また遊ぼう
莉乃が来るまでの時間は、妙に長く感じた。
駅前の柱にもたれながら、俺は手に持った『青春いらない!!』のフェア対象巻を見下ろしていた。小冊子のために同じ巻を買い直す行為は、非オタクから見れば理解不能かもしれない。
だが、今の俺にとっては命綱だった。
さっき藤宮楓と会った。
中学の頃、俺の青春コンプレックスに深々と棘を刺した人。
謝られた。
あの言葉はきつかったと、藤宮は認めた。
それだけで何かが綺麗に終わるわけではない。だけど、俺は逃げずに言えた。痛かったと。全部をなかったことにはできないと。
昔の俺なら絶対に無理だった。
その事実を噛みしめていると、改札の方から勢いよく歩いてくる人影が見えた。
莉乃だった。
制服ではなく、仕事帰りなのか少し大人びた私服姿だった。帽子を目深に被り、伊達眼鏡をかけている。それでも、星宮莉乃の存在感は隠しきれていない。
彼女は俺を見つけるなり、周囲を気にしながらも早足で近づいてきた。
「清太」
「莉乃」
名前を呼んだ瞬間、莉乃の表情が少しだけ揺れた。
けれど、すぐに俺の顔を覗き込む。
「大丈夫?」
「……たぶん」
「たぶんなんだ」
「大丈夫じゃない部分もあります。でも、逃げはしませんでした」
莉乃は息を呑んだ。
それから、俺の袖をそっと掴む。
「えらい」
「子供扱いですか」
「違うよ。清太が頑張ったから」
その言葉が、思っていたより胸に染みた。
俺は少しだけ視線を逸らす。
駅前は人が多い。莉乃が長くいるには危ない場所だった。
「場所、移動しますか」
「うん。人が少ないところ」
「どこに?」
「清太が落ち着くところ」
そう言われて、俺は少し考えた。
駅前で落ち着く場所など限られている。
結局、俺たちは少し歩いた先にある小さな公園へ向かった。以前、莉乃と『青春いらない!!』のアンソロジーを読んだ場所とは違う、もっと人通りの少ない公園だった。
ベンチに座ると、莉乃は帽子を少し直し、俺の隣に腰を下ろした。
距離は近い。
けれど今日は、その近さがありがたかった。
「話せる?」
「……はい」
俺は、藤宮と会ったことを話した。
中学の頃のこと。
藤宮に言われた言葉。
今日、本屋で再会したこと。
そして、謝られたこと。
莉乃は途中で口を挟まなかった。
ただ、俺の袖を掴んだまま、じっと聞いていた。
俺が「謝ってくれた」と言ったとき、莉乃の指先に少し力がこもった。
「その人、清太に謝ったんだ」
「はい」
「清太は、どう思った?」
「わかりません」
正直に答える。
「謝ってもらえて、少し楽になった気はします。でも、完全に消えたわけじゃないです。あの言葉はまだ残ってるし、思い出すと痛い」
「うん」
「でも、俺、言えたんです。痛かったって。全部なかったことにはできないって」
莉乃は小さく頷いた。
「すごいよ、清太」
「そうですか」
「うん。ちゃんと自分の痛みを、自分の言葉で言えたんだから」
俺は膝の上の本屋の袋を見た。
袋の中には『青春いらない!!』が入っている。
俺が好きで、逃げ場にしてきたラブコメ。
昔の俺は、画面や紙の中の青春に縋りながら、現実の青春を呪っていた。なのに今、俺は現実の痛みを言葉にして、隣にいる莉乃に聞いてもらっている。
人生は、本当に意味がわからない。
ラブコメならもっとわかりやすく作れ。
いや、俺の人生をラブコメ判定するな。
「ねえ、清太」
莉乃が静かに言った。
「その人、清太のことまだ好きとか、そういう感じだった?」
「え?」
俺は思わず莉乃を見る。
莉乃は真顔だった。
目元は穏やかなのに、瞳の奥に光が少ない。
来た。
これは重いやつだ。
「いや、そんな感じではないと思います。ただ謝られただけで」
「本当に?」
「本当に」
「清太、昔その人のこと好きだったんだよね」
「……はい」
「今は?」
「今は違います」
即答だった。
莉乃の指先が止まる。
俺自身も、自分がすぐに答えたことに少し驚いた。
昔好きだった。
でも今は違う。
その事実が、こんなにもはっきり言えるとは思っていなかった。
「今は違います。藤宮は、俺の過去の中にいる人です」
「じゃあ、今は?」
莉乃が聞いた。
その声は小さい。
怖がっているみたいだった。
俺は答えに詰まる。
今は。
今の俺の中にいる人。
そんなもの、考えなくてもわかっている。
でも、口に出すにはあまりにも恥ずかしい。俺の青春コンプレックスが、脳内で非常ベルを鳴らしている。避難してください。恋愛濃度が基準値を超えました。至急、安全なオタク語りへ避難してください。
俺は逃げたくなった。
けれど、莉乃の手が俺の袖を掴んでいる。
逃げる前に言う。
そう決めた。
「……今は、莉乃です」
莉乃が固まった。
俺も固まった。
言った。
言ってしまった。
駅近くの小さな公園で、過去の失恋相手に会った直後、現役トップアイドルに向かって「今は莉乃です」と言った。
これはもう、ラブコメでもかなり終盤の台詞ではないか。
いや、まだ告白ではない。
告白ではないはずだ。
俺の中の弁護士が必死に主張している。
被告人は「好きです」とは言っておりません。あくまで「今は莉乃です」と述べただけであり、意味は曖昧です。
裁判長、即有罪。
俺は心の中で敗訴した。
「清太」
莉乃の声が震えていた。
「今の、もう一回言って」
「無理です」
「お願い」
「俺の精神が持ちません」
「私も持ってない」
「じゃあ余計にだめでしょう」
莉乃は両手で顔を覆った。
帽子の下から覗く耳が赤い。
その反応を見て、俺の胸まで熱くなる。
「清太、ずるい」
「最近、本当にそればっかりですね」
「だって、ずるい。私、今ちょっと怖かったのに」
「怖かった?」
「清太の過去にいる女の子が、謝ってきて、清太の中でその人が綺麗な思い出になったらどうしようって思った」
莉乃は顔を覆ったまま言った。
「私が清太の青春の続きにいたいって言ったのに、過去の人に清太を連れていかれたら嫌だなって。そんなことないってわかってても、嫌だった」
重い。
でも、その重さの中に、ちゃんと不安があった。
莉乃は俺を縛りたいだけではない。
自分が俺の中から消えることを、いつも怖がっている。
「莉乃」
俺は名前を呼んだ。
莉乃が顔を上げる。
「俺の過去は消えません。藤宮に言われたことも、傷ついたことも、たぶんずっと残ります」
「うん」
「でも、今の俺が帰りたいって思うのは、莉乃のところです」
言った瞬間、また俺の中の何かが爆散した。
もうだめだ。
今日は失言祭りである。
俺の口は俺を殺しに来ている。
莉乃は完全に停止していた。
それから、ゆっくり俺の袖を離し、代わりに俺の手に触れてきた。
「清太」
「はい」
「手、繋いでいい?」
「……はい」
今度は迷わなかった。
莉乃の指が俺の指に絡む。
温かい。
その温度があるだけで、さっきまで胸の奥にあった冷たさが少しずつ溶けていく。
「清太、帰ってきてくれてありがとう」
「まだどこにも行ってません」
「でも、過去から帰ってきた」
その表現に、俺は何も言えなかった。
たしかに、さっきの本屋で俺は一瞬、中学の廊下に戻っていた。
でも今はここにいる。
莉乃と手を繋いで、ベンチに座っている。
過去に引き戻されても、今の俺には戻ってこられる場所がある。
「莉乃」
「なに?」
「俺、多分また過去を思い出して沈むことがあります」
「うん」
「その時、面倒だと思います」
「思わない」
「重いですよ」
「私も重いからお揃い」
「嫌なお揃いですね」
莉乃が小さく笑う。
俺もつられて少し笑った。
その瞬間、スマホが震えた。
画面を見ると、京介からだった。
『今度の休み、久々に集まらね?』
短いメッセージ。
昔からの友達。
中学で離れかけたけれど、少しずつ戻り始めた関係。
俺はその画面を見て、莉乃に見せた。
「京介からです」
「友達の?」
「はい。今度集まらないかって」
莉乃は少しだけ目を細めた。
嫉妬ではない。
いや、少しはあるかもしれない。
けれど、それ以上に何か考えている顔だった。
「行ってきなよ」
「いいんですか」
「うん。清太の大事な友達でしょ」
「莉乃、平気ですか?」
聞いた瞬間、莉乃は少し驚いた顔をした。
それから、嬉しそうに笑う。
「平気じゃないかも」
「正直ですね」
「でも、清太がちゃんと聞いてくれたから平気になれる」
莉乃は俺の手を握ったまま、そっと親指を動かした。
「行ってきて。でも終わったら連絡して。清太がちゃんと戻ってくるってわかりたいから」
「わかりました」
「あと、女の子いたら報告」
「京介たちなので男だけだと思います」
「思います、じゃなくて確認して」
「重い」
「重要事項」
莉乃は真剣だった。
俺は苦笑しながら、京介に返信する。
『行く。予定合わせる』
送信した。
それだけのことなのに、少し胸が軽くなった。
過去の人と会った。
過去の痛みを思い出した。
でも、今の友達とも繋がっている。
今の莉乃とも繋がっている。
俺の青春は、過去だけで終わっていない。
「清太」
「はい」
「今日のことも、思い出にしていい?」
「……はい」
「清太が過去から帰ってきて、私のところに戻ってきた日」
「表現が重いですね」
「でも本当でしょ?」
俺は少し考えた。
そして、繋いだ手を見た。
「……そうかもしれません」
莉乃は泣きそうに笑った。
その笑顔を見て、俺は思った。
藤宮楓と会ったことは、痛かった。
でも、それはただ傷を抉るだけでは終わらなかった。
俺は過去に向き合い、今の自分がどこに帰りたいのかを知った。
それはきっと、俺にとって大きな一歩だった。
隣で莉乃が、俺の手を離さずにいる。
その温度を感じながら、俺は小さく息を吐いた。
青春コンプレックスは、今日も完全には消えない。
けれど、その棘の周りに、莉乃との新しい記憶がまたひとつ増えた。
過去に刺された俺が、今の莉乃の手を握っている。
それだけで、少しだけ救われた気がした。
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