幼馴染です
翌日。
俺はいつも通りの日曜日を送るはずだった。
昼前に起きて、適当に朝食兼昼食を済ませ、録り溜めているアニメを消費する。気が向いたら昨日買ったカードをスリーブに入れ、デッキの入れ替えを考えながら一人で回す。そんな、静かで、誰にも邪魔されない休日。
けれど今日は違う。
星宮莉乃と、『学園ラブコメに青春はいらない!!』の最新刊を買いに行く日だった。
俺は今、ショッピングモールの吹き抜け近くに立っている。
ここは、数日前に星宮と初めて会った場所だ。
正確に言えば、彼女が星宮莉乃だと知らずに言葉を交わし、そのあと彼女を助けた場所でもある。あの日からまだ数日ほどしか経っていないのに、俺の生活はすでに大きく歪められている気がした。
いや、歪められているというより、無理やり別ルートに分岐させられたと言うべきか。
俺はスマホの画面に映る『青春いらない』最新刊のあらすじを眺めた。
巻数はもう二桁に突入している。俺は連載初期から追っていたわけではないが、それでも感慨深いものがあった。
この作品と出会ったのは、中学に行けなくなり始めたころだった。
最初は本当に暇つぶしだった。何もする気が起きず、部屋から出る理由もなく、ただ時間だけが溶けていくような日々の中で、なんとなく再生したラブコメアニメ。それが『青春いらない』だった。
最初はタイトルの癖が強いと思った。
けれど、見始めると止まらなかった。
軽妙な会話。変に格好つけすぎない主人公。甘いだけでは終わらないヒロインたちの距離感。何気ない台詞の裏に、ちゃんと痛みがあるところ。ラブコメなのに、青春の眩しさだけではなく、そこからはみ出した人間の寂しさまで拾ってくれるところ。
気づけば、原作を集めていた。
中学での息苦しさを、あの作品は少しだけ薄めてくれた。
親以外、俺が学校へ行かなくなった理由を深く聞いてくる人はいなかった。気を遣っていたのかもしれないし、単に興味がなかったのかもしれない。どちらにせよ、俺は自分の中に溜まったものをうまく外へ出せなかった。
だから物語に逃げた。
逃げた先にあったラブコメが、俺にとっては救いだった。
「おまたせ、待った?」
聞き覚えのある声がした。
俺はスマホから顔を上げる。
そこにいたのは、伊達眼鏡をかけた星宮莉乃だった。
あの日と同じように、芸能人としての輪郭を少しだけ隠している。服装も目立ちすぎない。淡い色のカーディガンに、膝丈のスカート。派手ではないが、近くで見れば一つ一つが上品で、ちゃんと可愛い。
地味にしようとしているのに、素材が強すぎて完全には隠しきれていない。
それが星宮莉乃だった。
「ちょうどこっちも来たところです」
「そっか」
星宮はほっとしたように笑った。
その笑顔を見て、俺は少しだけ視線を逸らす。
慣れない。
休日に私服の女の子と待ち合わせるという状況に、まったく慣れていない。しかも相手は有名アイドルで、こちらは中学時代に引きこもっていた一般男子である。釣り合いという概念を辞書で調べたら、たぶん俺たちの並びには赤線が引かれる。
「それじゃあ、行こっか」
星宮は自然に俺の隣へ並んだ。
近い。
いつも通り近い。
ただ、今日は制服ではなく私服だからか、その近さがいつもより生々しく感じられた。カーディガンの袖口から覗く細い手首。歩くたびに揺れる髪。横顔にかかる眼鏡のフレーム。
俺は余計な意識を振り払うように、前を向いて歩き出した。
周囲に、星宮莉乃だと気づいている人間はいなさそうだった。休日のショッピングモールは人が多い。家族連れ、カップル、友達同士の学生。その人混みの中に紛れれば、彼女も少しは普通の女の子に見える。
「ねえ、清太」
「なんですか」
「昨日は楽しかった? カードショップ行ってたんだよね?」
「まあ、それなりには」
「買ったカード、あとで見せてね」
「見てもわからないと思いますよ」
「わからなくても見たいの」
星宮はそう言って、興味深そうにこちらを見た。
カードショップという単語と星宮莉乃は、やはり似合わない。けれど彼女は、本当に知りたがっている顔をしていた。俺の趣味を、ただ会話の材料としてではなく、ちゃんと自分の中に入れようとしている。
その幼さの混じった好奇心が、少し可愛いと思ってしまった。
星宮は可愛い。
そんなことは最初からわかっている。
けれどそれは、テレビや広告で見る「星宮莉乃は可愛い」という認識とは少し違った。今、隣を歩いている彼女は、好きな人の好きなものを知りたがる一人の女の子みたいに見えた。
だからこそ、ふと思ってしまう。
俺みたいな人間が、関わっていい相手なのか。
その瞬間、脳裏に過去の声が蘇った。
『もう私に近づかないでくれるかな?』
教室の隅。
周囲のざわめき。
好意を寄せていた女子生徒の、冷たい目。
『私のクラスにも近づかないで』
無情で、容赦のない言葉だった。
ラブコメなら打ち切り一直線の展開だ。いや、最近の作品ならそこから逆転ルートもあるのかもしれない。けれど、現実にはそんな都合のいい救済はない。
リアルの青春は甘いだけではない。
苦い青春も、痛い青春も、ちゃんとある。
むしろ俺にとっては、そちらのほうがずっと現実味があった。
「清太」
星宮の声で、意識が戻った。
「ん?」
「今、他の女の子のこと考えてたでしょ?」
足が止まりかけた。
星宮は俺の顔をじっと見ていた。
伊達眼鏡の奥の瞳が、少しだけ細くなる。嫉妬しているような、拗ねているような顔。可愛げはある。けれど、その瞳の奥には、もっと重たい何かが沈んでいた。
「なんでそうなるんですか」
「顔が違った」
「顔?」
「私と話してるのに、遠くを見てた。誰かのことを思い出してる顔だった」
よく見ている。
いや、見すぎている。
星宮は一歩前に出て、俺の前に立った。人の流れから少し外れた、柱の陰。周囲からはそこまで目立たない位置だが、それでも近い。
「清太」
「はい」
「私のことだけ考えてよ」
その声は、甘かった。
けれど、軽くはなかった。
「私、清太の幼馴染なんだから」
「……幼馴染でも、そんなこと言わないと思いますけど」
「言うよ。私なら言う」
「星宮さん基準じゃないですか」
「莉乃」
「……星宮さん」
彼女の指先が、ほんの少し動いた。
笑顔は保たれている。けれど、唇の端がわずかに固くなる。俺が名前を呼ばないたび、彼女の中の何かが少しずつ削れるのがわかる。
星宮は、俺に近づいた。
「私は清太の幼馴染で、清太だけを見ていたい」
「だから、その幼馴染設定は」
「設定でもいいよ」
彼女の声が、少し低くなった。
「今は」
また、その言葉だった。
星宮の両手が、俺の頬にそっと触れた。
突然のことに、俺は動けなかった。
指先は冷たくない。むしろ、少し熱い。彼女の手のひらが、俺の顔を包む。人混みの中にいるのに、その瞬間だけ音が遠のいた気がした。
近い。
伊達眼鏡越しの瞳が、まっすぐ俺を覗き込んでいる。
その目は優しかった。
優しいのに、逃げ道を塞いでいた。
「清太が隠してる過去も、人間関係も、傷ついた理由も、私は知りたい」
「……知ってどうするんですか」
「覚える」
即答だった。
「清太が忘れられないことを、私も一緒に覚える。清太が一人で持ってるものを、少しだけ私にも持たせて」
その言葉は、ずるい。
重い。
けれど、優しかった。
俺は返事ができなかった。
星宮は俺の頬から手を離す。
名残惜しそうに、ほんの一瞬だけ指先が頬の横を滑った。その感触が消えたあとも、触れられていた場所が妙に熱い。
「だから、いつかは教えてね。清太」
星宮はそう言って、優しく笑った。
可愛い。
そう思ってしまった。
同時に、怖いとも思った。
この人は俺の過去を知りたがっている。俺が隠したいものまで、抱えようとしている。普通なら引くべき重さなのに、その表情があまりにまっすぐで、完全には拒めない。
面倒くさい。
本当に面倒くさい。
そして、厄介なことに、少しだけ嬉しい。
そんなやり取りをしているうちに、本屋の前へ着いた。
星宮は空気を切り替えるように、ぱっと顔を明るくした。
「あ、あった。新刊コーナー!」
彼女は足早に漫画の新刊コーナーへ向かう。
俺もその後を追った。
『青春いらない』の特設コーナーには、ポップが立てられていた。アニメ二期のビジュアルと、最新刊発売中の文字。やはり人気作だけあって、平積みの山はかなり減っている。残りは数冊だった。
「危なかったね」
「ですね」
俺と星宮は、それぞれ一冊ずつ手に取った。
表紙には、今回の中心になるヒロインが描かれている。少しだけ切なげな表情。背景には春の校舎。今の自分の状況と重なる部分があって、少しだけ落ち着かなくなる。
星宮は表紙をじっと見つめていた。
「ねえ、清太」
「なんですか」
「帰りに、近くのカフェで読まない?」
「……ここで読むんですか」
「一緒に感想言いたい」
「読み終わるまで無言になりますけど」
「それでもいいよ。清太と同じ本を同じ時間に読めるなら」
また重いことを言う。
ただ、その言葉の中にある楽しみは本物だった。
俺は少しだけ迷った。
人目がある場所で星宮と一緒にいるのは危険だ。だが、彼女は変装しているし、カフェの席を選べば目立たないかもしれない。それに、ここで断るとまた面倒な顔をされる可能性が高い。
「……まあ、いいですけど」
「やった」
星宮は小さく拳を握った。
その仕草が年相応で、少しだけ笑いそうになった。
俺たちはレジで会計を済ませ、本屋を出た。
その直後だった。
「あれ、清太じゃん」
聞き慣れた声がした。
俺は反射的にそちらを見る。
そこにいたのは、高校入学前日に遊んだ友人の一人だった。
須山京介。
幼稚園からの付き合いで、中学のときも何度も俺を外へ連れ出そうとしてくれたやつ。明るくて、人当たりがよくて、俺とは違ってどこへ行ってもそれなりにやっていけるタイプの男。
その京介が、見知らぬ男子たち数人と一緒に立っていた。
たぶん新しい高校の友達だろう。
俺は一瞬、声が出なかった。
置いていかれた、という言葉がまた頭の奥に浮かぶ。
京介は俺を見て笑っていた。
その笑顔に悪意はない。
ないはずだ。
けれど、隣に知らない人間がいるだけで、胸の奥が少しだけざわついた。
「京介」
俺は思わず、その名前を呼んだ。
京介の視線が、俺の隣へ移る。
星宮がいる。
伊達眼鏡をかけ、目立たない服装をしているとはいえ、近くで見れば可愛すぎる女の子が、俺のすぐ隣に立っている。
京介の眉が、わずかに上がった。
「え、清太。そっちの子、誰?」
その瞬間、星宮が俺の半歩前に出た。
ほんの少しだけ。
本当に自然に。
けれど、俺と京介の間に入る位置だった。
彼女は柔らかく笑った。
伊達眼鏡の奥の瞳が、京介を見ている。
いや、違う。
京介と、京介の周りにいる見知らぬ男子たちを、静かに確認している。
「こんにちは」
星宮は丁寧に頭を下げた。
そして、俺の袖をそっとつまんだ。
見えないくらいの弱い力。
でも、俺にはわかった。
彼女は警戒している。
俺が過去の知り合いと出会って、どこかへ引き戻されることを。
俺が今、彼女ではない誰かのほうを見てしまうことを。
京介は悪いやつではない。
むしろ、俺にとっては数少ない大事な友人だ。
それなのに、星宮の指先は俺の袖を離さなかった。
「清太の……」
星宮は一拍置いた。
その間に、俺は嫌な予感がした。
まさか。
ここでそれを言うな。
言うなよ、星宮。
彼女は俺をちらりと見上げた。
その目は、笑っているのに笑っていなかった。
「幼馴染です」
俺の休日は、その一言で一気に不穏な方向へ曲がった。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます!
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