モヤモヤする気持ち
午後の授業は、いつもより少しだけ長く感じた。
昼休みに星宮と交わした言葉が、頭の中に残り続けていた。
――もう、残ってますよ。
自分で言ったくせに、思い返すたびに顔が熱くなる。
あれは失言だった。
間違いなく失言だった。
星宮莉乃という存在が、俺の中に残りすぎて困っている。そんなこと、本人に言うべきではなかった。あの女は、俺の言葉を一つ残らず拾い上げ、綺麗な箱に入れて、勝手に思い出として保存するタイプなのだ。
しかも、保存しただけでは終わらない。
定期的に取り出して眺め、意味を増やし、重さを足し、いつの間にか「私たちの大切な記憶」へ変換してくる。
危険すぎる。
授業中、右隣の星宮はやけに機嫌が良かった。
ノートを取る手つきはいつも通り丁寧で、教師に当てられたときの返答も完璧だった。けれど、ふとした瞬間にこちらを見てくる。目が合うと、ほんの少しだけ口元を緩める。
その笑みが、昼休みの言葉を思い出している顔に見えて、俺はすぐに視線を逸らした。
だが、逸らした先のノートにも、なぜか星宮のことが浮かぶ。
俺は重症かもしれない。
放課後になると、星宮は仕事へ向かう準備を始めた。
今日は撮影があると言っていた。教室に残っていた原と篠崎が、いつもの調子で彼女を囲む。
「莉乃、今日も仕事? 売れっ子じゃん」
「星宮莉乃さん、遠い存在になっちゃうねー」
篠崎が眠そうな声で言うと、星宮は柔らかく笑った。
「そんなことないよ。学校では普通に莉乃でいたいし」
その言葉を聞いて、俺は少しだけ手を止めた。
学校では普通に莉乃でいたい。
なら、俺が見ている彼女はどちらなのだろう。
芸能人としての星宮莉乃。
クラスの人気者としての星宮。
それとも、倉庫裏で俺の袖を掴みながら「清太の中に残りたい」と言った、あの重たい女の子。
たぶん、全部同じなのだ。
そう思うと、余計に厄介だった。
「清太」
星宮が俺の席まで来た。
原と篠崎の視線が、即座にこちらへ向く。
「仕事終わったら連絡するね」
「はい」
「ちゃんと返してね」
「気づいたら返します」
「気づかせるくらい送る」
「だから怖いんですって」
星宮は少しだけ笑った。
でも、その瞳の奥には、昼休みに見た不安がまだ残っていた。
「今日、撮影で男の人と一緒のカットがあるんだって」
「そうなんですか」
「うん。雑誌の企画。春の放課後デート風、みたいな」
俺の手が止まった。
放課後デート風。
星宮莉乃が、俺ではない誰かと、そういう写真を撮る。
仕事だ。
ただの仕事。
そんなことはわかっている。
彼女は芸能人で、そういう企画も当然ある。俺がどうこう思う筋合いはない。
なのに、胸の奥が少しだけざわついた。
星宮は、俺の反応を見逃さなかった。
「……清太、今ちょっと嫌だった?」
「別に」
「ほんと?」
「仕事でしょう」
「仕事だよ」
星宮は頷いた。
けれど、なぜか少しだけ嬉しそうだった。
「でも、清太が少しでも嫌だって思ってくれたなら、私、頑張れるかも」
「なぜそうなるんですか」
「だって、清太の中に私がいるってことでしょ」
重い。
朝から晩まで重い。
原が口元を押さえてにやにやしている。篠崎は「うわー、莉乃が通常運転だー」と小さく呟いた。
俺は聞こえなかったふりをした。
「清太」
「なんですか」
「撮影中、私はちゃんと星宮莉乃でいる。でも、終わったら清太の莉乃に戻るから」
「俺のではないです」
「今はね」
「今は、も違います」
星宮は満足そうに笑った。
そのまま教室を出ていく背中を、俺はまた見送ってしまった。
今度は原に指摘される前に、わざと鞄を漁るふりをする。
「高原くん、隠すの下手だよねー」
「めっちゃ見てたね」
原と篠崎の声が飛んでくる。
「見てません」
「はいはい。莉乃が他の男と放課後デート風撮影するの、気になるんだ?」
「仕事ですから」
「答えになってないねー」
篠崎がゆるく笑った。
俺は何も言い返せなかった。
帰宅後、俺は自室で『青春いらない!!』の外伝を開いた。
集中できない。
推しヒロインが主人公に嫉妬する場面を読んでも、以前のように「尊い」だけでは済まなくなっていた。ヒロインが主人公の何気ない一言を大事に抱えている描写を見るたび、星宮が浮かぶ。
しかも、今日の撮影のことまで考えてしまう。
星宮が誰かと並んで歩く。
カメラの前で笑う。
恋人みたいな距離で、放課後デート風の雰囲気を作る。
仕事。
仕事だ。
そう思うほど、モヤモヤが消えない。
スマホが震えた。
星宮からだった。
『今、休憩中』
続けて写真が送られてくる。
撮影現場の控室らしい場所。星宮は制服風の衣装を着ていた。いつもの学校の制服とは違う、少しだけ大人っぽいデザイン。髪も綺麗にセットされていて、雑誌に載るための星宮莉乃がそこにいた。
『どう?』
俺はしばらく画面を見つめた。
『似合ってます』
送信。
すぐに既読。
『それだけ?』
面倒くさい。
でも、言いたいことがないわけではなかった。
『綺麗です』
送ってから、スマホを伏せた。
顔が熱い。
数秒後、また震える。
『清太のせいで顔戻らなくなった』
『メイクさんに照れてる?って聞かれた』
知らない。
俺は知らない。
さらに続けて送られてくる。
『相手役の人に、好きな人いるの?って聞かれた』
胸が少しざわつく。
『なんて答えたんですか』
送ってしまった。
すぐ既読がつく。
『いるかもしれませんって言った』
『誰かは教えませんって』
俺は息を止めた。
画面の文字がやけに眩しい。
『清太、気になる?』
気になる。
でも、それを素直に言うのは負けだ。
『少しだけ』
『少しなんだ』
しまった。
また曇らせた。
慌てて打つ。
『かなり』
既読。
少し間が空く。
『じゃあ許す』
俺はベッドに倒れ込んだ。
スマホを握ったまま天井を見る。
何をしているのだろう。
完全に星宮のペースだ。
しかし、そのペースを嫌がりながらも、彼女からの返信を待っている自分がいる。
数分後、もう一通届いた。
『撮影戻るね』
『清太の中に私、まだいる?』
その一文は、冗談のようで、冗談ではなかった。
星宮は本気で不安なのだ。
芸能人として誰かの前で笑っている間に、俺の中から自分が薄れてしまわないかを怖がっている。
俺は少しだけ考えてから返信した。
『いますよ』
『むしろ邪魔なくらいいます』
すぐに既読がついた。
返信は少し遅れた。
『清太、ほんとずるい』
『好き』
俺の心臓が止まりかけた。
好き。
たった二文字。
でも、星宮が送るそれは重かった。
スマホの画面越しでも、俺の逃げ道を塞いでくる。
俺は何度も文字を打っては消した。
好きです、と返せるほど、まだ俺は強くない。
でも、何も返さないほど、もう彼女を遠ざけられない。
だから、俺は打った。
『撮影、頑張ってください』
逃げの返事だった。
でも、それが今の俺の限界だった。
星宮からはすぐに返ってきた。
『うん』
『帰ったらまた連絡する』
『逃がさないから』
最後の一文に、俺は思わず苦笑した。
怖い。
重い。
面倒くさい。
それなのに、心のどこかで安心してしまっている。
俺は『青春いらない!!』の外伝をもう一度開いた。
ページの中のヒロインは、主人公の知らないところで重い感情を抱えている。
以前なら、それを物語として楽しんでいた。
今は違う。
俺の現実にも、そういうヒロインがいる。
しかもそのヒロインは、雑誌の撮影現場から俺に「好き」と送ってくる現役トップアイドルだ。
俺の青春は、やっぱりどこかおかしい。
でも、そのおかしさに、俺は少しずつ慣れてしまっていた。
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