責任論
夜の電話以降、俺の生活はさらにおかしくなった。
朝起きる。
スマホを見る。
星宮から『おはよう、清太』と来ている。
登校する。
校門前で、なぜか星宮が待っている。
昼休み。
俺のマイホーム兼、星宮の別荘で弁当を食べる。
放課後。
星宮が仕事へ行く日はメッセージが来る。
仕事がない日は、なぜか一緒に帰る流れになる。
これをラブコメではないと言い張るのは、そろそろ法律に抵触するかもしれない。
しかし、俺はまだ認めない。
なぜなら俺は青春コンプレックス持ちであり、青春という概念に対して一方的な恨みを抱いている男だからだ。
たとえば、朝の登校中に星宮が隣で「今日、髪ちょっと変えたんだけど、わかる?」などと言ってくる。
普通の男子なら、そこで甘酸っぱい空気を味わうのだろう。
だが俺の場合、脳内に『青春いらない!!』の名シーンが高速再生される。
ヒロインが前髪を少し切ったことに主人公が気づく第七巻の神回。
あのとき俺は画面越しに「気づくな! いや気づけ! でも気づいたら俺の現実が死ぬ!」と叫びながら枕を握り潰した。
そして今、現実で星宮が同じようなことをしてくる。
俺の青春コンプレックスは過労死寸前だった。
「清太、聞いてる?」
「聞いてます」
「じゃあ、どこが変わったでしょう」
「……前髪、少し巻いてます?」
俺が恐る恐る言うと、星宮はぱっと顔を輝かせた。
「正解」
その笑顔で、俺の中の青春コンプレックス委員会が緊急会議を開いた。
議題、高原清太は今、青春をしているのではないか。
反対意見、これは星宮莉乃による一方的侵略であり、青春ではない。
賛成意見、朝に髪型の変化を当ててヒロインが喜んだ時点でほぼアウト。
採決、死刑。
俺は心の中で机に突っ伏した。
そんな俺を知らず、星宮は機嫌よく隣を歩く。
「清太、ちゃんと見てくれてるんだね」
「見てないと怒るじゃないですか」
「怒らないよ」
「曇りますよね」
「曇るかも」
「ほら」
星宮は少しだけ頬を膨らませた。
可愛い。
まずい。
最近、可愛いと思うまでの速度が上がっている。
以前なら、星宮の言動に対して「怖い」「重い」「面倒」の三段活用で処理できた。だが今は、その間に「可愛い」が割り込んでくる。
怖い。
可愛い。
重い。
可愛い。
面倒。
可愛い。
俺の脳内処理は完全にバグっていた。
教室に入ると、原と篠崎がいつものようにこちらを見てにやついた。
「おはよー。今日も一緒に登校?」
「高原くん、もう隠す気ないねー」
「隠すも何も、たまたまです」
「たまたま毎朝?」
「確率の偏りです」
俺がそう返すと、篠崎が眠そうな目で笑った。
「言い訳が弱いねー」
原は星宮の髪を見て、すぐに反応した。
「あ、莉乃、今日ちょっと髪巻いてる?」
「うん。清太も気づいてくれた」
星宮が嬉しそうに言う。
教室の空気が、また変な方向へ甘くなった。
俺は即座に窓の外を見た。
見ない。
俺は何も見ない。
青春濃度が高すぎる空間に長時間いると、俺の中学時代の傷が「俺にも出番をくれ」と暴れ始める。
あの日、好きだった女子に言われた言葉。
『もう私に近づかないでくれる?』
その記憶は、今でもふとした瞬間に蘇る。
誰かに近づくことは、拒絶される可能性とセットだ。
距離が近くなればなるほど、突き放されたときの痛みは深くなる。
だから俺は、距離を取ることを覚えた。
相手に合わせて笑い、踏み込みすぎず、本音を見せず、嫌われない位置に留まる。そうやっていれば、致命傷は避けられると思っていた。
でも、星宮は違う。
俺が引くと、前に出てくる。
俺が黙ると、覗き込んでくる。
俺が逃げようとすると、袖を掴む。
そして俺は、少しずつ逃げるのをやめ始めている。
それが一番怖かった。
昼休み。
俺は弁当を持って倉庫裏へ向かった。
今日は少し遅れて星宮が来た。手には弁当袋と、『青春いらない!!』の最新グッズらしき小さなアクリルキーホルダーがある。
「清太、見て。昨日の仕事帰りに買えた」
「推しキャラのやつじゃないですか」
「うん。清太の分もあるよ」
「なぜ俺の分まで」
「清太が買うか迷って、予算の都合で諦める顔が想像できたから」
「俺の経済状況まで把握しないでください」
星宮は得意げにキーホルダーを差し出した。
俺は受け取るか迷った。
プレゼントを受け取る。
それはまた一つ、星宮との関係を進める行為のような気がした。
昔の俺なら、きっと断っていた。
迷惑をかけたくない。
借りを作りたくない。
距離が近くなりすぎるのが怖い。
そうやって、相手の好意を遠ざけていた。
でも、それで相手に何も伝わらないことも、少しずつわかってきた。
俺は息を吐き、キーホルダーを受け取った。
「ありがとうございます」
星宮の目が丸くなる。
「受け取ってくれるんだ」
「そりゃ、推しですし」
「推しだから?」
「……星宮さんが、俺に買ってきてくれたものですし」
言った瞬間、星宮の表情が変わった。
嬉しさが、ぱっと広がる。
けれどその直後、少しだけ目元が潤んだ。
「清太、そういうこと言うのずるい」
「ずるい判定が多いですね」
「だって、私が清太の中にいるってわかるから」
星宮は俺の隣に座り、弁当箱を開けた。
その距離は近い。
でも今日は、俺から少しだけ動いても離れなかった。
星宮がそれに気づいたのか、箸を持つ手が一瞬止まる。
横目で見ると、彼女は口元を隠すようにしていた。
「どうしました?」
「清太が逃げなかった」
「いつも逃げてるみたいに言わないでください」
「逃げてるよ」
「否定できないのが悔しいですね」
星宮は小さく笑った。
その笑顔が穏やかで、俺は少しだけ安心する。
それから二人で『青春いらない!!』の推し回について語った。
第七巻の髪型変化回は神なのか。
第九巻の文化祭後夜祭回は、主人公が鈍感なのではなく怖がっているだけではないのか。
外伝の無自覚救済は罪なのか。
星宮はいつも通り重い解釈を出してきた。
「私はね、ヒロインが重くなるのは主人公の責任だと思う」
「また責任論ですか」
「だって、救ったなら最後まで見てほしいじゃん」
「救った側にも事情が」
「でも、救われた側は忘れられないよ」
星宮はそう言って、俺を見る。
俺は箸を止めた。
その視線の意味は、もうわかる。
星宮にとって、俺は無自覚救済系主人公なのだろう。
そんな器ではない。
俺はただ、その場でできることをしただけだ。
でも、星宮の中ではそれが大きく残っている。
「……俺は、救ったなんて大層なことはしてません」
「でも、私にはそうだった」
星宮の声は静かだった。
「だから、清太が責任を感じなくても、私は勝手に覚えてる。勝手に大事にしてる。勝手に好きになってる」
好き。
その言葉が、昼の倉庫裏に落ちた。
何度か聞いたはずなのに、まだ慣れない。
俺は視線を逸らしそうになった。
でも、逸らさなかった。
昔なら逃げていた。
近づかないでと言われる前に、こちらから距離を置いていた。
でも今は、そうしなかった。
「……勝手すぎますね」
「うん」
「でも、嫌じゃないです」
星宮の箸が止まった。
その目が、ゆっくりと見開かれる。
「清太」
「はい」
「今日、私、午後の仕事頑張れないかも」
「なんでですか」
「嬉しすぎて」
「頑張ってください」
星宮は泣きそうな顔で笑った。
その顔を見て、俺は思った。
俺はたぶん、過去から逃げるだけではなく、少しだけ学んだのだ。
好意を遠ざければ安全かもしれない。
でも、遠ざけ続ければ、誰にも何も届かない。
だから、今は少しだけ受け取る。
少しだけ返す。
その程度なら、今の俺にもできる。
予鈴が鳴った。
星宮は名残惜しそうに立ち上がる。
「清太、午後も私のこと考えてね」
「授業中は無理です」
「じゃあ休み時間」
「善処します」
「善処じゃ嫌」
星宮は俺の袖をつまんだ。
「考えて」
その声が、あまりにも真剣だった。
俺は負けた。
「……少しは」
星宮は満足そうに笑った。
その笑顔を見て、俺の心臓がまた跳ねる。
青春コンプレックスは相変わらず俺の中で暴れている。
だが、それでも。
星宮莉乃と過ごすこのおかしな青春を、俺はもう完全には拒めなくなっていた。
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