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妖美なるこの世界  作者: 桂馬
休日の訪問者
42/261

家庭教師の本性

自分の部屋で、よもやペンを握る日が来るとは思いもしなかった。


イケメン教師と向かい合い、存分の仏頂面で教えを受け賜る。

多分それは分かりやすい説明なのだろうが、常軌を逸した理解力の無さを誇る龍樹を頷けさせるには足りなかった。

 それを察したのか、

「付いてこれているかな?」

 笑顔を崩さず、カモの機嫌を損ねては駄目と思っているのか、優しく語り掛ける青年。

「……いや、正直意味が分からん」

 それを聞いても青年は、がっかりする訳でも、不満を覚える訳でもなく困る訳でもなく、そっか、と友好的に反応を示した。

「少し説明が難しかったかな。僕の力不足だ。ゴメンね、こんな頼り甲斐の無い家庭教師で」

「いやいや、それは違うよ」

 しおらしくなった家庭教師を見て、急いで否定を挟む龍樹。

「きっと先生の教え方はすごい分かりやすいと思うよ。悪いのはきっと俺だ。自慢じゃないけど、理解能力の分野に関してはきっと猿といい勝負すると思うぜ」

 本当になんの自慢にもならないものだった。

 まあいくらなんでも猿に負けると言ったのは少し言い過ぎたかもしれないかったが、相手だってそれを間に取るような人物ではないだろう。

「優しいんだね君は」

 より一層微笑んだ青年。

 龍樹はほんの少しだけむず痒くなってしまった。

 真正面からそんな薄っぺらい事を言われてしまっては、ちょっと照れてしまう。

「そうかなぁ、そうだと思った事を口にしただけで、別に持ち上げた訳じゃないよ。マジで馬鹿なんだぜ、俺」

「本当の馬鹿は自分が馬鹿な事すら気付かないものだよ。君はまだまだ伸びしろだ。これからの過ごし方一つで、どうにでもなれる。……ああ、これはマジメな話で、契約して欲しいとかそういった下心からじゃないよ。要はきっかけなんだよ。僕じゃないにしろ、君にもきっとなにかのきっかけを、影響を与えられる人が現われるはずだ。人は及ぼしあって学んでいくものだからね。世の中は大変厳しいけど、決して腐っては駄目だよ」

「影響を与える人、ねぇ……胸に刻んでおくよ」

「それは光栄だね。君を知る事が出来た」

 青年は机に広げたドリルになにかを書き始めた。

「……ところで先生、一体いくつなんだよ?」

 知らず内に親しい喋りになってしまっているが大丈夫だろうか、と龍樹思った。

 どう転んでも年上だからこの際関係ないのかも知れなかったが、そうでないにしても話の取っ掛かりくらいにはなるだろう。

「ん? 僕かい。僕は今年二十二だよ」

「へぇーそうなんだ」

 五歳年上だった。別に遠からず近からず、見てくれからだと妥当な年齢だなと龍樹は感じた。

「確か龍樹君は十七歳だったね」

「ああそうだよ。つっても、今年の八月で十七だけど」

「十七か……若いなぁ。今が一番楽しい時なんじゃないのかい?」

「ん? まあ、別に悪くはないよ。それなりに」

「はは、随分と渋みのある見解だね。うん、何事も丁度が一番さ。幸せだとそれはそれで妙な怠慢が生まれてしまうからね。バランスが大事。不幸じゃなければそれでいい」

 龍樹はふと、青年がドリルになにを書いているのかを覗き込んだ。

 計算式のような、数字と記号でなにか描かれている。きっと自分が分かりやすいよう、問題を簡潔化してくれているんだなと推察した。

 傍らに置いてあるコーヒーに手を伸ばし、優雅にそれを啜る青年。

 堪能したのか、ふぅ、と青年は軽く息を吐いた。

「この家は広いね。お母さんも見たところ若いのに、旦那さんはさぞかし勤しんでいる事だろう。不自由の無い生活環境に幸せな家庭。羨ましいな」

「……まあ、ね」

 微笑を浮かべる青年の何気ない一言。

 痛いところを衝かれた。

 もちろん本人に悪意はないだろう。むしろ、少しでも仲良くなろうという、親密を取り繕うつもりだったのかもしれない。

 何しんみりしてんだよ、と自分に言い聞かせ、龍樹は明るく振舞う事にした。

「つっても、母親の年齢、俺は知らないんだ。まあ見てもらって分かると思うけど、うちの母親、息子の俺から見ても謎の部分が多いからさ。巫女装束で最初現われたとき、先生もびっくりしただろ? あの親、色々と飛んでいるところも多いしさ」

「こらこら、親を悪く言っちゃいけないよ。親がいなければ君は産まれなかったんだから。死にたくないと思う以上は、感謝しないと」

 青年の言葉に、むぅ、その通りである、と納得してしまう龍樹。

 といっても、別に悪口のつもりでいった覚えはない。

 単なる愚痴だ。

「それにしてもこの辺は排気だらけの街とは画されたのどかで良い所だね。唯一の難点は似たような路地がたくさんある事かな。恥ずかしながら先生も何度か道に迷っちゃったよ。お陰で他の訪問先に付く予定が遅れて、上司にこっぴどく叱られたもんだよ」

「それは災難だったな。なにせこの辺、元々は獣道を開拓した場所らしいから、なんか法律上あんまり自由な構図に出来なかったみたいだし」

 へぇーそうなんだ、と言いながら、青年はまたペンを走らせる。

 これほど仕事熱心で良い人はなかなかいない。

 週一……いや、月一なら教えを請うのも構わないかもしれないと、龍樹は漠然とそんな厚意を抱いた。

 ここまでしてもらっておいて、ただボーとしているのも悪いと思い、様式ながらも龍樹はペンを取りドリルと向き合う。

「お母さん遅いね」

 青年が相変わらずペンを走らせながら言った。

 龍樹もペンを持ったまま言葉を返す。

「ああ、下手したら後一時間は帰ってこないかも。あの親、食べ物の衛星とか行儀とかに厳しいからさ。前なんてキャベツの品定めに一時間近く掛かってたくらいだから」

 へぇーと、青年は軽く相槌を打った。

 ちなみに母は夕食の買出しに行っている。もちろん、外出の際には普通の服を着て出掛けている。

「龍樹君は何型かな?」

「え?」

 急な方向転換に、少し反応が遅れた。しかしこれもきっと、距離を縮めるための方便だろうと推測した。

「A型」

 龍樹は質問に答えた。

「好きな食べ物は?」

「好きな食べ物? それが特にこれといってないんだよ。嫌いなものも無いんだけどね」

「そうかい。じゃ、肉と野菜だとどっちが好き?」

「肉かな。野菜はたまにしか食べない。嫌いな訳じゃないんだけど、率先して食べる気はしないんだ」

「甘いものと辛いもの。どっちが好き?」

「甘いもの」

「親と恋人。もし助けるならどっち?」

「……分からないよそんなの」

「そうかい」

 その後も幾度か質問してきた。その間ずっとペンを走らせる青年。やけにつぶさに聞いてくる。なんか心理テストみたいだなと龍樹は感じた。

 そんなに契約して欲しいのだろうか。

 ただひたすらにもくもくとドリルに何かを書き込む青年。その下書きはすでにドリル全面に広がっている。

 しかし、なにかがおかしいと龍樹は思った。

 よくよく見てみればその文字は全て漢字だった。字自体は龍樹も知っているものだったから最初は気付かなかったが、そこにはひらがなもカタカナもなく、となればどうやら彼に見せる為のものではないようだ。

「……なぁ先生」

 それ、一体なにしてんだよ、と言う一歩手前で、

 玄関のチャイムが鳴った。

 思わずそちらに反応を移す龍樹。

「母さんかな?」

 それともアテナと雫だろうか。

「ちょっと待ってて」

 立ち上がり、龍樹は玄関へと向かう。

 ああ、と青年はペンを走らせながら返事をした。


 

 来訪したのは雫たちだった。

 雫はその手に旅行鞄を携えている。

 という事は、このまま出発するつもりだろう。

 一方のアテナは、淡い笑顔の雫の後ろで無愛想な面で立ち尽くしている。

 まるで北風と太陽みたいだと龍樹は思った。

 どちらが太陽でどちらが北風なのかは、あえて言及しまい。

「それじゃ行くけど、ゴールデンウィーク明けには帰ってくるつもりだ。本当はこの休みを利用してお前に勉強を教えてやりたかったんだが……いた仕方あるまい」

「そうか、それはとても残念だ」

「といっても、少しぐらい勉強はしておけよ。お前は赤点ぎりぎりもぎりぎりなんだから。いいな。大学進学しろとまでは言わないが、最低でも留年だけはしないようにしないと」

「分かってるよ。ちゃんと勉強はするさ。海外に行ってる間だけでも、お前はお前の事を気にしてろ」

 言葉を受け、少し意表を衝かれたように目を瞬かせた雫

 やがてそうだな、と淡く微笑んだ。

 勝手の分からない未知なる世界に、流石の彼女でも今回の件は少しばかり手こづる事だろう。

 そしてそれを心配してくれている者がいる。

 その現実に気付かされ、雫は思わず頬が緩んだのだ。

 次に。

 龍樹は後方で立ちすくむアテナを見た。

 服のポッケに両手をつっこみ、伏し目がち。

 相変わらず何を考えているのかは窺えない。

「そういえば挨拶しにきたんだっけ。でも、参ったな。母さん、今は買い物に出かけてんだよ。もしあれだったら、俺から伝えといてやるよ」

「……そう」

 言葉少なも、いまとなってはそれが彼女のイコールになっている。短い付き合いだったが、今後彼女と逢うことももう無い事だろう。

「あ、そういえばパードリッジだったな」

 思い出したように、龍樹がそう言った時だった。

 誰かが階段を下りてくる音がした。

 この家は築も古いという事もあり、音がよく響く。

「なんだ、誰か居るのか?」

 龍樹を避けるように、視線をここからは見えない階段へと向ける雫。

 釣られるように、龍樹もそちらへと振り返る。

「ああそうなんだよ。実は今家庭教師が来ていてな」

「家庭教師? そうか、お前もようやくその気になったか。なら私がいなくても大丈夫だな。良かった。これで安心して過ごせる」

「だろ? だから言ったんだよ、心配するなって」

 本当はまだお試し期間なのだが、この際だからそれは伏せて置くことにした龍樹。

 正直それでは抜本的な解決にはならないのだが、やっぱりその女には頼り過ぎていると自覚はしている彼としては、これ以上妙な心配を掛けたくない。

 下りてきたのは予想通り、あのイケメン家庭教師だった。

 茶髪の青年は玄関に集う面々を見て人の良さそうな笑みを浮かべ、

「友達かい?」

 と龍樹に聞いた。

「ああ、今日ちょっと海外に行くみたいだから、律儀にも挨拶しに来たんだよ」

「へぇーそうなんだ」

 歩み寄ってきた青年は龍樹のすぐ後方で足を止めた。

 そして雫の顔を見て、

「こんばんは」

 と好感の持てる声色でそう言った。

「こんばんは」

 と会釈し、雫も反射の如く挨拶を交わす。

 アテナは……まあこちらも当然ながら、一応青年の顔を眼だけで見ているものの、なにも言葉を発しなかった。

 もしかしたら、あら、結構良い男じゃない、とでも思っているのかもしれない。

 それはさて置き、龍樹はちょっとしたよもやま話をする。

 雫を親指でさしながら、青年へとその人物を紹介する。

「こいつ凄いんだぜ。全国テストでもトップクラスの成績を叩き出すほどの秀才でさ。下手すれば先生より賢いかもしれないな」

「よせよ龍樹、プロを相手に失礼じゃないか。例え数字では勝っていようと、そんなものは差して意味を成さない。全国統一学力判定試験は所詮学力を測るだけのものだ。真の秀才とは、状況と環境に応じて合理的な判断能力がいかに出来るかが要点となる。私なんてまだまだ青二才だよ。それにIQという言葉、私はあまり好きじゃない。そもそも差別用語から事の端を発した言葉だからな。皮肉か、昨今に見られる猟奇的な犯罪も、終わってみれば近所で評判の高学歴の持ち主だった、なんてのがもっぱら」

「初めての人間の前でもくっちゃべるなよ。喋りに関しては無駄なところが多いんだよ、お前」

「む? 無駄とはなんだ。私は一字一句に気持ちを込めて言葉を放っているんだぞ。それをお前は賽の河原の石積みと言い張るのか」

「いや、誰もそこまで言ってないだろ」

 オーバーな奴だ。まあこの分だと、不透明な海外への遠征も意に介していない様子だ。

 ひとまず、龍樹は安心した。

「色々と先生にも迷惑掛けると思いますが」

 いつの間にか雫が家庭教師に話しかけていた。

「少しおっちょこちょいな部分もありますし、頭は悪いですが根は良い奴なので、この不束者をどうかお願いします」

 頭を下げ、そんな母親みたいな事を言った雫。

 同じ年の人間にこんな事をされては、少し恥ずかしい気持ちになる龍樹。なにか反駁をしようかと思ったが、それは一理あり、なによりもそれは彼女の性分である事を分かっているので、何も言わなかった。

 家庭教師の青年はニコッと笑って、

「ええ、任せておいて」

 となんとも頼もしいセリフを口にする。

「……」

 そこでふいっ、とアテナがなんの先触れもなく、雫へと歩みを寄せた。

「どうした、アテナ?」

 平然と名前で呼んだ雫。

 違和感なんてものは皆無だった。面と向かった時間は数時間ほどのはずなのに、ずっと昔から、そう読んでいたかのような錯覚に陥ってしまう。

 アテナはジーと雫の顔を――ではなく、

「なるほど」

 雫の髪に留めてある金色のヘアピンを見て、独り言のようにそう言った。

 聞くところによると、それは今は亡き両親から貰った、特別な思い出の品らしい。

 幼い頃に買ってもらった、今となっては唯一形として手元に残っている両親の形見。

 それが――どうしたというのだろう?

「自棄にあっさり嗅ぎつけられたと思ったら、これか」

「? なに言ってんだお前?」

 龍樹のその疑問に、アテナは答えない。

「迂闊だったわ」

 傍若無人、優雅独尊風を吹かせ、なぜか己を責めたらしかった。

「発信機を取り付けるとはね。やっぱり思った以上に手馴れているようね、あなた達」

 訝しむ龍樹と雫。

 彼女がなにを言っているのかいまいち理解できず、二人とも存分に顔を顰める。


 はっしんき? 

 はっしんきってあの――標的にバレないように随伴させて、電波で居場所を特定する、っていうあの発信器?


「なに言ってんだよ。そんな物がなんでこいつのヘアピンに付いてんだよ」

「決まってるじゃない。万が一の事を考えてよ」

「万が一?」

「そう、万が一。いつ取り付けたかは知らないけど、結果的にそれが奏功したようね。侮っていたわ。場所が分からないだろうからのんびりしていたけど、早朝の便で出発するべきだった」

 後悔している様子のアテナ。

 つまり、敵――あの紫髪の女は、アテナにやられ雫を奪われる事を想定し、発信機を取り付け、その所在を常に分かるよう図っているという事らしい。

 という事は、こうしている今も、敵は再奪還の準備を進め、こちらへと向っている可能性だってある。

「おい、だったらやばいよ。早くそれを捨てないと」

 慌てふためく龍樹。

 しかし。

「もう遅いわよ」

 思いのほか、アテナは冷静に、そんな言葉を口にする。

 その発言に、龍樹は眉をひそめる。

「遅い、って……なにがだよ?」

「捨てたところで、もう嗅ぎつけられているってこと」

 数秒の考える間を置く龍樹。

 確かに雫は昨日からここにいるので、場所は割られているだろう。

 しかし、気付いた限りはそれを逆手に取り、相手を撹乱させる事だって出来るはずだ。

 それとも彼女が心配しているのはこの家に敵がやってきて自分たちに危害を加えるという可能性だろうかと考える龍樹。

 でもなにかがおかしい。

 それならそれでもう遅いなどという言葉を使うだろうか。

 嗅ぎつけられているなどという、まるですぐそこに居る様な言い回し――

「……まさか」

 頭をよぎった一つの推測。

 ある一点を見ているアテナに促される形で、龍樹は振り返る。その視線の先に居るのは、人の良さそうな笑みを浮かべる青年だった。

 青年も今の話の一連を聞いていたはずだ。そして自分が現在疑いの目で見られているという事も、分かっているはず。

 それでも営業スマイルと思しきそれを崩さない。

 あんなに好感的だったその笑顔が、また違った顔に見えてきた。

 しかし、やはり、それでも――

「か、考えすぎだって」

 信じられなかった。

 龍樹は苦笑いしながらアテナへと視線を戻す。

「有り得ないよ。この人は間違いなく家庭教師だぜ。名刺だって貰ったし、事細かな資料だって持ってるし――おまけにあのくどき文句。昨日今日で為せるようなもんじゃないぞ」

「あなたとそいつのやり取りがどんなものだったか知る由もないけど、今の見解を聞いたところ、それはどうにでも取り繕える事よ。資料も一日あれば用意出来るし、口がうまい奴なんていくらでもいる」

「そりゃ、……言われてみればそうなんだろうけど」

 けど、どうしても信じ難かった。

 こんな虫も殺せなさそうな人の良さそうな人が、あの常軌を逸した連中の一端なんて。 

「……龍樹」

 かくして。

 諭すような感じで、アテナは決定的な一言を放つ。

「家庭教師は懐にナイフを忍ばせたりしない」

「……」

 ゆっくりと、龍樹は首を動かし再度青年へと視線を向ける。

 懐。

 注視すると分かるが、そういえば違和感のある膨らみ方をしている。

 教師なので筆箱かなにかだと一瞬思ったが、あんなところにいれる人間はまずいないだろう。

 青年の笑顔は崩れていない。

 それでも、それは――その人の良さそうな笑みから放たれた言葉は、最早物事の確信を、確立するようなものだった。

「鋭い洞察力だね。うん――」

 そこで変わる。

 柔和だった表情が、完璧な別人の顔になった。

「あの女が手こずる訳だ」

 口調も、声も、顔付きも、雰囲気も、何もかもが、鋭く、獲物を狙う鷹のように貫禄のあるものになった。

 突如発生した威圧感に、思わず後退りする龍樹。

「そんな……あんたが」

「下がってなさい」

 アテナが龍樹の襟元をひっぱり、後方へと追いやる。

 変わりに自分が前に出る。

 それを見た青年は顔色一つ変えず、

「人質など取らんよ。無駄な事はしたくないからな。出来れば穏便に平和的に合理的に物事を運びたい」

「それはこちらも同じよ。けど、目的が違うんじゃ話にならない」

「だろうな。違うどころの話ではない。全くの正反対。話し合う事がすでに無駄という訳だ」

 緊迫した現場。一般人には息をするのもやっとだ。

 それでもなんとか雫を庇おうとする龍樹。

 ここに来た以上、やはり狙いは彼女だろう。

 アテナもそう思っている。

「(ゆっくりと外に出なさい)」

 龍樹達に聞こえる程の音量でそう言い、アテナは青年を威嚇しながら後退する。

 青年は動かない。ただその様子を、獲物の動きを観察するような眼光で見据えるのみ。

 じりじりと慎重に後退りし、

 そして何事もなく外へと出て、

 ピシャン、と引き戸式のドアが閉まり、青年の姿が見えなくなった。

 龍樹としては、自分の家に危険人物がいるのは居た堪れないが、この際仕方が無いと思った。

 友達を守るのがなによりも先決だ。

「ど、どうすんだよ」

 狼狽する龍樹。

 無理も無い。日常を謳歌してきた少年にして見れば、こんな状況初めてだ。

「慌てないで」

 アテナはわずかにうろたえる雫を見た。

「とりあえず彼女を渡しては駄目。発信器はもう無いと思うから、どこか目の付かないところに――」

 その腹積もりに従い、アテナが表門へと視線をやったときだった。

「お久しぶりね。子猫さん」

 腕を組み、仁王立ちの女性がそこには居た。

 紫の髪。身なりは髪に合わせているであろう、紫のパーティードレス。

 昨夜、雫を襲った人物。

 それを確認したアテナは歯噛みし、

「こっちよ」

 空野家の庭園へと雫と龍樹を誘導する。

 

 そして。

 たどり着いて、次の逃げ道を探そうとした時だった。

 

 ドゴン!! という爆発音と共に、庭に繋がっている居間のガラスが存分に飛び散った。

 

 そこから悠然と姿を現すは家庭教師と偽っていた青年。

 人様の家の物品を壊したというのに、まるで悪びれる様子はない。

 その鋭い眼光は真っ先に目的の雫へと定められた事だろう。

 眼鏡は掛けていなかった。

 という事は、あれはいかにもな雰囲気を取り繕うための伊達眼鏡だったのだろう。

 アテナは周囲を見回す。

 空野家の庭には注連縄の巻かれた大きな神木がある。

 それは聖職者である龍樹の両親が依り代や災厄防止の結界目的で植えたものらしいが、皮肉にもそれが今は弊害となって退路を絶っている。

 追い討ちを掛けるように、ジャリ、と、後方から足音がした。

 皆一斉にそちらを振り返る。

 紫髪の女だった。その顔には間違いなく嘲りの笑みが描かれている。

 なんとか雫と龍樹を自分の後ろで庇おうとするアテナ。

 しかし、どう考えても状況はよろしくない。

 板ばさみ状態。一人ならまだしも、運動神経も平均的な龍樹と雫を連れて、腕達者なその二人はかわすのは難しいだろう。

 ジリジリと、青年は距離を縮めてくる。

「……なんでだよ」

 どうしようもない蟠りが、口から漏れる。

「なんでこんな事するんだよ。あんた言ってたじゃないか。人は及ぼしあって生きていくんだって。それって助け合うって事じゃないのかよ。あれも嘘だったってのか」

「嘘ではないさ。確かにその意味も兼ねている。だが私はこうも言ったはず。世の中は大変厳しい、と。覚えているかな龍樹君。本当の馬鹿は自分が愚かだとは気付かない、という言葉を。……君が馬鹿でない事を願うかぎりだ」

 青年は歩みを止める気はない。かといって、後方に下がる訳にもいかない。

 焦燥する龍樹。

 まさに、袋のネズミ状態

「(……龍樹)」

 また小さな声で、アテナがなにかを言う。

 それに乗じ、龍樹も小声で言葉を返す。

「(なんだよ)」

「(私が二人を惹き付けるから、あなたはこの子を連れて逃げなさい)」

 そこに、

「(待て、それは危険だ!)」

 雫が割り込んできた。

 その意見には龍樹も賛同だ。

 雫の言い様を、龍樹が代弁する。

「(そうだよ。相手の強さも分からないけどさ。流石のお前でも一人であの二人を相手にするのはきついだろってのはなんとなく分かる。下手すれば殺されちまうぞ)」

 褐色の男との一連を考えれば、もしかしたら渡り合うことも可能なのかもしれない。

 だがそれこそ万が一という事もある。

 あの紫髪の女はアテナに一度やられているようだが、仕留められなかったという事は、彼女もまたそれなりの実力者と考えるのが妥当。

 それにこれほどの威圧を放つ男が加わるのだから、悪い予感しかしない。

 しかし彼女は聞き入れない。

「(だからといって、みすみすとこの子を渡すわけにはいかないわ。それに、大丈夫)」

 そこでアテナは一歩前へ出て、 

「絶対に負けないから」

 力強く、そう言った。

 龍樹はその背を見る。男としては情けない限りだが、間違いなく華奢なその背に一種の頼り甲斐を覚えた。

 この女ならなんとかしてくれる、そんな風に期待してしまう。

 その背越しに、声が飛ぶ。

「昨日の捜索で立ち寄った街の噴水広場……一時間後、あそこで合流よ」

 言い終わってやっと、それは自分に対してのものだと龍樹は気付く。

「……ああ、分かった。任せろ、なんとかこいつは守り通すよう努力するから、お前もお前で、やばくなったらすぐ逃げろよ」

「……ええ」

 とそこで、妙に納得した二人に腑が落ちないのか、

「お、おい」

 雫がまた割り込んでくる。

 どこか狼狽した様子で、雫は二人に問う。

「正気か。私もアテナの力の一端は見た。しかし、あの紫髪の女の異能だってこの身で体感している。となってくると、必然的にあの男も同類という事になる。それを踏まえた上で、一人になるのは危険だ」

 確かに、それは龍樹も感じている事だ。

 しかしそれを口にしたところで、

「大丈夫」

 その女は決められたようにそう返してくる事を、彼は知っている。

 だからさっきの言葉だって素直に受け入れたし、気兼ねなく闘える様に任せろと無責任な言葉も掛けた。

 アテナはいまだ前方の敵を見据え、雫の言い分を退ける。

「約束するわ。必ず後で落ち合うと。だからお願い、今は逃げて」

「……アテナ」

 その言葉を聞いて、更に心配顔になる雫。その憂慮の言葉に、心がはち切れそうなのだろう。 

(……あれ?)

 俺の時はキャッチ&リリースだったような、と龍樹はあの日の事を思い返す。

 今はそんな事に言及している場合ではないが。

 有能と無能の差別――有無差別だと毒づいておこう。

 内心で。

 雫はアテナの懇願にも似たそれに負けたのか、はたまた希望を見出したのか、

「分かった」

 渋々と言った具合ながらも、そう言った。

 という訳で、方針は固まった。

 後はこの場をどう切り抜けるかだ。

「後方の女は昨日交戦した傷がまだ癒えていないはず。現に、動きが鈍い」

「そうか、よし、じゃあなんとか走り抜けられるかもしれないな」

「念には念を入れて私が足を止める。その間に行きなさい」

 アテナの作戦に、分かった、と龍樹は紫髪の女へと振り向く。

「……私が合図を出す。そしたら一気にいくわよ」

 すぐにアテナはカウントを始める。

「三、二、一、――」

 龍樹と雫とアテナが一斉に――後方の紫髪の女へと身を向けた。

 それに気付いた紫髪の女は、面食らっていた。

 しかしそんな事は当然のように取り合わなく、

「ゼロ」

 号笛は告げられた。

 風の力を利用し、頭一つも二つも飛び出すアテナ。

 すぐさま紫髪の女へと至った。その真下から、ズボズボズボッ、と例のツタが現われる。しかし意に介さず、アテナは足止めを敢行する。

 身をよじりながらツタの応酬を潜り抜け、紫髪の女の鳩尾に右の拳を放つ。

 腕を挟みガードされたが、敵の体勢が崩れたので往来の目的で言えば問題はない。

「早く行きなさい!」

「お、おう」

 雫の腕を引っ張りながら、龍樹はツタたちを忌避していく。

「く、そうはさせるか!」

 紫髪の女は腕を振るった。

 するとツタが、龍樹達目掛けて一斉に向かう。

 だが龍樹は敢えて気にしない。気にはなったが、大丈夫だと自分に言い聞かす。

 それは信じているからだ。

「荒風域(Zona Stormy)」

 無表情な、その女を。

 生温い風が吹く。ブチブチブチ! と駆ける龍樹達に後一歩という所にまで迫っていたツタ達が、次々と引き千切られていく。

「チッ、」

 最早そんな舌打ちしかできなかった。

 段々遠のいていく目的。

 いとも簡単に足止めされている現状が腹立たしいが、それでもまずは目前の迫り来る敵をなんとかせねば。

「前々から鬱陶しいのよあんた!」

 地面手前から、数十のツタを勢いよく芽生えさせる。

 それにより後退した女。その涼しげな顔は毎度ながら不愉快である。

 紫髪の女は、姿が見えなくなった目的のほうを未練がましく見て、

「あーあ、無駄なあがきしちゃって。いずれ捕まるのよ。早いか遅いか、それだけの話なのに」

「ローズ」

 敵である女を板ばさみする状況で、そうやって紫髪の女の名を呼んだのは向こう側に見える青年だった。

「……何かしら?」

「この女は私が引き受ける。お前はあの二人を追え」

「命令しないでくれる?」

「これは命令ではなく適正の問題だ。ツタが片割しか使えないのだろう? 今の交戦でも圧倒的に圧されていた」

 それは本人にも分かっている。

 指摘され、遣り切れなさから唇を噛み締めるローズ。

 青年は更に辛辣な意見を述べる。

「別に貴様がどうなろうと知ったことではない。だが、邪魔だけはするな。傲慢な自尊心は身を滅ぼすだけでなく周囲をも巻き込む。自分の弱さを認めるのも立派な強さだと、私は思うがな」

「……分かったわよ」

 不服だが、仕方あるまい。せっかくの美形を今は不満で歪ましながらも、ローズは逃げた二人を追いかけることにした。

 それに待ったを掛ける者が居る。

「行かせない」

 アテナはローズへと近づく為か、体勢を低くした。

 その最中、

「!?」

 アテナの眼が見開いた。後方からの音に気付いたのだろう。

 何かが高速で風を切りながら向かってくる、その音が。

 すぐに身を横合いへとやるアテナ。

 さっきまで彼女が居た場所を、何かが駆け抜けた。それはそのまま直進せず、すぐさまに上空へと軌道を変え、反転するような形で青年の軽く伸ばした腕へと止まった。

「……これは?」

 ローズの手にはなにやら紙があった。それはけた何かが届けたものだ。

「それを持っていけ」

 当事者の青年はそう告げた。

 それだけでも、ローズには伝わったようだ。

 顔を窺うように青年を見た後、その紙を懐へと仕舞い込む。

 そしてすぐに身を翻し、逃げた二人を追いかけた。

「待――」

 させまいとするアテナ。しかしまた、後方から迫り来る障害物。柔軟な身体を利用し、存分に身を低くして回避した。

 その間に紫髪の女の背が、家の隔たりで見えなくなった。

 そちら側を歯噛みしながら見ているアテナ。追いかけたいところだろうが、その者に背を向けるのは大変危険だ。

 アテナは翔け抜け、また主の腕に治まったたそれを確認する。

 鳥。猛禽類。偉大なる空の王者――。

「……鷹匠?」

 いや、と青年は鷹を撫でながら否定する。 

「日本では一般的に『鳥使ちょうし』と呼ばれているようだが、私の育った民族ではより服従の意を強調し『使鳥しちょう』と呼ばれている。頭の固い連中の自尊心の勝手でな」 

 青年は鷹に餌をあげ始めた。今の話を聞いた上でその光景を見てみると、とても絶対服従させているようには見えず、むしろ、互いに慕いあっている様に見える。

 そして。

 アテナは『使鳥』と呼ばれるそれを知っているらしかった。

「使鳥……なるほど、あなた達の正体が分かった気がする」

「ほう、聞けばローズの『種使い(セマンサー)』も知覚していたようだな。なかなか裏に精通しているものがあるようだが……まあ、この際どうでもいい」

 青年の鋭い眼光が、飼い鳥からアテナへと向けられる。

「端的に言おう。このまま退くなら危害を加える事はない。抗うのなら然るべき処置を取る。そして私が望むのは前者だ。さて、お前は愚か者か利口か、どっちだ」

 返答には間があった。

 アテナは小さく息を吐く。

 深呼吸。きっと気持ちを落ち着かせるための動作だろう。

 それから――言う。

「私は私が正しいと思った道を選ぶ。真の答がわからない以上、それが今までの人生で弾き出した、全力の答え」

「……残念だ」

 明確な言葉などなくても、その世界に住む者になら通ずるものがあるのだろう。

「どうやらお前は無知蒙昧の様だ。糊塗の正義に騙され、選択を誤った。数分後、お前は世界に騙されている事に気付くだろう」

「頭ごなしに人を非難するあなたこそ愚か者だと、私は思うのだけど」

 それは違うな、と青年は言った。

 そして告げる。頭ごなしを否定した、理由を。

「あの二人を二人だけで行かせた時点で、お前は私よりも劣っている。愚か者とは道を踏み外す者ではなく、たとえそれが道に反していようと最良の選択を選べぬ者の事を言うのだよ」


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