青春の続き
莉乃と並んで歩く放課後の廊下は、いつもより少しだけ静かに感じた。
実際には、そんなことはない。
部活へ向かう生徒の声も、教室に残って雑談しているクラスメイトの笑い声も、階段を駆け下りる誰かの足音も、ちゃんと聞こえている。
けれど、俺の意識は隣にいる莉乃へ向いていた。
俺の袖に、彼女の指先が触れている。
握ってはいない。
ただ、触れているだけ。
それなのに、その小さな接点がやけに熱い。
俺はさっき、自分の口で言ってしまった。
莉乃は大事な人だと。
言った瞬間、教室の空気が止まった。原も篠崎も固まり、莉乃は泣きそうな顔で俺を見た。
あの顔を思い出すと、胸の奥がまだざわつく。
嬉しかった。
多分、莉乃はものすごく嬉しかったのだと思う。
そして俺も、彼女があんな顔をしてくれたことが、少し嬉しかった。
だが、その嬉しさの奥に、別の感情が混じっていた。
怖い。
大事だと言った。
大事にしたいと思った。
その瞬間、俺の中に眠っていた過去の傷が、ゆっくり目を覚ました。
大事に思えば思うほど、失ったときの痛みは大きくなる。
近づけば近づくほど、拒まれたときの言葉は深く刺さる。
俺はそれを知っている。
嫌というほど、知っている。
「清太?」
莉乃が俺の顔を覗き込んだ。
「なんか、顔が暗い」
「……そうですか」
「うん。私を大事な人って言ってくれたあとにその顔されると、ちょっと怖い」
莉乃の声は冗談めいていた。
けれど、奥に不安があった。
俺は足を止めた。
昇降口へ向かう途中の、少し人の少ない廊下だった。窓の外には夕方の光が差し込み、床に長い影を落としている。
「莉乃」
「うん」
「少し、外で話してもいいですか」
莉乃はすぐに頷いた。
俺たちは校舎を出て、校庭の端にあるベンチへ向かった。
放課後のグラウンドでは運動部が声を上げている。遠くでボールが跳ねる音がして、誰かが笑っている。青春という言葉を形にしたような光景だった。
俺はその景色を見て、少しだけ胸が詰まった。
青春。
俺が好きで、嫌いで、ずっと憧れて、ずっと恨んできたもの。
ラブコメの中の青春は綺麗だった。
夕焼けの帰り道。
文化祭の後夜祭。
名前呼び。
手繋ぎ。
誰かを大事だと思うこと。
そういうものに、俺は何度も救われた。
でも、現実の青春は俺に優しくなかった。
中学の廊下。
職員室の重い空気。
教師から投げられた言葉。
好きだった女子からの拒絶。
周囲の視線。
俺が壊れていく音を、誰も聞いていないような日々。
その全部が、今でも俺の中に残っている。
ベンチに座ると、莉乃は俺の隣に腰を下ろした。
近い。
けれど今日は、その近さにすぐ返事ができなかった。
「俺、青春が好きなんです」
俺はグラウンドを見ながら言った。
「『青春いらない!!』とか、ラブコメ作品とか、そういうのを見ると、やっぱりいいなって思う。馬鹿みたいに悶えるし、心臓が死ぬし、カヒコワタルみたいな主人公には殺意が湧くけど」
「殺意はだめだよ」
「概念上の殺意です」
「それでもだめ」
莉乃のツッコミが少し優しかった。
俺は苦笑しそうになって、でもすぐに言葉を続けた。
「でも、好きだからこそ痛いんです。俺にはなかったものだから。手を伸ばそうとして、失敗したものだから」
莉乃は黙って聞いていた。
「中学のとき、好きな人がいました」
莉乃の指先が、わずかに動いた。
けれど、何も言わなかった。
「ちゃんと告白したわけじゃないです。近づこうとして、少し話しかけたりして。ただ、それだけだったと思います。でも、相手からしたら嫌だったんでしょうね」
あの声が、また耳の奥で蘇る。
『もう私に近づかないでくれる? あと、私のクラスにも』
胸の奥が冷える。
時間が経っているのに、まだ痛い。
「その言葉を聞いたとき、俺は自分が何か間違った存在みたいに思えたんです。近づくだけで嫌がられる。好意を持つこと自体が迷惑になる。だったら最初から、誰にも近づかなければいいって」
莉乃が息を呑んだ。
「そのあと、教師にもいろいろ言われて。周りからの目も怖くなって。俺は、青春みたいなものから逃げました。でも、逃げたくせに、ラブコメは見続けてたんです」
自分で言って、少し笑いそうになる。
情けない。
逃げたくせに、見ていた。
欲しくないふりをしながら、本当はずっと欲しかった。
「ラブコメの中の主人公たちは、間違えても誰かが待ってくれる。ヒロインが泣いたり、怒ったりしても、最後には向き合う場所がある。でも俺の現実には、そういう場所はなかった」
だから、コンプレックスになった。
青春が眩しいほど、目が焼ける。
甘い展開を見るたび、胸が痛む。
でも嫌いになりきれない。
救われた作品まで嫌いになりたくなかったから。
「莉乃といると、楽しいです」
俺は言った。
莉乃がこちらを見る気配がした。
「名前を呼ぶのも、手を繋ぐのも、大事な人だって言うのも……怖いけど、嫌じゃない。むしろ、嬉しいです」
言葉にするたび、胸が熱くなる。
でも同時に、昔の痛みが軋む。
「でも、嬉しいから怖いんです。またいつか、近づかないでって言われるんじゃないかって。俺が勘違いして、踏み込みすぎて、莉乃を困らせるんじゃないかって。そう思うと、どうしても立ち止まりたくなる」
言い終えると、喉が乾いていた。
グラウンドでは、誰かがシュートを決めたらしく歓声が上がる。
眩しい声だった。
俺はその声を聞きながら、膝の上で手を握った。
莉乃はしばらく何も言わなかった。
その沈黙が、少し怖かった。
やっぱり重かっただろうか。
面倒だっただろうか。
そんな不安が胸に広がり始めたとき、莉乃の手が俺の手に触れた。
ゆっくりと、指先が重なる。
「清太」
「……はい」
「私は、清太に近づかないでなんて言わない」
莉乃の声は静かだった。
けれど、芯があった。
「言わないよ。絶対に」
俺は顔を上げた。
莉乃はまっすぐ俺を見ていた。
瞳の奥が少し潤んでいる。でも、揺れてはいなかった。
「清太が怖いなら、ゆっくりでいい。名前呼ぶのも、手を繋ぐのも、私を大事って言ってくれるのも、全部ゆっくりでいい。でも、清太が私に近づくことを迷惑だなんて、私は思わない」
莉乃の手が、俺の手を少し強く握る。
「むしろ、近づいてほしい」
その言葉は、重かった。
でも、今の俺には救いでもあった。
「私、清太が私のこと大事って言ってくれて、すごく嬉しかった。でもそのあと清太が怖くなったなら、私も一緒にそこにいる。清太の青春コンプレックスってやつが暴れてるなら、私が隣で殴る」
「殴るんですか」
「殴る」
「暴力的ですね」
「清太をいじめる過去は許さない」
莉乃は真剣だった。
真剣すぎて、少し笑ってしまった。
それがよかったのか、莉乃の表情も少しだけ柔らかくなる。
「あとね、清太」
「はい」
「私は、清太の青春を奪いに来たんじゃないよ」
夕方の光が、莉乃の横顔を照らしていた。
「続きを一緒に作りたいの」
胸の奥に、ゆっくり言葉が沈んでいく。
続きを。
一度壊れたものの続きを。
そんなものが、自分に許されるとは思っていなかった。
俺の青春は中学で失敗して、そこで終わったものだと思っていた。
でも、莉乃はそれを終わりにしないと言う。
「清太が『青春いらない!!』好きなの、私は好きだよ。清太がラブコメ見て叫ぶところも、青春コンプレックスで変な裁判始めるところも、全部好き」
「そこまで好きになられると俺の尊厳が」
「尊厳も好き」
「怖い」
莉乃は笑った。
その笑顔に、俺も少しだけ救われる。
「だから、清太」
「はい」
「怖くなったら言って。逃げる前に、言って。そしたら私、待つから」
その言葉に、俺はすぐ答えられなかった。
待つ。
俺が怖くなったら、追い詰めるのではなく、待つ。
今までの莉乃なら、逃げないでと袖を掴んできた。
でも今の彼女は、俺の怖さを知ったうえで、待つと言ってくれた。
それが、思っていた以上に胸に響いた。
「……ありがとうございます、莉乃」
自然に名前が出た。
莉乃は嬉しそうに目を細める。
「うん」
「俺、まだ多分、何度も怖くなります」
「うん」
「急に変なこと言うかもしれないし、逃げそうになるかもしれない」
「そのときは袖掴む」
「待つんじゃなかったんですか」
「逃走防止は別」
「基準が怖い」
莉乃が笑う。
俺も少しだけ笑った。
手は繋がれたままだった。
グラウンドの歓声も、夕焼けも、遠くで鳴る部活の笛の音も、さっきより少しだけ柔らかく感じた。
青春コンプレックスは、きっと消えない。
過去の痛みも、拒絶された記憶も、簡単に消えてくれるほど都合よくはない。
でも、莉乃が隣で手を握ってくれている今だけは、その痛みを少しだけ別の形で見られる気がした。
過去に抉られた傷の上に、新しい記憶が積もっていく。
名前を呼んだ日。
手を繋いだ日。
大事な人だと言った日。
そして、青春コンプレックスを莉乃に話した日。
それらが、俺の中の青春を少しずつ塗り替えていく。
「莉乃」
「なに?」
「俺、ラブコメは読むだけでいいと思ってました」
「うん」
「でも、今は少しだけ……自分の中にもあっていいのかもしれないって思ってます」
莉乃は息を止めた。
そして、ゆっくり笑った。
「それ、すごく嬉しい」
「ただし、カヒコワタルみたいな青春殺到系は許しません」
「そこは譲らないんだ」
「悩むだけでヒロインが増えるのは法則違反です」
「清太も今、ヒロインいるよ」
「一人で十分です」
言ってから、俺は固まった。
莉乃も固まった。
夕方のグラウンドの音が、急に遠くなる。
俺は今、何を言った。
一人で十分。
つまり、莉乃がその一人だと認めたようなものではないか。
終わった。
俺の青春コンプレックスが、今度こそ遺書を書き始めた。
「清太」
「忘れてください」
「無理」
「知ってました」
「一人で十分なんだ」
「言葉の流れです」
「私で十分?」
「……」
答えられない。
莉乃の手に力がこもる。
目が、少し不安そうに揺れている。
ここで逃げるな。
さっき言ったばかりだ。
怖くなったら、逃げる前に言う。
俺は顔を熱くしながら、どうにか言葉を絞り出した。
「……莉乃だから、十分です」
莉乃は完全に固まった。
次の瞬間、顔を真っ赤にして俯く。
「清太、それは無理」
「俺も無理です」
「嬉しすぎて無理」
「俺は恥ずかしすぎて無理です」
莉乃は繋いだ手を離さなかった。
むしろ、さっきより強く握った。
「清太」
「はい」
「私、清太の青春の続きにいていい?」
俺は一度、グラウンドを見た。
眩しい声。
夕焼け。
遠くの笑い声。
昔の俺なら、そこに自分の居場所はないと思っていた。
でも今は、隣に莉乃がいる。
俺は彼女の手を握り返した。
「……いてください」
莉乃は泣きそうな顔で笑った。
「うん」
その日、俺は初めて、青春という言葉を少しだけ許せた気がした。
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