こんな青春も悪くない
名前呼びイベントの発生により、俺の高校生活はまた一段階、不可逆な領域へ踏み込んだ。
授業中、右隣から視線を感じる。
星宮莉乃――いや、莉乃がこちらを見ている。
ノートを取っているふりをしながら、ちらちらと俺を見る。俺が気づいて目を向けると、頬を赤くしたまま嬉しそうに笑う。
やめろ。
授業中だ。
ここは教室であり、ラブコメイベント会場ではない。
しかも俺はさっき、自分の手でメモに『努力します、莉乃』と書いてしまった。これはもう証拠が残っている。裁判になったら確実に負ける。青春裁判で有罪確定である。
俺は黒板を見る。
黒板には数式が書かれている。
だが、俺の脳内では『青春いらない!!』第七巻の名前呼び回が上映されていた。
主人公がヒロインの名前を初めて呼ぶ。
ヒロインが真っ赤になる。
主人公も照れて視線を逸らす。
読者は枕を殴る。
当時の俺も殴った。
しかし今、俺は殴る側ではない。
殴られる側である。
誰か、俺に枕を投げてくれ。
授業が終わると、原と篠崎が当然のようにやって来た。
「いやー、まさか高原くんが莉乃呼びする日が来るとはねぇ」
「昨日まで星宮さんだったのにねー。進展速度、急に上がったねー」
「進展ではないです」
俺は即座に否定した。
だが、説得力は死んでいた。
右隣の莉乃が、机に頬杖をつきながら俺を見ている。その顔は完全に満たされている女の子の顔だった。否定すればするほど、周囲には逆に見えるやつだ。
「清太」
「……なんですか」
「今、莉乃って呼んで」
「なんでですか」
「聞きたいから」
「教室で要求しないでください」
莉乃は少しだけ目を伏せた。
「もう呼んでくれないの?」
来た。
この声だ。
細くて、静かで、こちらの罪悪感に直接アクセスしてくる声。
原が「うわ、莉乃の必殺技出た」と呟き、篠崎が「高原くん、がんばれー」と他人事みたいに応援してくる。
俺は深く息を吐いた。
「……莉乃」
言った瞬間、莉乃の顔がぱっと明るくなる。
原が拍手した。
「はい尊いー」
「青春だねー」
篠崎がゆるく頷く。
「だから違います」
「何が違うの?」
「……全部です」
反論が弱い。
自分でもわかる。
莉乃は嬉しそうに俺の袖をつまんだ。
その指先が、いつもより少しだけ柔らかい。以前のように逃がさないために掴むのではなく、そこにいることを確かめるような触れ方だった。
名前を呼ぶようになっただけで、こうも変わるのか。
俺はその変化に戸惑っていた。
昼休み。
いつもの倉庫裏に向かうと、莉乃は弁当箱を開ける前に、俺のほうへ少し身を乗り出してきた。
「清太」
「はい」
「今日、私も清太のこと、もっと名前で呼ぶ」
「今までも呼んでたじゃないですか」
「うん。でも、今日は意味が違う」
「どう違うんですか」
「清太が私を莉乃って呼んでくれる日の清太呼び」
「哲学ですか」
莉乃は真面目な顔だった。
俺は少し笑いそうになったが、こらえた。
彼女にとっては本気なのだ。
俺の名前を呼ぶこと。
俺に名前を呼ばれること。
たったそれだけのことを、こんなにも大事にしている。
そこまで大事にされると、俺も雑には扱えなくなる。
「清太、卵焼き食べる?」
「またですか」
「今日は名前呼び記念の卵焼き」
「どんな記念ですか」
「甘めにした」
「記念要素が味付けに出るんですね」
差し出された卵焼きを、俺は少し迷ってから食べた。
甘い。
前より少し甘い。
莉乃は俺の反応をじっと見つめている。
「……美味しいです、莉乃」
自分から呼んだ。
言ってから気づいた。
終わった。
俺はもう自然に呼び始めている。
莉乃は箸を持ったまま固まった。
次の瞬間、弁当箱を膝に置き、両手で顔を覆う。
「清太、今のは無理」
「何がですか」
「美味しいです、莉乃、は無理」
「自分で名前呼びを要求したんでしょう」
「でも、不意打ちは違う」
「理不尽」
莉乃は顔を覆ったまま、耳まで赤くしていた。
俺はその姿を見て、胸の奥がまた温かくなる。
昔の俺なら、こういう空気から逃げていた。
近い。
甘い。
痛い目を見る前に離れなければ。
そう思っていただろう。
けれど今は、逃げなかった。
むしろ、莉乃が嬉しそうにしているのを見ると、少しだけこちらも嬉しくなる。
それが一番大きな変化だった。
弁当を食べ終えたあと、莉乃は『青春いらない!!』のアンソロジーを鞄から取り出した。
「清太、昨日の名前呼び回、もう一回読も」
「アンソロジーに名前呼び回なんてありましたっけ」
「私たちの昨日が名前呼び回」
「現実を巻数にしないでください」
「じゃあ、今日が続編」
「作品化しないでください」
莉乃は楽しそうに笑い、ページを開く。
そこに載っていたのは、ヒロインが主人公を下の名前で呼ぶ練習をする短編だった。
俺は表紙を見た瞬間、頭を抱えた。
「どうして今それを」
「運命かな」
「編集部の罠です」
読み進めると、ヒロインは名前を呼ぶだけで何度も照れ、主人公はそれに気づかないふりをしながら内心で動揺している。
俺はページをめくる手を止めた。
刺さる。
あまりにも刺さる。
現実とリンクしすぎている。
「清太、この主人公みたい」
「言うと思いました」
「でも、この主人公より清太のほうがちゃんと呼んでくれる」
「比較対象にしないでください」
「だから好き」
莉乃はさらっと言った。
俺は慣れたふりをしようとして失敗した。
頬が熱くなる。
莉乃はそれを見て、嬉しそうに笑う。
この人は、俺が照れると本当に嬉しそうにする。
俺の反応を栄養にして生きているのではないか。
「清太」
「……はい」
「私ね、星宮莉乃って呼ばれることは多いよ」
急に声が少しだけ落ち着いた。
「テレビでも、雑誌でも、学校でも。みんな星宮さんとか、莉乃ちゃんとか、星宮莉乃って呼ぶ。でも清太が呼ぶ莉乃は、ちょっと違う」
「違う?」
「うん。私を見て呼んでくれてる感じがする」
莉乃は本を閉じた。
「芸能人の名前じゃなくて、私の名前って感じ」
俺は言葉に詰まった。
名前を呼ぶ。
ただそれだけのことが、彼女にとってはこんなに意味を持つ。
たくさんの人に名前を呼ばれる星宮莉乃。
けれど、そのほとんどは画面越しの名前で、商品名みたいなものなのかもしれない。
俺が呼ぶ莉乃は、彼女のすぐ隣にいる一人の女の子の名前。
そう思うと、急にその二文字が重くなる。
「……莉乃」
俺は小さく呼んだ。
彼女が顔を上げる。
「はい」
「俺はまだ、うまく言えないことが多いですけど」
喉が少し詰まった。
それでも、逃げずに続ける。
「呼び方くらいは、ちゃんと覚えます」
莉乃は目を見開いた。
その瞳がゆっくり潤む。
「清太」
「泣かないでください」
「無理」
「早い」
「だって、清太がそういうこと言うから」
莉乃は笑いながら、目元を指で拭った。
泣いているのか笑っているのか、よくわからない顔。
でも、その顔を見て、俺は少しだけ安心した。
俺の言葉が、今度は誰かを拒絶するものではなく、届いたのだと思えたからだ。
予鈴が鳴る。
教室へ戻る途中、莉乃は隣で何度も俺の名前を呼んだ。
「清太」
「はい」
「清太」
「なんですか」
「呼びたいだけ」
「燃費が悪い」
「清太も呼んで」
「……莉乃」
「うん」
そのやり取りだけで、彼女は本当に幸せそうに笑った。
教室に戻ると、当然のように原と篠崎が反応する。
「おかえりー。名前呼びカップル」
「カップルじゃないです」
「じゃあ何?」
原がにやにや聞いてくる。
俺は言葉に詰まった。
友達。
そう言えば嘘になる気がした。
恋人。
それはまだ違う。
なら何なのか。
俺が答えられずにいると、莉乃が俺の隣で静かに笑った。
「まだ名前がない関係」
その言葉に、教室が少し静かになった。
原が目を丸くする。
篠崎が「うわー」と小さく笑う。
俺は莉乃を見る。
彼女は少しだけ照れたように、それでも嬉しそうに俺を見ていた。
「でも、清太は清太で、私は莉乃」
莉乃はそう言った。
「それだけは決まったから」
俺は反論できなかった。
名前のない関係。
でも、お互いの名前だけはちゃんと呼び合える関係。
それは曖昧で、危うくて、まだ少し怖い。
けれど、今の俺たちにはたぶん、それで十分だった。
席に着くと、莉乃からまたメモが滑ってきた。
『清太、今日からちゃんと莉乃って呼んでね』
俺は少し考えて、返事を書く。
『わかった、莉乃』
メモを返すと、莉乃はまた机に突っ伏した。
原がそれを見て、笑いをこらえきれずに肩を震わせている。
篠崎は眠そうな顔で呟いた。
「これで付き合ってないの、逆にすごいねー」
俺は聞こえなかったふりをした。
右隣では、莉乃がメモを大事そうに両手で押さえている。
俺は黒板を見ながら、小さく息を吐いた。
青春コンプレックスはまだ消えていない。
でも、名前を呼ぶだけでこんなにも胸が温かくなるなら。
このおかしな青春も、少しだけ悪くないのかもしれない。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます!
このお話が少しでも面白いと感じていただけたら、ぜひ「♡いいね」や「ブックマーク」をしていただけると嬉しいです。
応援が次回更新の励みになります!




