文化祭の下準備
文化祭まで、あと二十六日。
たった三日しか経っていないはずなのに、俺たちの教室はすでに普段とは別の場所へ変わり始めていた。
教室後方には段ボールと色画用紙が積まれ、窓際には装飾班が切り抜いた紙製のレコードが吊るされている。黒板の端には原が作成した進行表が貼られ、終礼が終わるたびに、誰が残るか、何を仕上げるかが書き足されていった。
レトロ喫茶。
言葉だけ聞けば洒落ているが、その実態は地道な内職の集合体である。
紙を切り、貼り、机の配置を測り、必要な材料の数を数える。ラブコメ作品でよく見る、絵の具を塗りながらヒロインの頬へ塗料をつけるようなイベントは一向に発生しない。
代わりに俺の頬についたのは、値札シールだった。
「清太、動かないで」
「何してるんだよ」
「似合ってる」
「人間に百円って貼るな」
俺の頬へ値札を貼った犯人である莉乃は、満足そうにスマホを構えようとしていた。
俺は撮影される前に値札を剥がす。
「消せよ」
「まだ撮ってない」
「撮ろうとするな」
「百円なら私が買う」
「安すぎるだろ」
「じゃあ、いくら?」
「値段の問題じゃない」
「清太は売らないけどね」
莉乃は何でもないことのように言いながら、俺から剥がした値札を自分の手帳へ貼った。
「それ、捨てろよ」
「初めて清太につけた値札」
「記念品にする対象がおかしい」
「清太に関係するものなら、だいたい記念になる」
机を挟んだ向かい側で、紙のメニュー表を切っていた原が、呆れたようにこちらを見る。
「莉乃、そのうち高原くんが使った消しゴムのカスまで保存しそう」
「それは捨てるよ」
「よかった。まだ一線は守ってるんだね」
「清太が大事にしてた消しゴムなら考える」
「守ってなかった」
篠崎が眠そうな声で呟く。
俺は聞こえなかったことにして、作業へ戻った。
今日の俺の担当は、メニュー表の原案作りだった。
コーヒー、紅茶、オレンジジュース。
食べ物は調理設備の都合上、市販の焼き菓子と簡単なホットケーキに限定される。雰囲気を出すために、商品名だけは少し古風なものにするらしい。
夕暮れ珈琲。
純恋紅茶。
青春クリームソーダ。
最後の名前を見た瞬間、俺は無言で二重線を引いた。
「あっ、高原くん。なんで消すの?」
考案者らしい男子が声を上げる。
「名前が危険だから」
「普通の名前じゃん」
「青春を飲み物にするな。摂取量を間違えたら死ぬ」
「何言ってんの?」
理解されなかった。
当然である。
俺の青春コンプレックスは、一般人には難解すぎる。
「私は好きだけどな、青春クリームソーダ」
莉乃が俺の肩越しにメニュー表を覗き込む。
「莉乃はそうだろうな」
「清太と一本のストローを二人で使いたい」
「飲み物一本にストローは二本だろ」
「同じのでいい」
「衛生面を考えろ」
「清太なら平気」
「俺が平気じゃない」
「嫌なの?」
莉乃が少しだけ目を伏せる。
先ほどまで明るかった瞳から、わずかに光が薄れる。
これは文化祭準備中に出していい圧ではない。
「……人前じゃなければ、考える」
逃げ道を残したつもりだった。
だが、莉乃の顔が一瞬で明るくなる。
「約束ね」
「考えるって言っただけだ」
「清太が私と同じストローを使うことを考えてくれる記念日」
「記念日の基準を見直せ」
周囲で作業していたクラスメイトから、生温かい視線が飛んでくる。
最近、この視線にも少しずつ慣れてしまっている自分が怖い。
以前の俺なら、こうして注目を集めた時点で教室から逃げていたはずだ。自分が笑われているのではないか。邪魔だと思われているのではないか。そんな考えに囚われ、何でもない顔を作りながら、できるだけ早くその場を離れていた。
けれど今は、恥ずかしくはあっても、逃げたいとまでは思わない。
莉乃が隣にいるから。
それだけではなかった。
教室に残っているクラスメイトたちが、少しずつ俺にも話しかけるようになったからだ。
「高原、レジの計算ってタブレット使える?」
「学校の貸出品は数が足りないと思う。伝票に番号振って、会計表を一枚作ったほうが早い」
「じゃあ、それ作れる?」
「今日中に原案だけなら」
「助かる」
頼られる。
たったそれだけのことなのに、胸の奥が落ち着かない。
嬉しい。
同時に、怖い。
一度役に立てば、次も期待される。
失敗したら失望される。
昔、教師から言われた言葉が、こういうときに蘇る。
『できないなら最初から余計なことをするな』
『お前のせいで周りが困ってるんだぞ』
俺が実際に何を失敗したのかは、もう曖昧だった。
それでも、声だけは残っている。
誰かに頼られるたび、胸の奥でその声が囁く。
本当にできるのか。
また迷惑をかけるのではないか。
「清太」
莉乃の声で、俺は現実へ戻った。
気づけば、ペンを持つ手に力が入りすぎていた。紙の一点へペン先が押しつけられ、黒い染みが広がっている。
「また遠くに行ってた?」
「……少しだけ」
「休む?」
莉乃は以前のように、無理やり大丈夫だと言わせようとはしなかった。
帰るか。
休むか。
続けるか。
俺に選ばせてくれる。
その変化を感じるたび、俺も莉乃へちゃんと返したくなる。
「大丈夫。今度は逃げない」
「無理してない?」
「少しはしてる。でも、やりたいと思ってる」
俺は黒く滲んだ部分へ修正テープを引いた。
「頼まれたこと、最後までやってみたい」
莉乃はしばらく俺の顔を見つめ、それから小さく頷いた。
「じゃあ、私も手伝う」
「莉乃は接客班の配置表があるだろ」
「終わった」
「早くないか?」
「清太の手伝いしたかったから頑張った」
「理由が全部俺だな」
「うん」
迷いのない返答だった。
莉乃は自分の椅子を俺の隣へ寄せ、会計表の原案を一緒に覗き込む。
肩が触れた。
以前なら、この距離だけで意識の大半を奪われていた。今も心臓は多少騒ぐが、それでも手元の作業を続けられる程度には慣れてきている。
慣れていいのだろうか。
現役トップアイドルと肩を触れ合わせながら文化祭の資料を作る状況に、人間は慣れていいのか。
「清太、ここの数字違う」
「どこ?」
「焼き菓子、予定数は百二十個だよ」
「本当だ。ありがとう」
「どういたしまして」
莉乃は嬉しそうに微笑む。
俺は数字を修正しながら、ふと気づいた。
「莉乃、こういうの得意なんだな」
「スケジュール表とか、現場でよく見るから。自分で確認しないと、急に予定変わることもあるし」
「大変だな」
「でも今日は楽しいよ」
「書類作ってるだけだぞ」
「清太と一緒だから」
その答えを予想できるようになった自分が嫌だった。
いや、嫌ではない。
むしろ少し嬉しい。
それを認めるのが恥ずかしいだけだった。
一時間ほど経ったころ、必要な材料の一部が足りないことが判明した。
黒画用紙、金色のペン、両面テープ、模造紙。それから、メニューを立てるためのカードスタンド。
「買い出し必要だね」
原が在庫表を眺めながら言う。
「明日でもいいけど、今日行ける人いる?」
教室に残っていた生徒たちが、それぞれ顔を見合わせる。
部活や塾、家の用事がある者が多いらしい。
俺は時計を見る。
帰宅が少し遅くなる程度で、特に予定はない。
「俺、行けるけど」
言った瞬間、隣で莉乃の手が上がった。
「私も行ける」
「莉乃、今日は仕事ないのか?」
「ないよ。放課後は清太のために空けてるから」
「文化祭のためだろ」
「文化祭にいる清太のため」
原がにやにやしながら、買い出し用のメモを差し出す。
「じゃあ、二人でお願いしまーす」
「待て。二人で行くとは言ってない」
「でも他にいないし」
原が教室を見回す。
全員が不自然に視線を逸らした。
こいつら。
絶対に面白がっている。
「清太、二人じゃ嫌?」
莉乃が俺の袖をつまむ。
嫌ではない。
むしろ莉乃と二人で出かけることに、以前ほど抵抗はなくなっている。
その事実を認めた瞬間、青春コンプレックスが「文化祭の買い出しは事実上のデートです」と警告文を出した。
黙れ。
今はただの備品調達だ。
「……行くぞ」
「うん」
莉乃は嬉しそうに鞄を持った。
教室を出る直前、篠崎が眠そうな声で言う。
「二人とも、ちゃんと買い物してきてねー」
「他に何をするんだよ」
「さあー?」
含みのある言い方だった。
俺は聞かなかったことにして、莉乃と並んで教室を出た。
※ ※ ※
学校から十五分ほど歩いたところに、大型の文具店がある。
制服姿のまま店内へ入ると、文化祭の時期だからか、同じように材料を探している高校生が何組もいた。
莉乃は買い出し用のメモを持ち、俺は籠を持つ。
「まず黒画用紙」
「文具コーナーの奥だな」
「清太、場所わかるの?」
「ここ、前にカード用のケース探しに来たから」
「また知らない清太の思い出」
「文具店に来ただけだぞ」
「誰と?」
「一人」
「よかった」
「何がだよ」
「女の子と来てなくて」
「中学の頃の俺が、女子と文具店に来るような青春を送ってたと思うか?」
言ってから、少しだけ空気が止まった。
俺の自虐。
莉乃は以前なら、すぐに悲しそうな顔をしたかもしれない。
けれど今日は、俺の袖を軽く引くだけだった。
「じゃあ、今日が最初だね」
「何が?」
「女の子と文具店に来た日」
「そんな細かい初めてまで回収するな」
「清太の初めて、いっぱい欲しい」
「言い方が危険だ」
莉乃は楽しそうに笑いながら、黒画用紙を選び始める。
俺も隣で必要な枚数を確認した。
買い物自体は順調だった。
金色のペンを三本。
両面テープを五個。
模造紙を十枚。
カードスタンドを十二個。
文化祭の備品を選んでいるだけなのに、莉乃は何を手に取るにも俺へ確認してくる。
「清太、こっちとこっち、どっちがいい?」
「金色なら右のほうが見やすい」
「じゃあ右」
「莉乃の意見は?」
「清太と同じ」
「合わせなくていい」
「合わせたい」
「喫茶店の雰囲気に合うほうを選べよ」
「清太がいる雰囲気に合うほう」
「基準がわからない」
それでも、二人で相談して物を選ぶ時間は楽しかった。
同じ棚を眺め、必要なものを探し、見つけたら籠へ入れる。
ただそれだけ。
なのに、不思議と満たされる。
俺はこういう普通の時間に、ずっと憧れていたのかもしれない。
文化祭の買い出しを、同じクラスの誰かとする。
帰りにくだらない話をする。
そんな小さな青春を、俺は作品の中でしか知らなかった。
「清太」
「なに?」
「今、少し楽しそう」
「そう見える?」
「うん」
「……実際、少し楽しい」
素直に答えると、莉乃は足を止めた。
人の行き交う店内で、俺を見つめたまま固まっている。
「莉乃?」
「清太が、文化祭の準備楽しいって言った」
「買い出しが、だよ」
「一緒に来てよかった」
莉乃の顔が、泣きそうなほど嬉しそうに崩れる。
周囲にはほかの客もいる。
それでも俺は、彼女から目を逸らさなかった。
「俺も、莉乃と来てよかった」
口にした瞬間、胸の奥が熱くなる。
莉乃は何も言えなくなったらしく、俺の制服の袖を強く握った。
「清太、今のは無理」
「俺も言ってから後悔してる」
「取り消さないで」
「取り消さないよ」
自然に答える。
莉乃の瞳が揺れた。
俺の敬語は、もうほとんど消えていた。
気を抜けば戻ることもある。
でも莉乃と二人でいるとき、丁寧な言葉で距離を守る必要を感じなくなり始めていた。
買い物を終えて店を出ると、空は暗い雲に覆われていた。
数分も歩かないうちに、ぽつぽつと雨が落ちてくる。
「降ってきたな」
「傘、持ってない」
「俺も」
雨は急速に強くなった。
俺たちは近くの建物の軒下へ駆け込む。
幸い、買った物は大きなビニール袋に入れてもらっていたため濡れていない。
だが、走ったせいで莉乃の髪や肩には細かな雨粒がついていた。
「大丈夫か?」
「うん。清太は?」
「俺も平気」
莉乃は自分ではなく、俺の濡れた前髪へ手を伸ばした。
指先が額に触れる。
「濡れてる」
「莉乃もだろ」
俺は鞄からハンカチを出し、莉乃へ差し出した。
「使えよ」
「清太が拭いて」
「自分でできるだろ」
「清太にしてほしい」
雨音の向こうで、莉乃がまっすぐ俺を見ている。
俺はため息を吐きながら、ハンカチで彼女の髪についた雨粒を軽く拭った。
莉乃は動かない。
目を細め、安心したように俺の手へ頬を寄せる。
「犬みたいだな」
「清太が飼ってくれるならいいよ」
「人間として生きろ」
「じゃあ、清太の家族になる」
「話が飛躍してる」
そう言いながらも、俺は彼女の髪を拭き続けた。
莉乃の顔が近い。
手を伸ばせば触れられる距離。
いや、すでに髪へ触れている。
「清太」
「なに?」
「私、今すごく幸せ」
「雨宿りしてるだけだぞ」
「文化祭の買い出しして、雨に降られて、清太が髪を拭いてくれてる」
「並べると急にラブコメっぽくなるな」
「清太が好きなやつでしょ?」
「見るのは好きだ。体験する側は心臓に悪い」
「でも逃げてない」
莉乃の言葉に、俺の手が止まった。
確かに、逃げていない。
教室でも。
買い出しでも。
今、この距離でも。
怖くないわけではない。
でも、以前とは違う。
「莉乃がいるからな」
雨音に紛れるくらい、小さな声だった。
だが、莉乃には聞こえたらしい。
彼女の瞳がゆっくり見開かれる。
「もう一回言って」
「雨の音で聞こえなかったなら、それでいい」
「聞こえたけど、もう一回聞きたい」
「欲張るな」
「清太の言葉は全部欲しい」
莉乃は俺の袖ではなく、手を握った。
指と指を絡める。
軒下の狭い空間で、俺たちは向かい合ったまま手を繋いでいた。
「文化祭、怖い?」
「まだ少し」
「私がいるよ」
「知ってる」
「準備中も、当日も、終わったあとも」
「終わったあとまで文化祭実行委員の仕事はないだろ」
「文化祭が終わっても、私はいるってこと」
重い。
でも、嬉しかった。
俺は繋いだ手を握り返す。
「じゃあ、最後まで一緒にいてくれ」
「うん」
莉乃は迷わず頷いた。
「清太が嫌って言っても、いる」
「そこは嫌なら離れろよ」
「本当に嫌なら考える」
「考えるだけなのか」
「でも清太、嫌じゃないでしょ?」
否定できなかった。
雨はしばらく止みそうにない。
俺たちは軒下で手を繋いだまま、文化祭のメニューについて話した。
青春クリームソーダを採用するか。
エプロンの色は黒でいいか。
当日の休憩時間を同じにできるか。
何でもない相談。
けれど俺にとっては、ずっと知らなかった時間だった。
中学時代に置いてきた学校行事の思い出。
その空白へ、莉乃との新しい記憶が少しずつ埋まっていく。
雨宿りの終わり頃、莉乃が俺の肩へ頭を預けた。
「清太」
「なに?」
「来年の文化祭も、一緒に準備しようね」
「まだ今年も終わってないぞ」
「再来年も」
「高校の文化祭はあと三回しかない」
「じゃあ、そのあとは別の行事を一緒にする」
「気が早いな」
「清太との先の予定、いっぱい作りたいから」
雨を見つめながら、莉乃は静かに言った。
「先の約束があれば、清太が明日も私の隣にいるって思える」
その言葉に、俺は少しだけ胸が痛んだ。
莉乃もまた、不安を抱えている。
俺がいつか逃げるのではないか。
突然いなくなるのではないか。
だから未来の約束を欲しがる。
俺は彼女の手を握ったまま、短く答えた。
「明日もいるよ」
「明後日は?」
「いる」
「文化祭当日は?」
「いるって」
「来年は?」
「……そのときも、たぶん隣にいる」
莉乃が俺の肩へ頬を寄せる。
「たぶんじゃなくする」
「どうやって?」
「逃げられなくする」
「怖いな」
「好きだから」
いつもの言葉。
けれど今日は、それが雨音より近く感じた。
俺は返事の代わりに、莉乃の手をもう一度握り直した。
文化祭まで、あと二十六日。
準備はまだ始まったばかりなのに、俺の中にはすでに、忘れたくない思い出が増え始めていた。
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