朝の待ち伏せ
その日の夜。
俺は風呂上がりの自室で、机の上に『青春いらない!!』のアンソロジーを置いたまま、スマホの画面を見つめていた。
『ずるい』
『好き』
星宮から送られてきた二つのメッセージ。
文字だけなのに圧がある。
好き、の二文字が重力を持っている。ブラックホールか。俺の精神を吸い込むな。
俺は返信欄に指を置いて、何度も打っては消した。
『ありがとうございます』
違う。業務連絡か。
『俺も嫌いじゃないです』
違う。言い方が陰キャすぎる。いや、実際陰キャではあるが、ここでその防御姿勢を出すと星宮がたぶん沈む。
『明日もよろしくお願いします』
違う。取引先へのメールか。
結局、俺は何も送れなかった。
スマホを伏せる。
そのままベッドへ倒れ込む。
天井を見つめながら、さっき駅前で星宮に送った言葉を思い出す。
――いていいですよ。
自分で言ったくせに、思い返すと破壊力が高い。
あんなことを言われたら、星宮が喜ぶに決まっている。いや、喜ぶどころか彼女の中で一生保存される。日付、時間、場所、俺の表情までセットで永久保存される。
俺は星宮莉乃という記憶保管庫に、また危険なデータを送信してしまった。
そのうち「清太名言集」とか作られるのではないか。
怖い。
けれど、少しだけ嬉しい。
その感情が一番まずい。
俺は枕に顔を埋めた。
「ぐあああああ……」
声にならない声が漏れる。
青春コンプレックスが暴れている。
あの日、中学で好きだった子に拒まれた記憶は、今でも消えない。近づくな、と言われた痛みは、いまだに胸の奥で鈍く疼く。
でも、星宮に「隣にいていい」と言った自分がいる。
拒まれるのが怖い俺が、誰かに居場所を渡した。
それが不思議で、怖くて、ほんの少し誇らしかった。
スマホがまた震えた。
恐る恐る画面を見る。
『清太、寝た?』
寝ていない。
だが、ここで即返信すると、待っていたみたいではないか。
実際、待っていた。
最悪だ。
俺は数秒だけ無駄な抵抗をしてから返信した。
『起きてます』
すぐに既読。
『返事くれなかったから、少し不安になった』
胸が痛い。
『何て返せばいいかわからなかっただけです』
『好きって言ったから?』
『はい』
『困った?』
俺は少し迷う。
そして、もう変に逃げないと決めて、短く打った。
『困りました。でも嫌ではなかったです』
送信。
既読。
返信が来ない。
十秒。
二十秒。
一分。
静寂が怖い。
俺はやらかしたのかもしれない。
そう思った瞬間、メッセージが届いた。
『清太、ほんとにずるい』
『今日もう寝られないかも』
『責任取って』
責任。
また出た。
この作品における最重要単語になりつつある。
『寝てください』
『清太の声聞いたら寝られるかも』
俺はスマホを見つめた。
電話。
昨日もした。
今日もするのか。
これはもう習慣化の兆しではないか。夜に女子と電話する習慣。しかも相手は星宮莉乃。俺の青春コンプレックスがついに白旗を振り始めている。
しかし、ここで断れば星宮は沈む。
いや、沈むからという理由だけではない。
俺も少し、声を聞きたいと思ってしまった。
負けである。
『少しだけなら』
送った瞬間、着信が来た。
本当に早い。
星宮莉乃、返信速度だけならトップアイドルよりトップスナイパーである。
俺は通話ボタンを押した。
「……もしもし」
『清太』
耳元に星宮の声が届く。
それだけで、胸の奥が少し落ち着いた。
同時に、落ち着いている自分に動揺した。
『返事、嬉しかった』
「それはよかったです」
『嫌じゃないって』
「はい」
『隣にいていいって』
「……はい」
『私、明日も清太の隣にいていい?』
声が小さかった。
いつもの強引さが薄い。
俺の返事を、本当に待っている声だった。
俺は天井を見ながら、息を吐く。
昔の俺なら、ここで曖昧に逃げた。
でも今は違う。
言葉を濁すほうが、きっと星宮を傷つける。
「いいですよ」
通話の向こうで、星宮が息を呑んだ。
『……ほんと?』
「はい。でも、家の前で待ち伏せはやめてください」
『じゃあ、途中のコンビニ前で待ってる』
「妥協したように見せて待つのは確定なんですね」
『うん』
星宮が小さく笑う。
その声を聞いて、俺も少しだけ笑ってしまった。
『清太、笑った?』
「笑ってません」
『笑った。声でわかる』
「探偵ですか」
『清太専門だから』
「怖いです」
『好きだから』
またその言葉。
でも、さっきより少しだけ受け止められた。
俺はしばらく黙ったあと、言った。
「……俺も、星宮さんと話すのは嫌じゃないです」
『それ、好きって意味?』
「違います」
『違うんだ』
声が少し沈む。
しまった。
また地雷。
「違うというか、まだその言葉にはできないだけです」
俺は慌てて続けた。
「でも、話したいとは思ってます」
通話の向こうが静かになる。
俺の心臓だけがうるさい。
『清太』
「はい」
『今日、それで寝られる』
「よかったです」
『でも明日、直接もう一回言って』
「嫌です」
『言って』
「無理です」
『じゃあ、言いたくなるまで隣にいる』
「結局いるんですね」
『うん。いるよ』
星宮の声が柔らかかった。
『清太が逃げなくなるまで。清太が私のこと、ちゃんと呼べるようになるまで。清太が、私の隣を当たり前に思ってくれるまで』
「重いです」
『知ってる』
「怖いです」
『でも嫌じゃないんでしょ?』
俺は答えに詰まった。
星宮は、俺の沈黙を聞いて小さく笑った。
『おやすみ、清太』
「……おやすみなさい、星宮さん」
『莉乃』
「おやすみなさい、星宮さん」
『明日は呼ばせるから』
「怖い宣言しないでください」
電話は、そのやり取りで切れた。
俺はしばらくスマホを握ったまま動けなかった。
部屋は静かだった。
机の上には『青春いらない!!』のアンソロジー。
スマホの中には、星宮莉乃との通話履歴。
俺の青春は、やっぱりどう考えてもおかしい。
けれど、昔みたいにただ痛いだけではなかった。
拒まれることを恐れて距離を取り続けていた俺が、少しずつ誰かを隣に置くことを覚えている。
それは怖い。
でも、温かい。
翌朝。
約束通り、星宮は家の前にはいなかった。
俺はほっとしながら通学路を進む。
そして、五分後。
コンビニの前に星宮がいた。
制服姿で、鞄を両手に持ち、まるでそこが待ち合わせ場所だったかのように立っている。
「おはよ、清太」
「……本当に待ってた」
「約束したもん」
「俺が許可した記憶はないです」
「でも、いいって言った」
星宮は嬉しそうに笑う。
その笑顔を見た瞬間、俺の心臓はまた妙な音を立てた。
「清太」
「なんですか」
「今日、私のこと何て呼ぶ?」
「星宮さんです」
「莉乃」
「星宮さん」
「莉乃」
「……朝から圧が強い」
星宮は一歩近づく。
距離が近い。
周囲には登校中の生徒もちらほらいる。誰かに見られるかもしれない。それなのに、星宮はまっすぐ俺を見ていた。
「一回だけ」
「無理です」
「じゃあ、昼休みまで待つ」
「結局諦めてない」
「うん。清太の口から聞きたいから」
そう言って笑う星宮は、昨日の夜より少しだけ穏やかだった。
俺の返事で安心したのだろうか。
そう考えると、胸が少し温かくなる。
同時に、責任という言葉が頭をよぎる。
俺はもう、星宮の言葉をただの重い冗談として流せなくなっている。
受け取ったものは、少しずつ返さなければならない。
たとえ不器用でも。
校門へ向かう途中、星宮がふいに言った。
「清太、昨日のアンソロジーの最後の話、覚えてる?」
「隣にいると落ち着く、のやつですか」
「うん」
「覚えてます」
「私も、清太の隣にいると落ち着く」
星宮は前を向いたまま、ぽつりと言った。
「でも、少し怖い」
「怖い?」
「落ち着きすぎて、もう他の場所に戻れなくなりそうだから」
朝の空気が、少しだけ静かになる。
重い。
けれど、俺はその重さから逃げなかった。
「……戻れなくなっても、学校には来てくださいね」
「そこ?」
「出席は大事なので」
星宮が笑った。
少し涙が混じったような笑いだった。
「清太って、変なところで現実的だよね」
「ラブコメに飲まれすぎると死ぬので」
「でも、私は清太を飲み込みたい」
「発言が危険」
俺たちはそんな会話をしながら、校門をくぐった。
今日も周囲の視線が集まる。
けれど昨日より、ほんの少しだけ気にならなかった。
隣に星宮がいる。
彼女がそれを望んでいる。
そして俺も、完全には嫌ではない。
それだけで、少し前を向ける気がした。
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