一
龍樹達は通いなれた小路を疾走する。
目指す街までの最短距離。
もちろん、今から約束の場所に行ったってアテナが待っている事はないだろう。
客観的な、しかも素人目線から軽く見積もっただけの判断でしかないのだが、
かなり、手こずると思う。
下手をすれば殺され……
(いや、止めとけ)
走りながらも、龍樹はその可能性を考えないようにした。所詮それは現実逃避――言いかえれば自己満足でしかないのだろうけれど、それでも、あの女は約束した。
必ず後で、合流すると。
安っぽい言葉なのは分かっている。信憑性に欠けていると言うことも重々承知だ。
だが、今はそれを信じるほかにない。
なによりも、そんな事を心配する余裕があれば、それを自分達がいま置かれている窮状の打破に回したほうが良い。
「まだ付けてくるのか」
走る速度が緩まない程度に、龍樹は軽く後方を振り返る。
動きながらの測定なのでかなりアバウトになってしまうが、ざっと見積もった距離は五十メートルもない。
段々距離は縮まっているのは確かだ。あんな動きにくい服装なのにその俊敏性は反則だろと龍樹は思う。
同時に。
それが裏の住人なのだろうとも。
アテナはあの女は傷を負っていると言っていたが、あの走りっぷりを見ているとそうは思えない。
とはいえ、体力水準がピークに達する十七歳の男である龍樹一人なら、まだなんとか巻けた事だろう。
逃げ切れない理由は他にあった。
龍樹は前を向き直る。すぐ目前に雫が居た。追われている原因の女。こんな時に不謹慎なのだが、彼女がそれこそ将来有望視されている陸上の金メダル候補なら、状況はもっと変わっていたのかもしれない。
所詮それも、自分都合のエゴイスティックなのは間違いない。
ともあれ、そんな陸上の金の卵でもなければ、改造を施されたサイボーグでもない、身体的にただの女子であるところの雫の走りは、女からすれば速いのかもしれないが、一般的な立場から勝手に判断させてもらうと、遅い。
というほどまではいかなくとも、とてもあの紫髪の女を振り切るような脚力はない。
流石に背負って走る訳にはいかない。
押し付けがましいとは思いながらも、龍樹は訊く。
「おい雫、お前もっと速く走れないのかよ!」
背中越しに、その女は言う。
「無茶言わないでくれ。悪いがこれで全力だ」
息を切らし、本当に申し訳なさそうに雫は言った。
言葉数が少ない事からもいっぱいいっぱいであろう事が窺える。
「……そうか」
そうだよな、と龍樹は思う。
いくら頭が良かろうが、いくら健康に気を使って体を動かそうが、根は女。
本格的に運動をしていない限り、基本値はそれ相応になるのは当たり前だ。
(……となると)
浅はかで短絡な知恵ながらも、龍樹は考える。
どうせ捕まるなら、より必要性の低い自分が囮になってその間に雫を逃がせば良いのではないかと。
こんな自分でも、一応それなりに成長した男だ。相手は見た目そんなに強くなさそうな女。
彼は紫髪の女の戦いぶりを直接見た訳ではない。
三百メートル上空から落下して無傷でいられるのだからなにかしらの特殊な能力を持っているのだろうが、果たしてそれが殺傷能力に結びつく訳ではないはずだ。
時間ぐらいは稼げるはず。それに、あわよくば勝っちゃうかも。
などと、淡い期待を抱く龍樹だったが、
(……)
内心は恐い。そんなにうまくいくはずがないと言い張る、もう一人の自分がいる。それによくよく考えれば、この目前を走る女がそれを許すとは思えない。
思い上がりではない。この天才馬鹿女は、その行為を無駄にするような行動を取ると、確固たる自信を持って言える。
それを裏付けるかのように。
前を走っていた雫が、急に速度を落して龍樹の横に付いた。
息を切らしているものの、計画性のある女のどこか余力を残す顔を見るに、別に限界が来たから速度を緩めたようではなさそうだ。
雫の横顔を見つつ、龍樹が問う。
「? なにしてんだよ、お前」
「妙な事は考えるなよ」
「?」
龍樹の苦痛に歪んでいた顔が更に顰まった。
「なにがだよ?」
「お前いま自分が囮になろうとか、もしくは戦おうなんて事を考えていただろ」
「……」
この女はエスパーかなんかだろうか、と龍樹は思った。いや、所詮馬鹿の考えなど、お見通しなのだろう。
雫はその原因を言う。
「段々、速度が落ちてきたからな……」
後方の敵が距離を縮めて来ているというのに、雫の表情にはどこか冷静がある。
速度が落ちてきた。
言われて気付く。
先程よりも、紫髪の女との距離が縮まってきている。
「……まあお前に隠し通せたことなんて一度もないからこの際自供するけど」
どんな上から目線だよ、と龍樹は少し可笑しくなった。
「正直、そんなヒーローにも似たカッコイイものになれんのかな、って一瞬思ってた」
「だろうと思った」
やっぱりお前馬鹿だよ、と、雫はそんな事を言う。
反論の余地もあるまい。
「ヒーローどころか、なんの考えもなしにそんな無謀な事されたら、それこそ悪役も悪役。残された者の事を考えてみろってんだ全く」
独り言のように放たれたその言葉は誰に向けられたか定かではないが、雫は、龍樹か、それとも自分を置いてどこか遠い所に行ってしまった両親だかに向かって、こんな称号を送る。
「我田引水。最早極重悪人」
「そんなにか」
我田引水という四字熟語の意味は忘れたけど、とりあえず、自分がすぐに行動に移れるような勇者でなくて良かったと、龍樹は思った。
仮にそれが成功しても、雫も述べた通り、内面が救えなければ同じだろう。
人が人を本当の意味で助けるのなんて、自分が思っている百倍は難しいだろうと、龍樹は痛感した。
(そうだよなぁ)
纏まりが求められるフィクションと違い、いつ、どんな災難で命を落すやも知れないような危険な現実世界で、そんな勇敢な行動が成功するのは、ほんのわずかな、ほんとうに一握りほどの事例しかないだろう。
絶対に駄目だと思っていた事が成功すると、人はそれを奇跡と呼ぶ。しかし、そこになにかが出来したのは間違いない。ただそれを皆――知らないだけ。
何もないところからは何も生まれない。そこになにかがあるから、生まれる。
そんな何かが自分にあるとは到底、龍樹は思えなかった。
それでも、そういう事をする意気込みはあったのだというところを、雫は評価してくれても良かったと思うのだが、それが罵声とは……
言いたい事を言う、歯に衣着せぬ雫の事。
それは紛れも無い本心なのだろう。
いやはや。人付き合いは、難しい。
「……つっても、」
龍樹は後方を見た。美形の破顔が窺えるほどまでに、紫髪の女との距離は縮まっていた。
後、三十メートルほどだ。
「どうすんだよ、このままだと二人とも捕まっちまうぜ」
「それを今考えている」
街に最短距離で着けるルートを選んだのは、どうやら誤りだったようだ。
途中で見かけたのはシルバーカーをマイペースで押すお婆さんぐらいで、人気が全然なかった。
道が常に一直線である。
少しアテナを過信しすぎた、点もある。
頼りすぎだ。
幾ら彼女とはいえ、あの褐色の男と同じ――恐らくはそれ以上の技量を持つ二人を相手に、足止めなど出来るわけが無い。
それもそうだし、アテナがまだ来ないと分かっていながら、すぐにたどり着けるという理由だけで雫の意見も聞かずにこのルートを選んだのも、龍樹だった。
本当に、なんて自分は愚かで、惨めで、浅ましく、弱いんだ。
龍樹はそう、自分を責めた。
「そう気に病むな」
龍樹の自虐を見透かしたかのように、雫は呟いた。
その根拠は、前方にあった。
「……着いたか」
いつもより長い時間に感じ取れたが、なんとか追いつかれることなく、街へと到着したようだ。
龍樹は思う。
休日でいつもより人混みが溢れるそんな場所では、標的を常に視認しつつければならない追って側が明らかに不利なはずだ。
これも短絡的な見解かもしれないが、となりで走る雫のどこか希望を見出したような顔を見ると、もしかしたら彼女もそう思っているのかもしれない。
かすかに差し込んだ光に触発され、足取りも軽快になった。
「絶対に逃げ切るぞ、雫」
「当たり前だろ。確認するまでも無い」
軽くそんな言葉をかわし、並びながら小路を抜けた二人は。
街へと、紛れた。
その。
ほんの数秒後。
小路から街に身を出した紫髪の女――ローズは、辺りを見回す。
小路とは打って変わって、日本の首都に指定される程の重要都市のそこは、グローバル都市として上位に食い込むほどのそこは、名に恥じず、溢れんばかりの人混みで満たされている。
歩く隙間も見当たらない。
これでは走りの速度など全く意味を成さない。
ターゲットはもう見えなくなっていた。いや、近くにいるのかもしれないが、窺い知れない。
ざっと見ただけで数百のビルや雑貨が入り込む街並み。この中から見失ってしまった人っ子二人探すのは大変困難な事だろう。
「……ふふふふふ」
それでもローズは笑っていた。
もちろん、人気の少ない小路で捕らえられればそれで全ては終了だった。 だが『女は常に美しく』というモットーを掲げるローズ。パーティードレスという動きにくい服を着ていたため、いかに裾を捲り上げていようと、いつもより走りに支障がきたされていた。
それを悔い改める気はない。
むしろ彼女は笑っていた。
(いいわね。焦らされるのは嫌いじゃないわよ)
標的に逃げられたというのに、端正な顔に浮かぶのは怒りでもなく悲観でもない、妖艶な笑みだった。
捻くれた性格なのは間違いない。
ただ彼女は頭ごなしに匙を投げるような女でもない。
人が溢れ、様々な障害が密集する街で、たった二人の――それも、およそ人目に付かない所に身を寄せているであろうというのに。
ターゲット二人を捕まえる自信が、ローズにはあるのだろう。
◆
人混みに紛れ、一時的に距離を置くことに成功した龍樹達。
「……よし」
雑貨ビルの壁から顔だけを覗かせ、後方を確認した龍樹は、
「何とか振り切ったみたいだな」
一旦、中休みに入った。
そして今後の予定を掲げていく。隣の雫に訊いてみる。
「どうするよ? 約束の時間までの間、この近辺をうろうろしとくか?」
「……危険そうではあるが、存外、あまり離れて無駄に動き回るよりもその方が効率的かもしれないな」
それでもただほっつき歩くだけでは駄目だと、雫は言う。
「一番ベストなのはお前の言う約束の場所――つまりは噴水が見え、より安全を確保されるような場所だろうな、やっぱり」
「となると周りにある飲食街のどれかで時間を潰すって事か? 俺、朝飯食ったばっかでまだ腹減ってないぞ」
「……そういう問題じゃないだろ。まあ、とりあえずそれもありとして、他にも幾つか血路を開いておくほうが良いな」
常に可能性を考える雫。この辺はいつもながら感心するものがあると、龍樹は彼女の険しい横顔を見ながら思った。
それに習い、一緒に考える事にする。
「……ここは思い切って噴水で堂々と待つってのはどうだ? 灯台下暗しって言うし」
「アホか」
一蹴されてしまった。わりかし真剣に考えた、斬新なアイデアだったのに。。
斬新過ぎたのだろうか?
それからしばらく、雫は無言だった。なにかを閃いたのか、いないのか。どちらかは分からないが、やがて彼女はこんな事を言う。
「とりあえず、飲食外で時間を潰そう。相手は私達の約束場所を知らないだろうから、この付近だけに的を絞ってくる事はないだろう。むしろ、より遠くに逃げたものだと判断する可能性の方が高いだろうからな」
「……まあ考えてみればそうだな」
そうだ。相手には、アテナとのやり取りは聞こえていないんだったと、龍樹は気付いた。
「じゃ、早く行こうぜ。走りすぎてケツが痛いから、椅子に座って休憩したい」
「……お前ってほんと緊張感ないよな。分かってるのか? 今結構重大な立場に置かれてるかもしれないんだぞ」
「分かってるよ。ただ、やる事が決まったのにじっとしてるなんて、それこそ時間の無駄だろ。急がば回れだ」
「……それだと逆だろ」
「ん? 膳は急げだったか?」
「膳ではなく善だ。仮に合っているとしても、朝食べたんだろお前、だったら丸っきりの裏目じゃないか」
「膳は急げば七転び八起き」
「変な事になってる」
いや、ほんとお前と遊んでる場合じゃないんだよと、声を張らして、雫は言う。流石に最後のは緊張をほぐす為のおふざけだったのだが、ふむ、どうやら失敗に終わったようだと龍樹も反省する。
むしろ雫はイライラしたようだ。
案外短気なのかもしれない。
そんなどうでもいい事を考えつつも。
龍樹は雫と慎重に飲食外へと向かった。
午後一時。約束の時間まで後四十分。
お昼時と言うこともあり、外国からやって来た大手チェーン店の中は、やはり人混みで溢れていた。並んでレジまで行くのにも一苦労だったが、龍樹達は何とか注文を終え、席を確保する事に成功した。
「ここなら確認できるだろう」
注文したコーヒーを飲みながら、龍樹は言った。
横に設置されているガラス窓からは、噴水がよく見えた。
「おい、もっと姿勢を低くしろ」
龍樹の対面で、机にべったりへたり込む雫が隠れるよう促す。
気にしすぎだろ、と思いつつも、龍樹はそれに従う。
机に顎を乗せる体勢の二人。はたから見ればちょっとした異様だ。
「……でもこれじゃ噴水が見えないぞ」
「だからといってずっと外から見えるのはまずいだろう。大前提として、見付かっちゃ意味がないんだよ」
「ふーん。じゃたまに来てるか来てないか見て、それを繰り返すって訳か」
「ああ。粗末感は否めないが、致し方ない。それに、よくよく考えてみたら大丈夫そうだ。お前の言った通り、これだけの面積を誇る場所でたかが二人の人間を見つけるのなんて至難の業だ」
「だろ」
そこで龍樹は注意を受けたばかりなのに姿勢を立てた。雫の口からも大丈夫という言葉が出て、ちょっと気が緩んだ。
呑気にカップに口を付けながら、
「だからお前は何事にも気にしすぎなんだって。頭の良い奴の苦悩かどうかしらないけど、もう少し気楽に生きろよ、そっちの方が人生楽だぞ」
「……確かに一理ある推論だが」
負けじと、雫は龍樹の頭を掴み机へと寄せる。それにより再度伏せる形になった龍樹。
彼が手にするカップから、中身が飛び出しそうになる。
「それでもお前はもうちょっと周りを気にするようにしろ。失敗や選択を誤って後悔しても、それ自体はどうにもならないんだからな」
むぅ、とどこか唸る声を上げ、普段から愛想の悪い人相を更に歪ませる龍樹。
なにが不満かは分からなかったが、うん、何かが不満だったのだ。
「……さて、後は時間が経つのを」
時刻を確認しようと、結構な距離にある前方の壁に掛けられている時計を見ようとした雫はそこでふと、喋りを止めた。
止めざるを得なかった。
目を見開き、信じられないものを見たかのような表情を取る雫。それを不審に思った龍樹は眉根を寄せた。
そして促されるように、瞠目された雫の視線を追う。
体勢を低くしたまま後方を振り返る。
そこに居たのは――確かに撒いたはずの紫髪の女だった。
思わず顔を戻す龍樹。
顔を腕で覆い、隠匿性を更に厳重にする。
そして小声で、目前で同じ格好を取っている雫に訊く。
「(な、なんであいつがここにいるんだよ!)」
「(知るかそんなの! ただ、さっき眼があったからたまたまという事はなさそうだぞ)」
雫は肘から眼だけを覗かせ、紫髪の女を確認する。
斜め前方一つ飛ばしの席で、足を組み、目を瞑りながら優雅にドリンクを飲んでいる。
飲み終えたのか。
手に携えたコップを机に置いた紫髪の女。
その美形の瞼が開かれ、中に隠れていた琥珀色の瞳が、雫を捉える。
そしてニッコリ。
寒気を覚え、机に突っ伏せる雫。
マズいマズいマズいマズい。
龍樹と雫は、顔を伏せたままの状態で会話する。
「(おい、どうするよ! 初っ端から躓いてんじゃねーか!)」
「(分かってるよ! そもそも、もっと慎重になるべきだったんだ。それをお前が)」
「(なんだよ俺の精だってのか? お前だって納得しただろ)」
「(納得はしてない。だからここに入る前ももう少し見回ってからにしようと言っただろ。それなのに)」
「(だったらもっと全力で止めたらよかったんだよ。長年の付き合いだ、俺がどういう人間性を有しているかぐらい、分かるだろうよ)」
「(分かるわけないだろお前みたいなイレギュラーまみれの思考回路なんて。この際だから言わせてもらうが、お前に勉強を教えるくらいなら猿に教えたほうがまだ理解力がありそうだなと思った事が何回かある)」
「(な、なにぃ!)」
何か言い返す言葉を探す龍樹。しかし、完璧人間であるところの雫に欠点など見付かる訳もない。
いやそれにしても、自分で言う分には構わないが、他人に言われると結構傷付くものである。
なにより今は、
「……争ってる場合じゃないな」
「……だな」
龍樹の言葉に、雫も同意する。なんとか一定の平常心を取り戻し、二人は真剣にどうするべきかを考える。
二人は紫髪の女をちら見した。女は相変わらず優雅にドリンクを啜っている。その顔には微笑があった。視線は自分の机に向いているようだが、意識は龍樹達を向いているに違いないだろう。
「(……とりあえず、ここから出よう)」
雫のその言葉に。
出る? と龍樹は顔を顰めた。
「(でももしかしたらここにいた方が安全なんじゃないか、人目も多いから派手な行動は取れないだろ)」
「……本当にそう思うか?」
突然、神妙な顔付きになった雫。
ああそうか、と龍樹は思った。
敵は得体の知れない連中。それこそ目的の為なら、いざとなれば手段を選ばないかもしれない。
つまり、ここに自分たちが居れば周囲の人に迷惑が掛かると、雫は思ったのだろう。
こんな危難な状況に立たされても周りを考慮する寛大な心。
龍樹は周囲を利用しようとしていた自分が恥ずかしくなった。
「(そうか……分かった。で、どうやってここから出る?)」
龍樹のその質問に雫は、
「堂々と出る」
となんの淀みも無く言った。
「さっきも言ったが、相手はこちらに気付いている。という事は、下手に策を講じても、返って逆効果になってしまうかもしれない。いくらあの女が周りを顧みない者だったとしても、今攻撃してこないという事は、妙な騒動を避けたいのだろう。……だから、恐らくここを出るのは簡単だ」
「……なるほど」
問題はその後か、と龍樹はうなだれた。
そして、ならどうするかと考える前に、
「とにかく」
雫が放ったその言葉に、耳を傾ける。
「一端ここから離れよう。アテナがいつ来るかは分からないが、流石にこの辺に滞留し続けるのはまずい。いずれにしてみても、奴をこの付近から放す必要がある。しばらく誘導して、頃合を見計らって此処に戻ってこよう」
「……理論はわかるけど、そんなにうまくいくのか? 相手の方が足速いんだぜ」
「円滑に行くとは思っていないさ。ただ、他に良い案が浮かんだか?」
「……浮かばないけど」
なら決まりだな、と言い、雫は席を立ち上がった。
え? もう行くの? と心の準備がまだ出来ていない龍樹は、戸惑いながらもそれに倣った。
雫が先陣を切って歩き始める。危難なのは、出口へと向かうには否が応にも紫髪の女の横を抜けなければいけないというところだ。
隠れるならなるべく狭い奥部の方が良いという浅はかな考えが生んだ悲劇だった。
それでも、そこは一応の男。
龍樹は紫髪の女と雫との間に、ボディーガードのように位置取った。
女が座っている右側に全神経を集中させ、雫と並行しながら――やがて通り過ぎた。
龍樹は軽く首を捻り、後方を見る
紫髪の女は動かない。それこそまるで取り扱わないように、呑気にティータイムを楽しんでいる様にしか見えない。
気付いていない訳はないだろう。
そうこうしている内に、曲がり角に至り、壁が隔たりとなって紫髪の後頭部が見えなくなった。
途端走る。
混雑した人々を掻き分け、外へと出た。
明確な場所も決まっていないまま、半ば偶発的に駆けながら、龍樹は雫の横に付いて訊く。
「なぁ、なんかおかしくなかったか、一向に追いかけてくる気配はなかったぞ」
「そういう気がしただけだというのは確かだ。つまり、なにか策が、捕らえられる自信があるんだろうな」
「うげ、まじかよ。そりゃやばいぞ、どうするんだよ」
「とりあえず、困った時は警察だ。もしかしたら取り合ってくれるかもしれない」
あ、なるほど、と龍樹は思った。考えてみれば、こんな時の保安機関である。
「でもな龍樹、出来れば今回の件はあまり公にはしないほうが良いんだ。特に、アテナの事とかはな」
「? なんでだ?」
その物言いじゃ、全部知っているみたいじゃないか、と龍樹は不思議顔をする。
あながち、それは間違いではなかった。
雫はこんな事を言う。
「アテナ達のような裏の人間は、一部の上層機関しか知られていないんだよ。それこそ大統領とか君主とか皇帝とか……国の一端の公務員であるところの警察官程度の役職じゃ、彼女達のような存在は知り得ていないんだとよ」
「……ふーん、そうなのか」
自棄に詳しい雫。きっとアテナから色々と聞いたのだろう。
(俺には教えないくせに)
不公平だ、と龍樹は仏頂面になる。
まあそうはいっても、内容は全く分からないが、彼女は今回の中心となっている存在っぽいので、いかようにも必要最低限の情報は与えておかなくてはならないのだろう。
それでも流石に、自分の父親の事までは聞いていないだろうなと、龍樹は推測した。
なんにしても、一時的な方針は決まった。
「ここからの最寄りだと……駅前だな」
自分に確認を取るように、雫は呟く。
その音量は小さかったが、龍樹は何とか聞き取れた。
「よし、じゃ行くか。……つっても、なんて言うつもりなんだ? 怪しい美人な外国人に追われている、でいいのか」
「そんなに事細かに説明する必要は無いさ。変な人に追いかけられているから匿ってほしい……だと、時間が掛かりそうだな」
言ってるうちに、やはり色々となにか不具合が生じると思ったのだろう。
雫はそれからぶつぶつと口を動かしながらどうすれば最良かを考える。そんな彼女の横顔を見る龍樹。
やがて閃いたのか、雫がその見解を口にする。
「……考えても見たんだが、やはりどう見積もっても、接触を図ると長居する事になってしまう。となると、警官に助けを求めるというのは、窮余の手段と考えたほうが良さそうだな」
「なんだよそれ、じゃどうすんだよ。他にどっか行く当てがあんのか?」
「おいおい、人の話をちゃんと聞け。誰も交番に行かないとは言ってないだろ」
「……いま助けは求めないって」
「そう、助けは求めない。ただ、ガーデンバリアとして利用させてもらおう。相手が迂闊に手を出せないような、忌避するようなそんな状況を作り出せれば、なんとかなるかもしれない」
「……見付からなければそれはそれでよし、か」
ふーん。
まあ悪くはない考えだ、と龍樹は生意気にも上から目線で納得する。
最寄りとはいえ、駅まではまだ結構な距離がある。
その間に追いつかれる可能性も大いに有り得るのだが、
「……」
後方を振り向いても、それらしき影はない。
(……本当に不気味だ)
まるで誰かに見張られている様な、そんな怖気。逃げても逃げてもずっと付けられている様な感覚がした。
びびりすぎだと、龍樹は自分に言い聞かす。自分が怯えて、それが雫に伝染しては、足を引っ張るのもいい話である。
一抹の不安を取り払い、足を急かす龍樹。ものの三秒でその胸騒ぎを治められる、愚鈍に置いての順応性の高さは最早神がかり的だった。
人混みは静まる気配を一向に見せない。少なくとも、夕暮れごろまで数を増やしながら、持続していく事だろう。
その流れに抗うように、龍樹と雫は駆け抜ける。
そして駅前交番。
休日で人が多い精もあるのか、交番前には制服を着た警官が立ち番している。
「……あの分だと、この付近で妙な騒ぎを起こせばすぐに気付いてくれるな」
「ああ、そうだな」
龍樹の見解に同意した雫は、
「よし、念のため、もっと近づいて置こう」
そういって交番に近づいていく。龍樹もそれに促される形でその背を追う。
交番の近くにある花壇のレンガ部へと並んで腰を掛ける。
あまり土っぽいところに尻をつけたくないのだが、残念な事に敷設されているベンチたちはどれもカップルや家族連れが利用していた。
それに、そんな悠長な事を気にしている場合では、今は無い。
計画性のある雫は、この間に整合を取り繕う。
「いいか龍樹。私たちは一年付き合っているラブラブカップルだ。それだと周囲の眼も惹くだろうし、かつ容易に干渉しづらくもなる。そして今日ここにいるのはデートで、今はそのプランを二人で決めているところだ。分かったか?」
「お、おう、分かった」
恋人という設定。確かに都合が良いといえば、長年の付き合いだから特にこれといって設定をカスタマイズする必要が無いといえば、それが一番理想系なのだろうけど。
それでも、幾ら住んでいる地区から離れているとはいえ、知り合いにだって会う可能性はある。
ましてや今日は休日。
会わない危険性の方が低い。
「よし」
と言って、雫は龍樹の腕に抱き付いた。
バカップルがよくやっている、アレである。
「……あのさ雫。いくら状況が状況とはいえ、ここまでやる必要はあんのか?」
「あるさ。言っただろ? 私達は付き合って一年のラブラブカップルだ。その破廉恥な触れ合いで周囲の眼を惹く必要がある」
「……あ、そう」
まあ、それなら仕方ないか。
現に雫の思惑通り、周囲からは痛いものを見るような視線を感じる。
思うのだが、これは惹かれてるんじゃなくて引かれてるんじゃないだろうか?
雫は普段から付きっ切りで接して(指導)くれているから、誰が吹いたかは知らないが、校内の一部では妙な噂も立っている。
頼むから知り合いにだけは会いませんように、と龍樹は人知れず願った。
「おい、つうか胸が当たってんだよ。もうちょっとだけ離れろよ」
気持ち雫から距離を置こうとする龍樹。だが雫はそれこそひっつき虫のように、腕から離れようとはしなかった。逆に密着度を強めたため、そのふくよかな物体が減り込んでくる。
「仕方ないだろ、ものの二十分ほどだ、我慢しろ」
「に、二十分もこのままでいんのか?」
絶対知り合いに見付かると思う。
「周囲に印象付ければそれでいいんだろ、だったらもう充分だと、俺は思うぞ」
「……なにを恥ずかしがっている。逆に気持ち悪いぞ」
「別にお前に欲情してる訳じゃねーよ。周囲からの痛い眼差しに押し潰されそうなんだよ。それに、知り合いに見付かったらそれこそ最悪だぞ。永遠の休日になっちまうかもしれない」
要するに、皆からの揶揄と嘲りを恐れ、不登校。
まあ流石にそんな事で不登校になることはないだろうが、いくら周りを気にしない龍樹といえど、妙な噂は流布して欲しくない。
何事も平和が一番。ナンバーワンよりもオンリーワン。事勿れ主義の龍樹だった。
そんな彼の必死な主張に屈したのか、
「分かったよ」
呆れた様に目を瞑りながら、雫はその身を引いた。
もしかしたら雫も学校で弄られるのは御免なのかもしれない。
ふぅ、と龍樹は軽く溜め息を吐いた。とりあえず後は時間を経つのを待てば良いだけなので、こんな言い方は適切ではないのかもしれないが、あるいは学校生活で、あるいは修学旅行で言うところの、ここからは自由タイムである。
「なあ雫。お前、アテナとどんな話したんだよ」
透かさず、龍樹が訊いた。ずっと機会は狙っていた。
それに対しての雫の答えは、
「女同士の秘密だ」
という、面白くもなんともない言葉だった。
口をへの字に曲げ、龍樹は不満な顔付きを取る。
「なんだよ、お前まで俺を疎外するのかよ」
「別にそんなつもりじゃないさ。ただ単に、誰にだって触れられたくない事情がある、ってだけの話だ」
「……俺も一応あるんだけどねぇ」
行方不明の父親という、家庭の事情。
「私だってそれを知っていたらお前に教えてやってるよ」
ふと、思いに耽る龍樹に雫がそんな事を言った。
雫は龍樹の父親が行方不明なのは知っている。前に龍樹から聞いた事があったからだ。
「そのお父さんの紹介で来たんだろ、アテナ」
「……あぁ」
朧げな返事を返す龍樹。
心境を汲み取っているであろう雫は、あえてそこに触れる事はなかった。
「安心しろ、とまで無責任な事は言えないが、あわよくば的に期待してろ。そのうち機会があれば訊いてやる」
「……気遣いどうも」
龍樹は雫を見る。いつもながら屈強な目付きだった。その顔は自信に――いや、希望に満ちている。
それはきっと、亡き者になった両親の、闇に葬られ二度と知りえなくなるだろうと思っていた情報が、目前の届くところに現われたという僥倖に対しての感情だろう。
なにかの縁だとか、今なら甘んじて受け入れられると、そんな風に腹を括っているのかもしれない。
僥倖か不幸か、それが今後どっちになるのかは分からないが。
「真実というのは時に残酷だといった者がいた」
ふいに、雫が口を開いた。
微笑を浮かべ、しみじみと、その女は語る。
「確かにその通りだ。追い求めたものが自分の予想だにしないようなものだったなんて事は、今までのたかが十何年かの人生でも充分経験してきた事だ。……『未成年』という蚊帳に入れられていてそれだ。『社会』という外に出るとそれこそ数え切れない程の蹉跌を踏む事になるだろう」
恐らく、今回のそれもそういった類の物だろう、と、雫は似合わず、そんな後ろ向きな見解を立てていた。
「それでも構わない。例えどんな結末が待っていようと、それが真実なら私は堂々と受け止めるつもりだ。その上で考える、その後の事を。……龍樹、お前も知ってると思うが、私は昔から不幸だの可哀想だのと周囲から言われてきたが、それをいつも不思議に思っていたんだ」
独白のような、相談のようなそれに、龍樹は耳を傾ける。
「だってそうだろ。例えば今回の件。私は両親を失ったから不幸だと言われている。しかし、それが不幸だと言い張るのはどうだろう。もし、両親が遠征する当日に私が二人を引き止めれば客死という結果は招かなかっただろうし、付いていって二人の側で付き添っていれば、また違った展開が用意されていたかもしれない」
「……しょうがないよ。当時、お前はまだ子供だったんだろうし」
そう、子供だった、と雫は言う。
力強く、しっかりと。
「弱かったんだ。あの時あの場所の私は間違いなくちっぽけな存在でしかなかった。それこそ人を変えるほどのなにかを持ちえてなどいないほどにな。……世の中は私一人で回っている訳じゃない。だから、やはり両親が死んだ理由は不幸なんかじゃなく、亡くなった『その日』『その時』『その場所』に居たからに他ならない。両親の在り方が生んだ妥当な結果。なんらおかしな事は無い。むしろ明瞭過ぎてすっきりするくらいだ」
「……まあ正しいかどうかは別として」
前向きなような、後ろ向きのような、その思想。
両親の死を肯定しているようで、あまり耳には良くないが……
言いたい事はなんとなく分かる。
例題が悪いかもしれないが、先天的に障害を持ってしまうのも、親となるその人とその人が結ばれ、なにかの因子が混ざり合ってしまった結果であり、決して矛盾などはないと、雫の考えからしたらそういう事なのだろう。
何も無いところからは何も生まれない。
そこになにかがあるから生まれる。
出来事は変えられる。
惨劇は免れる。幸福は切り開ける。
幸せなのも不幸なのも結局――全部、道理に適ってる。
「だから、不幸になりたくなければ、強くならなくてはならない」
放たれたそれが、彼女の極度の利他的、手抜かりのなさを、一言で説明していた。
「世の中の森羅万象を知悉し、襲い来る困難の対処法を熟知し、それを実行できるほどの技量を身につけなければならない。……だから私は両親の死因を知って――更に前に進む」
「……」
決意一色で染まったその表情。
こいつはどこまで貪欲的なんだと、龍樹は思った。
「……おっと、悪いな。いつのまにか抱負になっていた」
ハッとしたように、雫はそんな事を言った。険しかった表情が、いつもの余裕の笑みに戻っていく。
雫は龍樹へと振り向き、
「まあそういう訳だから。お前もちゃんと勉強はしてろよ」
「ん? あぁ、おお」
なんじゃそりゃ。
無理やり取って付けたような気がせんでもないが……
というかそんな野望を抱えていたとは、運命を切り開くために勉強をしていたとは、到底思っても見なかった。
龍樹はそのスケールのでかさに感服すら覚える。
そしてこう思う。
千石雫。
ほんと、抜かりのない女だ。
「……十分か」
自分の左腕に嵌めている時計を見て、雫は呟いた。
その言葉に、龍樹は雫の腕時計ではなく、駅前に設けられている花時計を見た。
午後一時二五分。
此処に来てからまだ十分しか経っていない。
「後十五分待つのか?」
「そうだなぁ……こうしてみると結構長いな、時間って」
「……もしかしたら案外、もうアテナ居るんじゃないのか? 今頃俺たちを探してるかも」
「前者は考えられる可能性だが、後者はないだろう。約束の時刻はちゃんと取り決めたんだし。アテナがそんな性急な行為に及ぶとは思えない。もう到着していたとしても、少なくとも約束の時間までは滞留するだろう。だからやっぱり、時間が来るまでここ――」
そこでふいに、雫の口が止まった。
急に驚きの表情になり、そのまま固まっている。口も開けっ放しのまま。
もしかして電池が切れたのかな? なんて、そんな冗談な事を考えた後、これはさっき見た展開だと肝を冷やす
龍樹は雫の視界に捉えられているであろう光景を追う。
自分の後方に、雫の視線は向けられているようだった。なので、龍樹は振り向いた。その先に広がっていたのは。
立ち番をしている警察官になにやら話しかけている紫髪の女という、まるでこちらの思惑を見透かしたような、先手を打たれた気分になる光景だった。
立ち番の警官も呑気に鼻の下を伸ばしているようにも見える。
笑みなんて浮かべちゃって、なんてだらしない。健全で屈強な大和魂はどこにいったのだろうか。
そんな無茶苦茶なフランストレーションに駆られながら、龍樹は雫へと向き直った。
「(やばい、もう嗅ぎつけられた。どうするどうするよ!)」
「お、落ち着け、冷静さを失ってはそれこそ負の連鎖だ。……いやだがしかしおかしい。これじゃまるで……」
冷静さを保てと言ったわりに、雫も動揺を隠せないようだった。
それもそうだろう。この付近一帯の構図は東西南北どこにでも行き来できる多角的な造りになっている。
事細かな計算式は解からないが、確率にして四分の一――の更に細分化された、つまりは、やぶれかぶれに選んでどうこうなる可能性の方が低い、そんな一種の絶望的な、ある種の奇跡的な事が起こらない限りたどり着けないであろう、そんな確率。
にも拘らず、紫髪の女はそれを成し遂げた。おまけに窮余の策である警察官に話しかける始末。
疑問に思わないほうがおかしい。
「まさかまた発信機でも付けられてるんじゃないのか?」
「そう思い今自分の身体を点検してみたんだが……どこにも見当たらない。お前の方はどうなんだ?」
その言葉に、龍樹は自分の身体を、手を使いくまなくチェックする。
……どこにも見当たらない。
「じゃまさか裏の勘、ってやつか。だとしたらとても逃げ切れる気がしないぞ」
ともなれば、今自分たちが逃げ切れているのも勘違いで、相手は猫がくるみを回すような感覚で遊んでいるという事になる。
そう思い、ちょっと焦り気味になる龍樹。
そんな彼を宥めるように、
「まぁ待て」
雫は、言う。
「決め付けるのは、勘だとかそんなものに逃げるのはまだ早い。どんな手品だろうと超能力だろうと、トリックや原因はあるんだ。何も無いところからは何も生まれない」
「……でも知らなきゃ一緒だろ」
そこにあったって、見えなければ意味がない。
その意見を雫も否定はしない。
「ああ、確かに見えなければ一緒だ。だが知ろうと努力をするかしないかはまた別物だ。見ようとするかしないか。端から目を背けていれば、見えるものだって見えないだろ」
「そりゃそうだけど……」
その論が正しいからといって、だからどうなる。
正直これまでの人生、そういった『面倒臭い』ものは進んで忌避してきた龍樹。
今回に限っても、この『面倒臭い』事柄を全部くしゃくしゃの丸紙にしてゴミ箱に捨てられたらどれほどすっきりするだろうと、あるいは他人に譲渡出来ればどれほど楽だろうと、そんな考えが幾度となく脳裏を過ぎっていた。
雫には悪いけど。
やがてその雫が
「(おい)」
と声を落して言ってきた。そして眼で促してくる。『後方を見ろ』と。
龍樹は抗う事なく、後方を再度見る。
紫髪の女が警官にサンキューとでも言っているのか、手を振りながら別れの挨拶を交わし、こちらへと歩み寄りを図ってるっぽかった。
「逃げるぞ」
そう言って立ち上がった雫は、龍樹の腕を掴み強引にその場から離れた。
なるべく人通りの多い所を雫は選ぶ。
昼の二時はなにかと人の動きが活発になっているのか、それこそラッシュアワーのような状態だった。
手を繋いでいないとはぐれてしまいそうなほどだ。
これではこちらが動けない。
「くそ」
思わず憤りを吐く雫。
そんな彼女を更に焦らせる出来事が起こる。
「お、おい」
後方で手を繋いでいる龍樹がなにかを言った。
「なんだ?」
振り向く雫。その時、必然と眼内に、微笑を浮かべ、悠然とした歩みで確実に距離を縮めてくる紫髪の女がいた。
焦った雫は前を見る。しかし、信号待ちでもしているのか、民衆の壁は一向に前へと進まなかった。
いくら周囲の目があるとはいえ、それこそ密着でもされれば、いつぞやの頚動脈を絶つ技で気絶させられ、どこぞへと連れて行かれるかもしれない。
普通、あの程度の衝撃で意識を奪われるはずはない。にも拘らず、脳底動脈を一発で仕留めたのかは定かではないが、その女は適切なやり方をしっているらしく、あの時、意図も簡単に意識を奪われた。
仮にそれを抜きにしたって。
相手が周囲の目を気にしているというのは、こちら側の押し付けがましい偏見でしかない。
あの焦りも悩みもなさそうな微笑を見たところ、ただ単に遊んでいる様にも見える。
一発で意識を奪う技術。
事を起こしてものの数秒ほどで場を去ればいいと考えていそうなあの表情。
ゆえに危険だと、雫は思う。
接近されればそれこそまずい。
大声でも出して周りの目を惹こうかとも考えたが、それだと抜本的な解決にはならないし、相手が堰を切る可能性もある。
なら、どうするか。
一応短兵急ながらの閃きはある。
雫は歩道の一角に眼をやった。
路地裏に繋がる道筋が広がっていた。
本当に嫌な予感しかしないが、周りに迷惑を掛ける訳にはいかない。
それを言えば傍らにいる彼も同じなのだが……
「龍樹」
路地裏に繋がる道を見据えたまま、雫は言う。
「私はこれから路地裏で相手を振り切ろうと思う。ただ、お前についてきてくれとは言わない。ここで退いても誰もなにも言わないだろうし、前提として、私が言わせない。だから」
「あーもううっせえな」
いつもながらの利他的な発言を、龍樹は折った。
「お前がどんな気持ちでそういう事を言おうとしてるのかは分かってるよ。いちいち人の事を考えて発言するのは止めろ。少なくとも、付き合いの長い俺にはな」
「……そうだな」
雫は淡く微笑んだ。私は良い友達を持ったな。漠然ながらも切実に、そう思った。
「後悔はするなよ」
「当然だ、しないためにこの道を選ぶんだから」
二人は危険地帯へと入り込む。
という訳で、路地裏。
案の定というかなんというか、紫髪の女はこれまでの鬱憤を晴らすかのように、スカートを捲り上げ、それがそうなのかどうかは分からないが全速力で追いかけてくる。
この辺の路地裏は全部繋がっているので、街に出る為に選んだ道と造りや物資のあり方はほとんど同じだった。
当然、キャストも同じなので先の展開の再現になる。
雫を先に行かせ、念のための殿を務める龍樹は、走りを減速させないように細心の注意を払いつつ後方を確認した。
紫髪の女が更に距離を詰めてくる。
「やっぱりあの女足速いな」
心成しかさっきより速くなっている様な気がする。もしかしたら一種のバイオリズムのようなものがあるのかもしれない。
再び街に出る為の出口に至るまでも、結構な距離がありそうだ。
このままでは駄目だ。
そう思った龍樹は、近くにあったゴミ箱を乱暴に後方――紫髪の女へと放り投げた。幸い中身がそれほど入ってなかったので思ったよりも飛んだ。
上手投げで投げられたそれは紫髪の女にまで届かなかったが、障害には成りうった。
紫髪の女の手前で横倒しになり、中の汚物たちが散乱した。
それをなんの事無く、さながらハードルでも飛び越える要領で女は飛び越えた。
わずかなタイムラグとはいえ、ほんとうにわずかだったのでさほど意味は無い。
やっぱりか、と龍樹は予想していた結果に嘆息する。
だが諦めては終わりだ。
龍樹は馬鹿の一つ覚えのように、手当たり次第物を後方へと投げていく。
すると、一瞬だが紫髪の女の動きが鈍った。
それからというもの、追走を止めようとはしなかったが、明らかにスピードが失速していた。
原因は分からないが、
(……よし)
なにわともあれ、効果が現われ始めた。
昨日傷を負わせたとアテナは言っていたので、もしかしたら運動のしすぎで古傷が開いたのかもしれない。
萎み掛けていた希望が、また膨れ上がる。
逃げ切れる。
今なら丁度約束した時間帯ではないだろうか。
なら、噴水に戻ってアテナがいればそれで後はあの女が何とかしてくれるだろう。
と。
龍樹がそう思い前を向き直した時――事件は起きた。
それはまるでマンガのような、コメディーのような、しかし、決して笑えない、決して起こっては成らなかった、そんな悲劇。
龍樹の目前数メートル先を走っていた雫が――後方を確認でもしようとしたのか、コケた。
それはもう見るも無残見ないも悲惨なものだった。
「おい、何やってんだよ!」
地面に突っ伏す雫。
すぐに肩を貸し、立ち上がらせようとする。
だが、
「痛ぅ」
あまりに派手に転んだ精か、傷口である膝に直接触れてもいないのに、雫は痛みに顔を歪めた。
龍樹も膝のその傷を見る。
ずる剥けている。かなり深く抉っている様だった。
「立てるか?」
立てるとも、立てないとも、雫は言わなかった。
「……やっぱり逃げてくれ」
ただ、そう言った。
その言葉を聞いた龍樹は怒りが込み上げた。
「は? 何言ってんだよ。こっちはアテナにお前を任せろって大口も叩いちまってるんだよ」
「それはそうだが、……まさかこんなドジを踏むとは、ははっ、ほんと情けない。あの頃から一つも成長していないではないか」
今にも泣きそうな声で、雫は笑っていた。恐らくは自分の惨めさに可笑しくなったのだろう。
構わず、龍樹は肩を貸して立ち上がらせようとする。二人三脚で逃走を図ろうとする。
無理と分かっていても友人を放っておけず逃げようとする光景。
端から見ればとても痛々しいだろうなと、龍樹は思った。
しかし、雫を立ち上がらせるその前に、
「追ーいつーいた」
さながら子供に語りかけるような甘声が、龍樹の聴覚を揺さぶった。
背筋が凍りつく。
龍樹はすぐさまに振り向いた。
距離はまだ七メートルぐらいある。
いや、雫が満足に走れないこの状況では、七メートルしかと言い換えたほうが適切だろう。
刻一刻と、紫髪の女が距離を詰めてくる。
ターゲットを観察するように、恐怖を植えつけるように、弄る様に。
「ふふ、残念だったわね。だけどその頑張りは評価してあげる。やっぱりいいわよね若さって、諦めるという事を知らなくて」
最早逃げる気力もなくなっていた。
龍樹は雫を肩に担いだまま歯噛みする。
「……なんで」
龍樹の脳内に広がるある矛盾。
やはりどう考えてもおかしい。この大都市で人っ子二人をピンポイントで、一度ならず二度までも見つけ出すなんて事は、常識的に考えて有り得ない事だ。
故に、考えられる答えは一つ。
周囲には細心の注意を払っていたはずなのに。
やはり相手の尾行に関する技術は、一般の常識を遥かに凌駕するものだったのだろう。
しかし、それは違った。
龍樹は数秒後、その誤認に気付く。
紫髪の女は種明かしと言わんばかりに、立ち止まり、懐からある紙を取り出した。
指で挟み、見せ付けるようにそれをヒラヒラと揺さぶる。
「見覚えがあるでしょ?」
「……それは」
見覚えが、確かにあった。
あれは――あの茶髪の家庭教師がなにやら筆記していた紙だ。
その内容は、窺いしれないが。
「それがなんだってんだよ」
「……あら、案外鈍い子ね」
初対面の人間からそれを言われたらリアルに結構へこむのだが……
ともあれ。
紫髪の女はご丁寧にもその内容を説明する。
「これにはあなたの情報が書いてあるの。質疑に応答したんじゃない? それが始まりだったのよ。まあどんな内容を知ればこんな効果が発揮されるのかは、専門外だから知らないけど」
「……一体何が言いたいんだよ」
あら、ここまで言って分からないの? と紫髪の女は心底馬鹿にするような口調で言った。
いや、だからへこむって。
「一種の発信機よ」
紫髪の女は世話話でもするような語調で詳述する。
「といっても、対象物に付着している訳じゃないから、発信機というよりこれは一種の追跡機みたいなものね。目にも見えないから、ターゲットがその追跡から逃れるのは不可能よ。それこそ記述された情報を、変えようと思ってそうそう変えられない気質を変えないことにはね」
紫髪の女は紙に向けていた視線を龍樹へと移し、
「駄目よ、初めて会った人に個人情報を教えちゃ」
愉快気に笑った。
(……そうか)
そこで龍樹は気付いた。
一見して親密を図っていたと思われたあの質疑は、どういう現象が働いているのかは定かではないが為に必要な情報収集だったのだろう。
何てことだと、龍樹は愕然とする。
(そりゃ逃げても逃げても見付かるわけだ)
文字通りの徒労。
仕方が無いなんて通じない。
理由はどうあれ、これは自分が招いた危難。
雫を守るどころか、己がその場所を知らしめていたのだ。
「……どうやらここまでの様ねぇ」
与太話も済んだと言わんばかりに、紫髪の女は紙をまた懐に仕舞った。
「ありがとう坊や。お礼にあなたは見逃してあげる。その娘を置いて何処へなりといきなさい。大丈夫よ、これはしょうがない事。誰もあなたを責めたりなんてしない」
「……龍樹」
肩を貸す女がひねり出すように、言葉を紡ぐ。
心配させまいと、紫髪の女の言ってる事は正しいといわんばかりに、雫は言う。
「逃げろ」
「……」
龍樹は雫を肩から下ろした。
考えてみれば正論だった。普通に走って距離を縮められるのだ。肩を貸して二人三脚でなんて逃げ切れる訳がないし、相手は例の紙を持っている。
紫髪の女は見逃してくれるといっている。
雫本人も逃げろといっている。
だったら話は早い。
龍樹は雫を置いて逃げる事にした。
「なんて出来たらどれほど楽か」
「……龍樹?」
龍樹は一歩前に出て、雫を庇うような位置取りになった。
「なにをしている。無茶な事は止めろ」
「無茶かどうかなんてやってみなきゃ分からないだろ。大体お前だぞ、知ろうと努力をするかしないかはまた別物で、端から目を背けていれば見えるものだってなんちゃらこうちゃら言ってたのは」
「あれは言葉の綾……ではないが、それでも駄目だ。物事には試さなくても明確にされた答えが存在する。無理だ龍樹。お前じゃあの女には勝てない」
「なんだそりゃ、勝手だなお前」
龍樹は笑みを浮かべる。もちろん、それは強がりの笑みだ。なにをやってるんだ自分はと、自分の事なのに自分が分からない。
許されるものならこの場から逃げ出したい。
だが許されない。
男が女を守るのなんて常識だから。
ああ、先人達はとんでもない道理を築き上げたものだ。
「……それでいいのね」
雫の前で身構えた龍樹を見て、紫髪の女は冷たい声色で聞いた。その声はあまりに小さく、龍樹には届いていない。
そして、一歩を踏み出す。
「機会も与えたし猶予も充分……残念だわ」
女は笑っていない。
耳のピアスは片方だけで、それでも、美人は何を着ても(この場合付けるなのだが)似合うという言葉があるように、あたかもそれがそういうアクセサリーのように見える。
「大丈夫よ、命までは奪ったりしない。……ただ」
そこで凶悪な笑みを浮かべた女は、
「邪魔できない程度に潰させてもらうから、足の一本くらいは覚悟なさい!」
五メートルの距離を一気に縮める。紫髪の女は拳を握り、龍樹へと接近した。
あまりに急だったので、龍樹は構える事すら出来なかった。
もう駄目だとも。
痛いのだろうかとも。
思う暇は無かった。
気付いた時には、もう気付いた時には、
自分に攻撃を加えようとしていた紫髪の女は飛んでいた。
鮮血を撒き散らしながら、無様に、豪快に、優雅に飛んでいく。
一瞬、愚鈍な精もあるのか、なにが起こったのか分からなかった。
ようやく気付いたのは紫髪の女が浮遊運動を終え、地面に叩きつけられた時だった。
紫髪の女が飛んでいった原因は、
「……お前」
突如視界に現われ、カウンターを炸裂させたアテナだった。
殴った反動で舞い上がった彼女の金色の髪が、龍樹の鼻を擽る。
その女は龍樹を振り返る事無く、
「間に合ってよかった」
誰に言ったかは定かではないが、そう言った。
「ぐぅ……馬鹿な」
ぞんざいに飛んだ紫髪の女が、殴られた鼻を押さえながら起き上がろうとする。
ダメージがあるのかおぼつかない足取りのまま、そしてアテナへと鋭い視線を向けた。
「何であなたがここにいるの……まさかあの男、やられたんじゃ」
「いいえ」
アテナは言う。
なぜここに居るのかを。どうしてここに来れたのかを。
彼女らしく、短い言葉で。
「救済が入ったの」




