探し物
龍樹が電話を掛ける、約十五分前。
雫は帰路の途中だった。
消え行く積雲に太陽柱を上げ、日輪は斜陽を迎えている。
空はとても綺麗だった。その下ではいまもどこかで、争いが起こっているなんて思えないほどに。
そんな自然が成す芸術を、左手で鞄の取っ手を持ち、右手は腰にやっている千石雫は眺めていた。
龍樹からある程度の概要は聞いた。
といっても、本質的な部分は彼も分かっていないので、話の正鵠な部分はいまだ射抜いていない。
(……アテナ)
龍樹宅に来訪した謎の女。
明らかに偽名であろうその女は、聞けば何か用事があるらしい。
それも行方不明になった父親関連という話だ。
龍樹が気になるのは分かる。
恐らく自分が彼の立場だったのなら、同じ行動を取っていただろうと雫は感じていた。
しかし、それでは駄目なのだ。
雫から見なくても、空野龍樹という人間の危なっかしさは折り紙つきだ。
物欲が薄いらしいので普段は自分からなにかに惹かれる事はないが、だからというか、ある事柄に興味を持ってしまうと周りが見えなくなってしまう。
どこまでが良くてどこまでが駄目なのかという境目をあの男は理解できないと、彼女は分析している。
それらを踏まえた上で、雫は結論付ける。
(……やはり一度話しを聞いた方が良さそうだ)
その女が何者なのか。目的は一体何か。龍樹の父親とはどういった関係なのか。
まるで母親のような立ち位置で、雫はそんな事を思う。
学校での一件もある。
あんな突飛の無い事を仕出かす奴は、只者ではない事は確かだろう。
褐色の男の脅威から守ってくれはしたようだが、事と次第によっては、警察に相談するという選択もあるだろう。
もちろん、それら一連の作業は、龍樹の目の届かないところで行わなければ。
過保護体質なのは彼女自身自覚していることだ。
それが長所だなんて厚かましい事を言うつもりもない。
ただ、根っからの博愛主義であるところの雫。
放っておけなかった。
いつぞや言った皆が幸せになってほしいというのは虚偽でもなんでもなく、心からの本音だ。
迫害、貧困、戦争、紛争、飢餓、環境、領土、政治、民族意識、宗教、人権、核――その他もろもろの問題もいつの日か解決すると、絵空事に過ぎないと言われかねない事を本気で信じている。
自分が生きているうちは無理にしても。
そんな未来があってもいいと、その少女は考えている。
(……それにしても)
とここで雫は掌を空に掲げた。
指と指の隙間から見える向こう側はオレンジ色に染まり、相変わらずの情景だ。
思い返す。
直撃したと思われた投擲物が、なぜか逸れたあの変事。
実は今回が初めてでは無かった。
それはデジャヴなどではない。
過去にも一度だけあり、九死に二生を得たと言っても過言ではない。
夕焼け色の空に手をかざす少女は淡く微笑む。
雫は今日までに起こったあの現象の解釈を、才女らしからぬ非科学的な観点から見ていた。
「また、両親に助けられたな」
それでもやはり、半ば馬鹿げた発想だとは、彼女も思っている。
「……おっと」
ふと、見上げていた視線を降ろした時に、人がいる事に気づいた雫。
その人物は彼女を見据えている。
そりゃそうだ、と雫は思った。
こんな路頭でいきなり空に手をかざし微笑む女を見て、訝しまない訳がない。
雫はちょっと恥ずかしくなった。
顔を隠すように、少し俯きながら足を動かし始める。
難儀な事に、こちらを見据えている人の居る方角が帰宅進路なので、おのずとそちらへと足は運ばれ、その横を通らなければならない。
その人物はいまだ雫から視線を外そうとはしなかった。
よく見れば顔には微笑が浮かんでいる。
もしかして嘲笑っているのだろうかと、意外に小さな事を気にしながらも、足を進めていく雫。
やがて、
二人はかなり接近した。
距離は約二メートル。
もうすぐ雫がその人物の横を通り抜ける。
そうすればその嘲りの視線ともおさらばである。
(……なんだ?)
しかし、隣に差し掛かる頃になっても、その人物は雫から視線を逸らさなかった。それどころか真っ向からの対峙。
今も通り過ぎようとしている彼女を、目の焦点が追いかける。
見過ぎではないだろうかと歩みを進めながら雫は思う。
俗に言う一般人というものは、こうも堂々と偏見の眼差しを当てられるような野性的性格だっただろうかと、帰納法で得た前提を改め始める
国民性にもよるが、なにかと腰が低いと言われている日本人。
中にはそういった方もいるだろうが、それは極まれだろう――と考えていた雫だったが、彼女はあまり視力がよくなく、眩しい夕日も重なり、間近に迫ったところでようやくその人物は外人だという事に気付く。
紫の髪に合わせていると思われる紫のカーディガンを着こなし、下半身はデニムレギンスが際立たせる線がとても美しく、日本人の造りがいかに陳腐かを思い知らされてしまう。
それは女性から見ても思わず惚れてしまいそうな美貌。
現に雫も綺麗な人だな、と目を奪われていた。
だがそれも刹那の事。
相手は他人。
当たり前だが喋りかける訳でもなく、美女から視線を外した雫。
横を通り抜け、そのまま足を進め続ける。
そして女を背に、夕日へ向かって歩いていたその時、
「ひどいわね、これだけ分かりやすいアイコンタクトを無視するなんて」
嘲笑を交えた声が、雫の足を止めた。
彼女は自然、そちらへと振り向く。
例の美女が雫を見ていた。首を捻り、面を向けてきているので、今言葉を放ったのはその人物で間違いないだろう。
もしかしたら知り合いなのかもしれない、と雫は色々と記憶を想起してみるものの、やはり見覚えはなかった。
次に勘違いという可能性も考えたが、この場には今二人しかいない。
美女の視線も明らかに雫へと当てられている。
身に覚えのない人物からのアイコンタクト。
一体、なんなのだろう? と雫はそんな想いを口にしない代わりに逞しい眉を曲げた。
その意思表示が伝わったかどうかは定かではないが、その女は話を進め始めた。
「初対面で、いきなりで無礼は承知なんだけど、今時間空いているかしら?」
先ほどもそうだったのだが、随分と流暢な日本語だった。なので、英語辺りを用意していた雫はそこだけ拍子抜けした。
ともあれ、質問に対してはなんにせよ答えを返さなければ。
「申し訳ないですけど……家では家族が待っていますので」
それは本当かどうか雫にも分からなかったが、何にせよ、見ず知らずの、美人とはいえ『怪しい人にはついていくな』とは昔から云われる常套句だ。
綺麗な薔薇には棘があるともいうであろうし。
「では失礼します」
軽く会釈し、雫はそそくさと場を立ち去ろうとする。
この手の事柄にはあまり関わりたくはないと雫は決めている。
他人の事柄ならまだしも、これは自分が我慢をすればいいだけの話。
ここで妙な考えを巡らせるのも避けるべきであって、彼女はそれが出来る人間だ。
世の中のありとあらゆる魅力を断ち切り、自分に取って有益になるものかどうかを見極める脳だって持っている。
しかしそんな彼女も、やはり人間だった。
もしこれが欲求解消や刺激を求める為のものなら断ち切っただろう。
だが次の瞬間、薄気味悪い笑みを浮かべた女が放った
「親なんていないくせに」
というその一言が、あらゆるものの根底を覆す。
「!?」
微笑を乗せ放たれた発言に、雫の喉は干上がった。
言葉が足枷のように踵へと巻きついてきたみたいだった。
急に石化したように身体が重くなり、全身を電撃のようなものが駆け巡る。
数秒間、いま放たれた言葉を咀嚼する雫。
なぜ両親がいない、亡くなった事を知っているのだろうかと、あれこれとありうる可能性を考えていく。
接続詞がなく完了形。
疑問符ではなく断言。
切り詰めれば詰めようとするほど、その疑問は逆に膨らんでいく。
そうこうしている内に、後方にいるであろう紫髪の女は、見せ付けるように足音を鳴らしどこかへ行こうとする。
未だ混乱は治まって無いが、このまま行かせるのは絶対にダメな気がした。
そこでやっと意識を完全に後方の女へと移した雫は、身を俊敏に翻す。
女はこちらに背を向け、遠のいていく。
「待ってくれ!!」
必要以上の発声で雫は呼び止めた。
言葉を受けた女は、予想していたのだろう、憫笑を顔に浮かべながら首を捻り雫に視線を当てた
「何かしら?」
そして用意していたかのようにそう言った。
険しい表情の雫は訊く。
「父さんと母さん。両親のことを知っているのか?」
「……ええ、知っているわよ」
掛かった、とでも言いたそうな笑みを浮かべている女は、華麗に踵を返した。
「それがどうかしたの?」
(……こいつは)
今しがた会ったばかりだが、意地が悪い女だと切に思う雫。
以前警戒は解かない。
だが、それを別の何かが浸食し始めている。
いやすでに侵食していた。
それは『関心』という名の魔物。
どうしても知りたいという強い気持ちが体内で波紋のように広がっていくと、やがて恐怖を呑み込んでいく。
駄目だというリミッターすら効かない。
龍樹同様――いや、それ以上に両親についての情報というものは、彼女にとってセンシティブなものだった。
この世のありとあらゆる欲求に勝る、千石雫にとっての最優先事項。
彼女のただならぬ状態を察したのか、
「知りたいの?」
返って来る答えは分かっていると言いたげそうに、その女の口元が裂けていく。
訊きたい、と言いたいところだが、喉元まで来ているその言葉が、雫は放てない。
なんとか最後に残る一欠けらの自制心がそれを拒み、踏ん張ろうとしている。
それでも顔に出てしまっていたようだ。
あたかも『訊きたい』という返事を受けたかのように、女は話を勝手に進めていく。
「別に教えてあげてもいいけど……ここじゃちょっと場所が悪い」
周囲を見渡し、辺りの様子を探る。
それからスッ、と、ある一点に指差す紫髪の女。
横に差し出された人差し指のその先には――路地裏。
人気が皆無で、世間からの干渉も受けにくい場所。
つまり危険な目にあっても助けが直ぐ来ない危険地帯。
躊躇う雫は路地裏に視線をやり、それから紫髪の女へと睨みを利かした。
怪しい人間に促される危険。
常時なら間違いなくその誘いには乗らない。例えその先に前人未踏の財宝が有ったとしてもだ。
だが、先刻申した通りそれは彼女にとってはあまりにも大切な案件だった。
知りたかった。
確かに愛しかった――両親について。
「……」
仕事の中軸を海外に置いていた両親は、その都合上、雫が物心ついたときから世界を東奔西走していた。
その仕事の内容とやらを雫は知らない。
気になって本人達に聞いた事は何度もある。
しかしいつも笑っては流されていた。
ずるい、と思っていながらも、そう頑なに拒まれれば子供だったあの頃に聞き出す術など無い。
しかし、言わないという事はそれ相応の理由がある。
小さいながらもその事に当時の雫は感付いていた。
それも大抵は腹に何らかの一物を持つよろしくない内容を孕んでいるとも。
いつか訊こういつか訊こうと思っていたが。
結局、
それがなんなのかは、ついに訊くことは出来なかった。
調べた事はある。
中東での爆発事故で死亡したと聞かされた時、すぐさまネットやら新聞やらを使い情報を漁った。
だが当時は五歳だったので、行動力も限られてくる。
唯一掴めた情報は、父達は事故などではなく、テロ組織の襲撃により命を落としたというものだった。
殺されたのだ。
どこの誰かも分からない人間に。
大切な大切な両親を。
恨んだというよりも、絶望感の方が大きかった。
なにをどうしたところで両親が戻ってこないという事実が変わらないというのは、幼かった当時でも理解していた。
はっきりいって、知らなければ良かったと今でも後悔している。
祖母はその為にわざわざ事故と聞かせたのだろうし、両親が亡くなった事をすぐに知らせなかったのだろう。
実際無駄な事だった。
例えそれが少女に取っての大事件でも、そのテロは地元ですらあまり大きく扱われず、日本でも一部がほんの少し報道される程度だった。
紛争地でのテロ行為など、週単位で起こっている。
一つ一つそれなりに現場検証が行われているのかも不明な状況、微細な内容が表に出ることはほとんどない。
その脅威を対岸の火事と捉えている日本ならなおさらだ。
だから海外の新聞なども翻訳して調べた。
しかしそれも結局は無駄。
そもそもどんな規模でどんな人間が事を起こしたかも分からないのに、調べようなんてものは無かった。
両親が亡くなってから五年ほどになってようやくそう思えるようになっていた。
今更復讐心がある訳でもない雫。
先に述べたが、例え憎んだところで両親は帰って来ないという事を彼女は知っている。
事実を明らかにしなければ、しょうがなかったと、もう気にする事もなかったのかもしれない。
日々の生活の中で諦めろと葛藤を繰り返す事も無かったかもしれない。
それこそ結果論なのだろうが、今ほど心にわだかまりが残る事は無かったはずだ。
世の中には知らない方がいい事だってある。
知らぬが仏、知るが煩悩。
そうやって雫は両親に対する想いの決別を図っていた。
はずだった。
はずだったのに、いま目前にいるその女は、これからさきも不明確なままで終わると思っていた両親の半生についての何かを知っている。
そんなもの、訊くなという方が無理である。
「……」
半ば震えているその歩が、一歩、また一歩と路地裏へと向かう。
いけないことだというのは分かっている。
だが欲望に有能だとか無能は関係ない。
雫も人間である以上、その呪縛からは逃れられなかった。
しかし。
路地裏へと繋がる道前まで進行した時、雫はその歩みを一旦止める。
イケない! と自分の中の理性が怒鳴りつけてきたのだ。
息を荒げ、未だ葛藤に苦しむ雫。身体が震え始め、心臓の鼓動が耳にまで上がってくる。
「……どうしたの?」
腕を組み、憮然とした顔付きをする紫髪の女。
そして何が起こったのかを察した。
数秒、急に動作が止まった少女を観察した女は、腕組を解き呆然と立ち尽くす雫の背後へと歩み寄る。
そして彼女の耳元で、
「私が知っているあなたの両親の情報を聞きたくないの? ……まさか怖くなっちゃったのかしら?」
相変わらず不気味な笑みを浮かべる紫髪の女。
怖いに決まっている。
雫には路地裏がまるで怪物の大きな口にすら見えてきた。そこは夕焼けが沈んできたことにより奥の方も不可視になってきている。
だが汗が頬を伝う少女にも構わず、紫髪の女はこう言ってみる。
「別に取って喰おう、って訳じゃないんだから。大丈夫よ、ただ、両親の話をするに当たって、そっちの方が色々と都合が良いだけの話」
やたらと両親という言葉を使う紫髪の女。
雫に取ってその言葉は、甘い誘惑で誘い、不利な条件を押し付ける悪徳商法の勧誘文言に聞こえた。
「さ、先に行ってくれないか?」
震える唇が言葉を絞り出した。
それは彼女が乱雑する思考で弾き出した精一杯の対策。
ゆるぎない瞳で訴え掛ける雫。
先を歩ませれば、逃げる場面に陥っても成功確率は格段に上がる。
申しだされた提案に、わずかに眉を曲げる紫髪の女。
だが何かを考える様な間を開けた後、
「いいわよ」
私は安全です、とでも示唆するように難なくその提案を呑んだ。
紫髪の女は言った通り先陣を切って路地裏へと身を沈めていく。
しばらく呆けた様子でその背を見る雫。
本当に付いて行って大丈夫なのだろうか。
その言葉が先程から何度も脳内で再生されている。
「何をしているの?」
条件を呑んだというのに動こうとしない少女に、紫髪の女は歩みを止め首だけで振り返った。
それから子供を誘導するかのような緩やかな動作で手を招き、
「早くおいで」
路地裏の方へと、雫を誘った。
招かれた少女は気持ちを落ち着かせるために大きく深呼吸をした。
そして決心する。
停止していた路地裏に向かう行為を再開させる。
もし妙な事を仕出かしたらすぐに逃げ出せるように、路地裏の入り口付近に障害となるものがないか確認する。
どうやら無さそうだ。
次に妙な影がないか辺りを見渡す。
いくつかの人影はあったが、スーツ姿のサラリーマンなど、見るからに一般人であろう人ばかりなので特に得られるものはない。
最後に駆け込む場所を探しておく。
ここから十メートル先に飲食店がある。
決して足が速いとは言えない彼女でも、走っていけばすぐに入り込めるだろう。
よし、と下調べし終えた雫は、ようやく路地裏へと足を進めた。
長年目を背けていた問題に、向き合う決心を付けた雫。
半ば吹っ切ったような面持ちの彼女の足どりには、先ほどまでの迷いは感じられなかった。
「ここら辺でいいかしら?」
しばらく進むと、自分に確認を取るように紫髪の女は言った。
雫は首を捻り、後方を確認してみる。
表参道が微かに見えるほどの深部だった。
もう少し警戒するべきだったかと思ったが、時すでに遅し。
周りに視線を回す。
ゴミ箱が横たわり、そこに入れるべき汚物や廃物が壁際に押しやられるように連なり、匂いもきつい。
思わず鼻を押さえそうになるのを堪え、紫髪の女に目の焦点を合わした雫は、早速訊いて見る。
「さあ、約束だ。両親の一体何を知っているんだ」
もちろん、そうくる事は分かっていたのだろう。
紫髪の女は、やっぱり子供ね、と言いたそうに口の両端を広げた。
そして雫の望みに答える。
「知らないわ」
哀れみの笑みを浮かべた女。
雫はその言葉に微量の苛立ちを覚え、何? と顔を顰めた。
紫髪の女は構わず屁理屈を捏ねる。
「私があなたの両親について言えるのは、『知らない』という無縁事実だけ……なにも情報とはあるがままを述べる事で、それが望まれたものと違っても、情報である事には違いない」
嘘は付いていないでしょ? 手を交差させ、両肘を抱くような態勢の女はそう言った。
「……私を騙したのか?」
苛立ちと悔しさが脳内で渦を巻き、歯をかみ締める雫。
依然としてこちらを愉快そうに見据える紫髪の女。
あくまで自分のしていることは道理に叶っている、とでも言いたいのだろう。
しかし、雫に取っては欺瞞者にしか見えない。
まんまと女の思惑に嵌ってしまった。
どうやらその者は、人の弱みに付け込み、己の利益の事だけを考えるような最低な奴のようだ。
「帰る」
ここにいれば本気で殴りかかってしまいそうだ、と雫は思った。
彼女がここまで人に憤慨を覚えたのは極めて珍しい。
それほどまでに今回の問題はデリケートだった。
なぜそんな嘘を吐くのか、なぜこんな所に誘い込んだかについて考えるという事を忘れるくらい不愉快だ。
紫髪の女にそっぽを向き、雫は表参道へと出ようとする。
静けさを纏った空間を演出する、両側に位置する高さ五十メートルほどのビルたちの壁に反響する足音。
(くそ、無駄な時間を過ごした)
憤る雫。
だが、時間が経つにつれ頭が冷静さを取り戻すようになって、ようやく疑問が浮かんできた。
(……そもそもあの女は私に何の用があったのだろう?)
わざわざこんな悪戯染みたことをしたかっただけなのか、それとも別の何かか。
いくつかの憶測を脳内で並べる雫。
それに紫髪の女の口振りを聞いたところ、少なくとも両親が落命したのは知っているようだった。
他にも思考を巡らせてみたが、色々気になってどうにもうまくまとまらない。
不審点が多すぎる、と流石の雫も最早お手上げ状態だった。
そんな彼女が、表参道までもう少しというところまで差し掛かった時だった。
「帰るだなんてつれないこと言わないでよ……どれだけあなたを探したと思ってるの」
前半は強請るように、後半は威圧気味に、大気を冷やすような声色が空間を揺らす。
直後、
ゴバッ、ゴバッ、ゴバッ!! と、何かが地面から突き出てきて、雫の進行を遮った。
「――なッ!?」
驚愕する雫。
前方の地から這い出てきたそれをしばらくの間仰天の眼差しで見上げた後。
バッ、と高速で振り返る。
視線の先に居るのは暗闇を背後に湛えた紫髪の女ただ一人。
こんな異常な現象が起こっても平然としているのはきっと、いや絶対この不可思議を引き起こした張本人だからだろうと雫は直感する。
迂闊だった。
距離が開いていると油断していた。
女から放たれる今までと違う得体の知れない不気味さに、思わず身を後退させる雫。
しかし地面から突出した奇妙な物体に背が当たり、それ以上は下がれない。
「ふふ、諦めなさい。逃げられないわよ」
言いながらゆっくり、だが確実に距離を縮めてくる紫髪の女。
「大人しくしてくれてれば、手荒なマネはしないから」
何をされるのか、目的が分からないが、とりあえず言えることは一つ。
――此処から一刻も早く逃げないと
その為に障害がないか確認した。
まさか障害が地面から現われるだなんて流石の雫も予想だにしなかった。
とはいえ、済んだ事を悔やんでも仕方ない。
どうにか打開策を探さねばと、雫は地から生えてきた障害物をマジマジと見てみた。
ツタのようなものだった。
全長は約六メートル。
完全に道筋を塞ぐように、それが横並びに三本生えている。
触れて掻き分けるられるか試したいところだが、それに雫は躊躇った。
躊躇わざるを得なかった。
背が触れた時にも分かった事だったが、ツタには棘が生えていた。茨のような鋭利な棘が無数、その側面に不規則に芽生えている。
それでも雫は立ち向かう。
暫し戸惑ったが、両腕で掻き分けられるか、足で押し退けられるか、力づくでどうにかならないものかと頑張ってみる。
だが微動だにしない。
まるで岩のよう動かない謎の植物は、か弱い女性にどうこう出来る代物ではない。
それに思った以上に棘の威力は鋭かった。
「――ッ!」
どうにかならないものかと触れているうちに、手を切ってしまった雫。
どくどくと脈打つ指先から滴り落ちる鮮血。それを空いているもう片方の手で圧迫して止めようとする。
その手首を、恨みでもあるかのように力強い勢いで誰かに掴まれた。
戦慄が全身を駆け巡る。
掌に向けていた視線を恐る恐る横合いへと移し、雫はその正体を確認してみる。
そこにはいつのまにか接近していた紫髪の女。
暗い闇を反射するその眼光は、血が伝っていく掌に向けられていた。
「ダメじゃない。大切にしなくちゃ」
雫の手を自分の顔前へと持ち上げる紫髪の女。
「大事な体なんだから」
そして柔和な笑みを浮かべ、
「あなたに取っても、私達に取ってもね」
相槌を求めるよう雫に視線を合わせ、そう言った。
「――ッ」
恐怖から口ごもる事しかできなかった。
恐怖心から放つ言葉が浮かんでこない雫。
対照的に、
「やっと見つけた探し物。もう放さない」
雫の手を伝っていく血に見とれながら、紫髪の女はスラスラと言葉を羅列していく。
女にはまるで千石雫という人間自体は見えていないようだった。
知らないうちにどんどん話が進んでいく。
まずい。率直にそう思った雫は、
「離せッ!」
そう怒鳴り、掴まれた手を払った。
と同時に。
首元が圧迫される衝撃が、彼女を襲う。
「か、は――!?」
息の軌道が確保できない雫。
例のツタだ。
退路を塞ぐものとはまた別のツタが地面から現れ、今まさに雫の首元を締め付けている。
声にならない声を出しながら、脳への血流が滞られ、意識が薄れていく。
ぼやけていく視界に見える不敵な笑みを見て、これもこの女の仕業なのだろうと雫は結論付ける。
何とか抵抗を試みるものの、足元が浮き、暴れれば暴れるほど締め付けは強くなっていく。
「悪いけど一緒に来てくれるかしら?」
紫髪の女はここにきてやっと目的を語る。
「あなたの中身に用があるから」
その言葉を最後に、雫の意識は完全に途絶えた。
まるで高価な物を取り扱うように力を失った彼女を、紫髪の女は介抱――捕捉した。




