朝のお出迎え
ここ最近、俺は何かがおかしい。
昨日、星宮の家に行ったあの日から――いや、正確には、星宮に手を引かれてベッドに倒れ込み、結果的に彼女を押し倒すような形になってしまったあの瞬間から。
星宮莉乃という存在が、やけに頭から離れなくなっている。
授業中、ふと右隣を見てしまう。
昼休み、倉庫裏に向かう足取りが少しだけ早くなる。
スマホが震えると、公式アカウントではなく星宮からの連絡ではないかと一瞬期待してしまう。
認めたくない。
認めたくないが、事実だった。
星宮は土足で俺の心に踏み込んできた。最初は勝手に入ってくるなと腹を立てていたはずなのに、気づけばその足跡を消せなくなっている。俺の中にあった静かな場所が、少しずつ星宮莉乃で満たされている。
しかも厄介なことに、それを完全に嫌だと思えない。
「……最悪だ」
制服に袖を通しながら、俺は小さく呟いた。
鏡に映った自分は、相変わらず冴えない顔をしている。寝癖は直したはずなのに微妙に残っているし、ネクタイもどこか頼りない。こんな俺が、星宮莉乃を意識している。
いや、星宮が可愛いのは当然だ。
あれだけ整った顔で、あれだけ距離を詰めてきて、あれだけ重い感情を向けられたら、意識するなというほうが無理である。
問題は、俺がそれを嬉しいと思い始めていることだった。
ここ最近、俺の周りはやけに騒がしい。
星宮だけでも十分すぎるほど騒がしいのに、原や篠崎まで絡んでくるようになった。教室で静かに過ごすという入学当初の目標は、もう原形を留めていない。
波風立てず、誰にも目立たず、普通に授業を受けて帰る。
そんな高校生活は、たぶんもう無理だ。
俺は鞄を持ち、階段を下りた。
玄関で靴を履きながら、昨日の星宮の顔を思い出す。
逃げなくていい。
私のそばでは。
あの声が、まだ耳に残っている。
怖い。
でも、その怖さは以前のものとは少し違った。
拒まれる怖さではなく、近づいてしまう怖さ。
これ以上星宮を意識したら、自分がどうなるかわからない怖さだった。
「行ってきます」
母親に声をかけ、玄関の扉を開ける。
その瞬間だった。
「あ……」
「え……」
目の前に、星宮莉乃がいた。
制服姿で、朝日の中に立っている。
長い髪が柔らかく光を受け、白い頬に淡い影を落としていた。鞄を両手で持ち、少し緊張したようにこちらを見ている。まるで俺が出てくるのを、ずっと待っていたみたいに。
いや、待て。
おかしい。
俺は星宮に家を教えた覚えがない。
住所はもちろん、近所の話すらほとんどしていない。なのに、なぜ彼女は俺の家の前にいるのか。
脳が状況を処理しきれず、俺は玄関先で固まった。
「おはよ、清太!」
星宮はぱっと笑った。
朝日に照らされたその笑顔は、暴力的なほど眩しい。
悪夢。
いや、美少女が家の前で待っているのだから、良い夢なのかもしれない。
でも相手が星宮莉乃なら、やっぱり少し悪夢寄りだ。
「……星宮さん」
「なに?」
「なんで、ここに?」
星宮は少しだけ目を逸らした。
その仕草だけで、嫌な予感がした。
「清太が昨日、帰り道で曲がった方向と、歩いてた時間と、だいたいの住宅街の位置を考えたら……」
「特定しないでください」
「違うよ。偶然だよ」
「今、自白してましたよね」
星宮はにこにこと笑っている。
だが、目は笑っていない。
いや、正確には笑っている。嬉しそうに、俺を見つけられたことを心から喜んでいる目だった。
それが余計に怖い。
「清太、一緒に学校行こ!」
彼女はそう言って、一歩近づいてきた。
制服のスカートが朝風に揺れる。
俺の心臓が、嫌なほど大きく跳ねた。
可愛い。
そう思ってしまった。
何を考えているんだ、俺は。
星宮が可愛いのは普通のことだ。今さら驚くことではない。星宮莉乃は誰が見ても可愛い。だから俺がそう思っても、それは一般的な評価の範囲内でしかない。
なのに、今は違った。
目の前で俺だけを見て笑う星宮に、胸の奥が落ち着かなくなる。
昨日までとは、少し違う。
星宮が近いから動揺しているだけではない。
一緒に学校へ行こうと言われて、困っているのに、どこかで喜んでいる自分がいた。
俺はその事実に、少しだけ絶望した。
「……わかりました」
そう答えると、星宮の顔が一瞬で明るくなった。
「ほんと?」
「ここまで来られたら、断っても意味ないでしょう」
「うん。清太はそう言ってくれると思ってた」
「なら聞かないでください」
「聞きたかったの。清太の口から」
星宮は隣に並んだ。
当然のように。
まるで昔から、毎朝こうして一緒に登校していたみたいに。
存在しない幼馴染の朝。
それが、勝手に現実になっていく。
俺は玄関の鍵を閉め、星宮の隣を歩き出した。
朝の住宅街は静かだった。
鳥の声。
遠くを走る車の音。
登校中の学生の気配。
その全部の中に、星宮の足音が混ざっている。
「清太」
「なんですか」
「今日から、朝も一緒だね」
「毎日は無理です」
「じゃあ、来られる日は来る」
「来ない選択肢は?」
「ないよ」
即答だった。
俺はため息を吐く。
けれど、そのため息は昨日までのものほど重くなかった。
隣で星宮が嬉しそうに笑っている。
その顔を見て、俺はまた胸の奥が騒がしくなる。
俺の日常は、またひとつ星宮に侵食された。
でも今朝の俺は、その侵食を少しだけ待っていたのかもしれない。
そう気づいてしまって、俺は何も言えなくなった。
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