トラウマ
俺は京介と一緒に、ショッピングモールのバルコニーへ出た。
昼間は家族連れやカップルで賑わっていそうな場所だったが、夕方を過ぎた今は人が少なかった。手すりの向こうには、駅前の明かりが少しずつ増えている。空は濃い藍色に沈みかけ、遠くのビルの窓が小さな星みたいに光っていた。
星宮は空気を読んだのか、少し離れたところに立っている。
完全に離れるわけではない。
俺の声がぎりぎり届かないくらいの距離。けれど、何かあればすぐ来られる位置。伊達眼鏡をかけ直した彼女は、手すりの近くで夜景を見ているふりをしながら、時々こちらを気にしていた。
俺と京介は、人が座っていないベンチに腰を下ろした。
しばらく、何も言えなかった。
いつからだろう。
俺が京介相手にまで、外用の自分を演じるようになったのは。
幼稚園からの付き合いで、中学一年までは毎日のように一緒に登校して、馬鹿みたいなことで笑って帰っていた。京介の前で自分を作っているなんて、昔は思ったこともなかった。
偽物の自分。
それは、本物の自分が傷つかないための防御手段だった。
相手の顔色を見て、言葉を選び、空気に合わせて笑う。反論しない。本音を言わない。相手が求めていそうな反応を、少し早めに差し出す。
親と話すときだけは、まだ少しだけ素に戻れる。
けれど、それ以外の人間の前では、いつの間にか仮面を握るようになっていた。
京介も、その例外ではなくなっていた。
「なあ、清太」
先に口を開いたのは京介だった。
「俺たちのこと、嫌いか?」
「そんなわけない」
そこだけは、すぐに言えた。
「俺は京介たちのこと、大切に思ってる。友達として、かけがえのないものだって思ってる」
言葉にすると、少し喉が痛くなった。
京介は俺の横顔を見ていた。
「じゃあ、なんでさっき逃げたんだ」
責める声ではなかった。
でも、逃げ場のない問いだった。
「……自分が、わからなくなった」
「自分?」
「俺、京介たちにも遠慮してた。自分の本音を隠して、お前たちのノリとか笑い話に合わせてきた」
京介の顔を見るのが少し怖かった。
それでも、言わなければまた同じことを繰り返す気がした。
「別に、京介たちの話が面白くなかったわけじゃない。面白いときは、本当に面白かった。遊んでるとき、救われたことだって何度もあった。でも……知ってるだろ。俺の中学の頃」
京介の表情が変わった。
夜景の光が、彼の横顔に影を落とす。
「……中一までは、毎日一緒に登校して、毎日笑って帰ってた。でも中二になってから、お前、どこか人が変わったように見えた」
京介は言葉を選ぶように、少し間を空けた。
「あの日は、何ともない顔してたけど……まさか」
あの日。
その言葉だけで、胸の奥がきしんだ。
俺が引きこもる原因になった、小さな傷跡。
小さかったはずの傷が、気づけば広がって、生活そのものを飲み込んでいった。
あの日は、何気ない放課後だった。
曇り空ではあったが、空気が悪い日ではなかった。教室にはいつも通りのざわめきがあって、俺もいつも通り帰るつもりだった。
けれど、職員室に呼ばれた。
複数の教師に囲まれた。
『そんなんじゃ、お前は何もできないぞ』
『君の親も苦労するよ。子どもができたとき、苦労するのは君だよ』
『もっと周りのこと考えろ。お前のせいで周りが困ってるじゃないか』
言葉は、刃物みたいに綺麗な形をしていなかった。
もっと鈍くて、重くて、避けにくいものだった。
ひとつひとつは、もしかしたら指導のつもりだったのかもしれない。大人たちにとっては、すぐ忘れる程度の言葉だったのかもしれない。
でも、俺には残った。
その日から、俺は相手に嫌われないように動くようになった。
迷惑をかけないように。
怒られないように。
誰かの顔を曇らせないように。
空気を読む。先回りする。自分の本音より、相手が求めていそうな反応を優先する。
気づけば、手の中に仮面があった。
「あの日の帰り道」
俺は夜景を見たまま言った。
「俺、首が赤くなるまで掻いてた。涙も止まらなかった。でも、親には言えなかった」
「なんで……」
「迷惑かけると思った。あと、言う勇気がなかった」
言葉にすると、思っていたより情けなかった。
親にすら明かしたことのない過去。
ドロドロに濁ったまま、自分の中に押し込んできた記憶。
それを京介に打ち明けるのは、想像以上に痛かった。胸の奥から錆びた針を一本ずつ抜いていくような感覚だった。
俺は、あの日のことを話した。
教師に言われた言葉。
その後、教室で視線が怖くなったこと。
好意を寄せていた女子に近づかないでと言われたこと。
学校へ行けなくなって、部屋でアニメを見るようになったこと。
『青春いらない』に救われたこと。
そして、京介たちと遊ぶときでさえ、心配をかけまいとして仮面をつけていたこと。
話し終えるころには、喉が乾いていた。
京介はしばらく何も言わなかった。
何か言いたげに口を開きかけて、閉じる。
それから、ゆっくり頭を下げた。
「そうか。そんなことがあったんだな」
「京介?」
「あの時、一緒にいられなくてごめんな」
胸が詰まった。
「いいよ。もう終わったことだし。それに、黙ってたのは俺だ。京介たちは何も悪くない。悪いのは俺で――」
「それは違う」
京介の声が、少し強くなった。
俺は言葉を止めた。
「悪いのは清太じゃないだろ。少なくとも、そんなふうに一人で抱え込まなきゃいけなかったのは、おかしいだろ」
京介は俺から視線を逸らさなかった。
「俺、気づけなかった。お前が笑ってたから、大丈夫なんだと思ってた。たまに変だなって思っても、踏み込んでいいのかわからなかった」
「それは……」
「でも、今聞けてよかった」
京介は少しだけ笑った。
寂しそうで、でもどこか安心したような顔だった。
「次、遊べる日があったら言ってくれ。合わせるから」
「……いいのか?」
「当たり前だろ」
京介は肩をすくめる。
「お前が仮面つけてても、つけてなくても、清太は清太だし。まあ、無理して笑ってるときくらいは、今度から突っ込むけどな」
その言葉で、胸の奥のドロドロしたものが、少しだけ溶けた気がした。
完全に消えたわけではない。
傷が治ったわけでもない。
それでも、ずっと固まっていた何かに、細いひびが入った。
「ありがとう」
「おう」
京介は軽く笑った。
それから、空気を切り替えるように俺の肩を軽く小突く。
「それより、お前」
「え?」
「あの美少女はなんだ」
俺は固まった。
京介の目が、さっきまでとは違う方向に真剣だった。
「あんな美少女が幼馴染なんて聞いたことないぞ」
「いや、あれは幼馴染じゃ――」
「幼馴染だよ」
背後から声がした。
俺と京介が振り向く。
そこには星宮が立っていた。
いつの間に近づいてきたのか、彼女は柔らかい笑顔で俺たちを見ている。さっきまで少し離れていたはずなのに、会話の終わりを見計らったようなタイミングだった。
いや、たぶん見計らっていたのだろう。
星宮はそのまま俺の隣に座った。
自然すぎる動きだった。
ベンチにはまだ空きがあるのに、わざわざ俺に近い位置へ座る。肩が触れそうな距離。京介に見せつけるような、けれど本人は何でもない顔をしているような距離。
そして星宮は、伊達眼鏡をそっと外した。
隠されていた顔が、夜景の光の中であらわになる。
星宮莉乃。
有名アイドルとして、テレビや広告で何度も見たことのある顔。
その本人が、俺の隣で微笑んでいる。
京介は一瞬、完全に固まった。
それから、目を見開く。
「ほ、星宮莉乃!?」
「シーッ」
星宮は人差し指を唇に当てた。
「周りにバレると、色々めんどくさいから」
そう言って、いたずらっぽく笑う。
京介の顔が一気に赤くなった。
無理もない。
至近距離で有名アイドルにそんな仕草をされたら、たいていの男子は耐えられない。星宮は、人がどうすれば心臓を跳ねさせるかを熟知している。しかも今のは、完全に狙ってやっていた。
俺は横目で星宮を見る。
彼女は涼しい顔をしていた。
しかし、俺の袖をつまむ指先だけが、少し強い。
京介に俺の過去を話したこと。
俺が京介と向き合ったこと。
それを祝福しているようでいて、同時にどこか不安がっているようにも見えた。
俺が京介との関係を取り戻したことで、自分の立ち位置が揺らぐとでも思っているのかもしれない。
面倒くさい。
でも、今なら少しわかる。
星宮は、俺の隣という場所に必死なのだ。
「お前……本当に星宮と幼馴染なのかよ」
京介が俺を見る。
俺はすぐに否定しようとした。
「なわけな――」
「そうだよね、清太」
星宮が俺を見る。
笑顔だった。
けれど、目が笑っていない。
いや、正確には笑っている。
笑っているのに、瞳の奥がやけに深い。そこには、さっき俺が京介に過去を話したときとは別の種類の感情が沈んでいた。
置いていかれたくない。
忘れられたくない。
清太の過去に私はいなかったけれど、これからは私もそこにいたい。
そういう声が、言葉にしなくても聞こえてくる気がした。
俺は喉まで出かかった否定を飲み込んだ。
完全に肯定するわけにはいかない。
でも、今ここで星宮を強く否定すれば、彼女はまたあの薄い笑顔を作る。
そう思った時点で、負けていた。
「……幼馴染、みたいなものらしい」
「らしいってなんだよ」
京介が困惑する。
当然の反応だ。
星宮は満足そうに微笑んだ。
「今はそれでいいよ」
「今は?」
京介が首を傾げる。
俺は額を押さえたくなった。
その日は、結局、京介にも誤解されたまま終わった。
だが、不思議と最悪な気分ではなかった。
京介に過去を少し話せた。
星宮は相変わらず重くて面倒くさくて、俺の隣に居座る気満々だった。
変な一日だった。
けれど、何かがほんの少しだけ動いた日でもあった。
夜景を背に、京介がまだ混乱した顔をしている。
隣では星宮が、俺の袖を離さない。
俺は小さく息を吐いた。
仮面を外した先に待っていたのは、穏やかな解決ではなかった。
むしろ、さらに面倒なラブコメだった。
それでも。
ほんの少しだけ、息はしやすくなっていた。
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