文化祭
週明けのホームルームで、担任が黒板に大きく二文字を書いた。
『文化祭』
その瞬間、教室の空気が一変した。
歓声を上げる者。隣の席と顔を見合わせる者。すぐに出し物の相談を始める者。さっきまで机に突っ伏していた生徒まで、眠気を忘れたように顔を上げている。
俺だけが、その二文字を見ながら静かに固まっていた。
文化祭。
学校行事。
クラス一丸。
仲間たちと協力して作り上げる、一生の思い出。
青春コンプレックスに対する特効兵器が、まとめて教室へ投下された。
やめろ。
まだ心の準備ができていない。
名前呼び、手繋ぎ、弁当の食べさせ合い、肩を貸して昼寝まで、ここ最近の俺は青春を過剰摂取している。これ以上摂取すれば、本当に身体へ異常をきたすかもしれない。
俺の適正量は、アニメ一話を暗い部屋で見る程度なのだ。
文化祭を現実で浴びせるな。
「清太、文化祭だって」
隣から弾んだ声が聞こえた。
莉乃は黒板を見つめ、目を輝かせている。
「聞こえてる」
「何したい?」
「自宅待機」
「だめ」
即答だった。
「学校行事に自宅待機という選択肢はない」
「当日、急な体調不良が発生する予定で」
「私が看病に行く」
「参加するより大事になってるだろ」
「じゃあ一緒に参加しよ」
莉乃は机の下で、俺の制服の袖をつまんだ。
俺が逃げようとしているのを、もう見抜いている。
以前なら、その指を重く感じたかもしれない。
けれど今は、引き止められていることに少しだけ安心している自分がいた。
「清太と文化祭、楽しみ」
「まだ何をするかも決まってないぞ」
「何でもいいよ。清太と一緒なら」
「そういう台詞を平然と教室で言うな」
「小声だから大丈夫」
「俺には全部聞こえてる」
「清太に聞かせてるから」
莉乃は悪びれもせずに笑った。
その笑顔を見ていると、文化祭への警戒心が少しだけ薄れる。
少しだけだ。
文化祭という名の青春兵器が危険物であることに変わりはない。
「それじゃあ、まずクラスの出し物を決めるぞ」
担任の声で、教室が静かになる。
すぐに黒板の前へ立ったのは、原だった。
「はいはい! 意見ある人ー!」
「どうして原さんが仕切ってるんだ」
「こういうの好きそうだからねー」
篠崎は机に頬杖をつき、すでに他人事のような顔をしていた。
原はクラス中から出た案を、次々と黒板へ書いていく。
お化け屋敷。
縁日。
演劇。
謎解き。
喫茶店。
その中に『アイドルライブ』という文字が加えられた瞬間、教室中の視線が莉乃へ集中した。
俺の隣で、莉乃の肩がわずかに固くなる。
「せっかく星宮さんがいるんだし、ステージやってもらえたら絶対優勝じゃない?」
「文化祭で優勝って何に勝つんだよ」
男子の声に心の中で突っ込む。
だが、周囲は一気に盛り上がった。
「見たい!」
「莉乃のライブとか豪華すぎる!」
「うちのクラス、最強じゃん!」
悪意のある言葉ではない。
皆、純粋に莉乃のステージを見たいのだろう。
だが俺には、その明るい期待が莉乃を少しずつ囲んでいくように見えた。
学校でも、星宮莉乃はアイドルでいることを求められる。
文化祭くらい、普通の女子高生として楽しみたいと思っているかもしれないのに。
莉乃は笑顔を作った。
綺麗で、周囲を安心させる笑顔。
仕事のときに見せる、星宮莉乃の顔だった。
「予定を確認してみないと、まだできるとは――」
「莉乃は、何がしたい?」
自分でも驚くほど自然に、言葉が出た。
教室が静かになる。
莉乃も俺を見る。
「清太?」
「皆が見たいものじゃなくて、莉乃が文化祭で何をしたいのか聞いてる」
またやってしまった。
クラス中が見ている前で、現役トップアイドルを名前で呼び、本人の希望を確認する。
青春コンプレックス以前に、社会的羞恥心が死にそうだ。
しかし、言葉を引っ込めるつもりはなかった。
「仕事でステージに立つ機会は多いだろ。学校まで同じことをしなくてもいいんじゃないか」
莉乃は目を見開いたまま、しばらく何も答えなかった。
やがて、綺麗な笑顔がゆっくり崩れていく。
代わりに現れたのは、少し困ったような、でも嬉しそうな莉乃の笑顔だった。
「私、喫茶店やってみたい」
「喫茶店?」
「うん。皆と衣装を作ったり、教室を飾ったりして、お客さんに料理を出すの。そういう普通の文化祭をやってみたい」
教室の空気が変わった。
莉乃の言葉を聞いて、先ほどまでライブを求めていた生徒たちも、少しずつ頷いていく。
「確かに、ライブだと星宮さん仕事みたいになっちゃうもんな」
「喫茶店も楽しそうじゃない?」
「衣装こだわれそう!」
原が黒板の『喫茶店』へ大きな丸をつけた。
「じゃあ、喫茶店を軸に考えてみよっか!」
話し合いは、そのまま喫茶店案へ傾いていった。
俺は小さく息を吐く。
隣を見ると、莉乃がじっと俺を見ていた。
「なんだよ」
「清太、私が嫌だったの気づいたの?」
「少し固まってたから」
「見ててくれたんだ」
「隣にいたら気づくだろ」
答えると、莉乃は机の下で俺の手を探した。
指先が触れる。
俺は一瞬迷ったあと、その手を握った。
ホームルーム中。
クラスメイトたちが文化祭の話で盛り上がっている中、俺たちは机の下で手を繋いでいる。
どう考えてもおかしい。
だが、莉乃の指先が安心したように力を抜いたのを感じると、離す気にはなれなかった。
「清太」
「なに」
「ありがとう」
「別に。莉乃がやりたいことを言っただけだろ」
「うん。でも私、あのままだったらライブやるって言ってたと思う」
「嫌なら断れよ」
「期待されると、応えたくなるから」
その言葉に、胸が少し痛んだ。
莉乃はアイドルだ。
誰かの期待に応えることを、ずっと仕事にしてきた。
だから自分の希望より、周囲が求める星宮莉乃を優先してしまう。
俺が外用の仮面をつけるように、莉乃も完璧なアイドルの仮面を持っている。
「学校では、やりたいことやればいい」
「清太と一緒に?」
「……一緒にできる範囲なら」
莉乃の手が強く握り返してくる。
「じゃあ、ずっと一緒に準備する」
「範囲を勝手に最大まで広げるな」
「当日も一緒」
「接客の担当時間による」
「休憩も一緒」
「文化祭を二人だけの行事にするな」
「終わったあとも一緒に帰る」
「もう予定に入ってるのかよ」
「入れた」
莉乃は満足そうだった。
その頃には、クラスの出し物は喫茶店にほぼ決まりかけていた。
問題は、役割分担だった。
「じゃあ次、文化祭実行委員を二人決めまーす!」
原の声に、教室中が一斉に静まる。
誰も目を合わせない。
わかりやすい。
文化祭を楽しみたい者は多いが、面倒な仕事を引き受けたい者は少ないらしい。
俺も静かに視線を落とした。
ここは存在感を消す。
中学時代から磨き続けた気配遮断能力を使うときだ。
「清太、一緒にやろ」
遮断に失敗した。
「嫌だ」
「即答」
「実行委員なんて青春の中心人物がやるものだろ。俺には荷が重い」
「私もやるから」
「それが一番荷を重くしてる」
莉乃と二人で文化祭実行委員。
放課後に残って準備。
一緒に買い出し。
当日の運営。
危険だ。
ラブコメ濃度が高すぎる。
『青春いらない!!』なら、文化祭準備編だけで一冊使う。途中で倉庫に閉じ込められたり、衣装の採寸で事故が起きたり、夜の教室で二人きりになったりする。
絶対に駄目だ。
俺の心臓が最終回を迎える。
「実行委員、やってくれる人いないー?」
原が教室を見回す。
誰も手を挙げない。
莉乃は俺の手を握ったまま、小さく言った。
「清太」
「無理」
「私、清太と文化祭の思い出作りたい」
「普通に参加すれば作れるだろ」
「皆が帰ったあとの教室で、二人で飾り付けしたい」
「想像が具体的すぎる」
「買い出しも一緒に行きたい」
「ただのデートになってないか?」
「だめ?」
莉乃が不安そうに俺を見る。
その顔は反則だった。
俺は文化祭が怖い。
クラス一丸という言葉も、放課後の準備も、皆で作る思い出も、俺が一度失った青春を思い出させる。
中学の頃、教室に行けなくなった俺は、学校行事にもまともに参加できなかった。
皆が同じものを作り上げている間、俺は家にいた。
学校から配られた文化祭の案内を机の上に置き、一度も開かなかった。
行っても迷惑になる。
自分がいなくても誰も困らない。
そう言い聞かせながら、窓の外を眺めていた。
その記憶は、今でも胸に残っている。
だから文化祭が怖い。
また自分だけが輪の外にいると気づかされそうで。
けれど今、莉乃が俺の手を握っている。
俺と一緒に思い出を作りたいと言っている。
俺がいなくてもいいとは、言わない。
むしろ、いてほしいと願っている。
「……途中で無理になったら言うからな」
莉乃が目を見開く。
「それって」
「実行委員、やる」
俺は空いている手をゆっくり挙げた。
教室中の視線が集まる。
心臓が激しく鳴る。
逃げたい。
でも、手は下ろさなかった。
「俺、やってもいい」
言葉にすると、原が驚いた顔をした。
篠崎まで眠そうな目を少し大きくしている。
「高原くんが立候補とか珍しっ!」
「清太がやるなら、私もやる」
莉乃も迷わず手を挙げた。
教室に歓声が上がる。
「決まりじゃん!」
「幼馴染コンビなら安心だな!」
「二人ともよろしくー!」
幼馴染ではない。
いつもなら即座に訂正するところだった。
だが今日は、その言葉よりも、莉乃が繋いだ手を嬉しそうに揺らしていることのほうが気になった。
「清太、一緒だね」
「莉乃が無理やり巻き込んだんだろ」
「嫌だった?」
「怖い」
俺は正直に答えた。
「文化祭とか、皆で何かするのは、まだ少し怖い。昔のこと思い出すから」
莉乃の表情が真剣になる。
「でも、逃げたくないとも思った」
それは自分でも意外な本音だった。
怖い。
でも、莉乃となら参加してみたい。
一度失った学校行事を、今度こそ自分の手で作ってみたい。
「だから、そばにいてくれ」
言ってから、自分の声に驚いた。
敬語ではない。
誤魔化してもいない。
ただ、莉乃にいてほしいと頼んだ。
莉乃は泣きそうな顔で笑った。
「うん。ずっといる」
「ずっとは困る」
「卒業しても」
「文化祭の話をしてるんだけど」
「卒業しても、そのあとも、清太がもういいって言ってもいる」
「重いな」
「今さらでしょ?」
確かに今さらだった。
莉乃は机の下で俺の指に自分の指を絡める。
文化祭実行委員。
教室の喫茶店。
放課後の準備。
俺の青春コンプレックスが、早くも警報を鳴らしている。
けれど、隣には莉乃がいる。
ならば今度は、案内を開かずに終わる文化祭にはならないだろう。
ホームルームが終わる直前、担任が予定表を黒板に貼った。
準備期間は一か月。
さらに、その二週間後には体育祭も控えているらしい。
文化祭。
体育祭。
青春の連続攻撃。
俺は予定表を見つめながら、静かに頭を抱えた。
「清太、楽しみだね」
「俺は生き残れる気がしない」
「大丈夫。倒れたら私が運ぶ」
「体格差を考えろ」
「清太なら運べるよ」
「俺の尊厳は?」
「私が大事に持っておく」
「返せよ」
莉乃は楽しそうに笑った。
その笑顔を見て、俺もほんの少しだけ笑う。
こうして俺の高校生活は、文化祭編という、青春コンプレックス最大級の難所へ突入した。
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