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君の声が示すもの

 星宮の家に行くことになり、俺は彼女のあとについて歩いていた。


 それにしても、初めてだった。


 こうして、一人の女の子の家に行くのは。


 男友達の家なら何度かある。ゲームをしたり、カードを回したり、適当に菓子を食べながらだらだら過ごしたり。そういう経験なら、俺にも多少はあった。


 でも、異性の家となると話が違う。


 しかも相手は星宮莉乃。


 学園のトップアイドルであり、現役の有名人であり、俺の幼馴染を自称しながら日常へぐいぐい侵食してくる、重くて面倒くさくて、時々どうしようもなく可愛い女の子である。


 俺は自分の心臓が、いつもよりやや高めのテンポで動いているのを感じていた。


 星宮はどこか嬉しそうだった。


 隣を歩くというより、俺を案内するように少し前を歩いている。足取りは軽く、時々こちらを振り返っては、ちゃんとついてきているか確認してくる。そのたびに目が合い、彼女は小さく笑った。


 やめてほしい。


 そんな顔をされると、逃げづらくなる。


 やがて星宮は、とある建物の前で足を止めた。


 俺は視線を上げる。


 そこには、いかにも高級そうなタワーマンションがそびえていた。


 ガラス張りのエントランス。整えられた植え込み。無駄に広い入り口。外観だけで、俺の住んでいる世界とは階層が違うとわかる。


「ここだよ」


「……さすがトップアイドルって感じの家ですね」


「えへへ。清太にそう言われると照れるな」


 星宮は照れくさそうに頬を掻いた。


 その反応は妙に普通で、少しだけ頬が緩みそうになる。


 建物は別世界なのに、隣の彼女はいつも通りだった。


 俺たちはそのままマンションの中へ入った。


 エントランスは広々としていて、空気まで綺麗な気がした。床は磨かれた石材で、照明は柔らかく、ソファや観葉植物まで配置されている。ホテルのロビーと言われても納得できる空間だった。


 俺は思わず息を呑む。


 星宮は慣れた様子でオートロックを解除し、エレベーター前まで俺を誘導した。


 エレベーターに乗り込む。


 扉が閉まると、静かな箱の中に二人きりになった。


 階数表示がゆっくり上がっていく。


 妙に緊張した。


 ただカードをするだけ。


 そう思えば健全だ。


 でも、女の子の家に行くという事実が、俺の思考をいちいち不健全な方向へ引っ張ろうとしてくる。


「清太」


「はい」


「逃げたらダメだからね」


 星宮が、こちらを見ずに言った。


「逃げませんよ」


「ほんと?」


「ここまで来て逃げたら、俺がただの不審者じゃないですか」


「清太はたまに逃げるから」


 星宮の声は少しだけ柔らかかった。


 からかっているようで、どこか本気だった。


 俺は何も言えなくなる。


 エレベーターの中に、沈黙が落ちた。


 やがて、最上階に近いフロアで扉が開く。


 廊下もまた静かだった。ホテルのように整っていて、足音まで少し遠慮がちになる。


 星宮は一つの扉の前で止まり、鍵を開けた。


「どうぞ」


「……お邪魔します」


 玄関へ足を踏み入れる。


 星宮の家は、思っていたより静かだった。


 もっと芸能人らしい、きらきらした部屋を想像していた。派手な家具や、大きな鏡や、ブランドものの小物が並んでいるのかもしれないと勝手に思っていた。


 けれど、実際は違った。


 玄関は整っていて、靴はきちんと揃えられている。廊下には淡い香りが漂い、壁には小さなフレームが飾られていた。生活感はある。でも、散らかってはいない。静かで、清潔で、少しだけ寂しい家だった。


 星宮は俺の先に立って、奥の部屋へ案内してくれた。


「こっち」


 扉を開ける。


 そこは、星宮の部屋だった。


 入ってすぐにわかった。


 壁には『学園ラブコメに青春はいらない!!』のタペストリー。棚にはラブコメ漫画、恋愛漫画、ダークファンタジー、流行りのアニメ原作などが綺麗に並んでいる。俺の部屋のように床へ漫画が侵食しているわけではなく、きちんと整理されていた。


 机の上には勉強道具と、昨日買った空色のスリーブに入ったデッキ。


 ベッドの上には小さなクッションが置かれている。


 全体的に落ち着いた色合いなのに、星宮の好きなものがちゃんと息をしている部屋だった。


「……すごいですね」


「そう?」


「ちゃんと片付いてる」


「清太の部屋は?」


「聞かないでください」


 星宮はくすっと笑った。


 それから、机の上に置いてあったデッキを手に取る。


「さてと、対戦しよっか」


 空色のスリーブは新品同様に綺麗だった。


 星宮はそれを本当に大切そうに持っている。昨日買ったばかりなのだから当然かもしれないが、その扱い方には、単なる物以上の感情がこもっているように見えた。


 俺たちは向かい合って座り、対戦の準備を始めた。


「そういえば、清太。学校にデッキ持ってきてたの?」


「う、うん。本当は帰りにカードショップにでも寄ろうと思ってて」


「そっか。じゃあ、ちょうど良かったね」


 星宮は慣れていない手つきでデッキをシャッフルする。


 俺も一人回しでついた手癖のまま、入念にデッキを切った。


 そして、対戦が始まる。


「じゃあ、私から先攻でいいかな?」


「どうぞ」


 星宮の初手は、初心者にしては悪くなかった。


 けれど、当然わからないことも多い。


「これって、先に出したほうがいい?」


「今は温存したほうがいいですね。次のターンにこっちと合わせると強いので」


「なるほど」


「その効果は、こっちの処理が終わってからです」


「順番、大事なんだ」


「かなり大事です」


 最初は確認しながらの対戦だった。


 カードゲーム特有の処理順や、タイミングの難しさに、星宮は何度か眉を寄せていた。けれど、一度理解すると飲み込みが早い。説明したことを次のターンにはもう使ってくる。


 やはり、頭がいい。


 あるいは、芸能活動で鍛えられた理解力と集中力なのかもしれない。


「じゃあ、これでダイレクトアタック」


 一戦目。


 勝者、俺。


「むぅ……もう一回」


「負けず嫌いですね」


「清太に勝ちたい」


「初心者なんだから、そんなに焦らなくても」


「勝ちたいの」


 星宮の目は本気だった。


 二戦目。


 星宮はさっきのミスをしなかった。


 俺が教えたカードの使い方をきっちり覚え、思った以上に綺麗に盤面を作ってくる。


「これをこうして、プレイヤーに攻撃!」


 二戦目。


 勝者、星宮。


 彼女はしばらく固まったあと、ぱっと顔を輝かせた。


「勝った!」


「勝ちましたね」


「清太に勝った!」


「一応、説明しながらですけど」


「でも勝った!」


 両手を握って喜ぶ星宮は、いつものトップアイドルではなく、初めてカードゲームで勝ったただの女の子だった。


 三戦目。


 さすがに俺も少しだけ本気でいった。


「このカードで星宮さんの盾を破壊して、そのまま攻撃で」


 三戦目。


 勝者、俺。


 二本先取で、結果は俺の勝ちだった。


 とはいえ、星宮の成長速度は異常だった。一戦目で覚えたことを二戦目で使い、二戦目で失敗したことを三戦目で修正してくる。カードゲーム初心者とは思えない吸収力だった。


「星宮さん、普通に上手くなりそうですね」


「ほんと?」


「はい。飲み込みが早いです」


「清太に褒められた」


 星宮は嬉しそうに笑った。


 その笑顔を見ると、こっちまで少し嬉しくなる。


 そこから、何戦か続けた。


 勝ったり負けたり。


 星宮が変なタイミングでカードを使って二人で笑ったり、俺が思わぬ返しを食らって本気で驚いたり。気づけば、最初の緊張はだいぶ薄れていた。


 星宮の部屋にいる。


 女の子の部屋でカードをしている。


 その現実離れした状況にも、少しずつ慣れてしまっていた。


 ふと窓の外を見ると、空は夕暮れに染まっていた。


 部屋の中にも、淡いオレンジ色の光が差し込んでいる。


「じゃあ、俺そろそろ帰ろうかな」


 俺はそう言って立ち上がり、カードを片付けようとした。


 そのとき、星宮の手が俺の手首を掴んだ。


 反射的に視線を向ける。


 星宮は何か言いたげな顔をしていた。


「もう帰るの?」


「――え、いや、ほら。もう夕方だし」


「……」


 星宮の瞳にあった光が、ふっと薄くなる。


 俺は息を呑んだ。


 まただ。


 また彼女を傷つけてしまったのかと思った。


 帰ると言っただけだ。時間を考えれば当然のことだ。けれど、星宮の中ではそれが別の意味を持つのかもしれない。


 置いていかれる。


 帰られる。


 離れられる。


 そういうものに、彼女は敏感すぎる。


 次の瞬間、星宮が俺の手首を引いた。


「――っ!?」


 バランスを崩した俺は、そのままベッドのほうへ引き寄せられる。


 柔らかい感触。


 気づいたときには、俺は星宮を押し倒すような形になっていた。


 俺が上。


 星宮が下。


 ベッドの上に広がった彼女の髪が、夕方の光を受けて揺れている。伊達眼鏡のない瞳は、光を失っているようで、それでも奥で小さく揺れていた。


 近い。


 近すぎる。


 星宮の呼吸がわかる。


 頬にかかった髪。少し乱れた制服。唇。視線。


 そのすべてが、俺の思考を止めた。


 星宮は、どこか覚悟を決めたような顔をしていた。


 まるで、キスか、それ以上の何かを受け入れる準備をしているような顔。


「星宮……さん?」


「逃げなくていい」


 声が低かった。


「えっ」


「私がやったのはわかってる。でも、逃げなくていい」


「それは、でも」


「距離が近いと、すぐ逃げようとするじゃん。清太って」


 星宮は俺を見上げたまま言った。


「学校でも、倉庫でも、今日の対戦でも。私が少し近づくと、必ずどこかに引いていく」


「それは……」


「なんで?」


 答えられなかった。


 答えようとして、言葉が喉に詰まる。


 理由はわかっている。


 誰かに近づきすぎた先に何が待っているかを、俺はもう知っているから。


 近づいて、拒まれる。


 好きになって、避けられる。


 期待して、否定される。


 それが怖い。


 もう一度、あの言葉を聞くのが怖い。


 もう近づかないでくれる?


 その声が、今でも心の奥に残っている。


 星宮の手が、俺の袖を掴んだ。


 力は弱い。


 でも、離さなかった。


「中学のこと、京介くんに話してくれたじゃん」


「……はい」


「先生に言われた言葉とか、あのとき好きだった子に言われたこととか。全部じゃないけど、少しだけ聞いた」


「星宮さんには関係な――」


「関係ある」


 即答だった。


「清太が逃げる理由が、そこにあるから」


 俺は黙った。


 星宮は続ける。


「誰かに近づいて、また拒まれたら怖いんでしょ」


 正しかった。


 正しくて、少し腹が立つくらい正しかった。


 星宮の声が、少し柔らかくなる。


「あのとき先生に言われた言葉、清太のせいじゃないよ」


「そうとは言えない」


「そうだよ」


「俺が――」


「清太のせいじゃない」


 遮られた。


 俺は星宮を見た。


 彼女はまっすぐ俺を見返していた。揺れていない。


「好きだった子に近づかないでって言われたのも、先生に怒られたのも、清太がどうしようもない人間だったからじゃない。ただ、そういう人たちに囲まれて、そういう言葉をぶつけられただけ」


「……」


「それで傷ついた清太は、ちゃんと苦しかっただけだよ」


 言葉が出なかった。


 胸の奥に押し込めていたものを、乱暴ではなく、でも確実に触れられた気がした。


「なのに、清太は全部自分が悪いと思って、人との距離を詰めないようにして、仮面をつけるようになった。そうでしょ」


 答えなかった。


 答えなくても、伝わった気がした。


「その仮面、ここにいるときは外れてるよ」


 星宮は、俺の袖を掴んだまま言う。


「倉庫で『青春いらない!!』の話してるときも、カードショップでも、今日も。清太の本当の顔、ちゃんと見えてる」


 心臓が変な跳ね方をした。


 誰かに、本当の顔が見えていると言われたことが、これまであっただろうか。


 京介には少しだけ過去を話した。


 でも、今この瞬間の俺を、見えていると言われたのは初めてだった。


「だから、逃げなくていい」


 星宮はゆっくりと言った。


「私のそばでは」


 その言葉は、甘かった。


 そして、重かった。


 星宮は俺の袖を握ったまま、ゆっくり目を閉じる。


「……怖い、かな」


「怖くは……」


 言いかけて、止まった。


 嘘だった。


 怖くないわけがない。


 怖い。


 今の距離も。


 彼女の気持ちも。


 自分の中に生まれつつあるものも。


 でも、その怖さとは別の何かが胸の奥にあった。


 この一ヶ月、星宮が隣にいた時間。


 卵焼きを差し出した手。


 メモ用紙に書かれた文字。


 カードショップで目を輝かせていた顔。


 スリーブにカードを入れるときの真剣な指先。


 今日、俺の説明を聞きながら何度も頷いていた姿。


 それらが全部、今ここに並んで、俺の中でひとつの形になっていく。


 ――ああ。


 これが、そういうことなのかもしれない。


 俺は静かに、星宮から体を離した。


 ベッドの端に座り直す。


 星宮も上半身を起こし、乱れた髪を指で整えながら、こちらをちらりと見た。頬が少し赤い。さっきの行動が自分でも大胆すぎたと、今さら気づいたような顔だった。


「清太」


「……わかりました」


「何が?」


「逃げないようにします。できる範囲で」


 星宮は少しだけ目を丸くした。


 それから、ゆっくり笑った。


 計算も演技もない。


 ただ嬉しいだけの顔だった。


 その笑顔を見て、俺は自分が今どういう気持ちでいるのかを、もう完全には否定できなくなった。


 最悪だ。


 幼馴染でもない。


 出会ってまだ一ヶ月ちょっとだ。


 なのに、こんなふうに心臓が動く。


 こんなふうに、彼女の笑顔に安心してしまう。


「帰ります」


「うん。また来てね」


「……考えます」


「考える、じゃなくて来てね」


 玄関まで見送られながら、星宮はそう言った。


 俺は靴を履き、扉の前で立ち止まる。


「星宮さん」


「なに?」


「今日は、ありがとうございました」


 星宮は少しだけ目を細めた。


「こちらこそ。来てくれてありがとう」


 扉が閉まる。


 マンションの廊下に一人残された俺は、しばらくその扉を見つめていた。


 星宮莉乃の家に行った。


 星宮の部屋でカードをした。


 星宮に、逃げなくていいと言われた。


 現実味がない。


 けれど、指先にはまだカードをシャッフルした感触が残っている。


 スマホを開くと、連絡先に星宮莉乃の名前があった。


 もう、それをただのクラスメイトの名前として見ることはできなかった。


 俺の日常は、またひとつ彼女に侵食された。


 でも今日の侵食は、不思議と嫌ではなかった。

最後まで読んでいただき、ありがとうございます!

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