あったかい手
その夜、俺は眠れなかった。
理由は明白である。
莉乃と手を繋いだ。
ただそれだけの事実が、俺の脳内で無限に再生されていた。
河川敷の夕焼け。
差し出された手。
恐る恐る触れた指先。
握り返してきた莉乃の温度。
思い出すたびに、俺の心臓は部屋の中で一人だけ体育祭を始める。落ち着け。お前は心臓だ。リレー選手ではない。
俺はベッドの上で寝返りを打った。
机の上には『青春いらない!!』のアンソロジーが置かれている。表紙のヒロインたちが、なぜか俺を見ている気がした。
お前、もうそっち側だぞ。
そんな幻聴が聞こえる。
違う。
俺はまだ読者側だ。
ラブコメの甘酸っぱさに悶え、青春コンプレックスを刺激されて布団の中で呻く側の人間だ。
手を繋いだくらいで主人公面するな。
しかし、現実は非情である。
スマホを開けば、莉乃からのメッセージが残っている。
『手、あったかかった』
破壊力が高すぎる。
こんなメッセージを送ってくる女が現実にいてたまるか。
いた。
俺の連絡先にいた。
しかも現役トップアイドルだった。
俺は天井を見上げながら、深く息を吐いた。
昔の俺なら、きっとこの状況から逃げていた。
手を繋いだ事実をなかったことにして、翌日から少し距離を置いたかもしれない。期待させるのが怖い。自分が勘違いするのが怖い。近づいた先で拒まれるのが怖い。
その全部を理由にして、逃げ道を作っていた。
でも、今は逃げたくなかった。
怖いのに。
不安なのに。
明日、莉乃に会うのが少し楽しみだった。
それが、俺にとっては一番大きな異常だった。
※ ※ ※
翌朝。
俺はいつもの通学路を歩いていた。
コンビニ前には、やはり莉乃がいた。
制服姿で、鞄を両手に持ち、俺を見つけた瞬間にぱっと笑う。
ただ、今日はいつもと少し違った。
莉乃は俺の顔を見るなり、すぐに視線を落とした。
耳が赤い。
俺もたぶん同じような顔をしている。
昨日、手を繋いだ。
その事実が、朝の空気の中に残っている。
「お、おはよう、清太」
「おはよう、莉乃」
自然に名前が出た。
言ったあとで気づく。
莉乃も気づいた。
彼女は一瞬だけ目を丸くして、それから両手で鞄の持ち手をぎゅっと握った。
「……朝からは、ずるい」
「昨日からずっと言ってる気がしますけど」
「清太がずるいことばっかりするから」
「俺は普通に挨拶しただけです」
「莉乃って呼んだ」
「呼ぶ約束をしたので」
「うん」
莉乃は嬉しそうに笑った。
その笑顔を見た瞬間、俺の中の青春コンプレックスは静かに膝をついた。
だめだ。
もう抵抗の意味が薄れている。
俺たちは並んで歩き出した。
今日は莉乃が袖を掴まない。
手も繋がない。
ただ、昨日より少しだけ近い距離で歩いている。
それだけで十分だった。
昨日の手の温度がまだ残っているようで、指先が妙に落ち着かない。
「清太」
「なんですか」
「昨日のこと、覚えてる?」
「忘れるには早すぎます」
「そっか」
莉乃は少しだけ俯いた。
「私、何回も思い出した」
「でしょうね」
「清太は?」
聞かれると思った。
だが、いざ聞かれると答えづらい。
俺は視線を逸らしながら、正直に言った。
「……俺も、何回か」
「何回?」
「回数を確認しないでください」
「私は数えきれないくらい」
「重い」
「清太は?」
「……数えたら負けだと思ってます」
莉乃はそれを聞いて、ふっと笑った。
嬉しそうだった。
こういう言葉でも、莉乃は拾って大事にする。
昔なら、それが怖かった。
今は少しだけ、そうやって大事にされることが温かい。
学校へ着くと、当然のように原と篠崎が待っていた。
いや、待っていたというより、獲物を見つけた野生動物みたいな目でこちらを見ていた。
「おはよー。二人とも、なんか空気違くない?」
「昨日なんかあったねー」
篠崎の観察眼が鋭すぎる。
俺は即座に否定しようとした。
しかし、隣の莉乃が先に口を開いた。
「昨日、清太と手を繋いだ」
教室の空気が止まった。
俺の心臓も止まりかけた。
「莉乃!?」
「え、マジ!?」
原が跳ねる。
篠崎が珍しく目を少し開いた。
「おー。名前呼びの次は手繋ぎ。順調だねー」
「順調とは」
俺は頭を抱えた。
莉乃はというと、少し照れながらも嬉しそうにしている。
なぜ言う。
なぜ公開する。
いや、莉乃にとっては隠したくない思い出なのだろう。わかる。わかるが、教室で言うな。
「高原くんから?」
原がにやにやしながら聞いてくる。
「いや、それは――」
「最初に手を出したのは私。でも握ってくれたのは清太」
莉乃が堂々と言った。
周囲の数人がこちらを見る。
俺はもう机になりたかった。
人間をやめて、ただの机として静かに余生を過ごしたい。
「高原くん、やるじゃーん」
「違います。流れです」
「流れで手を繋ぐんだー」
「河川敷の空気が悪い」
「空気のせいにした」
篠崎がゆるく笑う。
俺は反論を諦めた。
莉乃は隣で、俺の袖をちょんとつまんだ。
「清太」
「……なんですか」
「今日の昼も、来てね」
「行きますよ」
「手は?」
「何の話ですか」
「昨日の続き」
「昼休みの学校で何を続ける気ですか」
莉乃は小さく笑った。
その瞳の奥には、少しだけ期待と不安が混じっている。
また手を繋ぎたい。
でも、求めすぎたら清太が逃げるかもしれない。
そんな感情が見えた気がした。
俺は息を吐く。
「……場所と状況によります」
莉乃の顔が明るくなった。
「ほんと?」
「確約ではないです」
「でも、嫌じゃないんだ」
「……まあ」
原が横で両手を合わせる。
「はい、朝から甘い」
篠崎が頷く。
「砂糖吐きそう」
「他人事みたいに言わないでください」
教室のざわめきの中で、俺は席についた。
授業が始まっても、莉乃は時々こちらを見ていた。
俺が名前を呼ぶたび、手を繋いだことを思い出しているのだろうか。彼女の耳は、しばらく赤いままだった。
昼休み。
俺たちはいつもの倉庫裏にいた。
弁当を食べながら、『青春いらない!!』のアンソロジー感想会の続きをする。昨日の手繋ぎ事件が脳に残っているせいで、ヒロインが主人公の袖を掴むだけのシーンにも過剰反応してしまう。
「清太、このシーン好き?」
「好きですけど、今読むとダメージが入ります」
「どうして?」
「現実が追いついてきたからです」
「清太、最近よく現実に負けてるよね」
「ラブコメが現実に侵食してくるのが悪い」
「私は?」
「侵食の主犯です」
莉乃は嬉しそうに笑った。
「清太の中に侵食できてる?」
「かなり」
言ってから、しまったと思った。
莉乃は弁当箱を置いた。
そして、両手で顔を覆う。
「清太、そういうの不意打ちで言うのやめて」
「自分でも事故でした」
「事故でも嬉しい」
莉乃は顔を赤くしながら俺を見る。
そして、そっと右手を出した。
昨日と同じように。
ただ、今日は少し違う。
彼女は何も言わなかった。
俺も何も言わなかった。
倉庫裏の静けさの中で、俺はその手を見つめる。
怖さはまだある。
けれど、昨日ほどではない。
俺はゆっくり手を伸ばした。
莉乃の指先に触れる。
彼女が息を止める。
そのまま、軽く手を握った。
「……清太」
「昼休みが終わるまで、少しだけです」
「うん」
莉乃は嬉しそうに頷いた。
その表情は、昨日より穏やかだった。
俺たちは手を繋いだまま、しばらく何も話さなかった。
弁当箱も、アンソロジーも、開いたまま。
ただ、隣にいる。
それだけの時間。
昔の俺なら、こういう沈黙が怖かった。
何か話さなければ嫌われる。
退屈させたら離れていく。
そう思って、無理に笑ったり、相手に合わせたりしていた。
でも莉乃との沈黙は、不思議と苦しくなかった。
手の温度があるからかもしれない。
名前で呼べるようになったからかもしれない。
あるいは、莉乃が本当に嬉しそうに隣にいるからかもしれない。
「清太」
「はい」
「私、今すごく幸せ」
「昼休みに手を繋いでるだけですよ」
「だけじゃないよ」
莉乃は小さく笑った。
「清太が逃げないでいてくれる時間だから」
その言葉に、胸が少し痛くなる。
同時に、温かくもなる。
俺はまだ逃げたくなることがある。
怖くなることもある。
でも、今日は逃げなかった。
それだけで、莉乃にとっては大きな意味があるらしい。
予鈴が鳴る。
手を離すタイミングが来た。
莉乃の指先が、少しだけ名残惜しそうに動く。
俺も、すぐには離せなかった。
けれど教室へ戻らなければならない。
「戻りましょう、莉乃」
「うん、清太」
手を離したあとも、温度だけが残っていた。
教室へ戻ると、原と篠崎がまたこちらを見た。
「莉乃、顔ゆるっ」
「高原くんもなんか表情やわらかいねー」
「気のせいです」
俺は席に座る。
右隣で莉乃が小さくメモを渡してきた。
『清太、手、今日もあったかかった』
俺は少しだけ迷って、返事を書いた。
『莉乃の手も、今日も温かかったです』
メモを返した瞬間、莉乃はまた机に突っ伏した。
俺は黒板を見た。
午後の授業は、やはり頭に入らなかった。
けれど、それも少しだけ仕方ないと思ってしまった。
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