ずっと覚えてるね
昼休みまでの三時間は、異様に長かった。
原因はわかっている。
星宮が仕事の写真を見せられ、俺が少し嫉妬したような発言をしてしまい、本人にそれを拾われたからだ。
授業中、俺は黒板を見ているふりをしながら、頭の中で何度も自分を裁判にかけていた。
被告人、高原清太。
罪状、現役トップアイドルの放課後デート風撮影に対して「少し嫌だった」と発言した罪。
判決、青春コンプレックス刑。
執行内容、『青春いらない!!』文化祭編を一巻から読み直し、ヒロインが主人公に嫉妬するたびに胸を押さえて転げ回ること。
重すぎる。
だが妥当だ。
俺の中の裁判長は木槌を叩き、俺の中の検察官は「被告人は完全に星宮莉乃を意識しています」と鋭く指摘し、俺の中の弁護士は「いや、これは青春コンプレックスによる一時的な発作であり」と苦しい弁護をしていた。
全部俺である。
救いがない。
しかも右隣の星宮は、そんな俺の内心を知らないまま、いや、たぶん半分くらい察している顔で、時々こちらを見てくる。
目が合うたびに微笑む。
やめてほしい。
その笑顔は俺に効く。
昨日までの俺なら「トップアイドルの笑顔は光量がバグってるな」くらいで済んだ。だが今は違う。光量だけではない。熱量まである。直視すると心臓が炙られる。
俺はノートの端に小さく『ラブコメは読むもの。巻き込まれるものではない』と書いた。
その下に、無意識で『でも星宮さんは可愛い』と書きかけて、慌てて消した。
危ない。
俺の右手まで星宮に侵食され始めている。
ようやく昼休みになると、俺は弁当を持って教室を出た。
今日はいつもより早足だった。
別に星宮を待っているわけではない。
ただ、マイホームに行くだけだ。
俺のマイホーム。
星宮が勝手に別荘と呼び、最近では原と篠崎にまで存在がバレた、もはや秘密基地というより共有物件になりつつある場所だ。
倉庫裏に着くと、星宮はまだいなかった。
俺は岩に腰を下ろし、弁当箱を開ける。
静かだった。
昔なら、この静けさに安心していた。
誰もいないこと。
誰の視線もないこと。
誰かに合わせる必要がないこと。
それが俺の救いだった。
けれど今は、ほんの少しだけ物足りない。
その事実に気づいた瞬間、俺は箸を落としかけた。
まずい。
これはまずい。
一人を愛し、一人を信仰し、一人を崇めてきた俺の孤独宗が、星宮莉乃という異教の女神に侵略されている。
俺の心の神殿に、勝手に星宮像が建っている。
しかも出来がいい。
解像度が高い。
脳内で勝手に微笑んでくる。
「清太、何してるの?」
「うおっ」
入口に星宮が立っていた。
弁当袋を持ち、少し首を傾げている。
「一人で百面相してた」
「してません」
「してたよ。難しい顔して、急に焦って、最後ちょっと悔しそうだった」
「観察しないでください」
星宮は嬉しそうに笑って、俺の隣に座った。
その距離が自然すぎる。
もう、彼女は遠慮なく俺の隣に座る。そこが自分の場所だと信じているように。
いや、たぶん信じている。
星宮莉乃はそういう女だ。
「今日、早かったね」
「普通です」
「私に会いたかった?」
「弁当を食べに来ただけです」
「じゃあ、私と弁当を食べたかった?」
「誘導尋問やめてください」
星宮は弁当箱を開けながら、くすくす笑った。
その笑い方が楽しそうで、俺は少しだけ肩の力が抜ける。
やっぱり、この時間は落ち着く。
認めたくないが、落ち着く。
「清太、昨日の『青春いらない!!』外伝、続き読んだ?」
「読みました」
「どうだった?」
「主人公、責任を取るべきですね」
「またそれ」
「だってそうでしょう。あのヒロイン、完全に主人公の一言で人生の方向変わってるじゃないですか。無自覚救済系主人公は、救った相手の重さを背負うべきなんです」
俺が熱く語ると、星宮は箸を止めて俺を見た。
「清太が言うと説得力あるね」
「なぜですか」
「私の人生の方向、少し変えたから」
弁当の唐揚げが喉に詰まりかけた。
「重いです」
「うん。重いよ」
「自覚してるのが一番怖い」
「でも、清太は逃げないって言った」
「できる範囲で、です」
「じゃあ、今は逃げてないね」
星宮はそう言って、俺の袖を軽くつまんだ。
その指先に、昨日の撮影の不安がまだ少し残っている気がした。
俺はため息を吐く。
「……昨日の写真」
「うん」
「綺麗でした」
星宮の手が止まった。
「でも、少し嫌でした」
言葉にした瞬間、また胸が熱くなる。
星宮は何も言わなかった。
ただ、じっと俺を見る。
「星宮さんが仕事でそういう顔をするのは当然だし、俺が何か言うことじゃないのはわかってます。でも、嫌だったものは嫌だったので」
俺は視線を逸らした。
「以上です。被告人からの供述は終わりです」
「被告人?」
「俺の中で裁判が開かれていたので」
星宮は数秒黙ったあと、ふっと笑った。
次の瞬間、彼女は弁当箱を置き、両手で顔を覆った。
「清太、ずるい」
「何がですか」
「そんなこと言われたら、私、仕事行けなくなる」
「行ってください。社会的信用が崩れます」
「清太のせいで崩れたい」
「発言が危険すぎる」
星宮は顔を覆ったまま、肩を震わせていた。
笑っているのか、照れているのか、少し泣きそうなのか、わからない。
やがて彼女は顔を上げた。
頬が赤い。
目元も少し潤んでいる。
「私、清太に嫌がられるのは怖いけど、清太が私のことで嫌な気持ちになるのは……ちょっと嬉しい」
「最低では?」
「最低かも」
星宮は小さく笑った。
「でも、清太の中に私がいるってわかるから」
その言葉は重い。
でも、前ほど怖くはなかった。
むしろ、俺はその重さの意味を少しずつ理解し始めていた。
星宮は芸能人だ。
たくさんの人に見られる。
たくさんの人に好きだと言われる。
でも彼女が欲しがっているのは、不特定多数の視線ではない。
俺の中に、自分の場所があるという確証なのだ。
それがわかるから、俺は強く拒めない。
「星宮さん」
「なに?」
「俺、たぶんまだ恋人とかそういうのはわからないです」
星宮の表情が少しだけ止まった。
瞳の奥に、不安が落ちる。
俺は慌てて続けた。
「でも、星宮さんのことは、かなり意識してます」
星宮が固まった。
倉庫裏の空気まで止まったように感じた。
俺は自分の発言を理解して、遅れて死にたくなった。
何を言っている。
なぜ言った。
俺の青春コンプレックスが火災警報を鳴らしている。
ラブコメだったらここでヒロインが赤面し、主人公も赤面し、二人の距離が少し近づく。だが俺は違う。俺の場合、心の中のオタクが『青春いらない!!』の名シーンを引用しながら発狂している。
恋愛イベント発生。
選択肢を間違えるな。
セーブデータはない。
人生はオートセーブ。
終わりだ。
「清太」
星宮の声が震えていた。
「今の、ほんと?」
「……言わなきゃよかったです」
「ほんとなんだ」
星宮はゆっくり笑った。
その笑顔は、嬉しさで壊れそうだった。
でも、同時に少し怖かった。
「私、今日のこと一生覚える」
「重いです」
「清太が悪い」
「それはそうかもしれない」
星宮は俺の袖を握る。
その力は弱いのに、離れない。
「清太がまだ恋人とか、そういうのがわからなくてもいいよ」
彼女は俺を見た。
「でも、私のこと意識してるなら、それだけで今日は平気」
「今日は、なんですね」
「明日はまた不安になるかも」
「燃費が悪い」
「清太で充電してるから」
「俺はモバイルバッテリーじゃないです」
星宮は笑った。
ようやく、いつもの空気が戻ってくる。
でも、俺たちの間にあるものは、昼休みが始まる前とは少し変わってしまった気がした。
友達以上。
恋人未満。
そんな曖昧な距離の中で、俺はまた一歩、星宮に近づいてしまった。
いや、近づかされたのかもしれない。
けれど今は、どちらでもよかった。
予鈴が鳴る。
星宮は名残惜しそうに俺の袖を離した。
「清太、午後も私のこと考えてね」
「授業に集中してください」
「清太もね」
「俺はします」
「嘘。絶対考える」
否定したかった。
でも、できなかった。
教室へ戻る途中、俺は心の中で『青春いらない!!』の主人公に謝った。
今まで鈍感だの責任取れだの言って悪かった。
実際にヒロインが重い感情をぶつけてくると、人はまともに動けなくなるらしい。
そして俺は、星宮莉乃という現実のヒロインから、もう目を逸らせなくなっていた。
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