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青春アイデンティティ

 公園のベンチで『青春いらない!!』の公式アンソロジーを読み終えたころには、空はすっかり夕焼け色になっていた。


 俺は本を閉じ、深く息を吐く。


 公式アンソロジー。


 恐ろしい本だった。


 本編では見られないキャラ同士の絡み、作者ごとの解釈、ギャグに振り切った短編、そして不意打ちの尊い補完。


 特に最後の短編がまずかった。


 主人公がヒロインに「隣にいると落ち着く」と言うだけの話だったのに、俺の胸に刺さりすぎた。しかもヒロインがそれを一生ものの思い出みたいに受け取る。隣にいる星宮が、まさにそういう受け取り方をする女なので、俺は途中からページではなく現実を見ている気分になった。


 助けてくれ。


 俺はラブコメを読むことで青春コンプレックスを刺激される男だったはずなのに、最近はラブコメを読むたびに星宮との現在地を確認させられている。


 これはもう読書ではない。


 尋問だ。


「清太、最後の話よかったね」


「よかったですけど、精神攻撃力が高すぎます」


「どうして?」


「ヒロインが重いからです」


「私は好きだよ」


「でしょうね」


 星宮はアンソロジーを胸に抱え、満足そうに微笑んでいた。


 夕焼けに照らされたその横顔が、妙に柔らかい。


 仕事で見せる星宮莉乃の完成された笑顔ではない。教室で周囲に向ける綺麗な笑顔でもない。好きな作品を読んで、隣にいる相手と感想を共有できて、ただ嬉しいだけの顔だった。


 俺はその顔を見て、また胸が鳴る。


 最近、俺の心臓は星宮に対して過剰反応しすぎだと思う。


 労働基準法を適用して休ませてやりたい。


「清太?」


「なんでもないです」


「また変なこと考えてた」


「青春コンプレックスの定期発作です」


「今日の発作は?」


「現実のヒロインが公式アンソロジーより強い件について」


 言ってから、失敗したと思った。


 星宮が固まる。


 目を丸くして、次第に頬を赤くしていく。


「……私、ヒロイン?」


「今のは言葉のあやです」


「清太のヒロイン?」


「拡大解釈しないでください」


「でも、清太が言った」


「俺の口はたまに俺を裏切るんです」


 星宮は嬉しそうに笑った。


 アンソロジーを抱える手に力が入っている。


「今日のも思い出にする」


「許可制にした意味がない速度ですね」


「清太がヒロインって言った日」


「言ってないことにしてください」


「無理」


 即答だった。


 この女、俺の失言の保存速度が速すぎる。


 クラウドバックアップでもしているのか。


 そんなことを考えていると、公園の入口付近から小さなざわめきが聞こえた。


 俺は反射的にそちらを見る。


 数人の女子高生らしき集団が、こちらをちらちら見ていた。スマホを持っている子もいる。その視線は、俺ではなく星宮に向いていた。


 まずい。


 星宮莉乃。


 芸能人。


 公園。


 制服姿。


 隣に冴えない男子。


 この状況、記事タイトルが勝手に脳内生成される。


『人気アイドル星宮莉乃、放課後に謎の男子と密会か』


 やめろ。


 俺の人生を週刊誌風にするな。


 星宮も気づいたらしく、表情が少しだけ変わった。


 ほんの一瞬で、彼女は星宮莉乃の顔を作ろうとした。誰に見られても大丈夫な笑顔。距離を間違えないための表情。


 でも、その前に俺は立ち上がっていた。


「行きましょう」


「え?」


「ここ、人が増えてきたので」


 俺は星宮からアンソロジーを受け取り、自分の鞄に入れた。星宮が少し驚いた顔で俺を見ている。


 昔の俺なら、たぶん焦って一人で逃げていた。


 視線が怖くて、面倒になるのが嫌で、星宮を置いて離れていたかもしれない。


 でも、あのとき京介の前で逃げて、星宮を置いていったことを思い出した。


 逃げれば、誰かを置いていく。


 自分だけ安全圏に戻っても、残された相手が傷つくことがある。


 だから、今日は逃げない。


 俺は星宮の袖を軽く引いた。


「星宮さん、こっち」


 星宮の目が揺れた。


 驚きと、嬉しさと、何かを噛みしめるような感情が混ざった顔。


「うん」


 星宮は小さく頷き、俺の隣に並んだ。


 俺たちは女子高生たちとは逆方向の出口から公園を出た。少し歩いて、人通りの少ない道に入る。ようやく足を止めると、星宮は俺の袖をそっと掴んだ。


「清太、置いていかなかった」


「当たり前です」


 言ってから、少しだけ声が詰まった。


 当たり前。


 俺は今、それを言えた。


 昔の俺にとって、誰かの隣にいることは怖かった。迷惑になるかもしれない。拒まれるかもしれない。だから逃げるほうが楽だった。


 でも星宮の隣から逃げるのは、もう違う気がした。


「前は、置いていきましたから」


「……うん」


「だから、今日はそうしないようにしただけです」


 星宮は何も言わなかった。


 ただ、俺の袖を握る指先に少し力を込めた。


 その沈黙が、妙に温かかった。


「清太」


「はい」


「今の、すごく嬉しかった」


「大げさです」


「大げさじゃないよ」


 星宮は俺を見上げる。


 夕焼けの残りが、彼女の瞳に映っていた。


「清太が私を連れて逃げてくれた」


「逃げたことは認めるんですね」


「でも、一緒だった」


 その一言で、返す言葉が消えた。


 一緒に逃げる。


 それだけで、星宮にとっては意味があるらしい。


 重い。


 でも、少しわかるようになってきた。


 自分だけ置いていかれないこと。


 誰かが隣を選んでくれること。


 それはたぶん、思っているよりずっと大きい。


「清太、かっこよかった」


「やめてください。俺の青春コンプレックスが消滅します」


「消滅したらいいんじゃない?」


「アイデンティティの一部なので困ります」


「じゃあ、少しずつ私が上書きするね」


「怖いことを自然に言わないでください」


 星宮は楽しそうに笑った。


 その笑顔を見て、俺も少しだけ笑ってしまう。


 駅へ向かう途中、星宮は俺の隣を歩きながら、ずっと袖を離さなかった。


 手ではない。


 袖だ。


 その微妙な距離が、今の俺たちらしい気がした。


「清太」


「なんですか」


「今日、家に帰ったらアンソロジーの感想、続き送っていい?」


「さっき散々話したじゃないですか」


「まだ足りない」


「オタクの感想会は終わりがないですからね」


「清太との感想会は特に終わらせたくない」


 またそういうことを言う。


 俺は慣れてきたはずなのに、やっぱり心臓が跳ねる。


「……ほどほどにしてください」


「じゃあ、寝るまで」


「ほどほどとは」


「清太が寝落ちしたら終わり」


「俺の敗北条件じゃないですか」


 星宮は満足そうに頷いた。


 駅前に近づくと、人が増えてきた。


 そこで星宮は、ようやく俺の袖を離した。


 ほんの少しだけ名残惜しそうに。


「今日はここまでだね」


「そうですね」


「明日も一緒に登校していい?」


「家の前で待ち伏せしないなら」


「じゃあ、少し離れたところで待つ」


「待つこと自体は確定なんですね」


「うん」


 星宮は当然のように頷いた。


 俺はため息を吐く。


 でも、断りはしなかった。


 星宮はそれに気づいたのか、嬉しそうに笑った。


「清太、また明日」


「また明日、星宮さん」


「莉乃」


「また明日、星宮さん」


「むぅ」


 不満そうに頬を膨らませる星宮を見て、俺は思わず笑ってしまった。


 彼女はその笑顔を見逃さなかった。


「今、笑った」


「笑ってません」


「笑った。私を見て笑った」


「取り締まりが厳しい」


「清太の笑顔は記録対象だから」


「怖い」


「大事だから」


 星宮はそう言って、駅の方へ歩いていった。


 俺はその背中を見送る。


 昔の俺なら、誰かを見送ることすら怖かった。


 置いていかれる感覚が嫌だったからだ。


 でも今は、少し違う。


 明日また会える。


 そう思える相手がいるだけで、見送ることが少しだけ怖くなくなっていた。


 スマホが震えた。


 星宮からだった。


『清太、今日は連れて行ってくれてありがとう』


 続けて、もう一通。


『私、清太の隣にいていいんだって思えた』


 俺はしばらく画面を見つめた。


 返信に迷う。


 いつものように茶化すこともできた。


 でも、今日は少しだけ素直に打った。


『いていいですよ』


 送信した直後、顔が熱くなった。


 既読がつく。


 返事は早かった。


『ずるい』


『好き』


 俺はスマホを閉じた。


 もう反応しない。


 これ以上は俺の心臓が労災を申請する。


 夕暮れの帰り道、鞄の中には『青春いらない!!』のアンソロジーが入っている。


 そしてスマホの中には、星宮からの重すぎるメッセージ。


 俺の青春は、相変わらずおかしい。


 でも、そのおかしさを少しだけ大事に思い始めている自分がいた。

最後まで読んでいただき、ありがとうございます!

このお話が少しでも面白いと感じていただけたら、ぜひ「♡いいね」や「ブックマーク」をしていただけると嬉しいです。

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