署名という名の青春
文化祭実行委員になった翌日の放課後。
俺は、教室の前方に積み上げられた大量の資料を見ながら、早くも昨日の決断を後悔していた。
出し物申請書。
使用教室届。
火気使用申請。
予算案。
備品借用書。
文化祭とは、青春の祭典ではなかったのか。
目の前にあるのは、夢や友情ではなく事務書類の山だった。ラブコメ作品では綺麗に省略されているが、文化祭の裏側は社会人の仕事に近いらしい。
騙された。
『青春いらない!!』の文化祭編では、主人公とヒロインが放課後の教室で看板を作り、絵の具を頬につけ合っていた。
申請書を書いている場面など、一コマもなかった。
「清太、難しい顔してる」
隣の机から、莉乃が俺の顔を覗き込んだ。
今日の教室には、俺と莉乃のほかに原と篠崎、そして接客班や装飾班の代表として残った数人がいる。
莉乃は実行委員用の資料を一枚ずつ確認しながら、シャープペンを動かしていた。撮影やインタビューの台本を読むことに慣れているからか、書類の扱いが妙に手際いい。
「文化祭の現実を知って絶望してる」
「でも、清太と放課後に残れるよ」
「書類仕事をデートみたいに言うな」
「違うの?」
「違うだろ」
「私は楽しいけど」
莉乃は平然と言いながら、俺の机へ椅子を寄せた。
近い。
肩が触れる。
書類を一緒に見るためだという建前は理解できるが、それなら椅子同士を接着するほど近づく必要はない。
「莉乃、自分の机でできるだろ」
「清太の字、見たい」
「何の需要だよ」
「好きな人の字って見たくならない?」
「俺に聞くな」
莉乃は俺が書いた申請書を手に取り、じっと眺めた。
「清太の字、綺麗」
「普通だろ」
「清太が書いたから好き」
「評価基準が壊れてる」
「清太の名前も好き」
「名前まで俺の成果みたいに扱うな」
生まれたときに親がつけたものだ。
俺の努力は一切関係ない。
莉乃は申請書の下部にある実行委員名の欄を指でなぞった。
高原清太。
星宮莉乃。
二つの名前が並んでいる。
「これ、写真撮っていい?」
「申請書だぞ」
「清太と初めて一緒に何かを作った証拠」
「まだ何も作ってない。申請してる段階だ」
「でも、並んでる」
莉乃は二人分の名前を見て、本当に嬉しそうに笑った。
俺にはただの署名欄にしか見えなかった。
けれど彼女にとっては、これすら思い出になるらしい。
「写真は提出してからにしろ。なくしたら怒られる」
「じゃあ、提出前に一枚だけ」
「話を聞け」
結局、莉乃は書類の内容が映らないよう、名前の部分だけを撮影した。
止める気力は途中で失った。
「お二人さーん」
教室の後ろから、原の声が飛んでくる。
「実行委員会議じゃなくて、新婚の共同作業みたいになってるけど大丈夫?」
「どこがだよ」
「役所に出す書類を二人で書いて、名前並べて喜んでるあたり」
「文化祭の申請書だ」
俺が答えると、莉乃はスマホに保存した写真を見ながら呟いた。
「名字、同じでも綺麗に並びそう」
「莉乃」
「なに?」
「戻ってこい」
「清太のところにいるよ」
「思考の話だ」
原が机に突っ伏して笑い、篠崎は紙飾りの試作品を作りながら、眠そうな顔でこちらを見る。
「高原くん、もう止めるの諦めたほうがいいんじゃない?」
「諦めたら終わりだろ」
「まだ終わってないと思ってるんだー」
篠崎の言葉が胸に刺さる。
何が終わっていないのかは聞かなかった。
聞けば負ける気がした。
話し合いの結果、クラスの出し物は『レトロ喫茶』に決まった。
派手すぎる衣装や高価な装飾を避け、古い映画館を意識した内装にするらしい。予算を抑えながら雰囲気も出せるという、現実的な案だった。
俺はメニュー表と会計システムの作成。
莉乃は接客班と衣装班の調整。
原は全体進行。
篠崎は装飾担当になった。
「じゃあ、まず接客用の衣装を試してみよっか!」
原が紙袋を持ち上げる。
中には、衣装班がサンプルとして用意したエプロンが入っていた。
女子用は白いフリルの付いた黒いエプロン。
男子用は腰から下だけを覆う、比較的落ち着いた形だった。
「莉乃、着てみてよ!」
「うん、いいよ」
莉乃はエプロンを受け取ると、一度教室を出た。
数分後。
扉が開いた瞬間、教室中から歓声が上がった。
制服の上から黒いエプロンを身につけた莉乃が、少し照れくさそうに立っている。白いフリルは華美すぎず、それでも彼女の整った容姿を十分に引き立てていた。
普段のアイドル衣装より、ずっと普通だ。
普通の高校生が文化祭で着る衣装。
だからこそ、その姿は俺の胸に強く刺さった。
「どう?」
莉乃は周囲ではなく、最初に俺を見た。
教室中の視線まで、つられるようにこちらへ集まる。
逃げたい。
しかし、莉乃が求めているのは適当な感想ではない。
俺は一度、彼女の姿を見直した。
「似合ってる」
「それだけ?」
「可愛いと思う」
教室が沸いた。
莉乃は顔を赤くし、エプロンの裾を両手で握る。
「清太、皆の前でそれ言うの、ずるい」
「感想を聞いたのは莉乃だろ」
「私だけに聞こえるように言ってほしかった」
「無茶を言うな」
「じゃあ、あとでもう一回言って」
「覚えてたらな」
「絶対覚えてるから」
俺ではなく莉乃が覚えていても意味がない。
そう突っ込もうとしたとき、原が男子用エプロンを俺へ投げてきた。
「はい、次は高原くん!」
「なんで俺まで」
「実行委員は見本を見せるものだから」
「今作ったルールだろ」
「清太、着て」
莉乃まで期待に満ちた目で見てくる。
逃げ道が消えた。
俺は仕方なくエプロンを身につけた。制服の上から腰へ巻くだけなので、着替える必要もない。
「これでいいだろ」
そう言って顔を上げると、莉乃が無言でこちらを見つめていた。
「莉乃?」
「……清太が働いてる」
「文化祭だからな」
「一緒のお店で働いてる」
「クラスメイト全員一緒だ」
「私、清太の隣で接客する」
「役割表はこれから決めるんだぞ」
「決めた」
「勝手に決めるな」
莉乃は俺の前へ近づくと、エプロンの紐へ手を伸ばした。
「少し緩い」
「自分で直せる」
「動かないで」
背後へ回った莉乃が、俺の腰のあたりで紐を結び直す。
指先が制服越しに触れるたび、身体が妙に緊張した。
近い。
背中に莉乃の気配がある。
しかも教室中から見られている。
「きつくない?」
「大丈夫」
「ほんと?」
「ほんとだよ」
敬語を使わず答えると、莉乃の手が一瞬止まった。
「今の、好き」
「エプロンを結びながら告白するな」
「だって、清太が自然に話してくれたから」
莉乃は結び終えると、俺の隣へ戻った。
教室の前に、同じ店の衣装を着た俺たちが並ぶ。
原が満足そうに頷いた。
「うん。看板二人は決定だね」
「誰が看板だ」
「この並びで他に誰がいるの?」
「私は清太と一緒ならやる」
「俺を巻き込むなよ」
「嫌?」
莉乃が俺の袖をつまむ。
俺は教室を見回した。
文化祭の準備。
衣装の試着。
放課後まで残って笑うクラスメイトたち。
昔の俺なら、遠くから眺めるだけだった光景だ。
中学の文化祭では、何もできなかった。
皆が準備している時間、俺は教室にいなかった。自分が参加すれば空気を悪くすると思い込み、誰にも頼まれていないのに勝手に消えた。
だから今も、この輪の中にいることが少し怖い。
いつか必要ないと言われるのではないか。
俺がいないほうが、皆は楽なのではないか。
そんな考えが、ふと胸の奥から顔を出す。
そのとき、莉乃が俺のエプロンの裾を軽く引いた。
「清太」
「なに?」
「また遠くに行ってる顔してる」
見抜かれた。
莉乃は声を落とす。
「怖くなった?」
「……少し」
「帰る?」
逃げないで、とは言わなかった。
無理に残れとも言わなかった。
俺が選べるように聞いてくれた。
そのことが、胸に染みた。
俺は周囲を見る。
原は予算表を書き直している。
篠崎は紙飾りをこちらの頭へ載せようと狙っている。
他のクラスメイトたちは、机を囲んでメニューについて話し合っている。
誰も、俺に消えてほしいとは言っていない。
むしろ会計方法について、俺の案を待っている者までいる。
「……帰らない」
俺は答えた。
「もう少し、ここにいる」
莉乃は優しく笑った。
「うん。じゃあ私もいる」
「莉乃は元々残る予定だろ」
「清太がいるなら、いる意味が増える」
「またそういうこと言う」
それでも、俺は少し笑った。
莉乃も笑う。
その様子を見ていた原が、手を叩いた。
「はいはい! 二人の世界から戻ってきて! メニュー決めるよ!」
俺たちは並んだまま、作業用の机へ戻った。
エプロンは試着のはずだったが、莉乃は脱ごうとしなかった。俺が外そうとすると、もう少し着ていてほしいと言われ、結局そのまま作業を続けることになった。
メニュー案をまとめる俺の横で、莉乃が紙へ文字を書き込む。
肩が触れる。
時々、同時に同じペンへ手を伸ばして指が重なる。
そのたびに莉乃は嬉しそうにこちらを見る。
「清太」
「なに?」
「文化祭、楽しみになってきた?」
俺はすぐには答えなかった。
怖さはある。
過去を思い出すこともある。
きっとこれから、もっと苦しくなる瞬間もある。
でも、昨日までより少しだけ、この時間を終わらせたくないと思っていた。
「……少しだけ」
「本当?」
「莉乃と一緒なら、もう少し頑張れる気がする」
莉乃のペンが止まった。
俺は言ってから恥ずかしくなり、書類へ目を落とす。
「今のは忘れろ」
「無理」
「だろうな」
「清太」
「なんだよ」
「当日も、私の隣にいてね」
俺は、二人分の名前が並んだ申請書を見た。
高原清太。
星宮莉乃。
昨日までは、ただの署名欄だった。
けれど今は、少しだけ別の意味を持って見える。
「いるよ」
短く答える。
莉乃は何も言わず、机の下で俺の小指に自分の小指を絡めた。
誰にも見えない、小さな約束のように。
文化祭まで、あと二十九日。
青春コンプレックス最大級の難所は、まだ始まったばかりだった。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます!
このお話が少しでも面白いと感じていただけたら、ぜひ「♡いいね」や「ブックマーク」をしていただけると嬉しいです。
応援が次回更新の励みになります!




