4.地獄を喰らう厄災の龍は紅蓮を纏う
神域に続く河を辿り、風よりも迅く、アミューダ地方から離れる。目指す場所は中央大陸の北西方面にあるランバルト地方のケイオス地帯。古くからあるその名の地に降り立った。
荒野のような景色に聳え立つ、サルタリス山脈の渓流地帯にあるようなタワーカルストの数々。左側に広がる寂寥の藍に濁った海、溶岩が無音で噴き出る数メートルしかない小火山の数々。氷結晶が含まれている氷柱の林。熱帯林に生える木々。強い磁力と重力の歪みによって空に浮かぶ岩や小島。一部が永久凍土、沼地、礫砂漠の地帯。
面積的に広大であれど、気温、湿度、気圧、気流がこの地帯のみで入り混じり、別世界を生む。さまざまな気候帯がごちゃ混ぜになったような、狂った景色だった。
別称「混沌の大地」。自然のメカニズムの常識を打破した何とも言えない不思議な地帯だ。
もっとも、このような環境にしたのはリオラ自身だが。
この不自由極まりない体質になってしまってから、一時、気が狂うように暴れたことがあった。その場所がここだった。
元々は海岸沿いの森だったはずだが、何をどうすればこんな理屈の通らない景色になったんだか。この地方に訪れた人々はそう感じるだろう。
「……また来るとはな」
そう思いを馳せる災龍の視界に広がる景色は、地平線が見える程平坦だった。ここから黒龍群が来ると試みているがその姿はまだ見えない。
「……?」
――空の色が急変する。さっきまで穏やかに晴れていた空がにわかに曇り、雷鳴も轟きはじめた。恐らく、天候を操る龍の仕業だろうが、どうも規模が大きすぎる。ここまで気圧を変えることのできる個体はそういないだろう。
「来たな」
そう呟いた。
そのとき、あらゆる捕食対象を喰らい続けてきた百戦錬磨でさえも聞いたことがない、不気味な不協和音が周囲を圧迫してくる。随分遠くからだ。
長寿の災龍だけではない、誰もが今まで生きてきた中で初めて聞いた音。
王龍の咆哮だろうが、とても龍、いや、生物が発する声ではない。何かの機械音や金属音、僅かに電子音が混ざり合ったような唸りだった。
だんだんとそれが大きくなる。そして、その唸りは耳を劈くほどの大音響へと変わり、世界を制圧するかのような不快な音が、大陸中に響き渡るんじゃないかと思ってしまうほど、この地を包み込んだ。その正体を知らない、宗教に溺れた人々は大地や天空の唸りだと思っていることだろう。
だが、その程度で驚くはずもなく。災龍はただ真っ直ぐと、天の唸り声がする先を見続けた。
「この距離でこの咆哮はただもんじゃねぇな。王龍って奴は名前通りのとんでもねぇ奴かもな」
少し顔をしかめる。
咆哮は聞こえるのにその姿がどこにもいない。
「……擬態か」
体を捻り、身を屈める。その状態から勢いよく遠心力をつけ、大気へ裏拳を放つ。その拳の先から大気が、空間が歪み、莫大な規模の衝撃波が咆哮の方へと火を噴いた。
音速を超えた衝撃波は数秒後、ある地点で何かに衝突した。
地平線あたりだろうか、何かの靄が発生し、蜃気楼のように揺れた。そして霧が晴れるように地平線に何かが現れた。
数え切れない竜の群、群、群。
まるでこれから世界の表面を侵食するかのように、空と大地にはびっしりと竜の群が地平線を埋め尽くしていた。とは言っても、人の視力ではそれがなにかもわからないが。
肝心の黒龍神は見当たらない。奥の方にいるのだろうか。
「意外に近ぇな」
しかも、早い。数分後1キロ圏内に入るだろう。
こんな大群を見えなくするほどの広範囲ステルス機能を持つ龍がいるのか、と少し感心する。
「……」
ただ、時を待つ。奴らが来るのを、ただ待つ。
どんどん龍群は近づいてくる。小さかった影が大きくなり、人の肉眼でもはっきりと見る距離にまで近づいてくる。
何百万、いや、何千万だろうか。圧倒的な数。圧倒的な圧。
大群の野生命の大移動、否、襲撃はまさに青天の霹靂。まるでこの日の為に、竜という存在があったかのように。この時の為に、竜という数多に分かつ種族がひとつに団結したかのように。
時代の変動の刻。弱肉強食の頂点に立つ竜が、世界を手にする時。
彼らの意志を形あるものにするために、王龍という神の子が生まれた。
彼らにとって、王龍は希望の王。人類の思うがままにされる時代に、終わりを告げる先導者。
災龍――リオラはこれまでの人間とのかかわりを思い返していた。決して醜い程度では済まされない、凄惨な出来事の数々。
言葉では通じず、竜人族というだけで避けられた日々。体質が変わり、触れるだけで死者が出始めるようになってから、狂った歯車は壊れるほどまでに至った。
拒絶だけでは生ぬるく、誰もが憎しみを込めて殺そうとした日々。その憎しみや悲哀をすべて赤に染めた日々。生に飢え、飢餓と孤独に苛まれた日々。
いつから、このような運命を送るようになったのか。こんなはずじゃなかった――そもそも、人間の勝手ですべてこうなった。
だけど、すべてがそれではない。血と憎と死に満ち溢れた腐海に咲いていた、小さな花の温もり。それが、リオラの氷のように冷たく、干からびた樹のように枯れた心を揺るがした。
だからこそ、災龍は、この世界を己ら竜の時代にすることを拒み、人間の小さな温かさに希望を賭けてみたのだ。
「――へぇ」
先手必勝のつもりだろうか、あちらも災龍の存在に気づいたらしい。
遥か天より音を立てて落ちてくるは瞬く赤き小さな輝星。天を裂いては降り注ぐひとつの巨大な火球。音を越えて大気圏を貫く様は、天神が放つ炎を纏った一閃の矢の如く。
天を見上げ、災龍は向かってくる神の炎を見ては、大口を開けた。
その強大な質量を持つ隕石に匹敵する灼熱星を口で受け止めては大きく吸いこみ、喰らい尽くした。口から陽炎が零れ出るが、飲みこむ。熱波だけで足元の凹みかけた地面が赤く熱しては溶けかかっていた。
「……ったくよ、隕石を喰ったのは久し振りだ」
竜の中には、自然の神秘を越えた力を体の中に秘める輩がいる。それでも、この惑星外の力を利用する存在は、リオラの知る中では限られていたが、野性の竜の中で該当する種はいなかった。
「にしても、今のは王龍がやったみてぇだな」
思わず、笑みが零れる。
使命がありつつも、災龍にとって闘争は娯楽。飢えていた血と戦い。理性という鎖で抑え込んできた本能。己の中の悪鬼が、眼を醒ましつつある。
気を付けることは、それが暴走するにまで至らないようにすること。
「……その宣戦布告――買った」
龍群は進み続ける。その距離は1000メートルを切っただろう。
久し振りの戦争。今まで抑えるようサクラと共に訓練してきたが、今日だけは耐えなくていい。
思い切り、暴れられる。
災龍は前へ歩み出す。
ちっぽけな人間と大差ない姿形。180cm程度の背丈しかない存在の一歩は、地鳴りを起こす龍よりも静かだった。
だが、その一歩は、寂寞にして雄大。それは、巨神の一歩の如く。
前方を視、一歩、一歩と、動作としては人間の歩行と何一つ変わらぬ行為。しかし、それを引き金に、先頭の竜を始め、前線にいた数千頭の竜は神経を掻き乱され、心臓を握り潰されたかのような衝動に駆られ、次々に倒れていった。飛竜群もドサドサと地を響かせ落下していく。
その竜たちの意識はなくなっていた。
「……所詮は寄せ集めか」
この瞬間のこの場所。時の流れが僅かとして遅くなる。それほどの威圧が、エネルギーとして大地を揺るがし、生命の駆動を一時的に停止させる。
全力で駆ける竜群が焦りを見せつけ、激流の如く突撃してくるのに対し、災龍の前進は渓流よりも穏やかだった。
辛うじて気絶せずに済んだ前線以後の竜群は恐れをなしつつも、後方から聞こえる天の唸りに応えるべく、捨て駒として向かわされる。意識を失い、倒れた竜たちの上を無残にも龍群が踏み倒し、がむしゃらに、どんどん前へ進んでいく。
「生よりも王の勅命を引き受けるか……」
強制的な支配力。王ならではの為せる力。
だが、それに対し災龍は溜息まじりに、言葉を発す。
「脅しで民を動かす程度じゃ、王としては失格だ」
パキパキと、蛹から羽化するように、皮膚のあちこちが小さく裂けはじめ、赤く染まる。湯気を発し、陽炎を生じさせる。
全身の高温化。揺らめく陽炎は不可視の炎。周囲の大気を乱し、狂わしていく。
竜群との距離まで、10丈(約30メートル)。
「――大焼炙の獄も知らねぇ、若ぇ輩が出しゃばるんじゃねぇよ……」
この男は、生きるためだけに数多の命を喰らい続けた。だが、その罪を償う為、神に獄へと突き落とされ、思考を止めるほどまでの年月を送らされてきた。概念として死を迎え、生を奪還するも、罪は払拭されなかった。
その龍、人の身にして一六〇〇。魂の身にして約5京5千兆。真の獄を耐え抜いた者にして、その階の獄を支配した者。
獄卒阿傍羅刹でさえ慄き、六道の界にて付けられた字名は地獄龍。
八大地獄を喰らう悪霊。
崩壊が、この地で起きる。
――ウォオオオオオオオオオオアアアアアアアアアアアアアアア!!!
それは、声とは到底思えない音波を爆発させた。ケイオス地帯全土が衝撃圧に襲われる。
超音波、超弩級大音量のボイスを発し、生物を、環境を音の振動で破壊させる。
地面が爆破し、捲れあがり、粉砕する。
目の前の龍群は吹き飛び、振動でその頑強な身を破裂する個体も多かった。
まるでこの地に核爆弾が落ちて来たかのような破壊力とその広大な規模。そんな爆破が数十秒も続く。
「――ァァァァアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア」
爆音を越えた破壊的超音波を放つ、と同時に全身を大量に発汗させ、蒸気へと変える。
破滅的な超音波を発しながら身体の熱はどんどん高まり、体が赤くなっていく。顔は血濡れたように紅潮し、極度の高体温により水蒸気を放つ。
周囲の龍群は、その細胞組織を振るわす程の音響と、蛋白質が熱分解しかねないほどの高熱でバタバタと倒れていく。
「――ァァァァアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア」
轟音を越える響声により360度の地形は粉砕され吹き飛ぶばかり。自身を中心点として、ひとつの大きなクレーターが徐々に形成されていく。
「――ァァァァアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア」
排気音が爆撃的咆哮と共に奏でられる。肉体から噴き出す蒸気は一層激しさを増す。周りの気温が50℃,60℃へと上昇し、間もなく100℃を超越する。噴き出る熱波は数千℃に匹敵し、とうとう地面を赤くさせ、溶かしていく。
「――ァァァァアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア」
紅の身体はさらに熱さを増していく。蒸気が炎へと変わり、肉をも燃焼する。全身が太陽のように燃え、周りがマントル内のホットスポットのような超高熱地帯と化す。
「――ァァァァアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア」
単純な熱膨張、『乱雑』の増大の境界を越え、原子単位での悲鳴が喝采される。もはや大気中の分子すら結合はおろか、その形すら保てなくなる程。
もはや近づける者はいなかった。それどころか、竜群はその危険地帯から必死に逃げようとしていた。だが、その行為も虚しく、龍は熱波に飲み込まれ蒸発していった。
「――ァァァァアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア」
地面がマグマ地帯へと変貌していく。肉体のメルトダウン。災厄の神の身は太陽の如く白く燃え上がっていた。
そして、超新星爆発のようにその燃える体は鬱憤を晴らし、一気に爆発した。熱と衝撃波で龍の残骸すら残さない。
1000万℃――体内、体表、体外で起きた核分裂反応による威力は、想像通りの凄まじさだった。
大気が沸騰したかのごとく暴発し、相対湿度が極値にまで低下。暗雲は消え去り、大海の水量を減らし、塩分濃度を2.4%増加させた。
「はぁ……はぁ……」
燃焼反応による閃光が収まるが、身体からマグマのような噴煙と液体が体から溢れている状態は収まらない。
オーバーヒートと呼ぶには物足りない熱量。赤黒く不気味に光る炎は神の司る炎というよりは地獄の炎と言うに相応しいだろう。
先ほどまではあらゆる環境に竜が渦巻く混沌の環境だったが、一瞬で溶岩地帯へと変貌した。
空には水分や粒子すら存在しないため、レイリー散乱を起こさず、白い空を体現させる。曇天とは違った、燦々とした白天。遮りの無い天の恵みの光は、何よりも純白なるものであった。
しかし、気温は火山内部よりも遥かに熱く、気流は乱れ風は暴風。溶岩をも熱す大地は死臭さえ焼き払う。焦熱地獄には遠く及ばぬものの、その景色はまさに地獄絵図の世界。
煉獄纏う災厄の神は、何里も先の地でふんぞり返っているであろう、龍の身を纏った神々を千里眼で睨みつつ、それを守る竜群の残党に、そして死した数多の命に告げた。
「恨むなよ。罪がなかろうと、テメェらが弱かった故に選ばざるを得なかった道だ。……一度転生してこい、愚か者共よ」




