父親としての怒り
広さ三百坪を誇る豪邸。
その敷地内で起こっている異常に家主は気づかず、呑気に銘柄を当てるという勝負に勤しんでいた。
「この甘くて軽い口触り……アメリカ産のシガリロだな」
指に挟んだシガーを吸い、そう結論付けたカッサローニ。その言葉を受けると、ダニエルは驚いた表情をして、
「おお、素晴らしい!」
と大げさに褒め称える。
もちろん本心からの表現ではない。
煽てて機嫌を良くして、一秒でもいいからこの銘柄当てを引き伸ばそうという魂胆があってのものだ。
当たったにも拘わらず不機嫌そうな顔をするカッサローニを見る限り、あまり効果は無い様だが。
確かにダニエルの演技は少しやり過ぎな気がする。しかし、カッサローニが不機嫌なのはそれが原因ではないだろう。
葉巻にも色んな種類と味がある。
甘めの物から苦めの物まで、軽めの物から重めの物まで、気分や体調によって様々な香りと味わいを楽しめるのがコンセプトにある。
指で触れてフィットする感覚を楽しみ、自ら様々な切り口を施しそのシガー一本の髄まで堪能するというのも、楽しみ方の一つだ。
つまりシガーは、決して取っ替え引っ替え吸うような物ではない。
カッサローニが不機嫌な原因。
それは灰皿を見れば分かる。
四角で形成された専用の灰皿の四方には穴が開いており、そのうちの三つにはすでに三本のシガーがはめ込まれていた。
つまりカッサローニが手に持つシガーを合わせると、すでに彼は四本のシガーを口に含んだ計算になる。
異なる趣向を持つそれらを短時間で一気に口へ含めば、流石に口の中が混乱して不快な口当たりになってしまうだろう。
おまけに明確な回数を決めていないゲーム性。
「それでは次のシガーはこちらで」
有無を言わすまいとまた矢継ぎ早に新たなシガーを取り出したダニエル。だがここでカッサローニはついに動く。
ダニエルがシガーを差し出してきたと同時に、
「おい、いつまで続ける気だ」
苛立ちを交え、そう質問をするカッサローニ。
これにはダニエルの顔も思わず引きつる。
先程から機嫌が悪くなっているのは彼も気付いていた。流石にやりすぎただろうかと、表情をどうにか取り繕いつつ内心で焦る。
しかし相手に気圧されては駄目だと強く自分に念じる。それは日々ビジネスとして接する際に心掛けている信条の一つだ。
「すみません。あまりにもカッサローニさんが当てるから、こちらも意地になってしまって……でも、そうですね。確かに試し過ぎたのかもしれません。ただ私も生粋のシガー愛好家。どこまでいけるか試したくなってしまったんですよ。もしよろしければなんですが、こちらを最後としてはもらえないでしょうか」
「駄目だ。もうこれ以上は時間の無駄だからな」
一瞬の逡巡も見せずそう答えたカッサローニ。
考えるまでもなくホームである彼が弱腰になる必要なんて全く無い。
嫌な事を嫌と言っても何ら問題は無い訳であり、となってくると不快になるような真似をさせられる銘柄当てというゲームを中断させるのは当然の流れだ。
「俺だってそこまで暇な身じゃない。見ず知らずの商人に興味何てないんだよ。今の談笑だって、ダビドフを持って言なけりゃすぐにでも切り上げたかったくらいだ」
よほど捻くれた性格をしているのか、開き直ったかのように言いたい放題なカッサローニ。
なぜならここでは彼は王様なのだ。
ソファーに背を預け踏ん反り返る様を見れば分かると思うが、言いたいことを言ったって誰からも咎められる事は無いし、あれこれと命令すればそれに応じてくれる純情な子分たちがいる現状、ここはカッサローニという男のテリトリーでありキングダム。
それこそ理不尽な言動を取ったって、誰も文句を言わない。
彼に歯向かう人間は粛清され、その事実は闇に葬られる体制が整っている。
「そう……ですか」
今しがた自分が立たされている場を再確認したのか、渋々そう言ったダニエル。出来る事なら後一本だけでもと思ったが、これ以上刺激するのはまずいという見解に至る。
致し方あるまい。
がんばった方だろうとダニエルは結論付ける。
この屋敷に入ってからかれこれ一時間は経過している。流石にアテナ達も動いているだろうし、必要最低時間は一応超えている。
ここいらが潮時。
後は幻のシガーとやらを渡し、自分たちは退散だ。脳内でそう道筋を立て、実は一刻も早くこの場から離れたかったダニエルは、カッサローニに差し出したままの左腕のシガーをケースに戻そうと――
「待て」
ふいにカッサローニが声を出す。反射的に硬直したダニエル。横でこれまで黙り込んで坐っていたロニーの肩もびくりと揺れる。
制したカッサローニはすぐにその理由を語らなかった。勘ぐる様にダニエルの左手のシガーを見た後、ようやく口を開く。
「お前は俺を試したんだ。じゃあ俺もお前を試す資格はあるよな」
突然妙な事を言い出したカッサローニ。
お前に興味が無いとは、今しがた彼自身が言った言葉だ。
それなのに、何やらカッサローニはダニエルの事を知りたがっていた。
そしてそれがどういった意味をもたらすのかを理解した瞬間、ダニエルの額に汗が浮き出る。
カッサローニはダニエルの強張った表情を睨みながら、
「そのシガー、お前が吸ってみろ」
威圧を交え、そう述べた。
「……え? 私がですか」
しらじらしく返事をするダニエル。こうしている今も、どうにかしてその試練を回避する方法を探している。
「すみません。私も吸いたいのはやまやまなんですが、業務中はやはり控えなければならないもので」
だがカッサローニはその隙を与えようとはしない。
「吸うんだ」
凄まれ、思わず黙り込んでしまうダニエル。
追い打ちをかけるように、カッサローニは言う。
「お前は最初からどうも怪しいと思っていた。自分の利益にならないような話を持ち出し、いざやってみればまるで素人のようなハサミの入れように吸わせ方。シガー愛好家? 本当にそうならこんなくだらない遊びは思いつかないはず」
分かった上で泳がされていたのか、途中で気付いたのか。
いや、この際はどちらでもいいだろうとダニエルは冷静に考える。
問題はどう乗り切るかだ。
何気なく隣にいるロニーを見てしまうダニエル。ロニーは心配そうな顔で彼を見ていた。今にも泣き出しそうな瞳は潤んでいるように見えなくもない。
分ってはいた事だが、ここで失敗を仕出かせば自分だけでなくこの子も危ない目にあってしまうと、その責任の重大さにダニエルは心臓を鷲掴みにされている気分になる。
やはり間に合わせの知識では騙せなかったかと認識の甘さを後悔する。実のところシガーを吸えるようになっていた方がいいのではないかという案は出ていたのが、いかんせん時間が無さすぎ、克服できなかった。
シガー愛好家が喫煙をして咽るなどアメリカンジョークでも笑えない。
立ち止まっていては余計に怪しまれる。
未だに睨みつけてくる目を見てそう感じたダニエルは、シガーを吸う動作を取りながら他に何か方法はないのかと頭を巡らせていく。
一応吸い方は頭の片隅にはあるが、結局身体が受け付けなければボロが出てしまう。
愛好家と言ったのが失敗なのかもしれない。実は商売で扱っているだけで吸えないと言っていればこの問題は回避できたのに、それも今となっては使えぬ手段。
他に何かいい方法を思いつかなければ。
追い詰められるダニエル。刻々と迫るタイムリミット。動作が進むにつれて、視野がどんどん狭まっていく。
火をつけずにシガーを口にする。これは吸い込み具合を確認する動作らしいが、はっきり言ってどんな状態の物がいいのかすらダニエルには分からなかった。次にフットと呼ばれる先端部分をジェットライターで軽く炙る。直接当てるのではなく、少し離して当てるのがポイントらしい。
そして問題はいよいよだ。
白い狼煙の上がる先端を見つめながら、息を呑むダニエル。
こんな不純物を体の中に入れるのかとこの期に及んでまだ決心がつかない。
ちらりとカッサローニの方を見やる。相変わらずの鋭い眼光はダニエルを捉えており、少しでも間違えれば銃をぶっ放す、とでも言われている気分にさえダニエルはなった。
火をつけた以上、もう後戻りはできない。
大きく深呼吸し、気持ちを落ち着かせるダニエル。この時点ですでに不審に思われているのかも知れなかったが、今の彼にはそれに気付くほどの余裕はない。
やがてシガーを持つ手が動く。
心配そうに見るロニーの視線を感じながら、何とかこらえてくれと体に言い聞かし、ダニエルは意を決しシガーを口にし――
ようとしたところで、思わぬ助け船が出る。
「ボス」
それは突如部屋の中に入ってきた男だった。
ノックもせず静かに部屋中に入ってきた男は明らかに焦った様子でカッサローニへと近づく。
そして耳打ち。
他の者に聞かれればまずい内容なのか、男はカッサローニに小声で何かを伝えている。
話を聞き、顔を顰めるカッサローニ。その表情だけで、何か喜ばしくない事が起きたと推測するのは難くない。
「すぐに辺りを探せ」
彼なりに声を絞ったつもりなのかもしれないが、ダニエルの聴覚は確かにそう捉えた。
その言葉には心当たりがある。
もしかしたらアテナ達が動き出したのかもしれないと、右手に持つシガーを燻らせながらダニエルは考える。
「何かあったんですか?」
見当もつかないと言いたげにしらじらしく訊くダニエル。この機を利用して、ちゃっかりシガーを灰皿に戻す。
「ん? ああ、まあな。気にする事は無い。仕事上のちょっとしたトラブルさ」
完全に意識が他所にあるのか、どこか歯切れの悪い返事をするカッサローニ。
ダニエルが灰皿にシガーを戻した事についても触れず、不安事を抱えるようにスキンヘッドの頭を数回指で掻いた。
その動作を見たとき、ごくりとダニエルの喉が鳴る。
今彼の頭の中では絶体絶命の窮地を打開する一つの策が浮かんでいた。
シガーをもう一度口にしろと言われれば絶対に偽の商人だとバレてしまう。
それならいっその事と、ダニエルはタイミングを窺う。
そしてテーブルにある灰皿へと、カッサローニが目を落とした時だった。
「ん? おい、なぜシガーを戻している」
チャンスはここしかないと思った。
近くに誰もおらず、考え事をしていた名残か、明らかに隙だらけになったのを見計らうと――ダニエルはテーブルを飛び越えカッサローニへと飛び掛かった。
一瞬の出来事に場にいる全員が反応出来なかった。
シガーグッズの中にはシガーピアースというものがある。
形状が丸っきり針のようなそれは葉巻の吸い込み口が悪い時に使う道具。堅いシガーを貫くのだからもちろん先端は鋭利で、小さいとはいえ立派な凶器にもなりえる。
机の上に置いてあったそれをいつのまにか手にしていたダニエルは、それをカッサローニの首へと突き付けた。
「動くな! 動けばこいつを殺すぞ!」
咄嗟に懐の銃を取り出した男達に、声高らかに宣言するダニエル。
人質に取られてしまったカッサローニは短い手足をバタバタさせ、鬱陶しいほどの抵抗を見せるが、ダニエルは決して離そうとはしなかった。
首に回している腕に力を入れ、その抵抗を抑えようとする。
「な、何の真似だ」
カッサローニは苦し紛れにそう言い放つ。
こうなった以上、包み隠す必要は無くなった。
ダニエルはこれまでの愛想笑いを取り払い、興奮した様子で語気を荒げる。
「銃を下ろすんだ。さもないとこいつを殺す」
「下ろす必要はない。どうせヤレやしねーよ、こんなインキ臭い野郎なんかにゃ。構わないでとっとととっ捕まえ――」
人質に取られているというのにやけに強気な態度のカッサローニ。
そんな彼の太ももに、ダニエルはシガーピアースを突き刺した。
黙っていろと言いたげに。
これはハッタリではないと示す様に。
瀟洒な部屋に、汚い悲鳴が上がる。
冗談と踏んでいたカッサローニは一転、いまだに銃を構える部下達にこう命じる。
「お前ら銃を下ろせ。こいつは本気だ。あまり刺激をするな」
今にも泣きだしそうな声色で、見解を百八十度変えるカッサローニ。
二転したとはいえボスの命令には忠実な男たちは、戸惑いながらも銃を下ろす。
シガーピアースを刺された太ももからは血が滲み出ていた。ダニエルが手にするその根元が曲がっているのを見るに、全力で突き刺したようだ。
「うちの娘はどこにいる」
怒りに満ちた表情でカッサローニに問い掛ける。
男は未だに苦悶の表情を浮かべながら、
「娘? 何の事だ。お前は何か勘違いを」
「しらばっくれるな」
はぐらかせまいと、更に首を絞めシガーピアースをチラつかせるダニエル。
これによりカッサローニは完全に委縮していた。
自分の意見を力でねじ伏せられる。
悪人とはいえ可愛そうな姿だが、それは今まで彼が散々やってきた事だ。
「ミゲルをおびき寄せるために誘拐した少女だ。その子を今すぐ開放しろ」
「ああ? ……ミゲルだと」
そこでようやく全てを理解したカッサローニ。悶えていた表情に憎悪が足され、只でさえ醜かった形相がなおさらひどくなる。
首を絞められる最中、カッサローニは視点を動かす。ダニエルの隣、彼からすれ左後方にいる少年が視界に映り込んだ。
見たところ目の前で起きている状況に驚いてはいるようだが、どちらかというとそれは戸惑いから来るものだろうとカッサローニにはすぐに分かった。
「なるほど……そういう事か」
悪い大人に睨まれたロニーは、びくっと小さな体を震わせた。縮こまる少年に、カッサローニは更に脅しを掛ける。
「放蕩親父の精で潰れ掛けのお前の店を贔屓してやっているのはどこの誰だと思っているんだ。恩を仇で返しやがって。どうなるのか分かっているんだろうな」
分かりやすい脅し。
しかし全くの嘘という訳ではない。
確かにロニーの父親は酒やギャンブルに明け暮れる典型的な駄目人間であり、定期的に商品を買う大口顧客が取引を止めれば経営はたちまちに傾いてしまうだろう。
カッサローニとしても、半ば自分専用のタバッキ―を持つことで安く仕入れることが出来るという思惑があった。
だが安価で欲しいものを手に入れる立場と、商品を売ることで生計を立てる立場ではどちらか損をするかは明白。
それを抜きにしても、この街ではマフィアに逆らって生きていくのは難しい。
だが流石は悪ガキと言った所か、その辺にいる同じ年代の子供よりかは度胸が据わっていた。
明日自分がどうなるかを考えるよりも、苦境に立たされる知り合いを助けたかった。
ロニーは果敢にも羽交い絞めされるカッサローニの元へと駆け寄り、その懐に手を伸ばした。男が身動きが取れないのをいいことに服の内側を弄り、お目当ての物でもあった拳銃を奪い取る。
「よし、でかしたぞ」
その発想は無かったのか興奮気味に話すダニエル。
とはいえ真面目人間な彼は子供が銃を持つというシチュエーションを有事の際でも良しとはしない。
「子供がそんなものを持っちゃ危ないから早く渡しなさい。さあ、早く」
手を汚すのは自分だけでいいと銃を渡すよう命じ、ロニーもそれに従う。
シガーピアースを放り投げ、代わりに拳銃がカッサローニへと突き付けられる。幸いにも銃の使い方は昔叔父の狩りに連れ添った際に会得しいて、大体の手順は分かっていた。
これにはカッサローニも分かりやすく大人しくなり、ダニエルが少し力を入れるだけで簡単に立ち上がらせる事ができた。
部下である男達との距離を取る。
部屋隅にまで場所を移動。
ロニーを庇う様にダニエルが後退りし、彼自身はカッサローニを盾にしながら部屋全体を見渡せる場所にまで移動する。
「全員に銃を捨てるよう命令しろ」
カッサローニの耳元でそう囁くダニエル。
カッサローニは太ももの痛みに表情を歪めながらも躊躇っている様子だった。
肩で息をしながら、無言を貫く。
「脅しじゃないぞ。本当にぶっ放すぞ!」
彼自身、人生で初めて浴びせたであろう汚い言葉。
怒りの剣幕で言い放ち、カッサローニの喉元に当てている銃を更に食い込ませるダニエル。
娘を奪われ半ば興奮状態の男は、傍から見ればいつ引き金を引いてもおかしくない。
「……じゅ、銃を下ろせ」
首に手を回されているせいか、躊躇っているのか。
どこか声を出しにくそうにしながら、部下たちにそう告げたカッサローニ。
となれば当然の流れとして、飼い主の命に忠実な者たちは渋りながらも銃を下ろす。
それを確認したダニエルは更に要求する。
「地面へ放り投げさせろ」
「……」
黙り込むカッサローニ。
「聞こえなかったのか?」
また銃を突きつけ、脅すダニエル。分かっているよと苦い表情をしつつ、カッサローニはその要求も呑み、部下達もそれに従う。
部屋中にいる三人の男が、高級絨毯の上に拳銃を放り投げた。黒光りする鉄塊は地面に接した際、ゴン、という鈍い音を発生させ、これでこの場で銃を持つのはダニエルだけという状況になった。
よし、と意気込むダニエル。
作戦とは異なるが、何だかんだでうまくいった。今の様子だと人質に取ったカッサローニを締め上げれば簡単にミレーナを解放するのではないかと思えた程だ。
圧倒的不利と踏んでいた最中差し込んだ大きな光。
待っていろよミレーナ。
ダニエルが抱く感情はマフィアのアジトに殴り込みを掛けた代償ではなく、愛する娘を救えるかもしれないという希望だった。
「……や、やめてくれ」
と、ダニエルが人質に取るカッサローニの様子がおかしい。
銃を突きつけられているのだから平常心でいられるはずはないのだが、それとは別に、何やら苦しそうに息を荒げている。
確かにダニエルの腕はカッサローニの首に回っている。しかしそれはどちらかというと逃げない様ホールドしているのが理由であり、現に気道を圧迫するほどの力は加えていない。
にも拘らず、呼吸がおかしい。
身体全体からは汗が吹き出し、顔はトマトのように真っ赤。
目の焦点もどこか定まっておらず、とても演技のようには見えなかった。
それでも屹然とした態度で接するダニエルに、カッサローニは声を振り絞りこう告げる。
「お、俺は心臓疾患を抱えているんだ。頼む。娘は開放するから、今すぐ横にならせてくれ」
あれだけ吠えていたのが嘘のように、病弱な声で訴えかけるカッサローニ。
そんな彼に対しダニエルが下した決断はノーだ。
「駄目だ。娘を解放するまであんたも開放する訳にはいかない。自分だけ助かろうだなんて虫が良すぎる。まだ年端もいかない娘はもっとひどい目にあっているんだ。それを思えば、これくらいどうって事はないだろう」
頭では分かっていたが、言葉にするとなおさら腹が立った。いっその事殺してしまいたいという衝動に駆られるダニエルだったが、そんな事をすれば娘を助け出す糸口を失ってしまう可能性があるので、ここは堪える。
「本当だ。本当に開放する……だが先に容体を落ち着かせなければならない」
しぶとく交渉するカッサローニ。
しかしダニエルもしぶとく、断固として譲る気はない。
「そう言って解放した瞬間に仲間に俺達を狙わせるんだろ。その手は食わないさ。娘を解放し、安全圏にまで送り届ける。それがあんたを解放する唯一の条件だ」
いつしかたミゲルがしていた交渉術。あの男もミレ―ナが誘拐された件に一枚噛んでいるので許せはしないが、ここはとりあえず習ってみるダニエル。
その時、彼の知らない所で動きがあった。
それは部屋の外。
事態に気付いた、別の場所にいた仲間の一人は家に備えられたとある窓に身を寄せる。
そこから覗けば、丁度カッサローニを人質に取るダニエルの姿が見て取れる。
ようは死角。
未だ小競り合うダニエルは、真横に位置する小窓から覗く男の存在に気付いていない。
やがて銃が構えられた。
距離にして十メートル。
それは扱いに慣れた人間なら外すようなヘマはしない射程圏内。
同胞である男達からもその姿は窺え、なお気付かぬフリをしている。
銃を持つ男の指がピクリと動く。
ガラス越しで撃つ事を想定し少し離れてから、再度照準を定める。
改めて準備が整った。
そして男は引き金に指を掛け、そのまま力を加え――
「危ない、おじさん!」
弾丸が射出される前に、ロニーの大声が部屋内に響く。
あれこれと銃を動かしてしまった結果として、日差しの光が反射して黒光りした拳銃に気付いたのだ。
「くそ!」
仕方なく、即座に引き金を引いた男。
窓ガラスを直ちに割り射出された弾丸は部屋中に飛び込み、反対側にあったガラスを貫いた。庭に面した一際大きなガラスは豪快な音を撒き散らし、地面には塵状になった破片たちが飛散していた。
つまりダニエルは無事だった。
身を挺して飛び込んでくれたロニーのお陰で間一髪回避できた。反射的に発砲音のした方向へと引き金を引くダニエル。
耳鳴りがするほどの甲高い音がさく裂し、危険を感じた男は一時退却する。
今しがた起こった出来事に忙しくなる現場。
ダニエルが思わず離してしまったカッサローニはこれを機と床を這いつくばりゴキブリのように部下達の元へ走り、その部下達はこの間に銃を拾い上げる。
一方のダニエル達はと言えば、戻りつつある戦況に分の悪さを感じ、撤退を決意する。
特にロニーをこの場にいさせるのは危険すぎだ。
覚悟を持って来てくれているのは分かってはいるが、やはり幼い心は完全に飲み込まれていた。
盗みや違法転売とは違う本物の闇。
ダニエルに手を引っ張られなければ逃げ出したかも怪しいほどに呆けるロニー。
いまだ状況に付いていけていないようで、真の意味での汚れを知らない純粋な目は忙しく動き回っている。
ガラスの破片という障害に晒されながらも、どうにか窓を超え庭へと飛び出したダニエル達。
そこで男達も銃を手に取り、逃げようとする彼らに発砲する。
パンパン、という乾いた音が部屋内に木霊し、応酬としてダニエル達も当てずっぽうに発砲し返す。
全くの的外れと言う訳でもないようで、ダニエルの発砲に身の危険を感じた男達はソファーや書棚に身を潜め、それでも発砲を続けていく。
鳴りやんだのは、ダニエル達が窓枠から見えなくなった時だった。
立ち込める煙と火薬の匂い。部屋にいた一人がダニエル達を追う為に玄関口へ向かい、後の二人は床に倒れ込むカッサローニを介抱する。
「大丈夫ですかボス」
せっかく心配をしてもらっているというのに、その男は、
「大丈夫な訳がないだろ!」
先程の耗弱ぶりが嘘のように声を荒げるカッサローニ。まさかの仕打ちに目を丸くする部下への横風はさらに続く。
「水だ……とりあえず水を持ってこい」
胸を押さえ、苦しそうにそう言ったカッサローニ。
人に物を頼む態度とは思えないが、これくらいでいちいちイラついていたら今までやってこれていない。
「ボス、お待たせしました」
コップ一杯の水を持ってきた部下の男。当然のように礼も言わずにそれを手に取ると、一気に喉へと流し込む。その豪快っぷりと来たら三分の一の量が口の端から漏れる程のものだった。
大分楽になったのか、水を全て飲み干しコップから口を離すと、カッサローニの呼吸も幾分か穏やかになっていた。
カッサローニは声のトーンを落として、
「舐めやがって。あいつら、大方娘を助ける為に俺を脅そうと考えたんだろう」
「先程話した戻ってこない二人も何か関係があるんでしょうか」
「恐らくな。となると、敷地内に入り込んだのはあの二人だけじゃ無い可能性がある」
先程まで持病で大変な目に合っていたというのに、意外と冷静なカッサローニ。喉元をしきりに気にしている様子だが、病状はすでに安定期に入ったようだ。
「あの二人はミゲルの居場所を知っているはずだ」
カッサローニは部下に通達する。
「数を集めろ。多少強引な手を使っても構わない。生け捕りにして、ミゲルの居場所を吐かせるんだ。ここは外の法律が届かない正真正銘のマフィアの家だって事を、奴らに知らしめてやれ」
ボスである男の言葉に、やはり部下は忠実に動き始めるのであった。




