↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
妖美なるこの世界  作者: 桂馬
イタリアの闇達
169/261

最後の抵抗

 だらしのない体躯を揺らしながら、カッサローニは通路を駆け抜けていた。

 煙幕を巻かせた場所から車庫までの道のりは近い。

 それこそ数メートル進んである部屋に入ると、車庫へと繋がる出入り口がある。

 ようやっとそこまで辿り着き、必死の形相でその出入り口を開けたカッサローニ。

 シャッターが閉められ光をほとんど通さない空間には、今は見えないが車が三台駐車されている。

 本来なら電気をつけるところだが、この時のカッサローニにはその時間すら惜しい。

 日頃の感覚と何となく見えるフォルムを頼りに、三台あるうちの一番手前にある車へとに飛び乗った。

 真っ先ににダッシュボードにあるシャッターを開くリモコンを押す。

 信号をキャッチしたシャッターはゆっくりと開けていき、生じた隙間からは光が伸びていく。

 カッサローニは次にエンジンキーを差し込もうとする。

 光が伸びているとはいえまだ手元を照らすほどの明るさではない為何度か手こずったが、どうにか差し込み、回すことに成功する。手入れされている車のエンジンは速やかに点火され、密室状態の空間に勢いよく猛りを反響させた。

 その時丁度シャッターは車一台通れるかどうかの開口率だった。

 だがカッサローニは迷わずペダルを踏む。

 初めからフルペダルで発進した車は上部をシャッターで擦りながらも車庫を勢いよく飛び出し、敷地の外へ向かう為にハンドルを切った。

 砂利道を踏みつけながら走る車。

 カッサローニのドライブテクニックは中々のもので、曲がりも車体を傾けながら曲がるという荒業を見せ、スピードを落とす気配は全くなかった。

 全ては例の女を振り切る為。

 とりあえず娘を隔離している場所へ向かって、その後の事はそれから考えるとカッサローニは当面の道筋を立てていた。

 そしてとりあえずそこまでの計画は成就しそうだと。

 窓は防弾ガラスで、タイヤもパンクしてからしばらくは走れるもの。

 七十キロ近い時速と、鍵を閉めたドアなら追い付かれるのは至難の業だし、ましてや中に入り込むなど不可能に近い。 

 それらを踏まえた上でカッサローニの逃げられるという判断は至極当然の流れだったと言えよう。


 だが甘かった。


 敵はそんじょそこらの人間ではない。


 相手が後ろから追いかけてくるとなぜ決めつける。

 相変わらずの速度で建物を並行していく車。その横合いにある割れた窓から何かが飛び出してきた。

 ボンネットがへこむ。

 窓から飛び出し車に飛び乗ったアテナは更に飛ばされないよう姿勢を低くし、カッサローニの目前に位置取る。

 まさかの登場と視界を塞がれた事により焦るカッサローニ。

 どうにかして振り落とそうと蛇行運転をしたり急ブレーキを踏むが、ワイパーを掴んだ女は一向に離れる気配を見せず、右手に持つ銃をフロントガラスへと発砲した。防弾とはいえ至近距離で発砲されたガラスは着弾地点からヒビが入り、カッサローニの目前に結晶のように広がった。

 それでも止まろうとしない車。毎日出入りしている土地勘は相当なようで、草木を掠めようと確実に出入り口へと向かっていく。

 だが外ともなると話は別だ。

 少しの間は大丈夫だろうが、そこから先の道は丸っきり覚えていない。

 実際草木を掠めるような危険な走行をいつまでも続けるわけにはいかず、となればそれまでにボンネットに乗る女をどうにかしなければいけない。

 そう思いカッサローニは安全を等閑視し、これまで以上に蛇行、ブレーキを踏む。

 それは中にいる本人さえハンドルを離しそうなほど大きく揺れ、お世辞にも頑丈とはいえない車体が軋みを上げる。

 これには流石のアテナもバランスを崩し、ボンネットから振り落とされてしまった。どうにかバックミラーに掴まり転落は阻止したが、片手でぶら下がる姿は最早風前の灯。もう一度荒い運転をされれば確実に手を離してしまうだろう。

「しぶとい奴だ」

 それでももうひと押し。カッサローニは目前に現れた曲がり角を見てほくそ笑んだ。

 あそこで振り落とす。そう心に決めた男はこれまで同様ほぼ減速せずに曲がり角へ差し当たった。

 直前までクラッチペダルを最大限に踏み、すぐにブレーキペダルを踏んだ。必要以上の力に地面を噛んだ車輪が轍を作り、排気口からは白い煙が上がる。

 そして曲がり終えるとすぐにクラッチペダルに力を込め、急発進しようとした。

 しかし結果的にそうはならなかった。

 ペダルは確かに踏み、タイヤも高速回転している。

 にも拘らず、車は思った動きをしなかった。

 それどころか視界が傾き、突如襲う浮遊感。

 何が起こっているのか分からず、口を開けっ放しにして驚くカッサローニ。

 原因はもちろんアテナ。

 バックミラーを掴む左手で身体を支え、風を集めている右手を車の底に潜り込ませた。

 そして左折した際の遠心力に合わせそこで暴発、車体を下から押し上げた。狙ったかどうかは定かではないが、威力より面積に重点を置いた風は効率的に働き、車体は面白いほど簡単に傾いた。

 しばらくの間は踏んばりを見せていた車もやがてひっくり返り、手入れされた芝生を滑りながら進み、完全に仰向けになる。

 無情にも空転するタイヤがやけにむなしい。防弾ガラスはひび割れ、地面に打ち付けた場所はあちこちへしゃがり、人類が発明した画期的な利器もこうなってしまえばただの鉄の塊だ。

「痛ててて――くそ」

 へしゃがったドアに蹴りを入れると根っこから外れ、むちうちしたのか、首を押さえながらどうにか外へと出てきたカッサローニ。

 首の他にも痛めた部位はあったが、当然ながらそんなものを気にしている暇など無かった。

 カッサローニが顔を上げると、その目前にはアテナが立っていた。

 威圧する訳でも、寄り添いを見せる訳でもなく仁王立ちという相変わらずのスタイル。

 それが返ってカッサローニをより不安にさせる。

「頼む。助けてくれ。ほんの出来心だったんだ」

 アテナを見上げ、今にも泣きだしそうな声で許しを請うカッサローニ。

 その姿はマフィアを率い、仲間からも恐れられる人間にはとても見えなかった。

 アテナもそんな彼を憐れんだのかため息を吐き、侮蔑するような眼で男を見下げながら、

「あなたって本当に自分の事しか考えていないのね。今まで尽くしてくれた人間に対しての責任感というものがないのかしら」

「責任……感?」

 言葉の意味が分からないと言った具合に、眼を瞬かせたカッサローニ。

 ようするにそれが答え。

 そもそもそんなものを持っている人間が部下を置いて一人で逃げる訳がない。 

「まあいいわ」

 呆れたように目を瞑り、場合ではないと思ったのだろう、瞼を開けた時には、いつもの彼女がそこにいた。

 再びカッサローニを見下げるアテナは、話を本筋に戻す。

「これが最後通告よ。あなたが攫った少女を大人しく返しなさい」

 ここに来て初めて彼女の顔が険しくなった。

 それは裏を返せば本当の最後通告という事。

 その気迫に圧倒され、思わず生唾を呑むカッサローニ。

 これ以上の抵抗は本当に命が危ないと感じ、痛む身体を堪えながら必死に言葉を返していく。

「あ、ああ分かっているさ。ただここにはいないんだ。だから少しだけ待って――」

 虚言ではなく、事実を述べていたカッサローニ。

 そんな彼にアテナの手が伸びた。

 アテナは勢いよく男の襟首を掴むとひねる様に回転し、己よりはるかに重い体格を意図もたやすく投げ飛ばした。

 地面が砂利という事もあってか、今の彼に取っては痛みも結構なものだ。

 打ち付けた背中を抑え、もだえ苦しみながら声にならない声を出すカッサローニ。

 なぜ自分が投げ飛ばされたのか。

 これまでやりたい放題やってきた彼にはその意味が分からない。

 当然ながらそんな彼を考慮する気は全く無い調子で、アテナの横暴な態度は続いた。

「それはさっきも聞いたわ。甘ったるい事ばかり言わないで。自分だけ優遇されると思ったら大間違いよ。例え財産を持っていようと権力を握っていようと世界は平等なの。何だったら今からそれを証明して見せるけど」

 怒りに満ちたその言葉。

 普通の人間よりかは長く生きた分得た教訓とやらを口にしているアテナ。普段は物事に無頓着な態度を取る彼女だが、スイッチが入った時には人並み以上に容赦がない。

 そんなアテナに委縮し、有り体に言えばビビっているカッサローニ。再び迫ってくる彼女に尻込みしつつ、どうにか弁明を図る。

「ま、待ってくれ。分かった、すぐに娘をこっちに連れてくる。だからお願いだぁ。もう暴力は振るわないでくれ」

 震える声で懇願するカッサローニ。

 街の有力者が聞いて呆れる。

 結局この男は自分一人では何もできないのだ。

 多勢になれば強気になり、いざ不利になると弱気になる。そういう意味ではこれほどボスに適任な者もいまい。

 ふくよかな身体で怯える男と、そんな彼を見下す女。

 これでは傍から見ればまるっきり弱い者いじめ。

 アテナ自身あまりいい気はしないようで。

 今一度大きなため息を吐くと、高圧的な態度を少々抑える。

「なら早くなさい。私だって暇じゃないの。出来る事なら、無駄な労力を使いたくはないの」

 と、怯えるカッサローニに悟らせるような言葉を掛けていたアテナの声が不意に止まる。

 原因は後方にあった。

 その大きな身体は気配を消すのに適さない。

 咄嗟に気付き、アテナは横合いへ飛ぶことにより回避を図った。

 すると直前まで彼女が居た場所を丸太の様な太い腕が通過する。

「ツァギール!」

 まるでヒーローの登場を喜ぶ子供のようだった。絶体絶命の中現れた味方なのだから、あながち間違いではないのだろうが。

 先程アテナを痛めつけた大男。

 その男がいつのまにか背後に迫り、そこにいた。

 ぎゃーぎゃーと一人興奮するカッサローニを尻目に、しばらく睨み合う両者。

 やがて緊張を解いたのはアテナ。

 面倒くさそうに眼を瞑ると、屈めていた態勢を起こし、

「次から次へと、よくもまあ邪魔が入るわね。ここまで続くと神頼みも再開したくなる」

 呆れを通り越し、感心さえしている様子のアテナ。

 対照的にツァギールは殺意むき出しで構えている。拳を前に突き出すという王道だが、先程アテナとやりあったあの動きは驚異的だった。

 システマという格闘術。基本原則は折しもアテナの体術と似ており、何なら少なからず取り込んだ部分もあるほどだ。

 つまりは柔対柔。

 そこだけを見ると、パワーと対格差のあるツァギールが断然有利には思えるが。

「俺の蹴りを受けてそこまで動けるとは……正直驚いたよ」

 険しい表情を崩さないツァギール。どうやら中々気難しい男のようで、そういった所もアテナとは通ずるものがあるのかもしれない。

 否、世界の裏を見てきた者同士か。

「ええ。確かに威力のある蹴りだった」

 ツァギールの言葉に対し涼しい顔で返すアテナ。

 彼女は続け様に、

「でもそれだけ。力任せに振るうだけじゃただの空振りと同じ。あなたがどれだけの人間と戦闘を交えてきたのかは知らない。だけど、それじゃ素人にしか通じないわよ」

「何?」

 それは聞き捨てならない、とツァギールの表情が不満そうに歪む。男は戦場をその身一つで駆け抜けてきた傭兵。

 彼にはこれまで五十人近い人間を戦闘殺法で葬ってきた自負がある。

 それを華奢な、しかも女に否定されたのだからその怒りもひとしおだ。

「勘違いするなよ」

 一度で倒されなかったからと言って付け上がっている。

 そう解釈すると、口より先に身体が動くタイプの男は拳に力を込め、

「俺は別にお前を称賛している訳じゃない――自分の詰めの甘さに嫌気がさしだただけさ!」

 今度こそはと、はやる気持ちを抑えずに二メートルを超す巨体がアテナへと飛びかかる。

 歩幅の大きさを生かしあっという間に距離を詰めたツァギール。

 しかし女は焦らない。

 それどころか、予測していたかのように落ち着いた動作で繰りだされた殴打を避けると、トン、トン、と軽快に後退し、その距離を開けていく。

 当然ながらツァギールも追い打ちを掛ける。

 延髄へ手刀、眼球への目潰し、後頭部への殴打。繰りだされる攻撃はどれもスポーツで言う所の禁じ手であり、それが意味するのは本気で生命を断とうとしている証拠。

 が、当たらない。

 掠る防御されると言った次元ではなく、放つ殴打と蹴りはあたかも来る場所が分かっているかのように無駄のない動きで全て回避されていく。

 舌打ちをするツァギール。

 どうやら女の余裕はあながちハッタリではないようだと判断する。

 幾度となく放っていく殴打や蹴りがことごとく躱されていき、その顔は相変わらず涼しい。

 何よりも動きが先程までとは決定的に違うと、本人が気づかぬほどの焦りが見え始める。

 その燻りは時間を追うごとに膨らんでいき、流石に一発も掠らないのはおかしいのではないかと男の額から運動によるものとはまた違う汗が伝い始める。

 だからといって動きが鈍っていた訳ではない。

 流石は現役の傭兵で、例え消極的になりそうな状況に直面してもそれを表に出さず、傍から見れば容赦のない攻撃を繰り広げ続けている。

 ようは相手が悪かったのだ。

 男の攻撃パターンを分析し終えたのか、徐々にさく裂し始めたカウンター。百戦錬磨の経験を持つツァギールでもアテナの戦闘スタイルは初めてなのか、攻撃は面白いように決まっていく。

 だがそこもプロと言えよう。

 鼻に殴打を食らい鼻血を出そうが、急所を蹴られ痛みに顔を歪めようが、ツァギールの攻撃は止まらない。

 理由はアテナの単純な筋力だ。

 いくら絶妙のタイミングで攻撃を繰り出そうと、一般人ならともかく、超人的な肉体を持つ者に与えられるダメージは限られてしまう。

 これでは倒すのに時間が掛かり、カッサローニを追い詰めている状況を鑑みるとそれは好ましい事ではない。

 そこで役に立つのが異能の力だ。

 放たれた殴打を今一度避け、カウンターをさく裂させたアテナ。いくら倒れないからと言っても、ダメージは全く無い訳ではない。ツァギールの身体が若干仰け反ると、男はその態勢のまま蹴りを放ってくる。

 一連の動きはやはりアテナに通ずるものがある。

 二メートルを超える身体でそれは流石の一言だが、しかしどうやら利点という意味では不利なようで、放たれた前蹴りをアテナは容易く躱す。

 そしてしゃがみ込んだかと思うと、ツァギールの一本状態の脚を両足で蹴る。回転を加え威力を纏わせた攻撃に、不安定な態勢だったツァギールはバランスを崩し転びそうになる。それを地面に手を付け、体操選手顔負けのアクロバティックな動きで阻止すると、ツァギールは再び攻撃を繰り出す。

 素早く立ち上がり踵落とし。

 身体を捻りこれを躱したアテナは降り立った脚の膝頭を踏みつける。

 ツァギールもこれは効いたのか、ここに来て明確な苦悶を表情に浮かべる。だが動きは止まらず、素直な打撃では駄目だと判断し、とりあえず動きを封じようと両手を伸ばすツァギールだったが、これも駄目。

 伸ばした手と手の間を逆さ向きの脚が通過する。顔面へもろに踵を食らうと、ツァギールの鼻は更に出血した。

 が、止まらない。

 幾度となく避けられる攻撃。嫌な所ばかりを衝かれる煩わしさから、ついに我慢の限界が来たツァギールは、


「ウガアアアアアアアアアアアアアアアアア!」


 怒り狂った咆哮を上げながら攻撃を連続させる。

 最早防御を無視した乱雑な暴力。先程までとは明らかに違う力任せな運びは、しかし全て空ぶっていく。

 単調な攻撃ほど彼女に取って避けやすいものは無い。

 アテナは眼球を動かし、並外れた動体視力で全ての軌道を読む。ツインテールの動きすら計算に入っているのか、生き物のように舞う髪は捕まれない場所へと身を捩(よじ)っており、決して足枷にはならない。

 そろそろ頃合いだろう。

 ピンポイントで同じ場所へカウンターをさく裂させたアテナ。痛みはちくりとするだけでも、身体は正直で、ダメージが膝にきたのかツァギールの腰が下がった。

「凝縮(condensazione)」

 アテナの呪文に、世界の理が忠実に従う。

 今度のはただの風ではなかった。

 地面が砂利という事もあり、抜け目ない彼女はその地を利用する。

 集められた風に混じる小さな石達。数百に及ぶ数のそれが渦を巻く姿はいかに風の速度が高速で規則的かが視覚出来た。

 腕を引き遠心力を付けると、アテナは方膝をついたツァギールの喉元へとそれを押し当てた。

 複数の鈍い音が木霊する。

 喉へ無数の堅い石を押し当てられたツァギールは息が出来なくなり、その反動として口から涎を垂らしてしまう。

 喉元を両手で押さえ、どうにか気道を確保しようとする。しかし小石に叩かれた喉仏は焼けるような熱さがして、全く冷める気配が無い。声を出そうとしても出ず、焦るカッサローニ。この時彼は目の前にいる女の事など気にしている場合ではなかった。

 だから気付かなかったのだろう。

 敵が新たな脅威を生み出し、振るってきたという事に。

 ツァギールが息の軌道を確保しようとしている隙に、アテナはひっくり返った際に取れた車の部品を手にしていた。

 正確に言えば浮かせていると言った方が自然なのかもしれない。何せその部品の重さは十キロ近くある。筋力のある物なら振り回せたかもしれないが、事それに関しては乙女のアテナには無理のある芸当。

 そこで例のごとく渦の力で引き込み、持ち上げていた。

 アテナが迫りそんな凶器を振り被ったところで存在に気付いたツァギールはギョッとする。

 眼を見開きまずいと思ったが、遅かった。

 ゴン、という痛快な音がする。

 直径二十センチの鉄の塊をまともに受けた巨体は今度こそ倒れ込み、仰向けで大の字になった。

 痙攣しているのか身体がぴくぴくしている。白目を剥き起き上がる気配のないツァギールを見たアテナはとりあえずは大丈夫と判断したのか、そこで彼から視線を別の場所へ移す。

 わずかな希望を絶たれ唖然とした表情をする、カッサローニへと。

 男の元へと歩み始めるアテナ。その速度は心の整理をつける猶予を与えるかのようにゆっくりだ。

 ツァギールが負けたという事実がよほどショックなのか、結局アテナが目前に来るまで男は唖然としたままだった。

「残念だったわね。思惑通りにいかなくて」

 嫌味たっぷりで放たれた言葉で我に返るカッサローニ。思い出したように後退し始めるが、それ以上に不服の方が強い様だ。

 カッサローニは目前の済ました顔をする女を睨みつけながら、

「お前、まさかさっきはわざと」

 カッサローニはここにきてようやく気付いた。当時彼は直接現場にいた訳ではない。だがツァギールが侵入者を叩き伏せたと聞いた時、それは一方的だったという話だったはず。

 しかし実際はどうだ。

 あの殺人鬼と呼ばれた男がまるで子供のようにあやされ、あげくには地面へと大の字になって倒れている。

 恐らく何かしらの意図がありわざわざ囚われたフリをしたのだろう。

 その答えとやらは、すでに出ている訳なのだが。

 カッサロー二の不安にアテナは淡々と答える。

「ようやく気付いた。臆病者のあなたに会うには、怪我を負い危害を加えられないという認識を植え付けなければならなかったから」

 そういう事だった。

 アランと別れたのも、ツァギールの攻撃をわざと受け気を失ったのも、全ては親玉であるカッサローニに辿り着くための手段。

「中々面倒だったわよ。広大な敷地に迷路のような構造。他の連中をなるべく発見されないような場所で気を失わせなければならなかったし、あの男の馬鹿力は流すのも一苦労。お陰で今も体中が痛いわ」

 嘘のような話だった。

 だが、それが嘘でないという事は現在目の当たりにする光景が物語っている。

 自慢の豪邸を背景にうん千万する車はひっくり返り、整備された砂利道の上には戦闘のエキスパートである大男が倒れ込む。

 目前には掠り傷はあれど目立った外傷はなく涼しい顔で佇む女がいて、その磨き上げたような碧眼は男を見据える。

 茫然自失するカッサローニ。開いた口は塞がらず、どういう動きを取ればいいのかが全く分からない。 

「もう諦めなさいカッサローニ」

 諭すような切り口だった。

 事実そうだったのだろう。名前をわざわざ呼んだのはそれがマフィアのボスではなく、カッサローニという一人間に対しての問い掛けだったから。

 ポッケに手を入れる様はもう終わりにしたいという欲求の現れだから。

 呆ける彼を見下ろすアテナの眼にはどこか慈悲の様なものが混じり、こんな時にも感情的にならないのだから、彼女のお人よしにも困ったものだ。

 そんな殊勝な心がけに全く気付かない様子のカッサローニ。瞼を瞬かせ言葉の意味を探そうともしない男に対し、アテナはこう告げる。

「武器商売に人身売買。麻薬取引に違法斡旋。あなたもそれなりに裏の世界を生きてきたから分かるはず。そんなものは本当の闇ではない。世の中には言葉で一国を混乱させ、その指一つで世界を壊す事の出来る人間だっている。そういった連中を私達は相手にしている。末端の勢力であるあなた達とは、立っている土俵が違うの」

 勘違いしてもらっては困るが、マフィアという組織も立派な闇だ。

 その手の話しには幾度となく顔をのぞかせ、一部の地域では切っても切れないほどの存在を誇り、世界における勢力範囲は一般人の知るところ。

 だがそこにも様々なヒエラルキーが存在する。

 何もせずに一生遊んで暮らせるほどの潤沢な財力を持っている組織もあれば、今日の飯に困るようなじり貧の組織もある。

 カッサローニが擁する組織はそれなりに体を成しているが、それでも中ほど。

 世界の中枢や大規模な危険思想団体を相手取ってきた彼女にして見れば、自分の身を守る事しか考えない様な奴にまとめられる組織など、まだまだ格下なのだ。

 なるほど、とカッサローニは静かに目を瞑る。

 抵抗しても無駄という事実が男の肩を楽にし、虚脱したように俯くと、相手が悪かったようだとようやく気付く。

 これまで幾度となく彼が取ってきた行動は確かに自分の身を守る事。周りの部下達を盾にし、安全地帯ですら知らんぷりをして、不干渉を貫いてきた。 

 つまり、これはそのツケなのだろうとカッサローニは解釈する。

 結局そうやって逃げてきた結果が今の状況を作り出し、いざ対峙すると意図も容易く八方塞がりになる。

 一般的ないざこざなら防げるそれなりの厚さを誇った盾。

 その盾を突き破る勢力が出てくれば、足掻くことすらも許されない。

 どうする事もできなくなったカッサローニは外傷こそ掠り傷だが、心はすでに折れていた。

 言葉らしい言葉を発さず、投げ出された人工芝の上で胡坐をかき、大きくため息。昼下がりの太陽は雲に見え隠れし、自然を取り込むために植えられた木々の間を爽やかな風が駆け抜け、どこか遠いところからはサイレンの音が聞こえてくる。

 それは段々と近づいてきたかと思うと、近場で止まった。

 続いて聞こえてきたのは無数の慌ただしい足音と怒号の様な声。 

「動くな、警察だ!」

 出入り口のある正門から入ってきたのか、曲がり角を曲がりアテナ達を見つけるや否や、目出し帽を被った男は銃を構えた。

 彼が威嚇している間にと、その後ろからは同じく目出し帽を被った重装備の人間たちが流れ込んできて、アテナ達との距離を一気に詰める。

「これは一体……」

 眼球を動かし、辺りを探るアテナ。

 男達はカッサローニだけではなく彼女にも例外なく銃を突きつけていた。車がひっくり返り、大男が大の字で倒れているマフィアの邸内で堂々と立ち尽くしていたのだから、仕方がないと言えば仕方がないだろう。

 ともあれ、そこから窺うにどうやらこれは彼女が誂えた展開ではないようだ。 


「その子はマフィアの一員じゃない」


 聞き覚えのある声だった。

 その声にゆっくりと振り返るアテナ。

 声の主はやはり見知った顔で、ポロシャツにチノパンというやけに軽装。

 今はアルファーノ家にいるはずだったミゲルは、足早にアテナの元へと近づく。

「どういう事?」

 先に質問したのはアテナだった。彼女に銃を構えていた連中はミゲルの言葉で標的でない事を知ると、一斉にその場から離れ、真の敵へと走り出す。

「見た通りさ。決定的な証拠が無いと、警察は動かない。だからその決定的な証拠を突きつけた訳さ。ミゲルという、カッサローニの片棒を担いだ男をさ」

 砂利を鳴らしながら歩むミゲルは、アテナの前で立ち止まった。

 その顔は全てを吹っ切った、あるいは覚悟を決めたような凛々しい顔つきで、ミゲルはそこに立っている。

「ダニエル達もすでに保護されている。後はカッサローニを捕まえて、ミレーナを救い出すだけだ」

 ミゲルはやけに落ち着いていた。

 慌ただしい現場を眺める様はまるで外で見る最後の光景を目に焼き付けようとしているかのように見え、とても哀愁が漂っている。 

 その現場はといえば、すでに制圧済みであり、この場において仕切りを任されている警部補が威勢よく罪状を読み上げる所であった。

「アルベルト=カッサローニ。お前を略取・誘拐・およびその他違法取引における反社会的行為の主犯格として逮捕する。抵抗はせずに大人しく同行してもらうぞ」

 懐から取り出した逮捕状を見せつけるように差し出し、鬼の首を取ったような様子の警部補。現にそうなのかもしれないが、その鬼とやらはすでに牙を抜かれている。

 カッサローニのそこだけ怒りのこもった眼にはミゲルの姿が映り込んでおり、なぜこれまでの悪行がバレたかなど、皆まで聞かずとも分かっている様子だった。

 ガチャリ、と、男の手首に冷たい鉄の輪が掛かかった。

 その瞬間男の顔が一気に老け込んだように見える。

 納得のいかなさそうなカッサローニ。自分は直接何もしていないのになぜこんな事態に陥っているんだと、一種の現実逃避すらし始める。

「お前にも一応言い分はあるだろう。後の詳しい話は署で聞く。正直に話せ。そうすれば罪は少しでも和らぐかもしれない」

 両脇を抱えられ立たされたカッサローニに警部補が問い掛ける。もちろんそれは被告人を大人しくさせる手段であり、決して同情から来るものではない。

 土地柄彼はこの道数十年のベテラン。人間がどういう言葉を掛けられば揺らぐのか。それをよく理解している。

「連れていけ」 

 警部補の棘のある声音を受けると、カッサローニの両脇にいる二人の警官が彼を連行する。最早抗う気力すらないカッサローニは、しゅんとした様子でそれに従う。

「待って」

 忘れてはならぬと上げられた声。言葉を聞いた連中は皆立ち止まり、その声の主の方を見た。

 アテナはまだ終わっていないと警部補に告げ、

「拉致された少女がまだ戻ってきていない」

「何?」

 言葉を受け驚く警部補。少女が誘拐されているというのはミゲルから聞いている。彼の話から推測するに、誘拐された少女はカッサローニ邸で監禁されているとばかり思っていた。

「ここにいないのか?」

 ミゲル自身そう思っていたので、驚きを隠せない。

 警部補も警部補で太く整った眉を曲げ、どういう事だと不思議がる。しかし言われてみれば他の連中から少女を保護したという一報が無い事に気付くと、ようやくカッサローニへと向き直る。

 そして彼が娘はどこだと訊くよりも先に、

「ミレーナはどこ」

 連行されるカッサローニの元まで至り、眼で威圧するアテナ。

 低い声は明らかに怒りがこもっており、その迫力には、脇にいる二人も今にも殴りだすのではないかと少しばかり身構えていた。

 半ば放心状態のカッサローニは首をゆっくりと動かし彼女を見ると、気の無い声で返答する。

「ああ……あの娘なら工場にいるさ」

 まるで他人事のような振る舞い。

 続きの言葉があるかと思ったが、どうやら相当追い詰められているカッサローニは何も口にしない。

 性根の腐ってる彼の事。今も誘拐した少女より、自分のこれからの処遇が気になって仕方がないのだ。

 その後もどこの工場にいるのか、本当に無事なのかなど色々と問い掛けてはみるものの、どれも要領を得ない返事ばかり。

 普段は冷静を保つアテナも剣呑な目つきで歯噛みし、流石に苛立ちを隠せない様子だった。

 本来ならもっと強引な手段を取りたい所だろう。しかし少女の身柄が相手の手の内にある間は手を出せない。 

「人質に取った少女を今すぐ解放するんだ。これ以上罪を重ねてお前に一体何の得になる」

 これでは埒が明かないと判断し、警部補も話に割って入る。年端もいかない少女の命運が掛かる場面。周りにいる連中も包囲網を形成しつつ、静かにその成り行きを見届けている。

「……娘の居場所を吐けば俺の懲役は減るのか?」

 覇気の無い目玉をぎょろりと動かし、確認を取るカッサローニ。

 立件された案件がそれだけならまだしも、マフィアのボスともなればそんな事で懲役が減ったとしてもさほど変わりはない。

 しかし長年の経験が培った交渉術、少しぐらいの駆け引きをその警部補は弁えている。

「ああ。何とか交渉はしてみる。だから早く。何なら場所を教えてもらえば我々がそこへ向かう」

 マフィアのボスに対して、やけに厚遇だなとカッサローニは思った。

 きっとこの警部補は今回の件で随分と点数を稼ぐだろう。それにより出世していい暮らしが出来るようになって、悪い人間を捕まえた英雄として讃えられ、きっと充実した人生を送るのかもしれない。

 カッサローニ自身、そういう人間になりたかった。 

 だがなれなかった。

 運動神経が悪く気弱で神経質なスペックなのだから必然と言えば必然だろう。

 その劣等感が彼を悪への道と歩ませ、気付けば後戻りが出来なくなっていた。

 どうせ中途半端な正義になるのなら、本物の悪党になった方がよほど格好がいいという振り切った考え。

 その人生もようやく終わると、カッサローニは心のどこかで安堵する。

 正直しんどかった。

 マフィアの道を進み始めてからというもの、いつ何時命を狙われるやもしれない恐怖で、二十歳の時にはすでに大半の毛と別れを告げた。ストレスから食欲は旺盛になり、それが祟り身体はボロボロブクブク、今も薬を定期的に飲まなければ健常を維持できなくなってしまっている。

 きっとマフィアのボスともなれば刑務所で用意されるのは個室だろう。看守が異変が無いかどうか定期的に見回りに来て、それを考えるとわざわざ危険を冒してまで命を狙いに来る輩もいないはず。服役中は大人しくして、外に出れば新しい人生の始まりというのも悪くない、とカッサローニはあれこれ考える。

 気付けば男は携帯を取り出していた。

 掛けられた手錠をジャラジャラと鳴らしながら耳に当てられたそれは床の抜けるボタンを搭載していたり煙幕を出したりしたあの携帯ではなく、正真正銘キャリア契約のもの。

 電話を掛けた相手は決まっている。誘拐した少女を見張っている部下だ。

 よほど普段の教育が行き届いているのか、相手はすぐに出た。

「俺だ。娘は無事か?」

 警部補の減免という誘惑に打たれ、素直にそれに従った。

 脈略的にそう思ってもおかしくは無いのかもしれない。

 しかしどうにも素直過ぎると警部補は思っていた。

 不審に思っているのは彼だけではないだろう。

 隣にいるアテナも妙な違和感を持っているのか、勝手に通話し始めたカッサローニを怪訝な表情で見ていた。

 電話を止めさせた方がいいかどうか。

 その選択に迷っているような感じだった。

「お前は確か俺が何もできない臆病者と言ったな」

 やがてカッサロー二がそんな事を言い始める。

 始めは電話の向こう側に言っているのかと思ったのか反応を示さなかったアテナだが、カッサローニの視線と不敵な笑みで、それは自分に発信されているものだと気付いたようだ。

 いったい何が言いたいんだと目を細めるアテナに対し、カッサローニは続け様に、

「一つ教えておいてやる。俺は確かに臆病者かもしれない。だがなあ。臆病者だからこそ培ってきた世渡りの極意だって心得ている。プライドや良心を見限った結果。それを今からお前に見せてやるよ」

 不敵な笑みは、憎しみの歯噛みに変わる。

 そこでようやく男が何を言おうとしているのか気付いたようだ。

 目を見開いたアテナは咄嗟に手を伸ばすが、それはあろうことか暴力を警戒していた二人の警官に止められた。

「今すぐ通話を止めさせて!」

 その動機を大きな声で短く伝えるが、もう遅い。

 脇の二人からの拘束が解けたカッサローニは少しばかり後退して、

「娘を連れて遠くへ逃げろ。そして一時間後に俺からの連絡が無ければ即座に殺せ」

 必要な事を言うだけ言うと、一方的に電話を切ったカッサローニ。そしてその携帯を勢いよく地面に叩きつけると、へしゃがった端末へ追い打ちを掛けるように更に踏みつけた。

 突然の行動に警部補達は驚き、戸惑っていた。ただ一人その行動原理を理解するアテナだけが、大胆な作戦に打って出た男を睨みつける。

 してやったりと言わんばかりに高笑いをするカッサローニは繋がった両手を震わせながら、

「ハッハハハハハハー! ざまあみろ! これで娘は俺の力無くして取り戻せなくなった!」

 一抹の不安はあるのか、気分を害するような笑い声を上げながらも汗を拭きだすカッサローニ。

 男の興奮状態は収まるどころか高まる一方で、これが先程述べた追い詰められた臆病者の本領という事なのだろう。

「さあ取引をしようぜ正義の味方さんよお」

 近づこうとした警官を手錠に繋がれた腕を振り回す事で威嚇したカッサローニ。絶体絶命の状況で吹っ切れた男は、次にこんな要求をする。

「まずはこの手錠を外せ。そして俺をここから逃がせ。それが娘を解放する条件だ。これ以外のものは一切認めねーからな!」

 興奮に拍車が掛かり、カッサローニは息を荒げる。これではまたいつ発作が起きてもおかしくないが、そんな事に構っている場合でないのは確か。

 まるで今から自爆でもしそうな勢いのカッサローニを見て、その場にいる連中も下手に動けずにいた。

 あれこれ説得を試みてもカッサローニは聞く耳を持たないだろうし、追い詰められた男はまた妙な事を仕出かす可能性だってある。

 かといってこのまま好き勝手やさせる訳にもいかない。

「捉えろ!」

 特殊部隊の中でリーダー的存在の男が、慎重に判断を下す。

 号令を受けた二人の警官は速やかに行動へ移そうとした。

 しかしそれよりも早く動いた影。

 風のような速さでカッサローニへと詰め寄ったアテナは、男の胸ぐらを掴み、大外刈りを決め込んだ。

 抵抗する暇すら与えなかった。

 ただでさえ無理だというのに、手を塞がれた状況でカッサローニが受け身を取れるわけもなく、背中から落ちた男は痛みから苦悶の表情をする。

 アテナは地面に叩きつけたカッサローニを見下しながら、

「ミレーナを解放しろ」

「が、あ、は……だから言ってるだろ。他の方法は受け付けないと」

 いまだうまく息を整えられず発せられるカッサローニの言葉を受けると、アテナは彼の顔面を踏みつけた。新たに付与された痛みにカッサローニはまた悶絶し、塞がった両手で顔を覆うと、その場をゴロゴロと転げまわる。

 これには周りにいた警官たちも割って入り、彼女に落ち着くよう促す。

 男達に肩を抑えられるアテナ。それでも怒りが収まらないようで、暴力を振るおうとはしないもののその目は好戦的。睨まれたカッサローニも鼻血を手で押さえながらひっと怯える。

「む、無駄だぞ。そんな事されたって絶対に娘は解放しないからな。嘘だと思うならもっと俺を殴ればいい」

 警官に守られているから大丈夫と、強気に出るカッサローニ。もちろん内心はびくついており、挑発にアテナが前のめりになると、また情けない声を漏らした。

「おい。携帯基地局に問い合わせて発進電波を逆算できないのか」

 リーダらしき男が部下に聞く。部下の頭にもその考えはあったらしく、答えはやけに早かった。

「出来ない事も無いでしょうが、手続きに時間が掛かり過ぎます。おまけに相手の端末も特定できないとなると、最低でも一日は掛かるかもしれません」

「場所の手掛かりになるようなものは」

「まだ見つかっていません。それに先程から部屋中を捜索していますが怪しいモノはおろかパソコンの履歴すら消去されていて、そもそも残っているかどうかも怪しいです」

「くそ。ならやはりこいつに吐かせるしか方法がないようだな」

 言って、地面で座り込むカッサローニに視線を合わせる特殊部隊のリーダー。釣られるように他の面々も男を見る。アテナを止めた手前だが、暴力も辞さない姿勢だ。 

 しかし身の危険を感じ取ったのか、カッサローニはその方法に対しての非合理性を説き始める。

「待て。言っておくが俺も奴の番号を記憶している訳じゃない。おまけにどこか遠くへと命じただけで、それがどこなのかはまでは把握していない」

 どこまでが嘘なのかは分からない。だが男も逃れられるかどうかの瀬戸際。ちょっとした暴力で、全てが解決されるとも限らない。

 男が発言してからまだ五分も経っていない。だが後五十分ほどしか猶予が無いと考えれば、あれこれ試す時間はあるとは言い難い。

 何かいい方法はないだろうか。それを考える為に終始黙り込んでしまう面々。

 やがてリーダーの男が部下に命じる。近辺に捜査網を敷き、怪しげな車や人物がいないかどうか検問しろと。

 どこか生気のこもっていない命は、その作戦の効果が薄いと踏んでいるから。

 具体的な場所が分からない以上どこに要点を置けばいいのか分からないし、あまり大規模にやりすぎると返って相手に有利に働いてしまう。

 何よりも一時間というリミットが、今の彼らには重く圧し掛かっていた。

 他に何か出来る事は無いだろうか。

 アテナもそれを考えているのか、意味もなく辺りを見渡し、インスピレーションを探しているようだ。

「アテナさん!」

 とそこで、今あまり会いたくない人物が近づいてきた。

 バツが悪そうな顔で振り向くアテナ。

 ダニエルだ。

 誘拐され、今命の危機が迫っている少女の父親。

 その隣にはロニーの姿もあり、二人とも走ってきたのか息を切らし膝に手をついている。ミゲルが二人は無事だと言った以上、彼らは警察が駆けつけてくれた事には気付いているだろう。

 となれば、きっと娘も助けられたと安堵したはず。

 そのはやる気持ちが彼らを走らせ、一刻も早く吉報を聞きたかったのかもしれない。

 しかし残念ながら現実はそう甘くない。

 それは下目のアテナを見れば分かる事だった。

 言いにくいだろうが、言わなければ。

「ダニエル。落ち着いて聞いて。実はミレーナが」

「これを見てくれ!」

 残酷な知らせを口にしようとしたアテナを制して、ダニエルが翳(かざ)したのは携帯電話だった。

 床が抜けるボタンが無ければ煙幕を吐き出すボタンも無いごく普通の携帯電話。

 アテナは機械音痴だ。

 お爺ちゃんお婆ちゃんでも通話くらい出来るこのご時世、文字入力どころか電話帳すら開けないまさに絶滅危惧種。

 そんな彼女でも画面に表示された文字ぐらいは読める。

 イタリア仕様の携帯に表示されていた文字は日本語だった。機械音痴の彼女は知る由もないが、画面の上部には付属ファイルが添付されている。

「漢字が使われているから恐らく龍樹くんからなんだろうが読めなくて。君ならどうだい。一体ここにはなんて書かれているんだい」

 メールを送ってきた相手が龍樹というその読みは当たりだった。

 焦っていたのか文字化けを起こしたのかは知らないが間違った言葉遣いで、目がちかちかするほど明るい光を放つ画面にはこう打たれていた。


『みれーなはここにいり』


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。