聞きたかった声
昼休みが終わってからの午後の授業は、俺にとって修行だった。
星宮に「かなり意識してます」などという、ラブコメ主人公なら次巻の帯にデカデカと載せられそうな発言をしたせいで、俺の精神は完全に焼け野原になっていた。
黒板の文字が頭に入らない。
教師の声が遠い。
ノートには授業内容ではなく、無意識に『青春いらない!!』の推しヒロインの名前を書いていた。しかもその横に、なぜか星宮莉乃と並べて相関図まで描きかけていた。
終わりだ。
俺はもう、読者側ではない。
ラブコメを安全圏から鑑賞し、主人公の鈍感ムーブに「そこで気づけよ!」と枕を殴っていた側の人間ではなくなってしまった。
気づいたうえで動けない側に回っている。
これは罪が重い。
俺は心の中で『青春いらない!!』の主人公に土下座した。今まで鈍感だの責任取れだの言って悪かった。実際にヒロインが重い感情をぶつけてくると、人間は驚くほど無力になる。カヒコワタル、お前にも事情があったのかもしれない。いや、でもお前はヒロイン増えすぎだから一回反省しろ。
そんな混沌とした精神状態で放課後を迎えた。
星宮は撮影のため、すぐに教室を出る支度をしていた。原と篠崎が「莉乃、今日も仕事かー」と声をかける中、彼女はいつものように笑っている。
完璧な笑顔。
星宮莉乃としての顔。
けれど俺は、その笑顔の裏を少しだけ知ってしまっている。
倉庫裏で袖を掴んだ手。
俺の中に自分がいるか確かめるような目。
逃げないで、と言わない代わりに距離を詰めてくる重さ。
その全部を知ったうえで仕事用の笑顔を見ると、胸の奥に妙な痛みが走った。
「清太」
星宮が俺の席まで来た。
教室のざわめきが少しだけ薄くなる。
「今日、終わったら連絡するね」
「はい」
「ちゃんと返事して」
「気づいたら返します」
「気づかせるくらい送るから」
「その宣言、怖いです」
星宮は小さく笑った。
けれど、すぐに少しだけ目を伏せる。
「今日の撮影、男の人と一緒のカットもあるけど」
「……仕事でしょう」
「うん。仕事」
星宮は俺を見た。
その瞳は、俺の返答を待っていた。
俺は以前なら、ここで「頑張ってください」と無難に済ませていたと思う。相手が芸能人なのだから、仕事に口を出す権利なんてない。そうやって距離を取れば安全だった。
でも、あの日の職員室を思い出した。
自分の本音を飲み込み、相手に合わせ、波風を立てないように振る舞い続けた結果、俺は仮面を手放せなくなった。
本音を隠せば傷つかない。
そう思っていた。
でも、本音を隠し続けると、相手に何も届かない。
京介に話したとき、少しだけ学んだはずだった。
だから俺は、息を吐いた。
「……正直、少し嫌です」
星宮の目が見開かれる。
原が「お」と声を漏らし、篠崎が「高原くん、攻めたねー」と小さく呟いた。
俺は顔が熱くなるのを無視して続けた。
「でも、それは星宮さんにやめてほしいとかじゃなくて、俺が勝手にそう思ってるだけです。だから、ちゃんと仕事は頑張ってきてください」
星宮はしばらく黙っていた。
それから、両手で鞄の持ち手をぎゅっと握る。
「清太」
「はい」
「そういうの、ちゃんと言われると……私、すごく嬉しい」
星宮の頬が赤くなった。
目元には、泣きそうなほどの熱がある。
「清太が私のことで嫌だって思ってくれるの、最低かもしれないけど嬉しい。でも、仕事頑張ってって言ってくれるのも嬉しい」
「複雑ですね」
「うん。清太のせいで複雑」
「俺のせいにしないでください」
「清太のせいだよ」
星宮は一歩近づく。
そして、俺にだけ聞こえる声で言った。
「帰ったら、最初に清太へ連絡する。撮影で誰と並んでも、最初に思い出すのは清太だから」
心臓が跳ねた。
原が遠くでにやついている。
篠崎は完全に面白がっている。
俺はそれどころではなかった。
星宮は満足したように笑って、教室を出ていった。
その背中を見送る。
俺は今度こそ、ちゃんと見送った。
以前の俺なら、視線を逸らしていただろう。誰かに見られるのが怖くて、変な噂になるのが嫌で、無関係なふりをしていたはずだ。
でも今は違う。
見送るくらいは、逃げではない。
そう思えた。
帰宅後、俺は自室で『青春いらない!!』を開いた。
今日選んだのは、主人公がヒロインを送り出す回だった。部活の大会に向かうヒロインに、主人公が不器用ながら本音を伝える。昔読んだときは「はいはい青春ですね、尊いですね、俺の心臓を粉末にする気ですか」と悶えていた場面だ。
今読むと、なぜか少し違った。
主人公はヒロインを引き止めない。
でも、ちゃんと寂しそうにする。
ヒロインはそれを受け取って、笑って前に進む。
まさか俺が、この場面に実感を持つ日が来るとは思わなかった。
俺は漫画を閉じ、天井を見た。
青春コンプレックスを抱えた俺が、現役トップアイドルを送り出して、スマホの通知を待っている。
なんだこの状況。
ラブコメ脳の俺ですら、設定過多だと編集に突っ返すレベルである。
スマホが震えたのは、夜八時を過ぎた頃だった。
星宮莉乃。
『終わった』
続けて写真が届く。
撮影現場の控室らしい場所。星宮は衣装のまま、少し疲れた顔で笑っていた。完璧な芸能人の笑顔ではなく、気を抜いた、俺が知っている星宮に近い表情。
『清太が嫌って言ったから、ちょっとだけ顔に出ちゃったかも』
俺は返信を打つ。
『仕事に支障出してないですよね』
『たぶん』
『たぶんじゃ困るでしょう』
『でも、清太のこと考えたら頑張れた』
胸の奥が熱くなる。
俺はスマホを持ったまま、しばらく動けなかった。
この一ヶ月で、星宮は俺の日常に入り込んできた。
けれど、俺もまた、彼女の仕事の中に少しだけ入り込んでいるのかもしれない。
それは少し怖くて、少し嬉しい。
『お疲れ様です』
『今日はちゃんと休んでください』
送ると、すぐに既読がついた。
『清太が言うなら休む』
『でも寝る前に少しだけ電話したい』
俺はスマホを落としかけた。
電話。
メッセージではなく、電話。
心の中の青春コンプレックスが警報を鳴らした。
夜に女子と電話。
しかも相手は星宮莉乃。
これは危険だ。
『青春いらない!!』なら、ここで通話中に沈黙が生まれ、互いに意識して、最後に「おやすみ」の声が妙に甘くなるやつだ。読者が枕を殴る回だ。俺なら殴る。確実に殴る。
だが、現実の俺は枕を殴る側ではない。
殴られる側である。
『少しだけなら』
送信。
すぐに着信が来た。
早い。
早すぎる。
俺は深呼吸してから通話ボタンを押した。
「……もしもし」
『清太』
耳元で、星宮の声がした。
メッセージより近い。
教室より近い。
倉庫裏より、なぜか近く感じる。
『声、聞きたかった』
「……今日、ずっと学校で聞いてたじゃないですか」
『仕事のあとの清太の声は別』
「分類しないでください」
星宮は小さく笑った。
その笑い声だけで、俺の心臓がまた変な動きをする。
『ねえ、清太』
「なんですか」
『今日、私のこと嫌って思ったんだよね』
「その言い方やめてください」
『でも、嬉しかった』
星宮の声が少しだけ低くなる。
『清太が私を独り占めしたいって、ちょっとだけ思ったみたいで』
「そこまでは言ってません」
『思ってない?』
答えられなかった。
沈黙。
電話越しの沈黙は、対面よりずっと逃げ場がない。
『清太、黙った』
「……少しは、思ったかもしれません」
言った瞬間、俺は枕に顔を埋めたくなった。
終わりだ。
これはもう終わりだ。
星宮は通話の向こうで息を呑んだ。
『清太』
「今のは忘れてください」
『無理。一生忘れない』
「知ってました」
星宮が笑う。
でも、その笑い声は震えていた。
『私もね、清太を独り占めしたいよ』
声が、やけに近い。
『学校でも、倉庫でも、家でも、電話でも。清太がいる時間、全部私のものにしたいって思う』
「重いです」
『うん』
「怖いです」
『うん』
「でも……」
言葉が止まる。
逃げるのは簡単だった。
冗談にすればいい。
茶化せばいい。
いつものように、少し引いた位置からツッコミを入れれば、この空気は薄まる。
でも、そればかりでは届かない。
俺は過去から、それを少しだけ学んだはずだった。
「嫌じゃないです」
通話の向こうが静かになった。
俺の心臓の音だけが、やけに大きい。
『……清太』
「はい」
『明日、昼休み絶対来て』
「行きます」
『朝も一緒に行っていい?』
「……場所を特定して待つのはやめてください」
『じゃあ、迎えに行くね』
「同じ意味です」
星宮はようやく、いつものように笑った。
電話を切るまでの数分間、俺たちは『青春いらない!!』の外伝の話をした。
推しヒロインの重さについて。
主人公が責任を取るべきかについて。
無自覚救済系主人公の罪深さについて。
星宮は楽しそうに語り、俺もつられて熱くなった。
その時間は、恋人のようで、でもまだそうではない。
友達以上で、恋人未満。
名前をつけるには怖くて、でも名前がなくても確かにそこにある距離。
通話を切る直前、星宮が小さく言った。
『おやすみ、清太』
「おやすみなさい、星宮さん」
『莉乃って呼んでくれたら、もっとよく眠れるかも』
「おやすみなさい、星宮さん」
『むぅ』
その不満そうな声が、妙に可愛かった。
電話が切れたあと、俺はしばらくスマホを見つめていた。
俺の過去は、まだ消えていない。
傷も、怖さも、拒絶された記憶も残っている。
けれど今日、俺は少しだけ本音を言えた。
嫌だった。
独り占めしたいと思ったかもしれない。
嫌じゃない。
そのどれも、昔の俺なら絶対に言えなかった言葉だ。
俺はベッドに倒れ込み、『青春いらない!!』の主人公にもう一度心の中で謝った。
すまん。
ラブコメ主人公、難しすぎる。
でも、悪くはない。
そう思ってしまった自分に、俺はもう逆らえなくなっていた。
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