに言う。


「今は戻りたいって思ってるから、戻ってきてる。それで十分だと思う」


「……莉乃は、たまにすごくまともなことを言うな」


「たまに?」


「普段が重すぎる」


「今も重いよ」


「どこが?」


「昔の清太も今の清太も、全部抱えて離したくないって思ってる」


「やっぱり重い」


 でも、その重さが嫌ではなかった。


 俺は莉乃の手からエプロンの裾をそっと外す。


 代わりに、その指先を一度だけ握った。


 教室の中央では目立つため、すぐに離した。


 それでも莉乃は、触れられた手を胸元へ引き寄せ、大事そうに握り締めていた。


「今のも写真に残したい」


「無理だろ」


「心には残った」


「ならそれで我慢しろ」


「一生残す」


「期間が重い」


 俺たちは再び作業へ戻った。


 夕方になるころには、看板がほとんど完成した。


 深い茶色を基調とした背景に、金色の文字。


 周囲には夕焼けを思わせる赤と橙色の模様が描かれている。


 皆で看板を持ち上げ、黒板の前へ仮置きすると、教室から歓声が上がった。


「すごっ! ちゃんと店っぽい!」


「写真撮ろうよ!」


「全員入って!」


 原の号令で、残っていた生徒たちが看板の前へ集まり始める。


 俺は反射的に、一歩後ろへ下がった。


 集合写真。


 皆で並ぶ。


 笑顔を作る。


 胸の奥に、古い記憶が蘇った。


 中学時代の行事写真。


 教室へ行けなくなり始めた頃、俺は一番端へ立っていた。


 隣の生徒との間には、不自然な隙間があった。


 写真が配られたあと、自分の姿を見たくなくて、机の引き出しの奥へ押し込んだ。


 あのときの感覚が、身体へ戻ってくる。


 俺だけ、ここにいるべきではない。


 皆の思い出に混ざれば、写真を汚してしまう。


 そんな考えが、今でも簡単に消えてはくれない。


「清太」


 気づくと、莉乃が俺の前に立っていた。


「写真、嫌?」


「……少し苦手」


「じゃあ、無理に入らなくてもいい」


 莉乃はそう言った。


 俺を引っ張ろうとはしなかった。


 けれど、彼女自身も列へ加わらず、俺の前に残っている。


「莉乃は行けよ」


「清太が入らないなら、私もいい」


「皆と作った看板だぞ」


「清太も作った」


「だから?」


「清太がいない写真を、完成した思い出にしたくない」


 胸の奥が揺れた。


 莉乃は俺の袖を掴まない。


 手も引かない。


 ただ、待っている。


 原たちも急かさず、こちらを見ていた。


「高原くん、真ん中空けとくよ!」


「莉乃と二人で来なー」


 篠崎が眠そうな声で呼ぶ。


 誰も、俺が入ることを迷惑そうにはしていない。


 むしろ、待っている。


 怖い。


 でも、逃げる前に言う。


「莉乃」


「なに?」


「隣にいてくれる?」


 莉乃の顔が柔らかくなる。


「もちろん」


「なら、行く」


 俺たちは並んで、看板の前へ向かった。


 原が本当に中央を空けている。


「はい、実行委員は真ん中!」


「端でいいだろ」


「だめ。二人が中心でしょ!」


 半ば強引に、俺と莉乃は看板の中央へ配置された。


 莉乃の肩が俺の腕に触れる。


 逃げ道のない位置。


 それでも、以前のような息苦しさはなかった。


「清太、笑って」


「写真で笑うの苦手なんだよ」


「私を見て」


「前を見ないと写真にならないだろ」


「撮る直前まででいいから」


 言われるまま、莉乃を見る。


 彼女は、本当に幸せそうに笑っていた。


 俺と同じ写真へ入れることが、それほど嬉しいらしい。


 その顔につられて、少しだけ口元が緩んだ。


「はい、撮るよー!」


 莉乃が俺の小指へ、自分の小指を絡める。


 見えない位置で。


 小さな約束のように。


「三、二、一!」


 シャッター音が鳴った。


 写真が撮られた。


 俺は逃げなかった。


 皆の中に立ち、莉乃の隣で笑った。


 原が撮影した写真を確認し、声を上げる。


「めっちゃいいじゃん! グループに送るね!」


 スマホに届いた写真を見る。


 看板の前に並んだクラスメイトたち。


 その中央に、俺と莉乃がいる。


 俺の笑顔は少しぎこちない。


 それでも、中学時代の写真とは違った。


 莉乃との間に隙間がない。


 小指同士は、写真には映っていない。


 でも俺たちは、確かに繋がっている。


「清太」


「なに?」


「この写真、宝物にする」


「皆で撮った写真だぞ」


「清太と初めて文化祭準備で撮った写真」


「また記念日か」


「待ち受けにしていい?」


「皆が映ってるだろ」


「清太のところだけ切り取る」


「やめろ。怖い」


「じゃあ、二人のところまで」


「さらに誤解を生むだろ」


 莉乃はすでに、写真を拡大していた。


 画面には、俺と莉乃だけが映っている。


 同じ看板の前。


 同じエプロン姿。


 肩を寄せ、俺は莉乃を見たあとの笑顔を残している。


「これ、いいね」


 莉乃は静かに言った。


「いつか見返したとき、清太が逃げないでいてくれた日だって思える」


 その言葉を聞くと、削除しろとは言えなかった。


「……待ち受けはやめろよ」


「ホーム画面なら?」


「同じだろ」


「ロック画面とホーム画面で違う」


「そういう問題じゃない」


「じゃあ、清太の連絡先の画像にする」


「俺に聞いた意味は?」


「許可をもらえたら嬉しいなと思って」


「何一つ許可してないぞ」


 莉乃は楽しそうに笑った。


 その日の作業が終わり、教室を出るころには、外はすっかり暗くなっていた。


 俺と莉乃は廊下を並んで歩く。


「清太」


「なに?」


「今日、写真に入ってくれてありがとう」


「俺も実行委員だからな」


「そうじゃなくて」


 莉乃が立ち止まる。


「怖かったのに、私と一緒ならって選んでくれたこと」


 俺も足を止めた。


 暗い廊下に、窓から夕暮れの名残が差し込んでいる。


「莉乃がいなかったら、入れなかったと思う」


「じゃあ、これからも写真撮るときは私が隣にいる」


「毎回?」


「一生」


「また期間が長い」


「卒業式も、その先も」


 莉乃は自然に俺の手を取った。


 誰もいない廊下で、指を絡める。


「清太の思い出に、私がいない写真を増やしたくない」


「重いな」


「嫌?」


 俺は今日撮った写真を思い出した。


 皆の中央で、莉乃の隣にいる自分。


 以前なら、絶対に残せなかった一枚。


「……嫌じゃない」


 莉乃の手を握り返す。


「俺も、莉乃がいる写真なら、少しずつ増やしたい」


 莉乃が完全に止まった。


「清太」


「なに?」


「今日、私の家来て」


「急にどうした」


「今の言葉を抱えたまま一人で帰れない」


「意味がわからない」


「嬉しすぎるから、近くにいてほしい」


「明日も会うだろ」


「今日の清太は今日だけ」


 重い。


 面倒くさい。


 だが、俺はもうその感情を知っている。


 莉乃は、幸せな瞬間ほど終わることを怖がる。


「家までは送る」


「上がって」


「少しだけな」


「カードもしよ」


「疲れてるだろ」


「『青春いらない!!』も読も」


「文化祭の作業より長くなるぞ」


「泊まってもいいよ」


「帰るからな」


 念を押すと、莉乃は不満そうにしながらも、繋いだ手を嬉しそうに揺らした。


 教室では、今日完成したばかりの看板が、誰もいない黒板の前に立っている。


 俺のスマホには、皆と撮った一枚の写真。


 そしてその中央には、莉乃と肩を寄せて笑う俺がいた。


 文化祭まで、あと二十日。


 俺の空白だった学校行事は、少しずつ莉乃との思い出で埋まり始めていた。

最後まで読んでいただき、ありがとうございます!

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