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放課後は本屋へ

 放課後、俺は教室で帰り支度をしていた。


 星宮は今日は仕事がないらしい。


 つまり、帰り道に何かしらのイベントが発生する可能性が高い。俺のラブコメ危機管理センサーが警鐘を鳴らしていた。


 このセンサーは、中学時代の青春コンプレックスによって鍛えられた特殊能力である。なお、性能は悪い。危険を察知しても大体逃げ遅れる。


 俺が鞄に教科書を入れていると、案の定、星宮がこちらへ歩いてきた。


 その表情はやけに明るい。


 そして俺は知っている。


 星宮莉乃がこういう顔をしているときは、だいたい何かを企んでいる。


「清太」


「はい」


「今日、帰りに寄り道しよ」


「どこにですか」


「本屋さん」


 その単語に、俺の防衛本能が一瞬で緩んだ。


 本屋。


 それは聖域である。


 漫画、ラノベ、雑誌、攻略本、設定資料集。人類の叡智と欲望が紙に封じ込められた神殿。俺にとって本屋とは、現実のダメージを一時的に回復するセーブポイントみたいな場所だった。


 しかも今日は『青春いらない!!』の公式アンソロジー発売日である。


 忘れていたわけではない。


 むしろ朝からずっと覚えていた。


 だが、星宮と一緒に帰るかもしれない現実に脳の容量を圧迫され、優先順位がバグっていただけだ。


「……行きます」


「即答」


「本屋は別腹です」


「私より?」


「比較対象がおかしいです」


 星宮は少しだけ頬を膨らませた。


 その顔を見て、また心臓が変な動きをする。


 やめろ。


 膨らませるな。


 そういう顔は画面の中のヒロインだけがやっていい。現実でやられると、俺の青春コンプレックスが「これ本当に現実か?」と錯乱してしまう。


 教室を出ようとすると、原と篠崎がこちらを見ていた。


「お、今日は本屋デート?」


「高原くん、莉乃の荷物持ってあげなよー」


「デートではないです」


「じゃあ何?」


「共同購入遠征です」


 篠崎が眠そうな顔で首を傾げた。


「言い換えがオタクだねー」


 反論できなかった。


 俺と星宮は、そのまま学校を出た。


 夕方の街は、まだ明るかった。制服姿の学生がちらほら歩き、駅前には部活帰りらしき上級生たちがいる。星宮は人目を気にしているのか、少しだけ俺に近い位置を歩いていた。


 いや、違う。


 星宮はたぶん、単純に近くにいたいだけだ。


 この一ヶ月で、俺もそれくらいはわかるようになってしまった。


「清太、アンソロジー楽しみ?」


「当然です。公式アンソロジーは各作家の解釈が見られる貴重資料ですからね。キャラ崩壊ギリギリのコメディ回が来るか、原作の隙間を埋める尊い補完が来るかで評価が分かれます」


「早口」


「すみません」


「いいよ。清太の早口、好き」


 俺は足を止めかけた。


 好き。


 この人は本当に簡単にその言葉を使う。


 いや、簡単ではないのかもしれない。星宮にとっては、かなり重い意味を込めているのかもしれない。


 どちらにせよ、心臓に悪い。


「星宮さん、外でそういうこと言うのやめてください」


「じゃあ二人きりならいい?」


「そういう意味じゃないです」


「じゃあ、倉庫裏なら?」


「場所の問題でもないです」


 星宮は楽しそうに笑った。


 その笑顔を見ていると、こちらまで少し気が抜ける。


 昔の俺なら、こんなやり取りを怖がっていた。


 距離が近くなること。


 好意のようなものを向けられること。


 それを受け取ってしまうこと。


 全部が怖かった。


 拒まれたときの痛みを知っていたからだ。


 でも今は、星宮の言葉を完全には拒まない自分がいる。


 それが怖くて、同時に少しだけ嬉しかった。


 本屋に着くと、俺たちは一直線にコミックコーナーへ向かった。


 『青春いらない!!』の特設棚には、公式アンソロジーが平積みされていた。表紙にはメインヒロインたちが勢ぞろいしている。尊い。眩しい。紙面から青春粒子が放出されている。


 俺は思わず手を合わせそうになった。


「清太、拝まないで」


「神棚かと思って」


「わかるけど」


 星宮も目を輝かせて一冊手に取る。


 その横顔が、仕事中の星宮莉乃ではなく、完全に一人のオタクだった。


「清太、これ二冊買う?」


「もちろんです。一冊は読む用、一冊は保存用」


「布教用は?」


「予算が死にます」


「私が買う」


「財力でオタクを殴らないでください」


 星宮は本気で三冊目を手に取りかけた。


 俺は慌てて止めた。


 トップアイドルの購買力、怖い。


 会計を済ませたあと、俺たちは近くの小さな公園に寄った。


 ベンチに座り、買ったばかりのアンソロジーを開く。


 夕方の風がページを揺らした。星宮は俺の隣に座り、肩が触れそうな距離で同じ本を覗き込んでくる。


 近い。


 しかし、俺は逃げなかった。


 逃げなかった自分に、少し驚いた。


 最初の短編はコメディだった。


 主人公がヒロインたちに囲まれ、なぜか全員から「誰が一番幼馴染っぽいか」を競われる話。


 俺は一ページ目で本を閉じた。


「どうしたの?」


「現実が攻撃してきました」


「読む前から?」


「タイトルで致命傷です」


 星宮が覗き込む。


 そして、タイトルを見て笑った。


「幼馴染選手権だって」


「やめてください。俺の周囲でも似たような災害が起きています」


「私、優勝できるかな」


「出場資格がないです」


「でも、清太の幼馴染だよ?」


「自称です」


「今はね」


「またそれ」


 星宮はくすくす笑う。


 俺は仕方なくページを開いた。


 読み進めると、主人公がヒロインの圧に押され、幼馴染の定義を問われて完全に詰む場面があった。


 俺は震えた。


 作者、俺を見ているのか。


 いや、そんなわけがない。


 だが、あまりにも刺さる。


 隣では星宮が楽しそうに読んでいる。時々、俺の反応を確認するようにこちらを見る。その視線がまた痛い。


「清太、この主人公みたい」


「違います」


「詰められると黙るところとか」


「違います」


「でも、最後は逃げないところも似てる」


 俺は言葉に詰まった。


 星宮は少しだけ優しく笑った。


「私、そこが好き」


 まただ。


 好き。


 この言葉が、最近の俺には逃げ場のない真っ直ぐな矢みたいに刺さる。


 俺は昔、好きだった相手から拒まれた。


 近づくなと言われた。


 それ以来、誰かに向ける好意も、誰かから向けられる好意も、どこか怖かった。


 でも星宮は、その怖さを知ったうえで近づいてくる。


 重くて、面倒で、時々こちらが押し潰されそうになるくらい真っ直ぐに。


 俺はアンソロジーを閉じた。


「星宮さん」


「なに?」


「俺、まだ多分、うまく返せないです」


 星宮の表情が少しだけ止まった。


 瞳の奥に、不安が落ちる。


 けれど俺は続けた。


「でも、星宮さんから貰ったものを、なかったことにしたくないです」


 星宮は瞬きをした。


 夕方の光が、彼女の横顔を柔らかく照らす。


「……清太」


「だから、その、アンソロジーの布教用は俺がいつか買います」


「そこでオタクの話に戻るの?」


「重い空気に耐えられませんでした」


 星宮は数秒黙ったあと、吹き出した。


 笑いながら、少し目元を拭う。


「清太らしいね」


「悪口ですか」


「好きって意味」


「またすぐそういうこと言う」


「本当だから」


 星宮はベンチの上で、少しだけ俺のほうへ寄った。


 肩が触れる。


 俺は逃げなかった。


 公園の向こうでは、小学生たちが遊具で騒いでいる。駅前の雑踏も遠く聞こえる。世界は普通に動いているのに、俺の周りだけ少し静かだった。


「清太」


「はい」


「今日のことも、思い出にしていい?」


「聞くんですね」


「うん。勝手にしすぎると、清太が逃げるかもしれないから」


 俺は少しだけ驚いた。


 星宮が、自分から一歩だけ引いた。


 俺の距離を見てくれた。


 それが、思ったより嬉しかった。


「……いいですよ」


 星宮の顔が明るくなる。


「ほんと?」


「はい。ただし、幼馴染の思い出として捏造するのはやめてください」


「じゃあ、清太と莉乃の思い出」


 俺は否定しようとして、やめた。


 星宮が少しだけ不安そうにこちらを見ていたからだ。


 代わりに、俺はアンソロジーを開き直した。


「続き、読みましょう」


「うん」


 星宮は嬉しそうに頷いた。


 肩が触れたまま、二人で同じ本を読む。


 友達以上で、恋人未満。


 たぶん今の俺たちに一番近いのは、そんな曖昧な距離だ。


 昔の傷は、まだ消えていない。


 青春コンプレックスだって健在だ。


 今でも甘すぎる展開には心の中で奇声を上げるし、ラブコメ主人公には文句を言いたくなる。


 でも、星宮と並んで『青春いらない!!』を読むこの時間だけは、少しだけ信じてもいい気がした。


 俺の青春は、一度壊れた。


 けれど、変な形で、少しずつ続きを始めている。


 しかもその隣には、幼馴染を自称する現役トップアイドルがいる。


 やっぱり意味がわからない。


 でも、その意味のわからなさを、俺はもう嫌いではなくなっていた。

最後まで読んでいただき、ありがとうございます!

このお話が少しでも面白いと感じていただけたら、ぜひ「♡いいね」や「ブックマーク」をしていただけると嬉しいです。

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