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過去の人、振られた人間

 莉乃に青春コンプレックスのことを話してから、数日が経った。


 何かが劇的に変わったわけではない。


 朝になれば莉乃はコンビニ前で待っているし、昼休みになれば俺たちは倉庫裏で弁当を食べる。放課後には一緒に帰ったり、莉乃が仕事ならメッセージが来たりする。


 けれど、俺の中では少しだけ変化があった。


 怖くなったとき、逃げる前に言葉にする。


 それは簡単なようで、俺には難しいことだった。だけど莉乃は、本当に待ってくれた。俺が言葉に詰まっても、急かさず、ただ隣で袖をつまんでくれる。


 逃走防止は別らしい。


 待つとは。


 それでも、その指先があるだけで、俺は前より少しだけ落ち着けるようになっていた。


 そんなある日の放課後。


 莉乃は仕事があるらしく、教室を出る前に俺の席へ来た。


「清太、今日は帰り一緒に帰れない」


「知ってます。撮影でしたよね」


「うん。でも、終わったら連絡する」


「はい」


「ちゃんと返して」


「気づいたら返します」


「気づかせるくらい送る」


「いつものやつですね」


 莉乃は少しだけ笑った。


 それから、周りに聞こえないくらいの声で言う。


「怖くなったら、ちゃんと言ってね」


 俺は一瞬だけ言葉を失った。


 数日前に俺が話したことを、莉乃はちゃんと覚えていた。


 俺が青春コンプレックスをこじらせ、近づくことに怯えていることを、彼女は軽く扱わなかった。


「……はい」


「うん」


 莉乃は満足そうに頷き、教室を出ていった。


 その背中を見送りながら、俺は少しだけ息を吐く。


 大丈夫。


 今日は普通に帰るだけだ。


 家に帰って、『青春いらない!!』のアンソロジーを読み返して、カードのデッキ調整をする。それだけの放課後になるはずだった。


 そう思っていた。


 ※ ※ ※


 駅前の本屋に寄ったのが、そもそもの間違いだったのかもしれない。


 いや、間違いではない。


 『青春いらない!!』の外伝小冊子付きフェアが始まっているのだから、寄らないという選択肢は存在しなかった。オタクとしての義務である。現代社会における納税みたいなものだ。違うかもしれないが、俺の中では近い。


 俺は本屋のコミックコーナーで、フェア対象巻を手に取った。


 すでに持っている巻だ。


 だが、小冊子が付くなら話は別である。


 保存用、布教用、特典回収用。


 オタクの財布はいつだって軽い。


「……何やってるんだろ、俺」


 小さく呟きながら、俺は対象巻を二冊持ってレジへ向かおうとした。


 そのときだった。


「……高原?」


 背中に、懐かしい声が刺さった。


 懐かしい。


 そう感じた瞬間、全身が冷えた。


 俺は振り返る前からわかっていた。


 この声を、忘れたことはない。


 忘れたかったのに、ずっと胸の奥に残っていた声。


 ゆっくり振り向く。


 そこには、別の学校の制服を着た女子が立っていた。


 紺色のブレザー。


 落ち着いた色のリボン。


 肩の少し下まで伸びた黒髪。


 顔立ちは、中学の頃より少し大人びていた。けれど、目元の印象は変わらない。冷たく見えるわけではない。ただ、他人との距離をはっきり測るような目。


 藤宮楓。


 中学の頃、俺が好きだった人。


 そして、俺に言った人。


『もう私に近づかないでくれる? あと、私のクラスにも』


 手に持っていた『青春いらない!!』の単行本が、急に重くなった。


「……藤宮」


 声がうまく出なかった。


 喉が乾く。


 心臓が、さっきまでとは違う動き方をしている。


 莉乃と手を繋いだときの高鳴りではない。


 もっと嫌な、冷たい動悸だった。


「久しぶり」


 藤宮は少しだけ気まずそうに笑った。


 その笑顔を見た瞬間、記憶が勝手に開いた。


 中学二年の廊下。


 放課後。


 クラスの前。


 俺はただ、少し話しかけようとしただけだった。


 たぶん、距離感を間違えていたのだと思う。相手がどう受け取るかを考えられていなかったのかもしれない。今なら、そう分析できる。


 でも、あのときの俺には無理だった。


 好きな人と少しでも話したかった。


 ただ、それだけだった。


『もう私に近づかないでくれる?』


 その言葉で、世界が止まった。


『あと、私のクラスにも』


 追い打ちだった。


 俺はその日から、自分の好意が人を不快にするものだと思うようになった。


 近づくことが怖くなった。


 誰かの隣に立つことが、迷惑になる気がした。


 それが、俺の青春コンプレックスの中でも、特に深いところに刺さっている棘だった。


「高校、違うんだね」


 藤宮が言った。


「……うん」


「元気にしてた?」


 普通の質問。


 何気ない言葉。


 なのに、俺は返事ができなかった。


 元気にしてた?


 その問いに、どう答えればいい。


 君の言葉で一時期人と関わるのが怖くなりました、とでも言えばいいのか。いや、彼女だけが悪いわけではない。俺が勝手に傷を深くした部分もある。教師の言葉も、周囲の視線も、全部混ざっていた。


 だけど。


 だけど、その言葉は確かに俺を刺した。


「……まあ、それなりに」


 俺はどうにか答えた。


 外用の仮面をつけようとした。


 大丈夫そうな顔をする。


 何でもないように笑う。


 昔のことなんて気にしていないふりをする。


 でも、うまくいかなかった。


 仮面が、手の中で滑る。


 つけ方を忘れたわけではない。


 ただ、莉乃と過ごすうちに、俺はその仮面を常に持っていなくてもいい時間を覚えてしまっていた。


 だからこそ、今さら急に被ろうとしても、顔に合わない。


「そっか」


 藤宮は俺の手元を見た。


「高原、まだそういう漫画好きなんだ」


 その言い方に、悪意はなかったのかもしれない。


 けれど俺の胸は、また小さく痛んだ。


 そういう漫画。


 俺にとっては救いだった。


 引きこもっていた時期も、胸が痛む夜も、青春を嫌いになりきれなかった俺を繋ぎ止めてくれたもの。


 『青春いらない!!』は、ただのラブコメじゃない。


 俺が青春を憎みながらも、まだ少し信じていたいと思わせてくれた作品だった。


「……好きだよ」


 俺は言った。


 声は小さかったけれど、今度はちゃんと出た。


「今も好きだ」


 藤宮が少しだけ驚いた顔をした。


 俺自身も驚いていた。


 昔の俺なら、きっと誤魔化していた。


 まあ、暇つぶしで。


 たまたま。


 そんなふうに、好きなものまで軽く扱っていた。


 でも今は違う。


 莉乃が、俺の好きなものを好きだと言ってくれた。


 カードゲームも、ラブコメも、『青春いらない!!』も。


 俺の好きなものを、恥ずかしいものにしなかった。


 だから俺は、今ここで少しだけ胸を張れた。


「そうなんだ」


 藤宮は視線を落とした。


 少し沈黙が流れる。


 逃げたい。


 今すぐレジへ行って、本屋を出て、莉乃に電話したい。


 清太、どうしたの、と聞かれたい。


 大丈夫じゃないならそう言って、と言われたい。


 そう思った瞬間、俺は自分の変化に気づいた。


 昔の俺は、一人で逃げることしかできなかった。


 今は、帰りたい場所として莉乃の声が浮かぶ。


 それだけで、膝が少しだけ崩れずに済んだ。


「高原」


 藤宮が口を開いた。


「あのさ、中学のときのことなんだけど」


 心臓が止まりかけた。


 来る。


 あの話だ。


 俺がずっと避けていた話。


 藤宮は、少しだけ言いづらそうに唇を結んだ。


「私、言い方きつかったよね」


「……」


「あのとき、ちょっと色々あって。男子にからかわれてて、高原と話してることも勝手に噂にされて。それが嫌で、八つ当たりみたいに言った」


 初めて聞く話だった。


 俺は何も言えなかった。


「でも、あれは高原に言うべきじゃなかったと思う」


 藤宮は俺を見た。


「ごめん」


 謝罪。


 ずっと欲しかったのかもしれない言葉。


 でも、実際に目の前に置かれると、どう扱っていいかわからなかった。


 許すと言えば、あの痛みが軽くなるのか。


 許さないと言えば、俺は前に進めるのか。


 どちらも違う気がした。


 俺は手元の『青春いらない!!』を見た。


 表紙のヒロインが、こちらを見ている。


 もしこれがラブコメなら、主人公はここで過去の相手と向き合い、綺麗に区切りをつけるのだろう。


 でも現実は、そんなに綺麗じゃない。


 痛みは残る。


 謝られても、あの日の言葉が消えるわけではない。


 それでも、俺は今、昔の俺ではなかった。


「……あの言葉は、かなり痛かった」


 藤宮の表情が強張る。


「正直、今でも思い出す。人と近づくのが怖くなった理由の一つではある」


 言っていて、手が少し震えた。


 でも、止めなかった。


「でも、藤宮だけが全部悪いとは思ってない。俺も距離感がわからなかったし、他にも色々あったから」


「高原……」


「ただ」


 俺は息を吐いた。


「俺が好きだったものとか、誰かに近づこうとしたことを、全部間違いだったとは思いたくない」


 それは、莉乃と出会ってから初めて言えるようになった言葉だった。


「だから、謝ってくれたことは受け取る。でも、すぐに何もなかったことにはできない」


 藤宮は黙っていた。


 少しして、静かに頷いた。


「うん。そうだよね」


 その顔は、中学の頃より少しだけ柔らかく見えた。


 俺はようやく、ほんの少しだけ息ができた。


 そのとき、スマホが震えた。


 画面を見る。


 莉乃からだった。


『撮影終わったよ』


『清太、今どこ?』


 その文字を見ただけで、胸の奥が温かくなる。


 藤宮が画面をちらりと見たわけではない。


 けれど、俺の表情が変わったのだろう。


「彼女?」


「……まだ、そういう名前じゃない」


 俺は少しだけ迷ってから言った。


「でも、大事な人」


 藤宮は目を丸くした。


 それから、小さく笑った。


「そっか」


 その笑顔に、昔みたいな痛みはなかった。


 完全に消えたわけではない。


 でも、今の俺には莉乃がいる。


 莉乃が作ってくれた、逃げる前に言葉にする場所がある。


「じゃあ、俺行く」


「うん。高原」


「何?」


「元気そうで、よかった」


 その言葉に、少しだけ胸が詰まった。


 元気かどうかはわからない。


 でも、昔よりは前を向けている気がした。


「……ありがとう」


 俺はそう言って、レジへ向かった。


 会計を済ませ、本屋を出る。


 すぐに莉乃へ返信した。


『駅前の本屋にいました』


『今から帰ります』


 既読は一瞬でついた。


『一人?』


 その短い文字に、莉乃の不安が滲んでいた。


 俺は少し迷った。


 でも、隠すのは違うと思った。


『中学の頃の知り合いに会いました』


『俺を振った人です』


 送信した瞬間、心臓が跳ねた。


 既読。


 しばらく返信が来ない。


 やがて、画面に文字が浮かんだ。


『清太』


『今すぐ会いに行っていい?』


 重い。


 でも、その重さに少し救われた。


 俺は歩きながら、短く返した。


『少しだけなら』


 すぐ返ってきた。


『少しじゃ足りないかも』


『でも行く』


 俺はスマホを握り、夕方の駅前で小さく息を吐いた。


 過去は消えない。


 でも、今はその過去を聞いてくれる人がいる。


 そしてたぶん、俺の青春コンプレックスは今日、また少しだけ形を変えるのだと思った。

最後まで読んでいただき、ありがとうございます!

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