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妖美なるこの世界  作者: 桂馬
イタリアの闇達
170/261

わずかな希望

 光は窓から差し込む太陽の明かりしか無かった。

 昼間だというのに薄暗闇の建屋内。

 長年使用されていなかった建屋はどこかカビ臭い匂いがしていて、空調もなければ窓すら開けていない中を埃が舞い、湿度はジメジメと最悪な環境だった。  

「ボスは何て言っていたんだ」 

 仲間が電話を切ったタイミングを見計らい、男Bは訊いた。

 男Aが通話をしている間彼は大人しく息を潜めていた。

 理由はボスであるカッサローニに問題が起こったことを悟られないためだ。

 通話を終えた男Aは目を泳がしながら、こう答える。

「娘を連れて遠くへ逃げろ。そして一時間後に連絡が無ければ殺せ、だとよ」

 携帯をポッケにゆっくりと仕舞う男A。その動作であえて落ち着きを取り繕い、頭の中を冷静に保とうとする。

 だが隣に立つスーツ姿の男はその努力を汲み取らず、せっかく沈みかけていた焦りを蒸し返す。

「なんでまたそんな事を……」

「さあな。俺が知るかよ。まあ普通に考えれば何かあったんだろうな。それも悪い意味で……だがはっきりしている事がある。それはボスの命令は絶対って事だ」

 男Aの言葉に、他の二人は固まってしまう。なぜならば二人ともその言葉の意味をよく理解しているからだ。

 ガタイの割に気の小さなスーツ姿の男は顔を青ざめ汗を垂らす。このままではいけないと判断をした男Bは、足元に転がる元凶に怒りの矛先を向ける。

「早く吐けよクソガキが!」

 声を荒げる男B。

 全体重を乗せた容赦のない蹴りが、床で横たわる少年の腹脇を捉えた。胃の中に溜まっていた空気が全て吐き出され、ひどく悶絶する龍樹。

 ゲホゲホと咳き込み胃酸の様なものが、頬を殴られた際に発生した血と混じって口から洩れる。

 もう何発目だろうかと思う龍樹は思った。

 数え切れないほどの暴力を受け、立ち上がる気力はすでに無く、痛みに耐性の無い意識はすでに朦朧としていた。

 自分は死ぬのではないだろうかと本気で思い始めていた。

 日本にいた頃には味わう事の無かった恐怖。

 人が人を殺すという事に対しての理不尽さが、目の前でぐるぐると渦を巻く。

 その間も男Bは龍樹の腹を足のつま先で小突いているが、彼はそれを漠然としか理解していない。

 そんな中、男Bはぴくりとも動かない龍樹へと顔を近づけると、

「おい、死んだフリをしても無駄だぞ。その辺の加減はしているつもりだからな。お前も本当は分かっているんだろ。なぜ自分がこんな目に合っているか」

 イタリア語なので、龍樹からすれば相変わらず男の言っている事が分からない。

 それでもどうにか反応を返さなければもっとひどい目に合うと思い、目の焦点が定まらないながらも龍樹は声を出そうとする。

 だが声を出そうと腹に力を込めるとひどく痛む。

 骨が折れた事もない龍樹としてはどんな症状なのかいまいち分からないが、間違いなく何かしらの器官は悲鳴を上げている。

 本当なら一刻も早く病院に行くべきなのかもしれないが、目の前の男どもは考慮などしてくれるはずもなく、龍樹の掠れる視界の隅で何かをわめき立てている。

 内容が聞き取れないのはそれがイタリア語だからなのか意識が朦朧としているからなのか。

 それすらも判断できないほど、彼は衰弱していた。

「どうする。このままじゃ埒が明かないぞ」

 何ら好転しない状況にスーツ姿の男は思わず口を挟む。その本音に呼応するように、他の二人も一旦は龍樹を忘れ話し合いに入る。

 男Bは唇を噛み締めながら、

「くそ。面倒な事になってるぜ。たかだかガキ一人見張れないんじゃ、ボスじゃなくても怒るのは当然だ」

「ああ全くだ。心のどこかで油断もあったんだろうよ。だがそれを今後悔しても仕方ない。途中色々と予期せぬ事態も起こったしな」

 あえてなのかやけに冷静な反応を見せる男A。まるで他人事の様なその素振りに、少しばかり不快感を覚えた男Bは彼を睨みつける。

「随分と余裕だな。何かいい方法でも思いついたのかよ」

「思いついちゃいないさ。ただ、さっきも言っただろ。なぜボスが一時間後に娘を殺せだなんておかしなことを言ってきたのか」

 言われてみて、男Bは思い起こす。

 電話の内容を聞き、娘を探し出さねばとばかり考えていた当時は片隅にあった疑問だが、確かによくよく考えてみればおかしい。

 ――一時間後に連絡がなければ。

 注目すべきはやはりその点だろう。

「つまりその時に連絡が取れない状況に陥っている可能性があるという事だ。しかもわざわざ遠くへ、それも不特定な場所へ逃げろと言ってきたのも気になる」

「ああ。そりゃな。ただ、何にせよ今問題になっているのは娘が見つからないって事だろ。ボスがどんな状況に置かれているかじゃあない」

「……まあな」

 ゆっくりと頷く男A。

 ボスが置かれている状況は全く関係ないという訳ではないが、いずれにせよ娘を手元に置いておかなければならない。

 カッサローニが追い詰められているという可能性も男Aの中にはある。

 むしろ電話の内容から言ってその可能性は高いと男Aは踏んでいた。

 となれば、極端な話ここで娘を放って逃げても、カッサローニが直接娘の亡骸を確認する状況にはなりにくい事を考慮すれば、問題は全くない。

 だが長年染みついた恐怖は簡単に取れるものではなく、どうしても、もしもの事を考えてしまう。

 カッサローニが逃げ延び、合流した際に娘をうっかり見失ってしまった事がバレれば男がどんな手段に及ぶか。

 それを考えると足が震え、鼓動が高鳴り、やはり娘を探さねばと、気持ちが焦る。

 ならどうするべきか。

 その場にいる三人が皆同じことを考える。

 男Bは一度退室し少年が動き始めるのを影から見守る方法を思いついた。

 だが相手がそんな単純な作戦に引っかかるような年齢には見えないし、何よりも時間をそこまで掛けられない事を踏まえると全くもって理に叶っていない。

 スーツ姿の男はと言えば、自分ならどこに隠れるかと置き換えて居場所を模索していた。だが間取り図もろくに分かっていない人間がそんな事をしても意味を成さないという結論に至り、すぐさま別の方法を考え始める。

 男Aはもっと大胆に、どこかで別の少女を攫い掛け替えに利用しようと思いつく。しかしこれも時間と労力が掛かるだろうし、何よりも目撃された際のリスクが高すぎるので即座に棄却した。

 その後もあれこれと案は浮かべど、どれも実行に移せるような代物ではなかった。

 無理もないのかもしれない。

 これまでカッサローニというボスの命令を受けて動いてきた連中。

 あの男ならこういう場面に陥った際の打開策を見つけるのかもしれないが、奇しくも今は彼の動向を気にしている。

 だからこそ生半可な考えで動くのは危険と判断したし、必死でどうすればいいのかを考える。

 彼らが黙考している間にも時間は刻一刻と過ぎていく。

 地面で転がる龍樹もぼやける思考でどうかこのまま何も起こらず時が経ってくれと願う。

 身体が石のように重く、不思議と痛みは無かった。だがそんな魔法じみた事が起こっている原因は何となく彼は理解している。

 ようは身体の感覚がマヒしているのだ。

 もちろん医学的に見て好ましい事などある訳がなく、痛みが無いというのは、裏を返せばそれだけ身体は悲鳴を上げているという事。

 ミレーナを隠してきて正解だったと龍樹は思う。

 一瞬彼女を連れて逃げようかと迷ったが、あのまま一緒に行動していれば間違いなく捕まっただろう。

 三人の目を掻い潜り外へ抜け出す手掛かりを探すなど端から無理があった。

 自分にしては良い判断だと、目の前で起こる八方塞がりな状況にどうにか光明を見出す手段がそう思う他なく、以下に絶望的な状況かが窺い知れる。

 それでも今の龍樹に取っては十分な支えとなっており、気持ちは本人が思っていた以上に楽になっていた。

 これも現実逃避によるものかもしれない、と彼自身薄々と気付いている。

 だがこの際それでも良かった。

 そうでもしなければ追い詰められてボロボロになった心はすぐにでも瓦解しそうで、とてもじゃないが正気を保てそうもない。

 今彼を支えているのはミレーナをとりあえずは守れたという事。正確に言えば守れていない訳だが、あのまま二人そろって見つかるという最悪の展開は免れた。

 彼女がいる場所は中々見つけにくいだろう。

 天井を伝うダクトの中。

 龍樹だって猫が飛び降りてこなければ絶対に気付かなかったであろう、絶好の死角。

 と、ここで彼はある事を閃いた

 今この場には三人が集まっている。

 つまり出入り口はがら空き状態であり、そこから少女は逃げたと示せば敵はしまったと焦るかもしれないと思いつく。

 腫れあがった瞼で話し合いを進めている三人を見上げる龍樹。

 少女はこうして自分が引き付けている間に外へと逃がした。今度もし殴られたらそう切り出そうと誓う。はっきりいってその精でまた殴られる可能性は高いが、そもそもうまく伝わるか分からないが、こうなれば一発も二発も同じと無茶苦茶な理由で己を勇気づける。

 とにかくこの場から連中を遠ざけなければならない。

 考えてもみればおかしな点は一つも無いし、あったとしてもそれを調べるより追いかけた方が早い。

 受けた暴力に恐怖を覚え、情けなくも娘を明け渡そうとし始める男。

 弱者の自分にはぴったりじゃないかと龍樹は皮肉な事を考える。

 ぴったりなのだから、その作戦を行うにあたっての演技だってそれなりに様になるはず。

 きっとイケる。

 そう結論付けると、龍樹はぷるぷる震える腕で上体を起こそうとする。

 しかし次の瞬間、彼の視界はあるものを捉えた。

 腫れた瞼の精で視界は半分しか見えない為二人しか見えないが、恐らくはその場に三人、皆がある一定の方向へと目を向けている。

 表情は驚いていた。

口を開けっ放しにし、それは信じられないものに出くわしたというより、有り得なくはない可能性が本当に現実になるとは、と言ったような極めて人為的なもののように思えた。


一体どうしたのだろうかという疑問を経て、


まさか、と龍樹はすぐさま男達の視線を追う。


そして想定した最悪の出来事が現実になり、目を見開く。

男達の視線の先。

薄暗闇でぼんやりと見える小さな影。

彼を支えていた唯一の希望。

それがゆっくりと崩れていくのを、龍樹は確かに感じ取っていた。

「これは僥倖だな」 

男Bはにんまりと呟く。

男Aは我に返ったように叫び、スーツ姿の男はその巨体に似合わぬ俊敏な動きで、突如現れた少女の元へと走っていく。

当然そんな大男が迫りくるものだから少女は怯え、尻込みするがそこに逃げ場などなく、あっさりと捕まってしまった。

突然の出来事にいまだ理解が追い付かない龍樹。

そんな彼とは対照的に、マフィア達は諸悪の根源であった少女の登場に安堵の息を漏らす。

「手こずらせやがって。だがまあ、これで一安心だな」

 よほど安心したのかポッケから煙草を取り出す男B。その先端に火をつけると口に含み、薄暗闇の中空へと紫煙を吐き出した。

 その足元で、今まさに立ち上がろうとしていた態勢のまま固まる龍樹。

 表情は未だ困惑。それでもなぜ彼女が出てきたのかという理由は彼なりに考えが纏まりつつあり、だからこそ遣り切れなかった。

 ミレーナが現れたのは龍樹の為だった。

 龍樹自身薄々懸念はしていたのだ。

 首根っこを掴まれ連れてこられた場所は運悪くミレーナを隠している場所。どうにか抵抗して他の場所へ移ろうかとも考えたが三人の大人にそこまでの行動力を示せる訳もなく、ましてや妙な動きを見せればそれが返って不審に取られるとも思っていた。

 しかし全くもって裏目だった。

 そもそもマフィア達が先程龍樹に投げかけた怒声の内容も彼女なら理解できたはず。

 いや距離的に考えて内容は分からなかったかもしれないが、聞こえてくる大声と荒々しい物音は十分もめ事と分かるニュアンスだ。

 それをダクト越しに聞いた優しい彼女はこう思ったに違いない。

 ――自分の精でお兄ちゃんが殴られているんだ

「……何で」

 考えが甘かった。

「何で出てきたんだよ、くそ」

 やりきれない怒りが口から零れる。立ち上がる為腕に込めていた力を、地面を叩くものに変える。

 そして再び上体を起き上がらせようとする龍樹。

 左腕はなぜか震え思った以上の力が出せず、もしかすると本当に折れているかもしれなかった。

 しかし今の彼にとってはそんなものは関係なかった。

 自分が動かなければあの子はどうする。

 大男に後ろ手を取られ成す術のないミレーナを見て、龍樹はその想いを強くする。

 そんな彼の努力を目前にいる男Bは眺めていた。

 優雅に煙草を吹かし見届けるその様はまるで見世物を見ているかのようで、これが逃げ出した少女を捕らえる事が出来た人間の余裕だ。

 やがて立ち上がった龍樹。ボロボロの身体は息を荒げ今にも崩れ落ちそうなほど低い姿勢だが、どうにか持ち応えている状況だった。

「……で、どうするんだよ」

 怒りもせず笑いもせず、目の前で立ち尽くす少年を見てそう問うた男B。

 興味本位、という訳でもない。

 ただ単純に立ち上がった動機。

 街で絡んだチンピラが次の一手を模索するような、単純な反応。

 言葉が通じた訳ではないだろう。

 しかし次の瞬間、龍樹は男の発言に答えるような行動を取った。

 自分の羽織っていた服を素早く脱ぐと、男Bへと投げつける。

 突然の出来事に思わず身構えた男B。飛び掛かってきた服を払いのけ、怒りの剣幕で妙な真似をした少年を睨みつけようとする。

 だが彼の姿はそこにはなかった。

 痛みが生じる身体に鞭打ち、龍樹はスーツ姿の男の元へと迫ろうとしていた。

 脚は鉛が纏わりついたかのように重い。おまけに瞼が腫れて視界が半分塞がっている精でうまく走れず、コケそうになっている。

 何とかしなければという思いしかなかった。

 満身創痍の身体で大男へと至ってもどうすることも出来ないのは一目瞭然。

 ましてや大男をどうにかできた所で他の二人が残っている訳であり、はっきりいって今の龍樹の行動は悪あがきでしかない。

 本人もそれは重々承知している。

 いわばこれは罪滅ぼしの様なもの。

 自分の精でひどい目に合ってしまっている少女に対してのせめてもの償い。最低限の努力はしたのだから失敗しても仕方がないという自己欺瞞。 

 スーツ姿の男へともう少しで到達というところで、龍樹は首根っこを掴まれた。

 走っている状況でそんな事をされたのだから襟で喉元を絞めてしまい、息が出来ないと思う間もなく、気づけば地面へと転がっていた。

 彼の襟首を掴んだのは男B。

 走る彼の背後へと駆け寄り掴むと、乱暴に引き戻しその行動を制した。

 只でさえ不安定な身体はそれだけで簡単にひっくり返り、地面へとうつ伏せに倒れ込んだ。

 だが本人に諦める意志はないようで、またすぐさま地面へと手を付き、上体を起こそうとしていた。

 男Bはそんな彼を侮蔑の目で見下げている。

「……せよ」

 再びふらふらと立ち上がった龍樹の口から思いが漏れる。

 敵を威圧する為。

 己を鼓舞する為。

 眼だけは死んでいない少年は、声を張り上げる。

「その子を離せえ!」

 と拳を握りしめた彼が飛び掛かるよりも先に、男の拳が龍樹の鳩尾を捉えた。

 今の彼にとっては致命的過ぎる一撃。

 情け容赦ない威力に龍樹は前のめりになり、圧迫された器官は必死に空気を取り込もうとしている。あまりの痛さに眼からは涙が二粒ほど零れ、思わずその場に膝をついてしまう龍樹。

 それを目撃したミレーナは暴力はやめてと叫ぶが、その声が考慮されることは無い。  

「マフィアに喧嘩売ってタダで済むと思ってんのか? ――ああん!」

 ここから男Bのこれまでの鬱憤が爆発する。

 膝をついた龍樹の顔を蹴り上げ、まるでサンドバックを叩くように攻撃を繰り出す。

 腕をはさみどうにか直撃は免れたが、全てを防御できる訳ではない。

 感情的に繰りだされる暴力に最早防戦一方の龍樹は亀のように丸くなり、その攻撃を凌ぐしか方法がない。

 それをいいことに男Bの攻撃はエスカレートしていく。

 無抵抗の少年を一方的に足蹴にしていく状況は年端もいかない少女にとってはあまりにも刺激が強く、今も閉じた瞼を震わせながら顔を背けてしまっている。

「おい。悪趣味はその辺にしておけ」

 目の前で行われていた行為はマフィア達から見てもそれほど残酷に見えたのか、思わず止めに入る男A。

 言葉を受けた男Bはそれにより攻撃の手を止める。盛大に息を荒げ全身汗だくなその様は、いかにエネルギーを消費したかが窺える。

 彼の足元には蹲り、動かない少年の姿があった。もしかして死んでしまったのではないかとその場にいる全員が思ったが、やがてうめき声のようなものが聞こえ一応は生きている事が確認された。

 ひどい話、それを安堵しているのはミレーナしかいなかったが。

「時間が無い。急ぐぞ」

 手首に巻いた腕時計を見てそう言った男A。カッサローニの電話からすでに三十分近くの時が経っていた。

 カッサローニの連絡があると想定すれば、確かにギリギリの時間帯だ。

 男Bもその考えには同意のようだ。

「……それもそうだな」

 無抵抗の相手で鬱憤を払っていても仕方がないと、切り上げる。

「じゃあ始末するか」

 懐から抜き出した銃を龍樹へと向けた。

 ここもひどい話、驚いているのはミレーナだけだった。

 物事を効率的に考えようとする他の二人にとって、邪魔者を排除するという結論に異議はない。

 うつ伏せで倒れ込み息を荒げる龍樹はまだ自分に銃を向けられている事に気づいておらず、このままでは抵抗という抵抗も出来ずに撃ち抜かれてしまうだろう。

 目前で今何が起ころうとしているのか分からず呆けるミレーナ。

 だがこれまで培ってきた知識が、本能が、漠然と危険な状況に晒されていると訴えかけてくる。

 そしてお兄ちゃんにけんじゅーが向けられていると明確に判断すると、マフィア達の目も憚らずそれを知らせようとする。

「逃げて! 早く! お兄ちゃん撃たれちゃ――」

「こいつ。大人しくしておけ」 

 健闘むなしく、後ろにいるスーツ姿の男に口を塞がれるミレーナ。大きな手は少女の顔を半分近く覆い、変声も迎えていない幼い声を完全に遮断する。

 それでも少女はふがふがと抵抗した。息もろくにできないのか顔を真っ赤にし、それでもどうにか気付いてもらおうと必死に訴え続けている。

 龍樹だって気付いていない訳ではない。

 身じろぎ一つしないのでミレーナは未だに叫んでいるようだが、その声はとっくに届いていた。

 ならなぜ動かないのか。

 理由は単純にして明快、動けないのだ。

 殴られ過ぎた身体は悲鳴を上げ脳からの伝達を素直に受け入れない。それを抜きにしたって、銃を持った相手にどう対処していいか分からなかった。

 全くもって情けないと龍樹はこの期に及んで自分を責める。悪魔と契約した時だって、街で財布をスられた時だって、他の場所へ誘導しなければと思った時もそうだ。

 結局何をするにしてもいつも遅い。

 最後に残るのは後悔だけで、今後に活かそうとする意志がまるでないと、己の気概の無さに腹すら立った。

 やりきれない思いから土を握りしめ歯を食いしばる龍樹。

 そしてある考えが脳裏に浮かぶ。

 ――こんな時、きっとあいつなら

「それじゃあなガキ」

 銃を持つ男が何かを言った。その背後ではスーツ姿の大男に口を塞がれているミレーナが顔を真っ赤にして叫んでいる。

 走馬灯とでも呼ぶのだろうか。

 それら目前で起こる状況がやけにスローモーションのように感じられる中、龍樹は他人事の様な感じでぼんやりと考える。

 ――こんな時、きっとアテナなら連中をなぎ倒し、ミレーナを救い出せたのだろう、と。


 ガラガラガラ、と横開きの扉が誰かの手により開かれた。


 かみ合わせの悪い寂れた音と共に、薄暗闇の空間へと光が入ってくる。

 誰だ、と男Aが振り返った。彼に釣られるように他の連中も入口へと目をやり、地面に突っ伏す龍樹もその例には漏れない。

 ただ、眼が腫れて視界が塞がれているためよく見えなかった。

 それでも誰かが入り口付近に立っているシルエットだけは確認できた。

 マフィアの中の一人が何かを叫ぶ。

 今しがた龍樹へと向けられていた銃口が、入り口の人物へと照準が変わった。

「何だお前は」

 突如入り込んできた謎の人物に警戒心を露わにしながら、男Bは銃を構える。

 その人物は何も答えない。

 銃を向けられているにも拘わらず、無言のまま一歩を踏み出したかと思うと、ゆっくりと男達の元へとやってくる。

 そのあまりにも堂々とした足取りにマフィア達は立つ尽くす事しかできず、やがて女はマフィア達と十メートルも無い距離で立ち止まった。

 磨き上げたように光る碧眼をぎょろぎょろと動かし、地面に転がる少年を、抑え込まれ涙を流す少女を、力を振りかざすマフィア達を走査するように見て、どうやら状況を把握しようとしているようだ。

 金髪碧眼ツインテール。頭にはなぜか小さな冠を被っている、不思議な容貌――そこで男達は一斉に思い出す。

 確か、カッサローニの元へと侵入した人物像はそんな特徴ではなかったであろうか。

「お前、なんでここに!」

 咄嗟に銃を構え、問いただす。

 しかし女は銃を突きつけられても身じろぎ一つせず、突然大きな声を上げた男をその碧眼で眺めている。

 命が危険に晒されているにも関わらず正常な顔をする人間。

 その常人離れした一連の動作に気味が悪くなる男B。

 彼だけではない。

 他の二人も立ち尽くす女を食い入るように見据え、底知れぬ不気味さに思わず後退りする。

 なるほど確かに普通の者ではない。立ち振る舞いを見ただけでそう判断した男Aは懐に手を忍ばせる。

 そして仕舞っていた銃を掴み、それを取りだそうとした時だった。


「あなた達覚悟は出来ているんでしょうね」


 まるでいたずらをした子供を叱りつける様なニュアンス。その声音にゾク、とマフィア達の背筋が強張る。

 無策では駄目だと男Aは直ちに銃を引き抜き、男Bもいつでも発砲できるよう構える。

 だが女の態度は変わらない。

 それがどうしたと言わんばかりに反応を示さず、ただただ己に警戒心をむき出しにする連中を睨みつけている。

 生ぬるい風がどこからか侵入してきて女の髪を掻き揚げた。それは彼女の内の怒りに呼応するかのように舞い、徐々に勢いを増していく。

 誰かが動けば一気に慌ただしくなるであろう空間の中。

 緊張の糸を切る事に何の決意も示さない調子で、金髪碧眼の女――アテナは、威厳たっぷりにこう言った。

「その子達に手を出した罪は重い。生半可な制裁で済むと思うなよ」 

 碧眼に怒りが垣間見れた次の瞬間。

 高速で鋭い風が、場内を席巻する。

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