大事な人
午後の授業は、いつも以上に地獄だった。
原因はわかっている。
昼休みに莉乃と手を繋いだ。
しかも二日連続で。
昨日は河川敷。今日は倉庫裏。場所を変えて繰り返される手繋ぎイベント。ラブコメなら完全に関係進展の合図である。
だが俺たちは付き合っていない。
付き合っていないのに名前で呼び合い、昼休みに手を繋ぎ、メモで手の温度を報告し合っている。
意味がわからない。
俺は黒板を見ながら、ノートの端に小さく書いた。
――これは友達の範囲内。
書いた瞬間、右隣から莉乃の視線が刺さった気がして、俺は慌てて消した。
自分でも無理があると思っている。
友達の範囲内で昼休みに手を繋ぐか? いや、最近の高校生事情を俺は知らない。もしかしたら今の時代はそれくらい普通なのかもしれない。いや、普通ではない。落ち着け。価値観を現実に寄せるな。現実が星宮莉乃に侵食されすぎている。
俺の青春コンプレックスは混乱していた。
昔の俺なら、こういう甘すぎるイベントを見たら確実に叫んでいた。
ラブコメアニメで主人公とヒロインが手を繋いだ瞬間、枕に顔を埋めて「ぐああああ! 青春の致死量!」と悶えていた。
それが今、俺自身に発生している。
つまり、俺は自分に対して叫ぶべきなのか。
やめろ、高原清太。
お前は何をしている。
現役トップアイドルと名前で呼び合い、手を繋いで、授業中にメモを交わすな。
青春コンプレックス持ちのくせに青春を摂取しすぎている。
過剰摂取だ。
医者を呼べ。
しかし、右隣の莉乃は幸せそうだった。
授業中なのに、時々自分の右手を見ている。
昼休みに俺が握った手。
それを思い出しているのだろう。
その横顔を見てしまうと、俺の中のツッコミ担当は勢いを失った。
あんな顔をされると、後悔できない。
放課後になると、原と篠崎が当然のように俺たちの席へやって来た。
「ねえねえ、高原くん」
「今日の昼、莉乃めちゃくちゃ顔ゆるかったけど、何したのー?」
原がにやにやしながら聞いてくる。
篠崎は篠崎で、眠そうな目の奥だけ妙に楽しそうだった。
「何もしてません」
「莉乃、何かあった?」
原が莉乃に振る。
莉乃は一瞬だけ俺を見る。
そして、頬を赤くしながらも、嬉しそうに言った。
「清太と手を繋いだ」
「莉乃!?」
「二日連続だよ」
「追加情報を出さないでください!」
教室の空気がまたざわついた。
何人かの男子がこちらを見た。
俺は机に額を打ちつけたくなった。
やめてくれ。
俺はただでさえクラス内で「星宮莉乃の幼馴染らしい」「最近名前呼びになった」「昼休みに二人で消える」などという、身に覚えのあるようでないような噂に包囲されているのだ。
そこへ手繋ぎ情報を投下するな。
炎上商法か。
「うわー、もうそれ普通にさぁ」
原が何かを言いかけた瞬間、莉乃が少しだけ表情を変えた。
笑顔のままなのに、瞳の奥がすっと暗くなる。
「普通に、何?」
声は柔らかい。
でも、空気が少し冷えた。
原が「あ」と口を閉じる。
篠崎も少しだけ目を細めた。
俺は莉乃の横顔を見た。
わかってしまった。
莉乃は、この関係に名前をつけられるのを少し怖がっている。
付き合ってるの、だとか。
もう恋人じゃん、だとか。
周りからそう言われることを期待している一方で、俺がそれを否定する可能性を恐れている。
もし今、原が「もう付き合ってるじゃん」と言い、俺が反射で否定したら、莉乃はきっと傷つく。
以前の俺なら、即座に否定していただろう。
違う。
そういうんじゃない。
ただの流れ。
そう言って、自分を安全圏に置いたはずだ。
でも、今は違った。
莉乃を傷つけたくないと思った。
俺は小さく息を吐く。
「原さん」
「ん?」
「その、まだ名前はないですけど」
自分でも、何を言っているのかわからない。
けれど、言葉は止まらなかった。
「俺にとって莉乃は、ちゃんと大事な人です」
教室が止まった。
原も篠崎も固まる。
莉乃は息を呑んだ。
俺は言ってから、自分が何を口走ったのか理解した。
終わった。
完全に終わった。
ラブコメ主人公ならここでBGMが止まる。読者がページを戻して確認する。編集が赤字で「ここ最高」と書くやつだ。
俺の青春コンプレックスは、もう火葬場へ運ばれていた。
「……清太」
莉乃の声が震えていた。
俺は顔を見られなかった。
だが、ここで逃げたら意味がない。
昔の俺は、自分の言葉をすぐ引っ込めていた。相手にどう思われるか怖くて、本音を言ったあとに冗談にしてしまっていた。
でも、今の言葉は引っ込めたくなかった。
「だから、あまりからかわれると困ります」
俺は視線を逸らしたまま続けた。
「俺がというより、莉乃が困るかもしれないので」
莉乃が小さく息を吸う音がした。
原はしばらく黙っていたが、やがて両手を上げた。
「ごめん。ちょっとからかいすぎた」
篠崎も眠そうな顔のまま、珍しく真面目に頷いた。
「うん。今の高原くん、ちょっとかっこよかったねー」
「やめてください。死にます」
「死なないでー。莉乃が困るから」
莉乃は何も言わなかった。
ただ、机の下でそっと俺の袖を掴んだ。
その指先が少し震えていた。
俺はそれに気づき、逃げずにそのままにした。
教室のざわめきが戻る。
原と篠崎は「じゃあ、うちら先帰るね」と言って、少しだけ気を遣うように離れていった。
残された俺と莉乃の間に、妙な沈黙が落ちる。
「清太」
「……はい」
「今の、ほんと?」
「勢いで言いましたけど、嘘ではないです」
「大事な人?」
その声は、細くて、不安そうだった。
俺は顔を上げた。
莉乃は泣きそうな顔で笑っている。
名前を呼ばれたときより、手を繋いだときより、もっと深いところで揺れている顔だった。
「……はい」
俺は頷いた。
「大事な人です、莉乃は」
莉乃は両手で顔を覆った。
その肩が小さく震える。
「清太、ほんとにずるい」
「最近そればっかりですね」
「だって、ずるい」
莉乃は顔を覆ったまま、涙混じりの声で言った。
「私ばっかり重いと思ってたのに。清太も、ちゃんと私を大事にしてくれてるんだって思ったら……無理」
その言葉に、胸が少し詰まった。
莉乃はずっと不安だったのだろう。
自分だけが近づいている。
自分だけが重い。
自分だけが思い出を増やしている。
そう思っていたのかもしれない。
でも違う。
俺の中にも、莉乃との記憶は確実に積み上がっている。
倉庫裏の弁当。
カードショップ。
星宮の家。
夜の電話。
名前呼び。
手を繋いだ河川敷。
その一つ一つが、俺の中に残っている。
俺はそれをもう、なかったことにはできない。
「莉乃」
「……なに?」
「帰り、少し歩きませんか」
莉乃が顔を上げる。
目元が赤い。
「いいの?」
「はい。今日は、俺から誘ってます」
言った瞬間、莉乃の顔がまた崩れた。
泣きそうで、嬉しそうで、今にも抱きついてきそうな顔。
「清太」
「はい」
「今日、絶対忘れない」
「でしょうね」
「清太が私を大事な人って言ってくれた日」
「恥ずかしいので復唱しないでください」
「あと、清太から誘ってくれた日」
「記念日が増えていく」
莉乃は笑った。
少し泣きながら、でも本当に嬉しそうに笑った。
その顔を見て、俺は思った。
関係に名前はまだない。
でも、少し進んだ。
名前を呼び合うだけでも、手を繋ぐだけでもなく。
俺は今日、莉乃を大事な人だと言った。
昔の俺なら絶対に言えなかった言葉だ。
その言葉が、莉乃にちゃんと届いた。
それだけで、胸の奥にあった何かが少しだけほどけた気がした。
俺たちは教室を出た。
夕方の廊下は、部活へ向かう生徒たちの声で賑やかだった。
莉乃は隣を歩きながら、そっと俺の袖に触れる。
手を繋ぐわけではない。
ただ、触れるだけ。
でも今は、それで十分だった。
「清太」
「なんですか」
「私も、清太が大事」
「……はい」
「すごく、大事」
「わかりました」
「伝わってる?」
「かなり」
「じゃあ、よかった」
莉乃は満足そうに笑った。
俺はその横顔を見ながら、少しだけ思った。
青春コンプレックスは、まだ俺の中にある。
でも、今の俺はもう、青春を憎むだけではいられない。
だって隣にいる莉乃が、俺の壊れた青春の続きを、少しずつ一緒に歩いてくれているから。
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