また遊ぼ
翌朝。
俺は、玄関を開ける前から深呼吸していた。
理由は単純だ。
高確率で外に星宮莉乃がいる。
天気予報より信頼できる予測だった。降水確率四十パーセントなら傘を迷うが、星宮待機確率八十九パーセントなら心の準備が必要である。
俺は扉の前で、脳内の自分に言い聞かせた。
落ち着け、高原清太。
これは登校だ。
決してラブコメイベントではない。
朝、家の前で美少女が待っているなどという展開は、現実では発生しない。
発生しているが、認めなければセーフだ。
俺は扉を開けた。
「おはよ、清太」
発生していた。
そこには、当然のように星宮がいた。
制服姿で、鞄を両手に持ち、朝日の中で微笑んでいる。髪は昨日と少し違って、耳の横を柔らかくまとめていた。たぶん仕事の撮影で覚えたアレンジか何かだろう。
綺麗だった。
そして、俺の青春コンプレックスが即死した。
心の中の俺が、『青春いらない!!』第七巻を抱えて転げ回る。
朝の登校前、ヒロインが主人公の家の前で待っている。
髪型が違う。
主人公が気づく。
ヒロインが笑う。
そんなもの、紙の上だけに存在していい劇薬だ。現実に持ち込んではならない。劇物指定しろ。文部科学省は青春ラブコメイベントを管理しろ。
「清太?」
「……おはようございます」
「今日も一緒に行こ」
「ここまで来られたら、そうなりますよね」
星宮は嬉しそうに笑い、俺の隣に並んだ。
歩き出すと、住宅街の静けさに二人分の足音が混ざる。いつもなら何も考えずに通る道なのに、星宮が隣にいるだけで妙に落ち着かない。
しかも、昨日の電話が頭に残っていた。
『私もね、清太を独り占めしたいよ』
思い出すだけで、心臓が変な動きをする。
俺はその記憶を振り払うため、『青春いらない!!』の最新外伝について考えようとした。だが、外伝のヒロインもだいぶ重い。結局、星宮に戻ってくる。逃げ道がない。
「清太、昨日ちゃんと寝た?」
「寝ました」
「ほんと?」
「寝ました。夢に『青春いらない!!』の主人公が出てきて、俺に説教してきたくらいには」
「どんな夢?」
「『お前もそろそろ責任取れよ』って言われました」
星宮が一瞬固まった。
それから、顔を赤くして小さく笑った。
「その主人公、いいこと言うね」
「良くないです。俺の夢にまで侵入して説教するなと言いたい」
「でも、清太がそういう夢を見るくらい、考えてくれてるんだ」
「青春コンプレックスの副作用です」
「私のこと?」
「……広義では」
星宮は満足そうに目を細めた。
この人は、俺がどれだけ否定しても隙間から都合のいい部分を拾っていく。言葉の網目が細かすぎる。俺の本音がすぐ捕獲される。
学校に着く頃には、俺はすでに精神的に一戦終えた気分だった。
教室に入ると、原と篠崎がこちらを見て同時に笑った。
「おはよー。今日も夫婦登校?」
「朝から供給ありがとー」
「供給じゃないです」
俺が即座に否定すると、篠崎が眠そうな顔で首を傾げる。
「高原くん、昨日莉乃と電話した?」
「なぜ知ってるんですか」
「莉乃の顔が朝から充電満タンだから」
「人をバッテリー扱いするのやめてください」
星宮が隣で小さく反応した。
「清太は私の充電器だよ」
「本人が採用しないでください」
「じゃあ、専用充電器」
「悪化してます」
原が机を叩いて笑った。
教室の数人がこちらを見る。俺は額を押さえた。星宮はそんな俺の横で、幸せそうに笑っている。
その笑顔を見ると、怒る気が少し減る。
それがまた腹立たしい。
昼休み。
俺はいつもの倉庫裏へ向かった。
星宮は少し遅れてやってきた。手には弁当袋と、なぜか『青春いらない!!』の単行本が二冊ある。
「清太、今日はこの回について語りたい」
「第九巻ですか」
「うん。主人公がヒロインの手を取るのに、最後まで恋人とは言わない回」
「名作だけど胃が痛いやつですね」
「清太みたいだよね」
「やめてください。俺を胃痛巻に分類しないでください」
星宮は俺の隣に座り、単行本を開いた。
そこには、主人公が過去の失敗から人との距離を怖がり、それでもヒロインの手を離さない場面が描かれている。
俺はページを見て、少しだけ呼吸が浅くなった。
昔の記憶が、ふと浮かぶ。
中学の廊下。
好きだった女子の冷めた目。
『もう私に近づかないでくれる?』
あの言葉を聞いたとき、俺は人に近づく資格そのものを否定された気がした。
近づけば嫌がられる。
踏み込めば迷惑になる。
好意を見せれば、相手を困らせる。
だから俺は、距離の取り方ばかり覚えた。
誰かが近づいてきたら一歩引く。
自分から何かを求めない。
本音は、できるだけ飲み込む。
それが安全だと思っていた。
でも、今は。
隣で星宮が、俺が黙ったことに気づいている。
彼女は何も言わず、そっと俺の袖をつまんだ。
その手を、俺は振り払わなかった。
むしろ、ほんの少しだけ指先を動かして、そこにいることを返した。
星宮の手が止まる。
「清太」
「……なんですか」
「今、逃げなかった」
「毎回逃げてる前提なの、やめてもらっていいですか」
「でも、逃げなかった」
星宮の声が少し震えていた。
俺は視線を逸らしながら言った。
「……昔のことを思い出しただけです。でも、今は星宮さんがいるので」
言ってから、俺は自分の首を絞めたくなった。
何だ今の台詞。
『青春いらない!!』の帯に載るやつか。
担当編集が「ここ見せ場です」と赤字を入れるやつか。
俺の脳内にいる青春コンプレックス委員会は全員泡を吹いて倒れた。
星宮は完全に固まっていた。
弁当箱を開けたまま、箸も持たず、ただ俺を見ている。
「清太」
「忘れてください」
「無理」
「ですよね」
「私、今日のこれで一週間は生きられる」
「燃費がいいのか悪いのかわからない」
「でも明日も補給したい」
「結局悪い」
星宮は笑った。
けれど、その目元は少し潤んでいた。
「清太が昔のこと思い出しても、今は私がいるって思ってくれたの、すごく嬉しい」
「……俺も、少し助かりました」
星宮はまた固まった。
そのあと、顔を両手で覆った。
「無理」
「今度は何ですか」
「清太が素直すぎて無理」
「不満なんですか」
「嬉しいの限界」
彼女は机もない倉庫裏で、弁当箱を前にして悶えていた。
俺はその姿を見て、少し笑ってしまった。
トップアイドルが倉庫裏で悶えている。
俺の青春は完全におかしい。
でも、悪くない。
昼休みの終わり際、星宮が第九巻を閉じた。
「清太」
「はい」
「今度、また私の家でカードしよ」
「カードですか」
「うん。カードもしたいし、『青春いらない!!』も一緒に読みたい」
「それ、ただ遊びたいだけでは」
「うん。清太と遊びたい」
真っ直ぐ言われた。
俺は返答に詰まる。
昔なら、ここで理由を作って逃げていた。
でも、逃げなかった。
「……予定が合えば」
「ほんと?」
「はい」
星宮は嬉しそうに笑った。
その笑顔を見た瞬間、また胸が鳴る。
友達以上。
恋人未満。
俺たちの関係は、相変わらず名前がつかない。
でも、名前がなくても確かにそこにある。
予鈴が鳴り、俺たちは教室へ戻った。
途中、星宮が小さく言った。
「清太、午後も逃げないでね」
「どこからですか」
「私のこと考えることから」
「それは……」
否定しようとした。
でも、たぶん無理だ。
「善処します」
「善処じゃ嫌」
「……少し考えます」
星宮は満足そうに頷いた。
午後の授業中、俺は結局、星宮のことを考えた。
そしてノートの端に、無意識でこう書いていた。
――青春いらない、とは言ったが、星宮はいらないとは言っていない。
気づいた瞬間、俺はその一文を全力で消した。
だが隣の星宮には、しっかり見られていた。
彼女は頬杖をつき、俺にだけ見える角度で笑っている。
終わった。
俺の青春コンプレックスは、今日も星宮莉乃に敗北した。
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