いつもそばにいて
星宮と一緒に校門をくぐった瞬間、周囲の空気が少しだけ変わった。
もう慣れたはずだった。
星宮莉乃がいる場所には、視線が集まる。声が潜む。誰かが足を止め、誰かがスマホを取り出しかけて、慌ててしまう。
それは彼女が芸能人だからだ。
ただの美少女ではない。テレビに出て、雑誌に載って、広告の中で笑う人間。校内でどれだけ普通の制服を着ていても、星宮莉乃という名前は彼女より先に歩いてしまう。
だから俺は、彼女と並んで歩くたびに妙な緊張を覚える。
俺なんかが隣にいていいのか、という感覚。
同時に、隣にいるのが俺で少しだけ嬉しいという、認めたくない感情。
その二つが胸の中で喧嘩していた。
「清太、顔固いよ」
「周りの視線が痛いので」
「大丈夫。私が慣れてるから」
「星宮さんが慣れてても、俺は慣れてないんです」
星宮は少しだけ笑った。
けれど、その笑顔はいつものものより薄かった。
昇降口に近づいたところで、彼女のスマホが震えた。星宮は画面を見る。そこに表示された名前までは見えなかったが、彼女の表情が一瞬で仕事用に切り替わった。
柔らかいが、距離のある顔。
星宮莉乃としての顔。
「ごめん、マネージャーさんから」
「出たほうがいいんじゃないですか」
「うん。少しだけ」
星宮は俺から半歩離れ、廊下の端に寄った。
その背中を見て、少しだけ実感する。
俺が見ている星宮莉乃は、彼女の全部ではない。
彼女には仕事がある。スケジュールがある。マネージャーがいて、事務所があって、ファンがいて、世間に見せなければならない顔がある。
俺と倉庫裏で弁当を食べたり、カードショップではしゃいだり、朝から家の前で待ち伏せしたりする彼女だけが、星宮莉乃ではない。
「はい。放課後ですか? ……大丈夫です。インタビューですよね。はい、学校終わったら向かいます」
その声は、俺に向けるものとは違っていた。
丁寧で、落ち着いていて、隙がない。
それを聞いて、胸の奥が少しだけざわついた。
俺は何を勘違いしていたのだろう。
星宮は俺の隣にいる。
でも、俺だけの世界にいるわけではない。
通話を終えた星宮が戻ってくる。
「今日、放課後少し仕事入っちゃった」
「そうなんですね」
「うん。だから、昼休みは一緒にいて」
星宮はそう言って、俺の袖をつまんだ。
周囲には見えないくらいの、小さな動き。
けれど、指先に込められた力は弱くなかった。
「仕事があるから、放課後は無理。でも昼休みは清太といたい」
「……別に、昼はいつも通りマイホームに行きますけど」
「私の別荘でもある場所ね」
「まだ言うんですか」
星宮は小さく笑った。
でも、目元にわずかな不安が残っていた。
放課後、俺の知らない場所へ行く。
仕事をする。
誰かに星宮莉乃として見られる。
そのことを俺がどう思うのか、彼女は気にしているのかもしれない。
いや、違う。
たぶん星宮は、俺がその間に自分から離れることを怖がっている。
俺の行動に対する信頼と不安が、彼女の中で同時に存在している。
重い。
けれど、わかるようになってきた。
教室に入ると、原と篠崎がすぐにこちらへ気づいた。
「おはよー、高原くん。朝から莉乃と登校とか攻めてるねぇ」
「篠崎さん、朝からそういうのやめて」
「いやー、もう夫婦感出てるし」
「出てません」
篠崎が眠そうな目でにやにや笑う。
原も机に頬杖をつきながら、楽しそうに俺たちを見ていた。
「莉乃、今日仕事?」
「うん。放課後ちょっとだけ」
「大変だねー。さすが芸能人」
原の言葉に、星宮はいつものように笑った。
「そんなことないよ。好きでやってることだから」
完璧な答えだった。
でも、俺は見てしまった。
星宮の指先が、机の下でほんの少しだけ俺の袖を探したことを。
俺はその手に気づかないふりをした。
気づいてしまったら、きっとまた彼女のほうを見てしまうから。
そして見てしまえば、たぶん俺はまた意識する。
昼休み。
俺と星宮はいつもの倉庫裏へ向かった。
校舎裏の空気は少し湿っていて、遠くからグラウンドの声が聞こえる。星宮は俺の隣に座り、弁当箱を開けた。
けれど今日は、箸の進みが遅かった。
「食べないんですか」
「食べるよ」
「仕事のこと、気にしてます?」
星宮の箸が止まった。
彼女は少しだけ目を伏せる。
「清太って、たまにちゃんと見てくるよね」
「たまにですか」
「うん。たまに。だから困る」
星宮は笑った。
その笑顔は薄かった。
「私ね、仕事のときはちゃんと星宮莉乃でいられるの。笑って、答えて、求められる私を出せる。でも最近、少しだけ怖い」
「怖い?」
「清太が、私のいない時間に慣れちゃうこと」
星宮は弁当箱を見下ろしたまま言った。
「私が仕事してる間に、清太が原さんや篠崎さんと話して、私がいなくても平気になって。私が戻ってきたときには、清太の中の私の場所が少し狭くなってたら嫌だなって」
重い。
やっぱり重い。
けれど、その声はただの独占欲だけではなかった。
芸能人として人に囲まれているのに、清太の中から消えることを怖がっている。
そんな矛盾した寂しさが、そこにあった。
「狭くなりませんよ」
気づけば、俺はそう言っていた。
星宮が顔を上げる。
「だって、星宮さんが騒がしすぎて、もうだいぶ場所取ってますし」
「……それ、嬉しいこと?」
「たぶん」
星宮の瞳が揺れた。
次の瞬間、彼女は弁当箱を置き、俺の袖を掴んだ。
「清太」
「はい」
「今日、仕事終わったら連絡する。絶対返して」
「絶対は」
「絶対」
星宮の目に光がなかった。
でも、声は震えていた。
「私が星宮莉乃でいる間も、清太の中に私がいるって、ちゃんとわかるようにして」
俺は息を吐いた。
面倒くさい。
本当に面倒くさい。
なのに、その願いを無下にできない。
「……返します。気づいたら」
「気づかせるくらい送る」
「怖いです」
「清太が悪い」
星宮はそう言って、少しだけ笑った。
その笑顔に、やっと薄く温度が戻る。
俺は弁当の卵焼きを口に運びながら、心のどこかで思った。
星宮莉乃は、たくさんの人に見られている。
けれど、彼女が本当に見てほしい相手は、たぶん少しずつ俺になっている。
そして俺もまた、彼女が誰かの前で星宮莉乃として笑うたびに、その笑顔の裏側を知っていることを意識してしまう。
友達以上。
恋人未満。
その曖昧な距離は、今日も少しだけ熱を持っていた。
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