誘いへの始まり
星宮とカードショップに行った次の日。
昼休みになると、俺はいつものように弁当を持って教室を抜け出した。
向かう先は、校舎裏にある二つの倉庫の隙間。俺が勝手にマイホームと呼んでいる場所だ。
入学して一ヶ月が経った今でも、この場所は変わらない。
左右を古びた倉庫の壁に挟まれ、上だけが細く空いている。昼の光は細長く差し込み、地面には乾いた土と小さな石が転がっている。奥には椅子代わりになる大きめの岩があり、そこに腰を下ろすと、校舎の喧騒が少し遠くなる。
誰にも見つからない。
誰にも話しかけられない。
そういう場所だったはずだ。
少なくとも、最初は。
「で、なんでここに星宮さんがいるんですか?」
俺の隣には、当然のように星宮莉乃が座っていた。
彼女は膝の上に弁当箱を置き、何を今さら、という顔でこちらを見る。
「ん? ここは私の別荘だよ? いるのは当然じゃん」
「俺のマイホームを勝手に別荘登録しないでください」
「じゃあ、清太のマイホームで、私の別荘」
「共同所有みたいにしないでください」
星宮は楽しそうに笑った。
昼の光が彼女の髪に触れ、薄く茶色に透けている。こんな倉庫裏の地味な空間にいるのに、星宮だけが切り抜き合成みたいに目立っていた。
この一ヶ月で、彼女がここへ来ることは珍しくなくなった。
というより、ほぼ毎日来る。
最初は「私もここで一人で食べる」と言い張っていたはずなのに、今では完全に隣に座るのが定位置になっている。俺の一人用だったはずのマイホームは、気づけば星宮の別荘としても機能し始めていた。
恐ろしい侵食速度である。
「清太」
「なんですか」
「はい」
星宮が箸で卵焼きをつまみ、俺の口元へ差し出してきた。
自然すぎる動きだった。
まるで長年そうしてきたみたいに、ためらいがない。
「え、星宮さん?」
「食べてみて。幼馴染の手料理だよ」
「幼馴染でもないし、手料理を食べる理由にもなってません」
「私、朝ちょっと早く起きて作ったんだよ?」
その言葉に、俺は口を閉じた。
卵焼きは、形が綺麗だった。少し甘めなのか、ふわっとした匂いがする。星宮がこれを作ったのかと思うと、少し意外だった。
トップアイドル。
学校の人気者。
そんな彼女が、朝早く起きて弁当を作ってきた。
その一部を、今、俺に食べさせようとしている。
現実感がない。
けれど、目の前の卵焼きは確かに現実だった。
「……一口だけですよ」
「うん」
俺は渋々、差し出された卵焼きを食べた。
甘い。
少しだけ出汁の味がして、冷めているのに柔らかい。普通に美味しかった。
星宮は俺の反応をじっと見ている。
目が真剣すぎる。
「……美味しいです」
そう言った瞬間、星宮の表情がぱっと明るくなった。
「ほんと?」
「はい」
「よかった」
彼女はほっとしたように胸元へ手を当てた。
その顔が、あまりにも嬉しそうだった。
俺は視線を逸らし、自分の弁当に集中しようとした。こういう顔をされると困る。調子が狂う。向こうが勝手に幼馴染ムーブをしてくるだけならまだ対応できるが、本当に嬉しそうな顔をされると、こちらが何か大切なものを受け取ったような気分になってしまう。
「星宮さん、そういえば原さんと篠原さんは? 一緒に食べないんですか?」
何気なく聞いたつもりだった。
けれど、星宮の箸が止まった。
「なんで」
「え?」
「なんで、そこで他の女の子の名前が出るのかな?」
声は柔らかい。
でも、瞳が柔らかくなかった。
星宮は少しだけ首を傾げている。口元には笑みがある。からかっているようにも見える。けれど、その目の奥に光はなかった。
原と篠崎。
最近よく話すようになった二人の名前。
その名前が出ただけで、星宮の空気が変わった。
俺は言葉を詰まらせる。
慎重に答えなければならない。
多分、間違えたら死ぬ。
社会的に。
あるいは精神的に。
「いや、星宮さん、いつも篠崎さんと原さんといるので……一緒に食べないのかなって思っただけです。俺のところにいても、あの二人みたいに面白くないし」
言ったあと、星宮はきょとんとした顔をした。
数秒、俺を見る。
それから、ふっと笑った。
「なぁんだ。そんなことか」
空気が少しだけ軽くなる。
星宮は弁当箱を膝に置いたまま、俺の手元へ視線を落とした。
「私は、清太と一緒にいたいからここにいるだけだよ」
言いながら、彼女の手が俺の手に近づく。
触れるか、触れないか。
そのぎりぎりの距離で止まる。
心臓の鼓動が早くなる。
俺はそれに気づかないふりをして、自分の弁当へ箸を伸ばした。
「清太」
「……なんですか」
「放課後さ、私の家に来ない?」
「――は!?」
思わず声が裏返った。
倉庫の壁に、俺の間抜けな声が反射する。
星宮は平然としていた。
「昨日カード買ったでしょ? せっかくだから、一緒に対戦したいなって」
「いや、でも、星宮さんの家って」
「うん。私の家」
「それは、その……まずいのでは」
「何が?」
「色々とです」
星宮莉乃の家。
現役トップアイドルの自宅。
そこへ、俺が行く。
どう考えても情報量がおかしい。
もし誰かに知られたら、学校内の噂どころでは済まない。というか、俺の精神が持たない。女子の家に行くというだけでも、ラブコメ耐性の低い俺には相当なイベントなのに、相手が星宮莉乃となれば破壊力が高すぎる。
星宮は俺の反応を見て、少しだけ身を寄せてきた。
近い。
昼休みの倉庫裏で、この距離はまずい。
「大丈夫だよ。今日はお母さん、仕事で遅いから」
「なおさらまずいやつです!」
「カードするだけだよ?」
「言葉だけなら健全なのに、状況が健全じゃないんです」
星宮は小さく笑う。
それから、俺の顔を覗き込むように近づいてきた。
さらに近い。
まるでキスでもするみたいな距離。
息がかかるほどではない。
けれど、少し動けば触れてしまいそうな距離だった。
「清太は、私の家に来るの嫌?」
その言い方はずるい。
嫌かどうかで聞かれると、答えに困る。
嫌ではない。
ただ、困る。
危険すぎる。
星宮はその違いをわかっていて聞いている気がした。
「あ! やっぱしここにいた!」
「おやおや。邪魔しちゃったかなー?」
突然、声がした。
俺は反射的に星宮から距離を取ろうとした。
星宮の眉が、ほんのわずかに不満そうに動く。
入口のほうを見ると、原清華と篠崎咲が立っていた。
原はにやにやしている。
篠崎は眠そうな目のまま、完全に面白がっている顔だった。
「なんで、二人がここに……」
「いやさ、いつも昼休み莉乃どこ行ってるのかなぁって思って」
原が軽い調子で言う。
「そしたらまさか、幼馴染の高原と密会してるなんてねー」
篠崎がゆるく続ける。
「密会じゃないです」
「じゃあ、何?」
「……昼食です」
「言い方かたっ」
原が笑う。
星宮は笑っていなかった。
いや、口元は笑っている。
しかし目が笑っていない。
「二人とも、私と清太の場所に勝手に来ないでよ」
「出たー。莉乃の独占欲」
「ここ、学校の敷地だよー?」
篠崎がそう言うと、星宮の視線が少しだけ鋭くなった。
「でも、ここを見つけたのは清太で、私の別荘だから」
「莉乃の別荘なんだ」
「うん」
「高原くん、いつの間に莉乃に土地分け与えてんの?」
「俺の知らない間に占拠されました」
原と篠崎は、ますます楽しそうに笑う。
面倒なことになった。
間違いなく、めちゃくちゃ面倒なことになっている。
ここは俺の避難場所だった。
静かに弁当を食べ、星宮と時々漫画やカードの話をして、教室の騒がしさから少し距離を取るための場所だった。
それが今、クラスの目立つ女子二人に見つかった。
俺のマイホームはもう完全に秘密基地ではなくなったらしい。
「で、なになに?」
原が俺たちの間を覗き込む。
「さっき、距離近くなかった?」
「近くないです」
「いや近かったよー。莉乃、完全に迫ってたよね」
篠崎が星宮を見る。
星宮は少しだけ頬を染めた。
だが、否定はしなかった。
「清太を家に誘ってただけ」
「家!?」
原の声が跳ねた。
篠崎の眠そうな目が、はっきり開く。
俺は額を押さえた。
なぜ言う。
なぜそこで言う。
「莉乃の家に? 高原くんが?」
「うん。カードするの」
「カードするだけで家に誘うんだー」
原が楽しそうに笑う。
「いいねー。青春だねー。放課後、幼馴染の家で二人きりでカードゲーム」
「二人きりとは言ってないです」
俺が否定すると、星宮がこちらを見た。
「二人きりじゃ嫌?」
「そういう聞き方をしないでください」
「じゃあ、二人きりでもいい?」
「もっと悪化してます」
原が腹を抱えて笑い、篠崎がゆるく拍手した。
「高原くん、ツッコミ大変そう」
「莉乃って意外と押し強いよねー」
「意外じゃないよ」
星宮は俺の腕をそっと取った。
「清太には、ちゃんと押さないと届かないから」
その声が、少しだけ本気だった。
原と篠崎の笑いが、わずかに止まる。
俺も星宮を見る。
彼女は俺の腕に触れたまま、まっすぐこちらを見ていた。からかいではない。冗談でもない。俺がすぐに距離を取ろうとすることを、彼女はこの一ヶ月で嫌というほど知っている。
だから押してくる。
重いくらいに。
逃げ道を塞ぐくらいに。
そうしなければ、俺がどこかへ消えてしまうと思っているから。
「……カードするだけなら」
俺は小さく言った。
星宮の目が少しだけ明るくなる。
「来てくれる?」
「放課後、少しだけです。あと、本当にカードするだけです」
「うん。カードするだけ」
星宮は嬉しそうに頷いた。
原がにやける。
「高原くん、完全に押し負けてるじゃん」
「莉乃、よかったねー」
篠崎がのんびり言う。
星宮は俺の腕を離さないまま、二人に向かって少しだけ得意そうに笑った。
「うん」
その笑顔は、普段のアイドルとしてのものではなかった。
欲しかったものを手に入れた女の子の顔だった。
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