7.月明かりの下、災禍と出遭う
《サクラ》
今宵は、いつもの満点に輝く星々が見える夜空ではなく、真っ黒な漆のような雲が、大地を覆いかぶさっている。太陽に照らされることのない雲は、池の底の真っ暗さを連想させる。
王宮の一室、王女室のベッドに寝っころがり、私はある本を集中して読んでいた。その本はこの前ウォークに貸してもらった「龍の言霊」。竜人語の語句、文法書みたいな参考書あるいは辞書のようなものである。ちなみに私はこの分厚い本を何回も読み通している。単に理解し難いから読み返しているだけなんだけども、我ながらなんて学習意欲が高いのだろうと思う。本来学ぶべきことじゃないけど。
「……わかった、あのとき災龍が言っていたこと」
初めて、いや正確には2回目に会ったとき、人間の姿をした災龍が叫んだ言葉。その時は獣の咆哮としか聞こえなかったが、あまりにも異様な咆哮だったので記憶にびったりと残っている。
私は本に書いてあった内容の一部を思い出しながら、その記憶された言葉を紙に書きながら照り合わせてみた。声に出しては確認する。
「grが『相手』」
つまり『あなた』という意味。
「第4音階のegraが『拒否』、raが『来訪』……『来ては、いけない』。『来る』のraが連続されていたから……」
強調、または命令形。
「berが『行為』、第1音階のryuが『死去』」
そして連続形だから命令形。
「第3音階のroは『無意識』、daiは『逃避』、第7音階のleyoは『強制命令』の助詞みたいなもの」
そしてそれは、
「daiに接続」
完成した一文。私たちの言語に変換した言葉。私はそれを読み上げた。ひとつひとつ、噛みしめるように。
――『お前来るな。殺してしまうから逃げろ』
「……うそでしょ」
驚きを隠せなかった。
災龍がこのように話していたなんて。
でも、災龍がもし私が翻訳した通りの意味で話していたとしたら、私は彼に警告されたということになる。それか、本能で殺してしまう衝動が出る前に、気を抑えてあんなことを言ったのか。
そう考えた途端、嫌に脳裏に焼き付いている、遠くから見えた小さな紅蓮の瞳を強く思い出す。もしかしたら、災龍は悪い厄神ではないのかもしれない。なにか訳があるはずだ。
あれから一か月。暇じゃないときでも、この本を読み続けてきたからほとんど用語は覚えた。なんとか竜人語は話せるから、災龍とも話せるはず。
方法はある。
準備もできている。
自由に外を出入りできる権利もある。護衛付きでという条件だが、そんなのはいらない。
「……明日、もう一度会いにいこう」
*
「よしっ、ナウル! 飛んでっ!」
今宵も晴れ晴れとした夜空の中、竜小屋の裏の牧場みたいな丘陵で、私はナウルに乗り、空高く飛び上がった。向かう先はもちろん、あの大樹に埋もれた社があるサルタリス山脈だ。今回も奇跡的に見つからずに、国を出ることを祈る。平和な国だからそこまで護衛は厳しくはない。自分の国としてどうかとは思うけど、死角――抜け道が数カ所あることは既に(イルアから教わったことだけど)把握済みだ。
上空から見える景色は綺麗だが、猛スピードで飛ぶナウルにしがみつかないと振り落とされるし、下を見ると高くて怖いので、移動中が一番気を抜いてはいけないかもしれないとふと思う。
下を見ると、国に隣接するサルト農村や田んぼ、畑が見られた。そして、その先にはサルタリス山脈が誇り高く、その空間を陣取っているかのように存在している。
そろそろあの場所に着く。災龍とまともに話せるかもしれないという期待と、殺されるかもしれないという恐怖が複雑に心の中でよぎる。緊張が高ぶる。落ち着いていけるか不安だ。
サルタリス大橋に着く。私はナウルを橋の傍に置いていき、橋を渡っていく。一歩、一歩橋をギシギシと踏みしめていく。進むにつれ高鳴る鼓動。この比例作用をなんとか止めたい。
緊張するな、私! やればできるんだ。
信仰地に着いた。その社は、不思議な威圧感を放っている。何ともいえない神秘。そして、その威圧を一柱の雄大な大樹が覆い被る。
「――ッ!」
いた。
その社の屋根には、あの赤髪の「人間」があの時と同じように横になって眠っていた。私は社の前に立ち、勇気を振り絞り声をかける。
「ね……ねぇ、災龍さん!」
「人間」は起き上がり、私の姿を見た途端、驚いたかのようにカッと目を開かせる。その動作だけで反射的にびくりと身体を震わせてしまう。風が強くなったのか、ざわわ、と木々が揺れる。
災龍だと思われる人間はすぐに立ち上がり、大樹の方へと逃げようとしていた。
まずい、何か話さないと。
私は頭の中を必死に動かす。本に書かれた用語を文法通りに並び替え、この状況に合った文章を作り上げていく。そして、その文章を口から飛ばすように、叫ぶように言った。
「せ、sera-gueruuuit(待ってください)っ!」
「――――っ!」
私が竜人語でしゃべった途端、「人間」は立ち止った。そしてゆっくりと私の方へと向き、竜人語を話し始めた。聞き取れるかな。
「grzea-adururyo-si-sihal-ur-ru」
初めて彼のまともな声が聞けた。声もやはり青年か少年か区別しにくいが、男らしさのある逞しさと肝の据わった、力の感じる声。しかし、どこか少年のように透き通っていて、筋の通った穏やかな声だった。
早くて少し聞きづらい。けど、単語単語ならなんとかわかるかもしれない。
『相手』、『会話』、『可能』、『疑問』、『竜人』、『言語』、『接続』の意味でいいのかな……。ということは、『お前は竜人語を話せるのか』で合っているはず。
「gu……w……bel-au(ええ、ほんの、ちょっとだけ)」
途切れ途切れの返事になってしまったけど、何とか伝わってほしい。
「dalha-greeebe-gar-urymuu(何故、オレに話しかける)」
「gr、zyr……ara(あなたと、話して、みたかった、から)」
「……vehal-adlhan-raagya-reryo(俺が怖くないのか)」
「vow(いえ、全然)」
「……zyara-vehalas-kyurararan(すぐに恐ろしさを知る。帰ってくれ)」
「seez(嫌です)」
「……zyara(頼む、帰ってくれ)」
「sez-zyareid(帰りません)」
「……」
彼は遂に黙り込む。何か言いたそうだった。
しかし、何も言わずに踵を返し、大樹の奥へと歩いていく。
「――っ、syageruuuit! al-fezy-bara-siryo!(待ってください! あなたに言いたいことがあってここに来たの!)」
彼はその返事に答えないまま、歩を進める。そして、大樹の太い枝に飛び乗る。
このままじゃ本当に帰ってしまう。伝えたいことがあるのに、それを言えないまま終わるなんていやだ。せめてこれだけは、この言葉だけは彼に伝えたい。
「mel-syalaiz!(私と友達になってくれませんか!)」
「――!」
そのとき、大樹の上にいた彼は再び立ち止る。その瞬間、周りの音がなくなり、静寂の世界となった。
緊張で息が切れそうになる。
しばらくの静寂が続く。彼はそこから一歩も動かなかった。
背中から嫌な汗が伝う。昂る心臓は治まらない。足が竦む。神経が痛い。
だけど、ここで引くわけにはいかない。その真っ赤な目を見つめることしかできないけど、引き下がるわけにはいかない。
「……」
すると彼は右手を、大樹の幹のような太い枝に触れる。パキパキ、と音が静かに、静かに響いた。
掴んでいる枝から聞こえる……?
そして彼は、振り向かずに再び歩き出し、奥へとその姿を消した。
彼の触れていた大樹の枝。燻ったような煙が出ていたように見えたが、距離があり、また暗かったため、気のせいであるようにも見える。月明かりが照明のように明るくとも、昼の眩しさとまではいかない。
攣るほどまでに張っていた緊張は軽くなった空気と共に緩まる。
「……ふはぁー、緊張した~……」
一気に力が抜け、足を崩しては尻餅をつく。
しかし、腰をついた場所が聖域である信仰地であり、災龍の居場所であることに変わりないことを思い出し、「はっ」とすぐに立ち会がる。そそくさと私はギシギシと揺れる大きな橋を渡り、ナウルの元へ戻った。
「……」
私の気持ちは伝わっただろうか。できれば応えてほしかった。けれど、あの無反応からして、私はきっと嫌われたのだろう。
生涯初めて、外の世界で知り合った最初の人物。それもあの災龍。もしかしたら仲良くなれるチャンスを、今私は握っているかもしれない。だとしたら、絶対にそのチャンスを手放してはならない。必ず、友好関係になって黒龍を倒すのに協力し――
「あ、黒龍神のこと言うの忘れてた……」




