名前のない関係
放課後。
俺は席に座ったまま、机の上のメモを見つめていた。
『わかった、莉乃』
自分で書いたくせに、破壊力が高い。
名前呼びというのは、なぜここまで精神にダメージを与えるのか。『青春いらない!!』でも、主人公がヒロインの名前を呼ぶ回は読者の心臓を握り潰す破壊兵器だったが、現実でやるとさらに威力が増す。
今ならわかる。
ラブコメ主人公が名前呼びイベントで挙動不審になるのは、演出ではない。
あれは生存本能だ。
まともに受け止めると死ぬから、照れたり誤魔化したりしてダメージを分散しているのだ。
俺が内心でラブコメ主人公への謝罪文を書いていると、右隣から小さな声がした。
「清太」
「……なんですか、莉乃」
呼んだ。
呼べた。
だが心臓が跳ねる。
莉乃は一瞬だけ目を大きくして、それから机に突っ伏しそうになった。
「やっぱり無理」
「自分で呼ばせてるんでしょう」
「清太の声で呼ばれると、思ってたより強い」
「ゲームのカード効果みたいに言わないでください」
莉乃は頬を赤くしながら、机の端を指でなぞった。
教室にはまだ何人か残っている。原と篠崎も少し離れたところで帰り支度をしていた。ちらちらこちらを見ているあたり、完全に面白がっている。
「今日、少しだけ寄り道しない?」
莉乃がそう言った。
その声は、いつもの強引な誘い方とは少し違っていた。
いつもなら「行こ」と決定事項みたいに言う。だが今は、俺に選ばせるような言い方だった。
それが、逆に断りづらい。
「どこに?」
「近くの河川敷。清太と少し話したい」
話したい。
その言葉が、妙に胸に残った。
俺は鞄を持ち上げ、頷いた。
「少しだけなら」
莉乃はぱっと顔を明るくした。
その笑顔だけで、俺の青春コンプレックスが「また負けた」と白旗を振る。
※ ※ ※
学校を出て、俺たちは河川敷へ向かった。
夕方の空は薄いオレンジ色に染まり、川面には細かい光が揺れている。部活帰りの生徒や、犬の散歩をする人がぽつぽつといるだけで、駅前ほど騒がしくはなかった。
莉乃は俺の隣を歩いている。
手は繋いでいない。
袖も掴んでいない。
ただ、並んで歩いている。
それだけなのに、以前よりずっと近く感じた。
名前を呼ぶようになったからだろうか。
同じ距離でも、意味が変わる。
それが少し怖かった。
「清太」
「はい」
「今日、嬉しかった」
「名前のことですか」
「うん」
莉乃は前を向いたまま頷いた。
「私、星宮莉乃って呼ばれることは多いけど、莉乃って呼ばれて嬉しいって思うこと、あんまりなかった」
「仕事だと、名前も仕事の一部みたいな感じですか」
「たぶん、そう」
莉乃は少しだけ笑った。
けれど、その笑顔には寂しさが混じっていた。
「ファンの人に莉乃ちゃんって呼ばれるのも嬉しいよ。応援してくれるのは本当にありがたいし、私のことを好きでいてくれる人たちは大切。でも、その呼び方は、画面の向こうの星宮莉乃に向けられてる気がする」
夕方の風が、莉乃の髪を揺らす。
「清太が呼ぶ莉乃は、ここにいる私のことなんだって思えた」
俺は言葉に詰まった。
たった二文字。
莉乃。
それだけで、彼女にそんな意味を渡していたのかと思うと、軽々しく呼べなくなる。
けれど、呼ばないのも違う。
俺は少しだけ息を吸った。
「……莉乃」
彼女がこちらを見る。
その瞳が、夕焼けを映して揺れていた。
「俺はまだ、星宮莉乃っていう芸能人のことを全部わかってるわけじゃないです。でも、倉庫裏で弁当食べて、『青春いらない!!』の話して、カードゲームで負けず嫌いになる莉乃のことは、少しずつわかってきた気がします」
言ってから、心臓が暴れた。
何を言っているんだ俺は。
青春コンプレックス持ちのくせに、夕方の河川敷でヒロインにこんなことを言うな。舞台装置が整いすぎている。編集が喜ぶやつだ。読者が「はいはい」と口元を押さえるやつだ。
莉乃は立ち止まった。
俺も少し遅れて足を止める。
「清太」
「はい」
「今の、すごく嬉しい」
莉乃の声は震えていた。
その顔は泣きそうで、でも笑っていた。
「私、清太に見つけてもらえてるんだね」
その言葉が、胸に深く落ちた。
見つける。
俺はそんな大層なことをしているつもりはない。
でも、莉乃にとってはそうなのかもしれない。
多くの人に見られる彼女が、本当に見つけてほしかったもの。
その一部を、俺が見ている。
そう思うと、怖いくらい責任が重い。
だが、以前のように逃げたいとは思わなかった。
「俺も」
言いかけて、止まった。
莉乃がじっと俺を見ている。
逃げるな。
心のどこかで、そう思った。
昔、俺は本音を飲み込み続けた。
好意を出すことが怖くて、拒まれる前に自分から距離を取った。
その結果、何も伝えられなかった。
もう同じことは、少しだけ嫌だった。
「俺も、莉乃に見つけてもらえてる気がします」
莉乃の瞳が大きく揺れた。
「中学の頃からずっと、自分は面倒で、暗くて、誰かの邪魔になる人間だと思ってました。でも莉乃は、そういうところまで見てくるから」
「迷惑?」
「最初は」
「今は?」
莉乃は少し不安そうに聞いた。
俺は夕焼けに染まる川を見た。
答えは、思っていたより簡単だった。
「今は、少し助かってます」
莉乃が息を呑んだ。
「清太」
「はい」
「それ、かなりすごいこと言ってるよ」
「自覚してます。今、俺の中の青春コンプレックスが卒倒しました」
「清太の青春コンプレックス、いつも忙しいね」
「労災申請中です」
莉乃は笑った。
涙がこぼれそうな目で、楽しそうに笑った。
それだけで、言ってよかったと思ってしまう。
莉乃は少しだけ俺の隣に近づいた。
そして、そっと右手を差し出す。
俺はその手を見た。
細い指。
カードを大事にスリーブへ入れていた指。
俺の袖を何度も掴んだ指。
泣きそうなときも、不安なときも、いつも俺を引き止めていた手。
「清太」
莉乃の声は小さかった。
「手、繋いでもいい?」
心臓が止まりかけた。
手を繋ぐ。
それは、名前呼びよりさらに上のイベントではないか。
『青春いらない!!』なら確実に挿絵が入る。夕焼けの河川敷。ヒロインが手を差し出す。主人公が戸惑う。読者が本を閉じて一回深呼吸する。
俺は今、その場面の中心にいる。
逃げたい。
でも、逃げたくない。
怖い。
でも、嫌じゃない。
俺は、震えそうになる指先をゆっくり動かした。
莉乃の手に触れる。
彼女の指が、恐る恐る俺の指に絡む。
握った。
ただそれだけなのに、世界の音が少し遠くなった。
莉乃の手は温かかった。
思ったより小さくて、柔らかくて、でも俺を離さない強さがあった。
「……清太」
「はい」
「逃げなかった」
「逃げませんでしたね」
「すごく嬉しい」
「俺は心臓が限界です」
「私も」
莉乃は俺の手を握ったまま、少し俯いた。
耳まで赤い。
俺もたぶん、人のことを言えない顔をしている。
これはもう完全に青春だ。
認めたくない。
認めたくないが、手を繋いで夕方の河川敷を歩く男女を青春ではないと言い張るのは、さすがに無理がある。
だが、まだ恋人ではない。
告白もしていない。
関係に名前はない。
それでも、名前を呼び合い、手を繋いでいる。
俺たちは、その曖昧な境界線を一歩だけ越えた。
「清太」
「なんですか、莉乃」
名前を呼ぶと、彼女はまた嬉しそうに笑った。
「今日のことも、思い出にしていい?」
「……いいですよ」
「清太から手を繋いでくれた日」
「そこは捏造です。手を出したのは莉乃です」
「でも握ってくれたのは清太」
「それは……そうですね」
莉乃は満足そうに頷いた。
俺たちは、そのまま少しだけ河川敷を歩いた。
手を繋いだまま。
駅前に近づく前に、莉乃は名残惜しそうに手を離した。
「ここまでだね」
「人が増えますからね」
「うん。清太を困らせたくないから」
その言葉に、俺は少し驚いた。
莉乃が、自分から距離を見てくれた。
俺が困るかもしれないと考えてくれた。
それが、手を繋いだことと同じくらい嬉しかった。
「……ありがとう、莉乃」
莉乃は一瞬で顔を赤くした。
「清太、今日はずるいの多すぎ」
「俺もそう思います」
「でも好き」
「そういうところです」
莉乃は笑った。
その笑顔を見ながら、俺は思った。
俺の過去は、まだ消えない。
拒まれた痛みも、青春へのコンプレックスも、簡単には消えない。
でも、今日繋いだ手の温かさは、その痛みの上に新しい記憶として残る。
上書きではない。
消えるわけでもない。
ただ、隣に別の記憶が増えていく。
莉乃と名前を呼び合った日。
莉乃と手を繋いだ日。
それらが、少しずつ俺の中の青春を変えていく。
「また明日、清太」
「また明日、莉乃」
今度は自然に言えた。
莉乃はその言葉を胸にしまうように、両手をぎゅっと握った。
俺はその背中を見送る。
見送ることが、もう怖くなかった。
明日また会える。
そう思えるから。
スマホが震えたのは、莉乃の姿が見えなくなってすぐだった。
『清太』
『手、あったかかった』
俺は画面を見て、しばらく固まった。
そして、少しだけ迷ってから返信した。
『莉乃の手も、温かかったです』
既読は一瞬でついた。
『無理』
『今日は寝られない』
俺は小さく笑った。
たぶん、俺も同じだった。
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