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青春コンプレックス

「お、幼馴染!? 清太、お前、幼馴染なんていたのか?」


 京介の声が、わかりやすく裏返った。


 無理もない。


 幼稚園からの付き合いである京介が、俺にそんな存在がいないことを知らないはずがない。いや、厳密に言えば、俺の交友関係をすべて把握しているわけではないだろう。それでも、少なくとも幼馴染と呼べる女子が俺の隣にいたことなど、これまで一度もなかった。


「……いや待て。今までそんな人……」


 京介の視線が、俺から星宮へ移る。


 伊達眼鏡をかけ、目立たない服装をしているとはいえ、近くで見れば星宮莉乃の顔面偏差値は隠しきれていない。京介の隣にいた四人の男子も、明らかに空気が変わった。


「京介、友達なん?」


「え、なに、彼女?」


「幼馴染ってマジ?」


 逃げたい。


 今すぐこの場から全力で逃げたい。


 ただでさえ、クラスメイトに見つかっても面倒な状況だ。そこに、幼稚園からの付き合いである京介が現れた。しかも彼の新しい友達らしき男子たちまでいる。ここで星宮の正体に気づかれれば、その後の展開は容易に想像できる。


 面倒になる。


 確実に面倒になる。


 俺は苦い顔のまま、星宮を横目で見た。


 彼女は真面目な顔をしていた。


 悪びれる様子はない。むしろ、当然のことを言っただけ、という顔をしている。俺の袖をつまむ指先だけが、さっきより少しだけ強くなっていた。


「……なあ、清太」


 京介は少し迷ったように俺を見た。


 さっきまでの驚きが、別の色に変わる。


 心配。


 たぶん、そういう顔だった。


「学校どうだ? 楽しくやってるか?」


 その一言で、俺の中の何かが反射的に動いた。


 外用の仮面をつける感覚。


 口角を少し上げる。声を明るくする。大丈夫だと軽く笑う。新しいクラスでもそれなりにやってる、心配すんなよ、と言う。そういう言葉が、喉の奥まで用意されかけた。


 相手が京介でも関係ない。


 むしろ、京介だからこそ必要だった。


 俺を心配してくれる相手に、本当の顔を見せるのは怖い。面倒をかけたくない。重いと思われたくない。だから、いつものように問題のない自分を演じる。


 そのはずだった。


 星宮が、俺の袖を握った。


 ほんの小さな力だった。


 けれど、その感触が、仮面をつけようとしていた指先を止めた。


 用意していた笑顔が、うまく顔に貼りつかない。喉の奥まで来ていた軽い言葉が、そこで崩れる。偽りの自分が、輪郭を失っていく。


「た、楽しく……」


 声が詰まった。


 京介が眉を寄せる。


 星宮の指先も、俺の袖を掴んだまま止まった。


 言えない。


 楽しくやってる、と言えない。


 かといって、つらいとも言えない。


 楽しい瞬間はあった。星宮と『青春いらない』の話をした昼休み。教室で少しだけ笑えた時間。今だって、最新刊を買いに来ていた。


 でも、それだけで全部を「楽しい」にまとめられるほど、俺は器用ではない。


 俺は今、どんな顔をしているのだろう。


 怯えているのか。


 動揺しているのか。


 困っているのか。


 京介の顔が、さらに心配そうになる。


 やめてくれ。


 そんな顔をしないでくれ。


 俺は大丈夫だと、いつもみたいに笑わなければならないのに。


「お、俺は……楽しく……」


 言葉の途中で、過去の記憶が喉を塞いだ。


 職員室の硬い空気。


 教師から投げられた心ない言葉。


 教室で向けられた冷めた視線。


 好意を寄せていた女子から拒絶された日の、足元が抜けるような感覚。


 中学の青春が残していった傷は、思っていたより深いところでまだ血を流していた。


 息が詰まる。


 ここにいたくない。


 京介も、星宮も、見知らぬ男子たちも、ショッピングモールの明るさも、全部が急に遠くなった。


「悪い……」


 それだけ言って、俺は京介に背を向けた。


「清太?」


 京介の声が聞こえた。


 続いて、星宮が息を呑む気配もした。


 けれど振り返れなかった。


 俺は足早にその場を離れた。歩く速度がどんどん速くなる。後ろから誰かが呼び止める声がした気がしたが、耳に入れないようにした。


 逃げた。


 また逃げた。


 数日前、星宮を助けた場所から、今度は俺自身が逃げ出している。


 気づいたときには、ショッピングモールの出口付近にいた。


 自動ドアの近く。


 人の流れから少し外れた柱の陰。


 そこに立ち止まって、ようやく息を吐いた。


 周りには誰もいない。


 少なくとも、俺の近くには。


 星宮もいなかった。


 違う。


 俺が置いてきたのだ。


 自分で手を振りほどいたわけではない。星宮の手を掴んでいたわけでもない。けれど、結果は同じだ。彼女をあの場に置き去りにして、俺だけが逃げた。


 俺は何も変わっていない。


 高校に入れば変われるかもしれないと思っていた。新しい制服を着て、新しい教室に入って、過去を知らない人間たちに囲まれれば、少しは違う自分になれるかもしれないと。


 でも、変わったのは環境だけだった。


 俺自身は何一つ変わっていない。


 過去のコンプレックスを引きずったまま、友達と再会しただけでまともに言葉も返せない。せっかく京介が声をかけてくれたのに、俺はそれを無下にするような形で逃げた。


 手には、本屋で買った『青春いらない』の紙袋がある。


 ラブコメの最新刊。


 夢みたいな青春を見せてくれる物語。


 その紙袋を握ったまま、俺は現実の青春から逃げている。


 笑えない。


 過去は消えない。


 深く刻み込まれたものは、時間が経ったくらいで簡単に薄まったりしない。身体についた傷なら、時間とともに塞がる。跡が残っても、痛みは少しずつ遠のく。


 でも、心に刻まれた傷は違う。


 ふとした瞬間に開く。


 忘れたつもりでいても、似た声や似た視線に触れただけで、当時の痛みがそのまま戻ってくる。


 あのとき、俺は仮面のつけ方を忘れた。


 周りに合わせる顔も、空気に乗るための言葉も、心配してくれる友達に返すべき軽い笑顔も、全部わからなくなった。


 ショッピングモールの中では、人々が楽しそうに行き交っている。


 子どもが風船を持って走っている。


 学生たちが笑いながらフードコートへ向かっている。


 大人たちが買い物袋を手に、休日の午後を当たり前みたいに歩いている。


 その中で、俺だけが取り残されていた。


「清太」


 優しい声がした。


 振り返る。


 星宮が立っていた。


 少しだけ息を切らしている。たぶん、俺を探して走ってきたのだろう。伊達眼鏡の奥の瞳が、不安そうに揺れていた。それでも、俺を見つけた瞬間、彼女の表情から張り詰めていたものが少しだけほどけた。


「こんなところにいたんだね」


「星宮……さん」


「うん。私だよ」


 星宮はゆっくり近づいてきた。


 俺が逃げないように、急がない。けれど、絶対に距離を空けたままにはしない。そういう歩き方だった。


 彼女は俺の前に立つと、自然に手を伸ばした。


 俺の手を握る。


 今度は袖ではなく、手だった。


 細い指が、俺の指に触れる。冷たくはない。少しだけ温かい。星宮はその手を両手で包み込むように握った。


「一人でどこか行っちゃったから、心配した」


 その言葉だけで、胸の奥が崩れそうになった。


「俺は……俺は、バカだ」


「そんなことないよ」


「あるだろ。友達に声かけられただけで、まともに返事もできなくて。星宮さんのことも置いてきて」


「清太」


 星宮は俺の名前を呼んだ。


 静かな声だった。


 けれど、不思議と逆らえない響きがあった。


「清太は、ちゃんと苦しかっただけだよ」


 その言葉で、視界が滲んだ。


 なぜだろう。


 怒鳴られたわけでも、責められたわけでもない。


 ただ、苦しかったと言われただけなのに。


 頬に、何かが一筋伝った。


 自分が泣いているのだと気づくまで、少し時間がかかった。


 星宮の指先が、俺の手を少しだけ強く包む。


「私は、清太がどういう過去を辿ってきたのか、まだ知らない」


 星宮は俺を見ていた。


「でも、清太が今痛いなら、その痛みを一緒に持つことはできる。全部わかるなんて言わない。でも、わかりたいって思うことはできる」


 俺は何も言えなかった。


 星宮の言葉は、その場の勢いで出たものには聞こえなかった。綺麗に飾った励ましでもない。彼女自身が本気でそう思っている声だった。


「清太は独りじゃないよ」


 その一言は、簡単な言葉だった。


 あまりにも使い古された言葉で、物語の中なら何度も聞いたことがある。


 でも、今の俺には効いた。


 暗い場所で俯いていたところに、手元だけを照らす小さな光を置かれたようだった。


「星宮さん……」


「うん」


「俺、京介に……悪いことした」


「じゃあ、あとで謝ろう」


「できるかな」


「できるよ。清太はさっきも私に謝れた」


 星宮はそう言って、少しだけ笑った。


「それに、あの人は清太を心配してた。怒ってる顔じゃなかったよ」


 京介の顔を思い出す。


 驚いた顔。


 心配した顔。


 呼び止める声。


 俺はそれを全部拒絶されたもののように受け取って、逃げた。


 本当は違ったのかもしれない。


 そう思えるだけで、ほんの少し呼吸が楽になった。


 星宮は俺の手を握ったまま、視線を少し先へ向けた。


「ね、まずは落ち着こ」


「落ち着く?」


「カフェで『青春いらない』読もうよ。さっき、一緒に読むって約束したでしょ」


 彼女が指した先には、モール内のカフェがあった。


 ガラス張りの店内に、柔らかい照明。オシャレな空気と人が似合う場所。正直、今の俺には少し場違いに思えた。


 でも、星宮は俺の手を離さなかった。


「清太の過去は、今すぐ全部話さなくていいよ」


 彼女は優しく言った。


「でも、今の清太が少し落ち着く場所には、私もいたい」


 重い。


 やっぱり重い。


 けれど、その重さが今は少しだけありがたかった。


 俺の青春コンプレックスは、簡単には消えない。


 過去の痛みも、心に残った傷も、たぶんこれからも何度だって疼く。環境が変わり、人間関係が変わっても、俺だけが世界に取り残されたように感じる瞬間はきっとある。


 でも、星宮はそんな俺に手を差し伸べてくれた。


 暗闇の中で俯いていた俺に、無理やり前を向けとは言わず、ただ隣に立ってくれた。


 俺は涙を拭い、息を整える。


「……わかりました。カフェ、行きましょう」


「うん」


 星宮は嬉しそうに笑った。


 そして俺の手を握ったまま、歩き出そうとする。


「星宮さん」


「なに?」


「手」


「あ」


 星宮は一瞬だけ目を丸くした。


 けれど、すぐに柔らかく微笑む。


「もう少しだけ。清太、また一人で行っちゃうかもしれないから」


「行きません」


「うん。信じてる」


 そう言いながら、彼女は手を離さなかった。


 俺は小さくため息を吐いた。


 面倒くさい。


 重い。


 距離が近い。


 でも、その手を無理に振りほどく気にはなれなかった。


 星宮莉乃に引かれるように、俺はカフェへ向かう。


 紙袋の中では、『青春いらない』の最新刊が静かに揺れていた。


 夢みたいなラブコメを読むために、俺は現実の厄介すぎるラブコメの中を歩いている。


 その矛盾が、少しだけおかしかった。

最後まで読んでいただき、ありがとうございます!

このお話が少しでも面白いと感じていただけたら、ぜひ「♡いいね」や「ブックマーク」をしていただけると嬉しいです。

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