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妖美なるこの世界  作者: 桂馬
イタリアの闇達
167/261

その女の弱点

 カッサローニ邸・一階通路。


 着地点である書物から飛び出し、息を切らしながら駆け抜けていくカッサローニはしきりに後ろを気にしている。

 口からは涎が垂れ、足の筋肉は痙攣。久方ぶりの運動に身体はすでに悲鳴を上げているが、足を止める訳にはいかなかった。

 直接的な姿は見えない。

 しかしただでさえ強い警戒心は必要以上に周りの音に反応し、今まさに背後にまで迫っているかのような錯覚を感じさせる。

 あながちそれは間違っていなかった。

 走りながらもう一度後ろを振り向くカッサローニ。

 ほぼ直線的な道筋のそこに女の姿は無い。

 これにはカッサローニの早鐘を打つ心もほんの少しばかり綻びを見せた。もしかしたら逃げられるのではないかという希望を見いだせた。

 それも束の間。

 後ろを向きながら走っていた男は何かに躓き、ふくよかな身体は盛大に転んだ。

 その際顔を床へと打ちつけてしまい、カッサローニは脚をジタバタさせひどく痛がった。

 それから自分をこんな惨めな目に合わせた原因は何かと確認する。

 そして怒りに満ちていたその表情は、すぐさま驚きへと塗り替えられる。

「どこへ行くのかしら?」

 女は問い掛ける。

「ミレーナはまだ返してもらっていないけど」

 腕組みをし、見下すような視線を当てる事で力の差を誇示するアテナ。

 彼女は通路の脇にある部屋に先回りし、カッサローニを待ち伏せていた。

 もしかするとここに来るかもしれないと踏んでいたからだ。

 そして読み通りやってきた彼に足を掛け、男は面白いように転んだ、という訳だ。

「良かったわ。あなたがただの臆病者で」

 何とも皮肉気に言うと、未だに尻もちをつくカッサローニへと近づく。

 男は侮辱的な言葉を受けた事に対して怒る訳でもなく、むしろ今の状況に恐怖すら覚え、近づいてくるアテナに恐れをなし後退りする。

「ま、待ってくれ。娘は返す。返すから」

 手の平を前に掲げ、許しを請うカッサローニ。

 企みがあるかどうかはさておき、これにはアテナも今一度足を止める。

 そして怯えるカッサローニを観察するような間を開けてから静かに告げる。

「なら早くここへ彼女を連れてきなさい」

 場の空気が凍ってしまいそうなほど冷徹な物言い。

 事実、必要ないと判断したのかなぜか銃こそは持っていないが、彼女の高い身体能力を目の当たりにしているカッサローニからすれば背筋が凍る。

「分かった。すぐに仲間へ連絡してここへ連れてくるよう命じ――」

 言いながら慌てて服の内ポケットから携帯を取り出すカッサローニ。しかし取り出したと思った瞬間、それは手からすっぽ抜けた。

 呆気に取られ、瞬きをするカッサローニ。

 突然の出来事に思考が追い付いていない様子の彼に対し、携帯を奪い取った女はその行動の意味を説明する。

「妙な真似はしない事ね。この携帯にはまだ何か仕掛けがあるんでしょ」

 奪い取った携帯をなぞる様に見るアテナ。

 ようは警戒しているのだ。

 先程のように妙な仕掛けを作動される事に。

 カッサローニにもその気持ちは分かるはず。

 一度欺かれた人間がまた同じ挙措を取ったのだから警戒するのは当然。むしろ人を信用しない質の彼なら一度でさえ許さないはずだ。

「ならどうしろっていうんだ」 

 ただ人質である少女がここにいないのは事実。そして少女を監視する部下と連絡を取る方法は現状その携帯しかない。

 アテナもそこには一定の理解があるらしく、素直な疑問を呈するカッサローニに対し、考える間を開けた。

 手にする携帯を思うところありげに見ている間に過ぎ去る時間。

 十秒ほどだろうか。

「私が操作するわ」

 重大な決意をしたかのような切り出し方だった。

 実際そうだろう。

 彼女は子供でも扱えるような家電製品すら扱えない超機械音痴。

 そんな人間があらゆる機能を兼ね備えた利器であるところの携帯電話を操作しようというのだから、その無謀たるや相当な葛藤があったに違いない。 

 もちろんアテナが機械音痴である事をカッサローニは全くもって知らない。

 彼女の発言に全く違和を感じる事もなく、軽く肩を落とす。

 やはりこの女は抜け目がないと感心さえ覚えるカッサローニ。ここは素直に要求に応じるしかないとさえ思うようになり、完全に意気消沈していた。

「さあ、まずはどうすればいいのかしら」

 携帯を振りかざし、催促するアテナ。

 機械を操るという彼女にとっては難題な状況に心が急いているのか、仁王立ちの身体はどこかそわそわしており、それがカッサローニにとっては苛立っているように見えた事だろう。

 これ以上刺激してはいけないと判断したばかりのカッサローニ。すぐさま答えなければと、彼女の言葉に素直に応じる。

「アドレス帳を開いてくれ」

 観念したのか目を瞑り、弱々しくそう言ったカッサロー二。機種は違えど、幅広い世代に普及した昨今、携帯のアドレスを開くのはそう難しい事ではないだろう。

 だからこそ彼も今のような言い方をしたのだろうし、表情にも諦めが入っている。

 こうなれば詰み。

 ここまで努力の甲斐あって、やっとこさマフィアのボスを追い詰めた。

 普通ならそんな展開になっただろう。

 だが前述したある一つの問題がそれを阻む。

 何とか頑張っては見たのだろう。

 しかし如何せん未知なる領域。

 言葉の意味は分かっているのだろうが、それを実施する方法が皆目見当つかないようだった。

「どのボタンを押せばいいのかしら」

 一般人ならまず表示しないであろう携帯の画面を見ながら小さな声で言ったアテナ。

 それを受けたカッサローニは眉を潜める。

 ボタン? という言葉の端に妙な違和感を覚えつつも、あまり刺激してはいけないという理念に則り、とりあえず答える。

「本の様なマークを押せばいい。場所は確か左上の方だ」

 カッサローニの言葉を受け、眼を動かせるアテナ。彼の言ったボタンを見つけたのか、これかと呟き、それを押す。

「それで、次は」

 間髪入れずに先を促すアテナ。

 ここら辺りでカッサローニの不審も形を帯び始める。

 その気持ちは本人が思っている以上に表情へ出ており、細めていた目はいつしか勘ぐるような鋭い目になっていた。

「……スクロールをしてくれ。そうすればそこに名前があるはずだ」

 ゆっくりと慎重に、探りを入れるカッサローニ。

 言葉を受けたアテナはというと、目を瞬かせていた。そこには自信に満ち、先程まで強面の男達をばったばったとなぎ倒した時とはまるで別人な姿があった。

 考えるような間を開け、やがて彼女は言う。

「スクロール? 一体何を巻くのかしら」

 まさかの解釈に口が開けたままになるカッサロー二。

 そしてそこで彼女の機械音痴に気付いた。眼には消失していた光が徐々に戻り、口元は知らずと緩みそうになる。

「あ、ああそうだ。その前にやらなきゃいけない操作があった」

 表に出そうになった感情をグッと押し留めるカッサローニ。

 この時から頭の中にイメージで携帯を開き、今アテナが見ているであろう画面とリンクさせる。

 そしてどれそれのボタンを押せばいいと言い始めた。

 彼女は表向きは何とも思っていないような無表情だが、内心はお手上げなのだろう。

 最早委ねる事しか方法が思いつかないのか、カッサロー二が述べるボタンをぎこちない動作で押していく。 

「押したわよ、それで次は」  

 押した後に切り替わる画面を見て、一応は確認している様子のアテナ。 

 だが意味が無い。

 携帯のギミックはそもそも後付け。

 流石のカッサローニも画面にまで細工はしていない為『アドレスを開く』という行為とは明らかに異なる方向へと進むが、そんなもの機械音痴の彼女が知る由もなく、とうとうその時を迎える。

「次に真ん中のボタンを押してくれ」

 最後とは匂わせない平坦な調子で放たれたカッサローニの言葉。

 そしてここまでの当然の流れとして、アテナはそれに従ってしまった。

 するとどうだろう。

 彼女が言われた通りのボタンを押したと同時。

 本来はプラグを差し込む場所であるイヤホンジャックから紫色の煙が一気に噴出した。

 予想だにしない出来事にアテナも驚いた様子で、口元を左腕で覆い、目を細め残った右腕で煙を薙ぎ払う。

 だがなぜか未だに煙を吐き出す携帯を離さずに持っており、これではいくら払っても纏わりついてくるだけだ。

 それでも携帯の中にある分量を吐き出し終えたのか、やがて噴出は収まった。

 しかしここは広けれど通路と目される場所。

 どうやら一般的な煙幕をそのまま応用したようで、出口のない場所で満たされた紫色の煙は自然消滅する気配を見せずウヨウヨと留まり、場の視界を完全に遮っている。

 今がチャンスだった。

 敵が煙幕と戯れている真っ最中に、醜い笑顔を浮かべるカッサローニ。

 視界は塞がれどここは彼の住まう屋敷。

 未だに続く煙幕の中、男は迷う事なく出口へと向かう。


「凝縮(condensazione)」


 煙が支配する空間に響く声。

 明らかに怒りのこもった呪文の後、煙たちが一点へと引き寄せられていく。

 あまりの回転数に色素が飛んだのか、集約された時にはほぼ透明に近い形で渦を巻いていた。

 晴れた場には目を細め明らかに不機嫌そうな女が一人。

 つまりそこにカッサローニの姿が無かった。

 勢力が安定した綺麗な風の球体を右に、イヤホンジャックから掠れるようなエアーを吐く携帯を左にしながら佇むアテナ。

 一度ならず二度までも。

 幼い少女の命がかかっている今、カッサローニがどうこうより、己の不甲斐なさに彼女は怒っているのかも知れなかった。

「風の弾丸(Proiettile di vento)」

 気を引き締める為か八つ当たりか、横合いにある窓目掛け風玉を射出したアテナ。

 放たれた風玉は窓ガラスを叩き割り勢いよく外へと飛び出したが、中空辺りで嫌気がさしたかのようにそこにある空気と同化する。

 気持ちを切り替えであろうアテナは一歩を踏み出し始めた。

 臆病で卑怯者のカッサローニが取る行動に心当たりがあるのだろう。

 奴が向かった場所なら分かっているはず。

 なぜならその為に外壁を一周し、全体的な構図を確認したのだから。

 家の中の構図は分からずとも外なら分かる。

 現に走り始めたその足取りに迷いはなく、カッサローニが逃げたであろう時間もそこまで立ってはいない。

 やがて走り出したアテナ。

 男が再び泣きっ面になるのも、時間の問題だろう。

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