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お互いの名前

 校門をくぐった瞬間から、星宮の圧は続いていた。


 いや、星宮ではない。


 本人いわく、莉乃。


 その名前を俺の口から引きずり出そうとする現役トップアイドルが、俺の隣を歩いている。


「清太」


「はい」


「今日の昼休み、練習しよっか」


「何のですか」


「名前呼び」


「授業より重い課題を出さないでください」


 星宮――いや、まだ星宮でいい。俺の中ではまだ星宮さんだ。名前呼びなど、ラブコメにおける中盤イベントである。むやみに発生させてはいけない。


 『青春いらない!!』でも、主人公がヒロインの下の名前を呼ぶまでに七巻かかった。


 七巻だぞ。


 ページ数にして相当な積み重ねがある。


 それを俺たちは、出会って一ヶ月ちょっとでやろうとしている。進行速度がバグっている。編集会議なら「読者がまだ心の準備できてません」と止められるやつだ。


 だが、隣の星宮は止まらない。


「私、ずっと清太って呼んでるよ?」


「星宮さんが勝手に呼び始めたんでしょう」


「清太も呼んでいいよ」


「許可制なんですね」


「うん。特別許可」


「いらないです」


「いるよ」


 星宮は笑っている。


 けれど、その目の奥にある期待があまりにも真剣で、俺は簡単に流せなかった。


 名前。


 ただの呼び方。


 そう思えばいいのに、俺にはそれが妙に重かった。


 昔、好きだった女子の名前を呼ぼうとして、結局呼べなかったことがある。距離を詰めるのが怖くて、苗字にさん付けで誤魔化した。誤魔化し続けているうちに、相手のほうから距離を切られた。


 近づかなければ傷つかない。


 そう思っていたのに、近づかなかったことで失うものもある。


 そんな当たり前のことを、俺は最近になって少しずつ知り始めている。


 昼休み。


 俺たちはいつもの倉庫裏へ向かった。


 マイホーム兼別荘。


 もはや正式名称が混迷を極めている場所で、俺は弁当箱を開けた。星宮も隣に座る。今日の距離は、いつもよりさらに近い。


「近いです」


「名前呼んでくれたら少し離れる」


「交渉材料にしないでください」


「じゃあ、呼んでくれるまで近い」


「脅迫では?」


「お願いだよ」


 星宮は俺の袖をつまんだ。


 その指先には、いつもの強引さだけではなく、不安も混じっていた。


「清太に、莉乃って呼ばれたい」


 声が小さかった。


「星宮莉乃としてじゃなくて、莉乃って」


 それを言われると、逃げづらい。


 芸能人としての名前ではなく、ただ一人の女の子としての名前。


 俺はそれを呼ぶのが怖かった。


 呼んだ瞬間、何かが変わる気がした。


 今まで曖昧にしていた距離に、はっきり線を引いてしまう気がした。


 でも、星宮は待っている。


 俺がその線を越えることを。


 俺は箸を置き、息を吐いた。


「……り」


 声が喉で引っかかった。


 星宮の指先がぴくりと動く。


「り?」


「……莉乃、さん」


 言った。


 言ってしまった。


 その瞬間、俺の中の青春コンプレックス委員会が全員起立した。


 議題、高原清太、ついにヒロインを名前で呼ぶ。


 判決、青春濃度過多により即時退廷。


 俺は心の中で倒れた。


 現実の星宮は、完全に固まっていた。


 大きな瞳を見開き、口を少しだけ開けて、俺を見ている。数秒遅れて、頬がじわじわ赤く染まっていく。


「清太」


「はい」


「もう一回」


「無理です」


「お願い」


「一回で限界です」


「私、一回じゃ足りない」


「燃費が悪すぎる」


 星宮は俯き、両手で顔を覆った。


 その肩が小さく震えている。


「莉乃さんって……清太が……」


「呼ばせたの星宮さんですよね」


「莉乃」


「……」


「今、星宮さんって言った」


「いや、その」


 顔を上げた星宮は、嬉しそうなのに少しだけ不満そうだった。


「清太、私は莉乃」


 彼女がそう言った瞬間、逃げ道がまた一つ塞がった気がした。


 俺は視線を逸らし、弁当に逃げようとした。


 だが、星宮はそれを許さなかった。


「清太」


「……はい」


「私は清太って呼ぶ。清太も、莉乃って呼んで」


 その言葉は甘い。


 でも、押しつけではなかった。


 願いだった。


 だから俺は、箸を置いたまま、覚悟を決めた。


「……莉乃」


 呼び捨て。


 自分の声なのに、まるで自分のものではないようだった。


 星宮の顔が一瞬で真っ赤になる。


 彼女は弁当箱を抱えたまま、完全に動かなくなった。


「星宮さ――莉乃?」


 訂正した。


 自分で訂正した。


 終わりだ。


 もう戻れない。


 莉乃はゆっくりこちらを見た。


 目元が潤んでいる。


 でも、表情は崩れそうなほど嬉しそうだった。


「清太」


「はい」


「私、今日のこと、一生忘れない」


「知ってました」


「清太が初めて、莉乃って呼んでくれた日」


「記念日化が早い」


「大事だから」


 彼女は俺の袖を掴むのではなく、今日はそっと手の甲に触れてきた。


 指先が重なるだけ。


 握ってはいない。


 でも、それだけで心臓がうるさい。


 名前を呼ぶだけで、距離がこんなにも変わるとは思わなかった。


 いや、本当は知っていたのかもしれない。


 だから俺はずっと避けていた。


「清太」


「なんですか」


「私のこと、もう一回呼んで」


「要求が多い」


「清太の声で聞きたい」


「……莉乃」


 今度は少しだけ、最初より自然に出た。


 莉乃は目を閉じて、胸に手を当てた。


「無理。好き」


「昼休みに心臓を止めに来ないでください」


「止められてるのは私だよ」


 そう言って笑う莉乃は、いつもの星宮莉乃ではなかった。


 教室の中心で輝く有名アイドルでも、撮影現場で完璧に笑う芸能人でもない。


 俺に名前を呼ばれて、どうしようもなく嬉しそうにしている、一人の女の子だった。


 予鈴が鳴る。


 俺たちは弁当を片づけ、倉庫裏を出た。


 教室へ戻る廊下で、莉乃は少しだけ俺の隣に近づいた。


「清太」


「……莉乃」


 呼ぶと、彼女はまた嬉しそうに笑う。


 その笑顔の破壊力に、俺は視線を逸らした。


「慣れないですね」


「慣れて」


「努力します」


「私も、もっと清太って呼ぶ」


「それはもう十分呼んでます」


「足りない」


「怖い」


 教室に入ると、原と篠崎が即座にこちらを見た。


「あれ? 莉乃、めっちゃ顔赤くない?」


「高原くん、何したのー?」


「何もしてません」


 俺が答えるより早く、莉乃が嬉しそうに笑った。


「清太がね、私のこと莉乃って呼んでくれた」


 教室が一瞬でざわついた。


 原が叫ぶ。


「え、ついに!?」


 篠崎が眠そうな顔のまま拍手した。


「おめでとー。進展だねー」


「進展じゃないです」


「高原くん、莉乃って呼んだの?」


 原がにやにやしながら詰め寄る。


 俺は後ずさる。


「いや、それは流れで」


「じゃあ今呼んでみてよ」


「公開処刑ですか」


 莉乃がこちらを見る。


 期待に満ちた顔。


 やめてくれ。


 そんな顔をされると逃げられない。


 俺は小さく息を吐いた。


「……莉乃」


 教室の空気が爆ぜた。


 原が机を叩き、篠崎が「青春だねー」と呟き、周囲の男子たちが何とも言えない視線を向けてくる。


 莉乃は両手で顔を覆いながら、耳まで赤くしていた。


「清太、教室でそれはずるい……」


「言わせたのそっちでしょう」


「でも嬉しい」


 俺は席に座りながら、頭を抱えた。


 俺の平穏な高校生活は、とっくに終わっている。


 そして今日、俺はついに星宮莉乃を、莉乃と呼ぶようになってしまった。


 友達以上。


 恋人未満。


 その曖昧な距離に、名前だけが先に踏み込んだ。


 けれど、不思議と嫌ではなかった。


 むしろ、胸の奥が少し温かかった。


 授業が始まる直前、右隣から小さなメモが滑ってきた。


『清太、今日からずっと莉乃って呼んでね』


 俺はその下に、少し迷ってから返事を書いた。


『努力します、莉乃』


 メモを返すと、莉乃は机に突っ伏した。


 肩が震えている。


 たぶん笑っている。


 いや、嬉しすぎて壊れているのかもしれない。


 俺は黒板を見ながら、心の中で『青春いらない!!』の主人公にまた謝った。


 名前呼びイベント、破壊力が高すぎる。


 これは巻をまたいで引っ張る価値がある。


 そして俺は、もう戻れないところまで来てしまったのだと、少しだけ理解した。

最後まで読んでいただき、ありがとうございます!

このお話が少しでも面白いと感じていただけたら、ぜひ「♡いいね」や「ブックマーク」をしていただけると嬉しいです。

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