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名前のない特別な関係

 翌朝。


 いつものコンビニ前には、いつものように莉乃が立っていた。


 ただ、今日は俺を見つけても、すぐには駆け寄ってこなかった。鞄を両手で持ったまま、どこか緊張したようにこちらを見ている。


 たぶん、昨日の電話のせいだ。


 俺が初めて、ほとんど敬語を使わずに話した。


 莉乃に近づくのが怖くて残していた壁を、ほんの少しだけ低くした。そのことを、莉乃は俺以上に大きな出来事として受け取っている。


 俺だって意識していないわけではない。


 むしろ意識しすぎて、家を出てから脳内で挨拶の練習を七回はした。


 おはようございます、莉乃。


 違う。戻っている。


 おはよう、莉乃さん。


 名前呼びの意味が半減している。


 おはよう、莉乃。


 これだ。


 だが、実際に本人を前にすると難易度が跳ね上がる。


 ラブコメの主人公は、よくもまあ涼しい顔で名前を呼べるものだ。あいつらは心臓に特殊な訓練でも施しているのだろうか。


「……おはよう、莉乃」


 どうにか言えた。


 莉乃は目を丸くしたあと、ゆっくり頬を赤くした。


「おはよう、清太」


 たった一言の挨拶なのに、妙に甘い空気が流れる。


 俺は耐えきれず、莉乃の横を通り過ぎるように歩き始めた。


「行こう。遅れるぞ」


「うん」


 莉乃がすぐ隣に並ぶ。


 その表情は、朝から隠しきれないほど緩んでいた。


「清太」


「なに」


「もう一回呼んで」


「さっき呼んだだろ」


「昨日までの清太なら、『呼んだでしょう』って言ってた」


「細かいところまで記録するな」


「全部覚えてるから」


 怖い。


 だが、その怖さすら以前より近く感じる。


 莉乃は少し歩いたところで、俺の顔を覗き込んだ。


「昨日、ちゃんと眠れた?」


「それなりに。莉乃は?」


「清太の『ただいま』を何回も見てたら遅くなった」


「寝ろよ」


「今の言い方、好き」


「何を言っても喜ぶ時期に入ってないか?」


「清太が近いから」


 莉乃はそう言って、俺の袖をつまんだ。


 いつもの仕草。


 でも俺は、その手を見て少し迷ったあと、自分から莉乃の指先に触れた。


 袖ではなく、手を取る。


 莉乃の足が止まりかけた。


「清太?」


「……人通りが少ないところまでだから」


「うん」


 莉乃は俺の手を握り返した。


 朝の通学路で手を繋ぐ。


 名前で呼び合い、待ち合わせをして、昨日の睡眠時間を確認し合う。


 冷静に考えると、俺たちは何をしているのだろう。


 いや、考えるな。


 青春コンプレックスが事実確認を始めると、俺の精神が死ぬ。


 コンビニから学校までの短い道を、俺たちは手を繋いだまま歩いた。


 莉乃は何度も俺の横顔を見ていた。


「そんなに見るなよ」


「見たい」


「歩きづらいだろ」


「清太が手を引いてくれるから大丈夫」


「俺を盲導犬みたいに扱うな」


「清太ならどこに連れていかれてもいい」


「朝から重い」


「清太限定」


 学校が近づき、生徒の姿が増えてきた。


 いつもなら、その前に莉乃が手を離す。


 芸能人である彼女のことを考えれば、それが当然だった。


 だが今日は、なぜか莉乃の指が離れない。


 むしろ少しだけ強く握られた。


「莉乃」


「……もう少し」


 声が小さかった。


「昨日、清太が友達のところに戻っていったでしょ。それは嬉しかった。でも、私の知らない清太の時間があるって思ったら、少し寂しくなった」


「京介たちと遊んでただけだぞ」


「わかってる。でも寂しいものは寂しい」


 面倒くさい。


 重い。


 でも、その感情を隠さず言ってくれることが、今は少し嬉しかった。


 昔の俺なら、そんな言葉を向けられた時点で身構えていた。期待されるのが怖くて、距離を取ろうとしていた。


 けれど今は、莉乃を安心させたいと思っている。


「今日の昼も一緒にいるだろ」


「うん」


「放課後も、仕事がなければ帰るし」


「今日はないよ」


「じゃあ、一緒に帰ろう」


 莉乃が足を止めた。


 俺も繋がれた手に引かれて止まる。


「清太から誘った」


「毎回そこを記念日にするなよ」


「する」


「じゃあ、今日の放課後は空けとけ」


 言ってから、自分でも驚いた。


 敬語がない。


 それどころか、まるで莉乃と一緒に帰ることが当然であるかのような言い方だった。


 莉乃は目を潤ませながら笑った。


「うん。清太のために空けておく」


「俺のためって言い方はやめろ」


「嫌?」


「……嫌じゃない」


 莉乃が俺の手を両手で包んだ。


「朝からもう幸せすぎる」


「学校には行くぞ」


「清太と一緒ならどこでもいい」


「出席日数はどこでもよくない」


 どうにか莉乃を歩かせ、校門の手前で手を離した。


 だが、繋いでいた温度は教室に着いても消えなかった。


 俺たちが教室に入ると、原と篠崎がこちらを見た。


 原は莉乃の顔を見て、次に俺を見る。それから何かを察したように目を細めた。


「莉乃、朝から顔がゆるゆるなんだけど」


「清太と手繋いできた」


「報告しなくていい!」


 原が机を叩いた。


「朝から!? 通学路で!?」


「途中まで」


「途中まででも十分でしょ!」


 篠崎は眠そうに欠伸をしながら、俺を見る。


「高原くんから繋いだ顔してるねー」


「顔でわかるものなのか?」


 俺が反射的に返すと、二人が同時に固まった。


 莉乃も俺を見る。


「高原くん、今……」


「普通に話したねー」


 しまった。


 莉乃以外に対しても、敬語が抜けた。


 昨日、京介たちと話した影響なのか。それとも莉乃との壁を低くしたことで、外用の仮面そのものが少し緩んでいるのかもしれない。


「別に、そのくらい普通だろ」


「清太」


 莉乃が呼ぶ。


 見ると、なぜか少しだけ不満そうだった。


「なに?」


「その話し方、私だけじゃないんだ」


「そこに嫉妬するのかよ」


「私だけの近い清太だと思ってた」


 莉乃の目から光が薄くなる。


 原が半歩引いた。


 篠崎は面白そうに眺めている。


 俺はため息を吐き、莉乃の額を指先で軽く押した。


「俺が一番近くで話してるのは莉乃だろ」


 教室が静かになった。


 俺自身も、自分が何を言ったのか理解するまで数秒かかった。


 莉乃は額を押さえたまま固まっている。


 原は口を開け、篠崎は珍しく眠そうな目を大きくしていた。


「……清太」


「今のは言葉の流れだ」


「一番近い?」


「距離の話だ」


「心の?」


「物理的な」


「朝、手繋いでたもんね」


 原が復活する。


「昼も二人で消えるし、放課後も一緒に帰るんでしょ?」


「どうして知ってる」


「今聞こえたから!」


 莉乃は俺の袖を掴み、嬉しそうに身体を寄せてきた。


「私が一番近いんだって」


「復唱するな」


「清太が言った」


「言い方を間違えた」


「訂正は受け付けない」


 俺は頭を抱えた。


 だが、莉乃を引き離そうとは思わなかった。


 むしろ、彼女が安心したならそれでいいとさえ思ってしまう。


 俺の青春コンプレックスは、もう抗議する元気すら失いつつあった。


 昼休み。


 いつもの倉庫裏で弁当を広げると、莉乃は俺の隣にぴったり座った。


 肩が触れている。


「近い」


「一番近いから」


「その言葉を使い続ける気か」


「一生」


「期間が長い」


 莉乃は嬉しそうに弁当箱を開け、卵焼きを差し出した。


「はい、清太」


「自分で食べられる」


「昨日頑張ったご褒美」


「子供扱いするなって」


「じゃあ、私が食べさせたいから」


 逃げ道を塞がれた。


 俺は周囲を確認する。


 誰もいない。


 仕方なく口を開けると、莉乃が卵焼きを運んできた。


「どう?」


「美味い」


 今までは「美味しいです」と答えていた。


 自然に出た言葉に、莉乃がまた固まる。


「清太、もう一回」


「美味い」


「私が作ったの、美味い?」


「美味いよ」


 莉乃は箸を置き、両手で顔を覆った。


「もう無理」


「俺は普通に感想を言っただけだろ」


「清太が私の料理食べて、近い声で美味いって言った」


「説明すると余計に恥ずかしいからやめろ」


 莉乃はしばらく悶えていたが、やがて指の隙間から俺を見た。


「清太、私にも食べさせてくれる?」


「何を」


「清太のお弁当」


「いいけど」


「清太が食べさせて」


「なぜそうなる」


 莉乃は口を少し開け、待っている。


 まるで当然のような顔だった。


 俺はためらった末、自分の弁当から唐揚げを取る。


 莉乃の口元へ運ぶと、彼女は嬉しそうに食べた。


「美味しい」


「それ、冷凍食品だけど」


「清太が食べさせてくれたから特別」


「味覚に感情を混ぜるな」


「清太も混ざってるよ」


 意味がわからない。


 わからないが、莉乃が幸せそうなので追及する気を失った。


 弁当を食べ終えると、莉乃は昨夜の仕事が遅かったのか、少し眠そうに目を擦った。


「寝不足だろ」


「清太のメッセージ見てたから」


「俺のせいにするな。少し寝ろよ」


「でも、清太との昼休みが減る」


「隣にいるから」


 莉乃が俺を見る。


「起きるまで、いる?」


「いるよ」


 また自然に出た。


 莉乃はしばらく俺の顔を見つめたあと、ゆっくり肩に頭を預けてきた。


 柔らかな髪が頬に触れる。


 甘い香りが近い。


 俺の心臓が一瞬で暴れ始めた。


「莉乃」


「少しだけ」


「……わかった」


 拒めなかった。


 莉乃は俺の肩に頭を乗せたまま、目を閉じる。


 俺は動けない。


 動けば起こしてしまう。


 だから、肩が少し痺れてもそのまま座っていた。


 しばらくすると、莉乃の呼吸が静かに整った。


 寝たらしい。


 俺はその横顔を見る。


 仕事をしているときの完璧な星宮莉乃ではない。


 学校で皆に囲まれている人気者でもない。


 俺の肩で安心しきって眠る、ただの莉乃だった。


 前髪が少し目にかかっている。


 俺は迷ったあと、そっと指で払った。


「……無防備すぎるだろ」


 小さく呟く。


 すると、眠っていると思っていた莉乃の口元が少しだけ緩んだ。


「起きてるだろ」


「今起きた」


「嘘つけ」


「清太が髪触ってくれた」


「邪魔そうだったからだ」


「もっとして」


「寝ろ」


「はい」


 莉乃は再び目を閉じた。


 だが今度は、俺の腕に自分の腕を絡めてきた。


「これなら、清太が逃げたらわかる」


「逃げないよ」


 そう答えると、莉乃は満足そうに俺の肩へ頬を寄せた。


 俺は空を見上げる。


 昼休みの倉庫裏。


 肩に眠る女の子。


 絡められた腕。


 食べさせ合った弁当。


 朝は手を繋いで登校し、放課後は一緒に帰る約束までしている。


 俺は一体、どの段階にいるのだろう。


 『青春いらない!!』なら、すでに告白回を二度ほど挟んでいてもおかしくない。


 だが、俺と莉乃の関係にはまだ名前がない。


 大事な人。


 一番近い人。


 帰りたい場所。


 それだけは、もう決まっている。


「清太」


 目を閉じたまま、莉乃が小さく呼んだ。


「なに?」


「放課後、手繋いで帰ろうね」


「人が少ないところならな」


「うん」


「あと、眠いなら無理して寄り道しないで帰るぞ」


「清太の家?」


「莉乃の家だよ」


「清太も来て」


「なんでそうなる」


「一緒に帰るんでしょ?」


「意味を拡大するな」


 莉乃はくすくす笑い、俺の腕をさらに強く抱いた。


「でも清太、来てって言ったら来てくれるよね」


 俺はすぐに否定できなかった。


 莉乃の家でカードをしたこともある。


 『青春いらない!!』を一緒に読む約束も残っている。


 何より、もっと一緒にいたいと思っている自分がいた。


「……今日は少しだけなら」


 莉乃が目を開けた。


「ほんと?」


「疲れてる莉乃を一人で帰すのも心配だし」


「清太」


「なに」


「好き」


「急に言うな」


「好きだから言った」


「寝ろって」


「清太も私のこと好き?」


 心臓が止まりかけた。


 莉乃は俺の肩に頬を乗せたまま、まっすぐこちらを見ている。


 逃げ道のない距離だった。


「……大事だとは言っただろ」


「好きとは違う?」


「今それを聞くな」


「じゃあ、いつか聞く」


「好きにしろ」


「うん。清太の隣で待つ」


 莉乃は再び目を閉じた。


 俺はその髪に触れないよう気をつけながら、少しだけ身体を預けやすい角度に直す。


 すると、莉乃の表情が穏やかになった。


 予鈴が鳴るまで、俺たちはそのままでいた。


 名前のない関係のまま。


 けれど互いの時間も、声も、体温も、もう当たり前のように分け合いながら。

最後まで読んでいただき、ありがとうございます!

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