話す時
『青春いらない』の最新刊を読むため、俺と星宮はカフェに入った。
店内は休日らしく、それなりに混んでいた。ガラス越しに差し込む昼の光。コーヒーの香り。控えめに流れるジャズっぽいBGM。注文カウンターの奥では、店員が手際よくカップを並べている。
星宮は店内を一度だけ見回し、端の席を選んだ。
壁際で、なおかつ入口から少し死角になる場所。伊達眼鏡をかけているとはいえ、彼女が星宮莉乃だと気づく人間が絶対にいないとは言い切れない。そういう意味では、正しい判断だった。
俺たちは注文を済ませ、席についた。
星宮はカフェラテ。俺はアイスコーヒー。
注文したものが届くまでの間、俺たちは紙袋から『青春いらない』の最新刊を取り出した。
表紙のヒロインは、笑っているのにどこか寂しそうだった。いつもの軽いラブコメの空気ではなく、今回は少しだけシリアス寄りなのだろう。帯に書かれた煽り文も、やけに意味深だった。
「じゃあ、読む?」
「はい」
「ネタバレ禁止ね」
「同時に読むんだから、ネタバレも何もないでしょ」
星宮は小さく笑い、ページを開いた。
俺もそれに続く。
読み始めると、すぐに作品の世界へ引き込まれた。
今回の話は、予想通り少し重かった。主人公とヒロインの距離が近づいたからこそ生まれるすれ違い。明るい会話の裏に隠された本音。言わなくても伝わると思っていた感情が、言葉にしなかったせいで届かなくなる展開。
それでも、ただ重いだけではない。
甘酸っぱい。
どうしようもなく不器用で、見ている側が少し笑ってしまうくらい遠回りなのに、ちゃんと胸の奥を掴んでくる。
『青春いらない』は、やっぱりキャラクター同士の掛け合いが上手い。
現実にありそうで、でも実際にはなさそうな展開。その絶妙な境界線を、軽い台詞回しと細かい心理描写で成立させている。ありえないのに、どこかであってほしいと思わせる。その加減が本当にうまい。
俺は黙って読み進めた。
星宮は隣で、表情をよく変えていた。
切なそうに眉を下げたかと思えば、次のページでは嬉しそうに口元を緩める。ときどき、何かに耐えるように唇を結ぶ。たぶん、刺さった台詞があったのだろう。
その横顔を、俺は何度か見てしまった。
星宮莉乃は、物語を読むときまで綺麗だった。
けれど、綺麗というより、素直だった。
普段の彼女は、アイドルとしての顔を保つのがうまい。学校でも、モールでも、周囲の視線を受けると自然に笑顔を作る。けれど今は違う。ページの中の感情に合わせて、彼女自身の表情がそのまま揺れている。
それが少しだけ、羨ましかった。
俺は、たぶんそういうふうに感情を外へ出すのが苦手だ。
気づけば、最後のページまで読み終えていた。
最新刊の幕引きは、見事だった。
解決したようで、まだ何かが残っている。甘い余韻の中に、次巻への不穏さが混ざっている。ページを閉じても、続きの空気が指先に残るような終わり方だった。
やっぱり、物語の中のラブコメは夢みたいだ。
読めば希望を抱いてしまう。
現実も、もしかしたら少しだけ変われるんじゃないか。そんな都合のいい錯覚をくれる。さっきまで胸の中で渦巻いていたモヤモヤに、そっと蓋をしてくれるような感覚があった。
そして、やっぱり。
「「やっぱり、ラブコメしか勝たんわ」」
声が重なった。
あの日と同じだった。
俺と星宮は、ほぼ同時に顔を上げる。
一瞬、目が合った。
星宮の目が丸くなる。
それから、ふっと笑った。
「また重なったね」
「ですね」
「これもう運命じゃない?」
「感想が同じだっただけです」
「清太はすぐ現実に戻そうとする」
「現実なので」
「でも、ちょっと嬉しかったでしょ」
否定しようとして、言葉に詰まった。
星宮はそれを見て、少しだけ得意げに笑う。
ちょうどそのとき、店員が注文したドリンクを運んできた。俺の前にはアイスコーヒー。星宮の前にはカフェラテ。カップが置かれ、テーブルの上にようやく感想会の準備が整った。
そこから俺たちは、しばらく作品の話をした。
どのシーンが良かったか。
どの台詞が刺さったか。
ヒロインがあそこで本音を隠した理由は何か。
主人公が気づいていたのか、それとも気づかないふりをしていたのか。
演出のうまさ、間の取り方、会話のテンポ。
気づけば、俺はかなり話していた。
星宮も楽しそうだった。カフェラテのカップを両手で包みながら、時々身を乗り出す。伊達眼鏡の奥の瞳がきらきらしている。さっきまで俺を心配していた顔とは違う、純粋に好きな作品を語る顔だった。
その時間だけは、外用の仮面をつけなくてよかった。
何を話せば正解か考えなくていい。
作品の話をすれば、星宮はちゃんと受け取ってくれる。変に茶化さず、わかったふりもせず、同じ温度で返してくれる。
それが、楽だった。
十分ほど経ったころ、俺のスマホが震えた。
テーブルの上に置いていた画面へ視線を落とす。
京介からだった。
『悩みでもあるのか? 俺で良かったら話してくれないか? まだここにいるから』
短いメッセージだった。
けれど、胸の奥が少しだけ緩むような温かさがあった。
京介は良いやつだ。
俺の友達は、みんな良いやつだった。
だからこそ、俺はその優しさに甘えられなかった。彼らの前で笑っていた俺は、いつもどこか仮面をつけた俺だった。心配させたくない。暗いものを見せたくない。そうやって、勝手に線を引いていた。
でも、それは本当に彼らのためだったのか。
それとも、俺が本当の自分を見せて拒まれるのを怖がっていただけなのか。
スマホの画面を見つめたまま、返事が打てなかった。
気づけば、星宮が俺の顔を覗き込んでいた。
「さっきの友達から?」
「あ……うん。悩みでもあるのか、って」
「そっか」
星宮は静かに言った。
その声には、いつもの茶化すような響きはなかった。
「どうする? 今からでも、探しに行く?」
俺は黙った。
話せば、楽になるのだろうか。
それとも、気まずさで余計に苦しくなるのだろうか。
たぶん、気まずさは来る。
きっと避けられない。
でも、その気まずさは一時的なものかもしれない。残るのは、話せたという事実のほうかもしれない。
俺の心の奥には、ドロドロしたヘドロみたいな感情がある。
過去への怒り。
自分への失望。
置いていかれることへの怖さ。
それを誰かに向けたとき、どう返されるかなんてわからない。受け止めてもらえる保証なんてない。
でも、逃げ続ければ、ずっと同じ場所にいる。
京介のメッセージを見て、俺はそう思ってしまった。
「話す」
声は小さかった。
「少しでも話さないと、多分、後悔するから」
星宮は俺を見つめた。
数秒だけ黙ったあと、柔らかく頷く。
「そっか」
そして、少しだけ視線を伏せた。
「私はどうしたらいい? 外で待ってようか?」
その言葉に、俺は少し驚いた。
星宮なら、当然のようについてくると思っていた。幼馴染だから、隣にいる、などと言って。
でも、彼女は選ばせてくれた。
俺が誰かと話す場所に、自分が入っていいのかを、ちゃんと聞いてくれた。
その気遣いが、今はありがたかった。
「いや」
俺はスマホを握り直した。
「一緒にいてくれると嬉しいです」
星宮の瞳が、わずかに揺れた。
それから、彼女は口元を小さく緩める。
「うん。わかった」
その声は嬉しそうだった。
けれど、嬉しさを前面に出しすぎないように抑えているのもわかった。
俺は京介に返信を打つ。
『今からさっきの場所に戻る。話したいことがある』
送信ボタンを押す。
それだけで、少し心臓が重くなった。
京介には本当に申し訳ないことをした。
俺は、自分の本当を伝えられないまま逃げようとした。心配してくれた友達の前で、仮面をつけることも、外すこともできずに背を向けた。
だから、今度は逃げない。
逃げたら、また同じことを繰り返してしまう気がした。
俺と星宮はカフェを出た。
店の外へ出ると、ショッピングモールのざわめきが戻ってくる。さっきより人の数は増えていて、休日らしい明るさが広がっていた。その中を、俺は少し緊張しながら歩く。
星宮は隣にいた。
何も言わない。
ただ、俺の歩幅に合わせてくれる。
途中、彼女の指先が俺の袖に触れた。掴むというより、そこにいると知らせるための小さな接触だった。俺はそれを振り払わなかった。
さっきの場所へ戻ると、京介はベンチに座っていた。
他の友人たちの姿はない。
京介は俺を見つけると、すぐに立ち上がった。
その顔はどこか真剣で、それでいて少し安心したようにも見えた。
「京介……」
「お、来た」
京介は軽く笑った。
いつもの京介らしい笑い方だった。
その笑顔を見て、胸の奥が少し痛くなる。
「ここじゃなんだから、場所移そうぜ」
京介はそう言って、周囲に視線を向けた。
人通りの多い本屋前では、重い話をするには向いていない。俺も頷くしかなかった。
ここから始まるのは、俺の青春コンプレックスという鎖が少しだけ緩む話かもしれない。
あるいは、緩むどころか、もっときつく締まる話になるかもしれない。
それは誰にもわからない。
けれど、隣には星宮がいた。
彼女は俺の袖を握っている。
さっきより少し強く。
まるで、俺がまた逃げ出さないように。
いや、それだけではない。
たぶん、彼女自身も少し怖いのだ。
俺が自分の過去を誰かに話すこと。
俺の中に、星宮の知らない時間があること。
それを今から京介が聞くこと。
星宮は何も言わなかった。
けれど、袖を握る指先が、その感情を全部語っていた。
重い。
面倒くさい。
でも、今はその重さが少しだけ支えになった。
俺は仮面を捨てるように息を吸い、京介をまっすぐ見た。
「わかった」
真剣な顔で、俺は頷いた。
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