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12/19

幼馴染です

 翌日。


 俺はいつも通りの日曜日を送るはずだった。


 昼前に起きて、適当に朝食兼昼食を済ませ、録り溜めているアニメを消費する。気が向いたら昨日買ったカードをスリーブに入れ、デッキの入れ替えを考えながら一人で回す。そんな、静かで、誰にも邪魔されない休日。


 けれど今日は違う。


 星宮莉乃と、『学園ラブコメに青春はいらない!!』の最新刊を買いに行く日だった。


 俺は今、ショッピングモールの吹き抜け近くに立っている。


 ここは、数日前に星宮と初めて会った場所だ。


 正確に言えば、彼女が星宮莉乃だと知らずに言葉を交わし、そのあと彼女を助けた場所でもある。あの日からまだ数日ほどしか経っていないのに、俺の生活はすでに大きく歪められている気がした。


 いや、歪められているというより、無理やり別ルートに分岐させられたと言うべきか。


 俺はスマホの画面に映る『青春いらない』最新刊のあらすじを眺めた。


 巻数はもう二桁に突入している。俺は連載初期から追っていたわけではないが、それでも感慨深いものがあった。


 この作品と出会ったのは、中学に行けなくなり始めたころだった。


 最初は本当に暇つぶしだった。何もする気が起きず、部屋から出る理由もなく、ただ時間だけが溶けていくような日々の中で、なんとなく再生したラブコメアニメ。それが『青春いらない』だった。


 最初はタイトルの癖が強いと思った。


 けれど、見始めると止まらなかった。


 軽妙な会話。変に格好つけすぎない主人公。甘いだけでは終わらないヒロインたちの距離感。何気ない台詞の裏に、ちゃんと痛みがあるところ。ラブコメなのに、青春の眩しさだけではなく、そこからはみ出した人間の寂しさまで拾ってくれるところ。


 気づけば、原作を集めていた。


 中学での息苦しさを、あの作品は少しだけ薄めてくれた。


 親以外、俺が学校へ行かなくなった理由を深く聞いてくる人はいなかった。気を遣っていたのかもしれないし、単に興味がなかったのかもしれない。どちらにせよ、俺は自分の中に溜まったものをうまく外へ出せなかった。


 だから物語に逃げた。


 逃げた先にあったラブコメが、俺にとっては救いだった。


「おまたせ、待った?」


 聞き覚えのある声がした。


 俺はスマホから顔を上げる。


 そこにいたのは、伊達眼鏡をかけた星宮莉乃だった。


 あの日と同じように、芸能人としての輪郭を少しだけ隠している。服装も目立ちすぎない。淡い色のカーディガンに、膝丈のスカート。派手ではないが、近くで見れば一つ一つが上品で、ちゃんと可愛い。


 地味にしようとしているのに、素材が強すぎて完全には隠しきれていない。


 それが星宮莉乃だった。


「ちょうどこっちも来たところです」


「そっか」


 星宮はほっとしたように笑った。


 その笑顔を見て、俺は少しだけ視線を逸らす。


 慣れない。


 休日に私服の女の子と待ち合わせるという状況に、まったく慣れていない。しかも相手は有名アイドルで、こちらは中学時代に引きこもっていた一般男子である。釣り合いという概念を辞書で調べたら、たぶん俺たちの並びには赤線が引かれる。


「それじゃあ、行こっか」


 星宮は自然に俺の隣へ並んだ。


 近い。


 いつも通り近い。


 ただ、今日は制服ではなく私服だからか、その近さがいつもより生々しく感じられた。カーディガンの袖口から覗く細い手首。歩くたびに揺れる髪。横顔にかかる眼鏡のフレーム。


 俺は余計な意識を振り払うように、前を向いて歩き出した。


 周囲に、星宮莉乃だと気づいている人間はいなさそうだった。休日のショッピングモールは人が多い。家族連れ、カップル、友達同士の学生。その人混みの中に紛れれば、彼女も少しは普通の女の子に見える。


「ねえ、清太」


「なんですか」


「昨日は楽しかった? カードショップ行ってたんだよね?」


「まあ、それなりには」


「買ったカード、あとで見せてね」


「見てもわからないと思いますよ」


「わからなくても見たいの」


 星宮はそう言って、興味深そうにこちらを見た。


 カードショップという単語と星宮莉乃は、やはり似合わない。けれど彼女は、本当に知りたがっている顔をしていた。俺の趣味を、ただ会話の材料としてではなく、ちゃんと自分の中に入れようとしている。


 その幼さの混じった好奇心が、少し可愛いと思ってしまった。


 星宮は可愛い。


 そんなことは最初からわかっている。


 けれどそれは、テレビや広告で見る「星宮莉乃は可愛い」という認識とは少し違った。今、隣を歩いている彼女は、好きな人の好きなものを知りたがる一人の女の子みたいに見えた。


 だからこそ、ふと思ってしまう。


 俺みたいな人間が、関わっていい相手なのか。


 その瞬間、脳裏に過去の声が蘇った。


『もう私に近づかないでくれるかな?』


 教室の隅。


 周囲のざわめき。


 好意を寄せていた女子生徒の、冷たい目。


『私のクラスにも近づかないで』


 無情で、容赦のない言葉だった。


 ラブコメなら打ち切り一直線の展開だ。いや、最近の作品ならそこから逆転ルートもあるのかもしれない。けれど、現実にはそんな都合のいい救済はない。


 リアルの青春は甘いだけではない。


 苦い青春も、痛い青春も、ちゃんとある。


 むしろ俺にとっては、そちらのほうがずっと現実味があった。


「清太」


 星宮の声で、意識が戻った。


「ん?」


「今、他の女の子のこと考えてたでしょ?」


 足が止まりかけた。


 星宮は俺の顔をじっと見ていた。


 伊達眼鏡の奥の瞳が、少しだけ細くなる。嫉妬しているような、拗ねているような顔。可愛げはある。けれど、その瞳の奥には、もっと重たい何かが沈んでいた。


「なんでそうなるんですか」


「顔が違った」


「顔?」


「私と話してるのに、遠くを見てた。誰かのことを思い出してる顔だった」


 よく見ている。


 いや、見すぎている。


 星宮は一歩前に出て、俺の前に立った。人の流れから少し外れた、柱の陰。周囲からはそこまで目立たない位置だが、それでも近い。


「清太」


「はい」


「私のことだけ考えてよ」


 その声は、甘かった。


 けれど、軽くはなかった。


「私、清太の幼馴染なんだから」


「……幼馴染でも、そんなこと言わないと思いますけど」


「言うよ。私なら言う」


「星宮さん基準じゃないですか」


「莉乃」


「……星宮さん」


 彼女の指先が、ほんの少し動いた。


 笑顔は保たれている。けれど、唇の端がわずかに固くなる。俺が名前を呼ばないたび、彼女の中の何かが少しずつ削れるのがわかる。


 星宮は、俺に近づいた。


「私は清太の幼馴染で、清太だけを見ていたい」


「だから、その幼馴染設定は」


「設定でもいいよ」


 彼女の声が、少し低くなった。


「今は」


 また、その言葉だった。


 星宮の両手が、俺の頬にそっと触れた。


 突然のことに、俺は動けなかった。


 指先は冷たくない。むしろ、少し熱い。彼女の手のひらが、俺の顔を包む。人混みの中にいるのに、その瞬間だけ音が遠のいた気がした。


 近い。


 伊達眼鏡越しの瞳が、まっすぐ俺を覗き込んでいる。


 その目は優しかった。


 優しいのに、逃げ道を塞いでいた。


「清太が隠してる過去も、人間関係も、傷ついた理由も、私は知りたい」


「……知ってどうするんですか」


「覚える」


 即答だった。


「清太が忘れられないことを、私も一緒に覚える。清太が一人で持ってるものを、少しだけ私にも持たせて」


 その言葉は、ずるい。


 重い。


 けれど、優しかった。


 俺は返事ができなかった。


 星宮は俺の頬から手を離す。


 名残惜しそうに、ほんの一瞬だけ指先が頬の横を滑った。その感触が消えたあとも、触れられていた場所が妙に熱い。


「だから、いつかは教えてね。清太」


 星宮はそう言って、優しく笑った。


 可愛い。


 そう思ってしまった。


 同時に、怖いとも思った。


 この人は俺の過去を知りたがっている。俺が隠したいものまで、抱えようとしている。普通なら引くべき重さなのに、その表情があまりにまっすぐで、完全には拒めない。


 面倒くさい。


 本当に面倒くさい。


 そして、厄介なことに、少しだけ嬉しい。


 そんなやり取りをしているうちに、本屋の前へ着いた。


 星宮は空気を切り替えるように、ぱっと顔を明るくした。


「あ、あった。新刊コーナー!」


 彼女は足早に漫画の新刊コーナーへ向かう。


 俺もその後を追った。


 『青春いらない』の特設コーナーには、ポップが立てられていた。アニメ二期のビジュアルと、最新刊発売中の文字。やはり人気作だけあって、平積みの山はかなり減っている。残りは数冊だった。


「危なかったね」


「ですね」


 俺と星宮は、それぞれ一冊ずつ手に取った。


 表紙には、今回の中心になるヒロインが描かれている。少しだけ切なげな表情。背景には春の校舎。今の自分の状況と重なる部分があって、少しだけ落ち着かなくなる。


 星宮は表紙をじっと見つめていた。


「ねえ、清太」


「なんですか」


「帰りに、近くのカフェで読まない?」


「……ここで読むんですか」


「一緒に感想言いたい」


「読み終わるまで無言になりますけど」


「それでもいいよ。清太と同じ本を同じ時間に読めるなら」


 また重いことを言う。


 ただ、その言葉の中にある楽しみは本物だった。


 俺は少しだけ迷った。


 人目がある場所で星宮と一緒にいるのは危険だ。だが、彼女は変装しているし、カフェの席を選べば目立たないかもしれない。それに、ここで断るとまた面倒な顔をされる可能性が高い。


「……まあ、いいですけど」


「やった」


 星宮は小さく拳を握った。


 その仕草が年相応で、少しだけ笑いそうになった。


 俺たちはレジで会計を済ませ、本屋を出た。


 その直後だった。


「あれ、清太じゃん」


 聞き慣れた声がした。


 俺は反射的にそちらを見る。


 そこにいたのは、高校入学前日に遊んだ友人の一人だった。


 須山京介(すやま・きょうすけ)


 幼稚園からの付き合いで、中学のときも何度も俺を外へ連れ出そうとしてくれたやつ。明るくて、人当たりがよくて、俺とは違ってどこへ行ってもそれなりにやっていけるタイプの男。


 その京介が、見知らぬ男子たち数人と一緒に立っていた。


 たぶん新しい高校の友達だろう。


 俺は一瞬、声が出なかった。


 置いていかれた、という言葉がまた頭の奥に浮かぶ。


 京介は俺を見て笑っていた。


 その笑顔に悪意はない。


 ないはずだ。


 けれど、隣に知らない人間がいるだけで、胸の奥が少しだけざわついた。


「京介」


 俺は思わず、その名前を呼んだ。


 京介の視線が、俺の隣へ移る。


 星宮がいる。


 伊達眼鏡をかけ、目立たない服装をしているとはいえ、近くで見れば可愛すぎる女の子が、俺のすぐ隣に立っている。


 京介の眉が、わずかに上がった。


「え、清太。そっちの子、誰?」


 その瞬間、星宮が俺の半歩前に出た。


 ほんの少しだけ。


 本当に自然に。


 けれど、俺と京介の間に入る位置だった。


 彼女は柔らかく笑った。


 伊達眼鏡の奥の瞳が、京介を見ている。


 いや、違う。


 京介と、京介の周りにいる見知らぬ男子たちを、静かに確認している。


「こんにちは」


 星宮は丁寧に頭を下げた。


 そして、俺の袖をそっとつまんだ。


 見えないくらいの弱い力。


 でも、俺にはわかった。


 彼女は警戒している。


 俺が過去の知り合いと出会って、どこかへ引き戻されることを。


 俺が今、彼女ではない誰かのほうを見てしまうことを。


 京介は悪いやつではない。


 むしろ、俺にとっては数少ない大事な友人だ。


 それなのに、星宮の指先は俺の袖を離さなかった。


「清太の……」


 星宮は一拍置いた。


 その間に、俺は嫌な予感がした。


 まさか。


 ここでそれを言うな。


 言うなよ、星宮。


 彼女は俺をちらりと見上げた。


 その目は、笑っているのに笑っていなかった。


「幼馴染です」


 俺の休日は、その一言で一気に不穏な方向へ曲がった。

最後まで読んでいただき、ありがとうございます!

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