幼馴染のこと好きなの?
俺には、好きな人がいた。
過去形だ。
今でも好きだとか、未練があるとか、そういう綺麗な話ではない。ただ、俺の中学時代に確かに存在していた、ささやかで、情けなくて、痛みだけを残した感情。
『もう私に近づかないでくれる? あと、私のクラスにも』
その言葉は、どんな刃物よりも鈍く、深く刺さった。
別に、彼女だけが原因で学校に行けなくなったわけではない。俺が引きこもるようになった理由は、もっといろんなものが絡み合っている。教師からの言葉。周囲の視線。自分の弱さ。空気を読みすぎて、呼吸の仕方までわからなくなった日々。
けれど、彼女のその一言で、胸の中にぽっかり穴が空いたのは確かだった。
ああ、俺は近づくだけで誰かに嫌がられる人間なのか。
そんなふうに思ってしまうくらいには、痛かった。
そんな昔のことを思い出しながら、俺は教室に入った。
入学式から、だいたい一ヶ月が経っていた。
一ヶ月もあれば、学校という小さな社会の中にはそれなりの構造ができあがる。目立つ者。目立たない者。いつも人に囲まれる者。教室の隅で静かに過ごす者。話しかけやすい者。話しかけづらい者。
そして当然、星宮莉乃は目立つ側の中心にいた。
彼女の周りには、今日も人がいる。
有名アイドルという肩書きだけではない。単純に顔が良く、話し方が柔らかく、相手に合わせるのがうまい。人が集まらない理由がない。
俺の視線の先では、星宮と二人の女子が話していた。
一人は、少しピンクがかった明るい髪をしたギャルっぽい女子。名前は原清華。派手めな見た目だが、妙に人懐っこく、クラスでもすでに中心寄りの立ち位置にいる。
もう一人は、灰色がかった髪をゆるく下ろした、眠そうな目の女子。篠崎咲。口調はゆるいが、観察力が鋭い。無気力そうに見えて、面白そうなものにはかなり食いつくタイプだ。
この二人もまた、星宮ほどではないにせよ目立つ側の人間だった。
「おやおやぁ? 高原くんじゃないか〜」
「おっす、高原」
原がにやけながら手を振り、篠崎がゆるく片手を上げた。
「……おはよう」
俺は控えめに返した。
その瞬間、星宮が二人の間を抜けて、こちらへ歩いてくる。
「おはよ、清太!」
明るい太陽みたいな笑顔だった。
朝から眩しい。
いや、眩しすぎる。入学して一ヶ月経っても、星宮莉乃の笑顔の光量にはまだ慣れない。俺が少し目を細めると、原が横からひょいと顔を出した。
「高原くん、朝から莉乃に見惚れてる〜?」
「いや、そういうわけじゃ」
「照れてんじゃーん」
原の指が、俺の頬をつついた。
反射的に一歩引こうとしたが、今度は反対側から篠崎がぬるっと近づいてくる。
「高原くん、可愛い陰キャ感あって沼るよねー」
「沼らないでください」
「反応がまたいいんだよねー」
篠崎の指が、反対側の頬をつついた。
左右から頬をつつかれる。
状況が意味不明だった。
俺の中学時代は、女子から近づかないでくれと言われて終わったはずなのに、今はクラスでも目立つ女子二人に頬をつつかれている。青春の方向性がおかしい。
しかも、目の前には星宮莉乃がいる。
星宮は頬を膨らませていた。
ただ、可愛らしく拗ねているだけではなかった。瞳の奥の光が、すっと薄くなる。笑顔の形は消えていないのに、そこに宿っていた温度が一段下がった。
「二人とも」
星宮の声は柔らかかった。
けれど、なぜか背筋が伸びる。
「私の幼馴染なんだけど」
「えぇー? いいじゃーん。減るものじゃないし〜」
原がにやけながら言う。
「そうだよー。高原くんのほっぺ、触り心地いいしー」
篠崎もゆるい声で続けた。
俺は二人から逃れるように、二歩ほど後ずさった。
おかしい。
俺の青春は明らかにおかしい方向へ向かっている。
傷だらけで、何もなかったはずの青春が、一ヶ月でよくわからない形にねじ曲がっている。しかも、傷が癒えているというより、変な方向へ固まり始めているような感覚があった。
一本の木が、まっすぐ成長するのではなく、途中で何度も曲がって、妙な形のまま枝を伸ばしているような。
そんな歪な青春。
「清太」
星宮が一歩近づいてきた。
「私だけ見て」
まっすぐだった。
あまりにもまっすぐで、俺は固唾を呑んだ。
星宮は俺の両手を取る。人前だというのに、ためらいがない。いや、ためらいはあるのかもしれない。ただ、それ以上に俺を自分のほうへ向かせたい気持ちが勝っている。
彼女は笑っていた。
笑っていたが、瞳の光はまだ戻っていなかった。
それは笑顔というより、笑顔の形をした何かだった。
「ねぇ、高原くーん」
篠崎が灰色の髪を揺らしながら、にゅっと距離を詰めてくる。
「莉乃と幼馴染なんでしょー? 思い出話、聞かせてよー」
「それいいじゃん! うちら、莉乃の昔話とか全然知らないし!」
原も興味津々の顔で乗ってきた。
その声に反応するように、教室中の視線がこちらへ集まってくる。
最悪だ。
星宮との幼馴染の思い出。
そんなものはない。
あるわけがない。
一ヶ月前に出会い、彼女が勝手に幼馴染設定を作り、それに俺が流され続けているだけだ。
俺は星宮を見る。
星宮は俺を見ていた。
「清太、あるよね」
彼女は優しく言った。
「教えてあげようよ。私たちの一生分の思い出をさ」
重い。
一生分。
その言葉が、あまりにも自然に出てくるのが怖かった。
「一生分はさすがに盛りすぎじゃ……」
「盛ってないよ」
星宮の手が、俺の手を少しだけ強く握る。
「私は覚えてるもん」
覚えているはずがない。
だが星宮は、本当に思い出を語る人間の顔をしていた。
「清太は昔から、好きなものの話になると急に早口になるの」
「それは今の話じゃ」
「小さいころもそうだったよ。私が知らないアニメの話をして、途中で自分だけ楽しくなって、でも私がついていけてないって気づくと、ちょっとだけ申し訳なさそうな顔をするの」
原と篠崎が「へぇー」と声を揃える。
俺は何も言えなかった。
今の話を、過去に変換している。
星宮は巧みだった。
完全な嘘ではない。俺が実際に星宮の前で見せた反応を、あたかも昔からの思い出のように語っている。だから妙に現実感がある。聞いている側からすると、作り話には聞こえない。
「それでね」
星宮はさらに続けた。
「清太は、私が泣きそうになると絶対に困るの。困って、逃げたそうな顔をするんだけど、結局近くにいてくれる」
教室が少しざわついた。
それもまた、事実を歪めた話だった。
星宮が泣きそうになったとき、俺は確かに困った。逃げたくなった。でも、完全には置いていけなかった。
それを“昔から”にされると、否定しづらい。
「莉乃、それもう完全に幼馴染じゃん」
原が目を輝かせる。
「尊いねー。高原くん、意外と罪な男ー」
篠崎がゆるく言う。
罪な男ではない。
ただ流されているだけだ。
そう言いたかったが、教室の空気は完全に星宮の作った物語に飲まれていた。
そして気づけば、星宮はさらに爆弾を落としていた。
「あとね、私、昔清太に告白したことあるんだ」
教室が止まった。
俺も止まった。
原が口元を押さえる。
篠崎の眠そうな目が、少しだけ開く。
周囲の男子たちの視線が、殺意のようで殺意未満の何かに変わる。
俺は反射的に声を上げた。
「よ、幼稚園のころの話な!」
嘘だった。
だが、嘘で取り繕うしかなかった。
幼稚園のころなら、まだ冗談で済むかもしれない。おままごとの延長。子どもの無邪気な告白。そういうものとして処理できる可能性がある。
星宮は俺を見た。
ほんの少しだけ、満足そうだった。
「うん。清太、覚えててくれたんだ」
覚えているも何も、今作った設定だ。
しかし、俺は否定できなかった。
不思議なことに、その瞬間の俺は外用の仮面をつけていなかった。
いつものように、場に合わせて軽く笑うことはできたはずだ。適当に流して、冗談にして、空気を壊さず処理する。それくらいなら、仮面をつければできた。
でも今は、その仮面が出てこない。
星宮が俺の手を握っているからなのか。
それとも、この一ヶ月で彼女と過ごした時間が、俺の仮面を少しずつ壊してしまったのか。
わからなかった。
「高原さー」
原が俺の顔を覗き込む。
「莉乃のこと、好きなの?」
空気が変わった。
原。
篠崎。
クラスメイトたち。
そして星宮。
全員の視線が俺に集まる。
息を呑む音が、自分の喉から聞こえた気がした。
星宮の手の力が、わずかに強くなる。
俺は、彼女を見た。
星宮は笑っていなかった。
期待しているようで、怖がっているようで、拒まれたら何かが壊れてしまいそうな顔をしていた。瞳の奥に、薄い光が戻りかけている。俺の答え次第で、それが灯るのか、消えるのかが決まる。
「俺は星宮さんのこと――」
その瞬間、教室の扉が開いた。
「はい、席につけー。授業始めるぞ」
担当教師の声が教室に響く。
空気が強制的に切られた。
クラスメイトたちは不満そうにしながらも、自分の席へ戻っていく。原と篠崎も「えー、いいところだったのに」と文句を言いながら、星宮の肩を軽く叩いて離れていった。
俺も席に座る。
心臓がまだ早い。
助かったのか。
それとも、答えを先延ばしにされただけなのか。
右隣に座った星宮は、しばらく前を向いていた。
そして授業が始まる直前、俺の机の上に小さなメモ用紙を滑らせてきた。
綺麗な文字。
『私は清太のこと好きだよ』
息が止まった。
俺は思わずメモから星宮へ視線を移す。
彼女は頬杖をつきながら、こちらを見ていた。
さっきまでの沈んだ瞳は、少しだけ光を取り戻している。けれど、その光は優しいだけではない。俺の反応を逃さず見つめる、重くて、甘くて、少し怖い光だった。
俺は何か返さなければと思った。
でも、言葉が出ない。
手元のシャーペンを持つ指が落ち着かず、ノートの端に意味のない線を引いてしまう。
星宮はそんな俺を見て、小さく笑った。
声には出さない。
ただ、唇だけが動く。
――やっぱり、清太は可愛いね。
俺は顔が熱くなるのを感じながら、前を向いた。
授業の内容は、当然、まったく頭に入ってこなかった。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます!
このお話が少しでも面白いと感じていただけたら、ぜひ「♡いいね」や「ブックマーク」をしていただけると嬉しいです。
応援が次回更新の励みになります!




