囚われの少女
尾行した車が辿り着いた先は、街の中に溶け込む形で存在していた。
建屋が三棟ほど軒を連ねても余るほどの広大な敷地を誇るというのに、昼間であるこの時間帯、全く稼働している気配のない、薄暗い工場。
外壁があり誰も立ち入られないよう入り口には門扉が設けられているが、これも昨日のような奴らの隠れ蓑の一つなのだろうかと、少し離れた場所にある電柱に隠れながら龍樹は考察する。
ミシェル達には悪いが、身軽になる為に手土産はタクシーの運転手に差し上げた。
別に捨てた訳じゃないからいいよなと適当に解釈をつけ、おかげで今は荷物らしい荷物を彼は持っていない。
いつまでも電柱に身を隠していたのではかえって怪しまれるので、とりあえず歩道を普通に歩いて、一度前を通り過ぎてみる。
横目でちらりと中を確認してから反対側に向かうと、そのまま曲がり角に接する場所まで平常心を取り持ちながら歩いていく。
そして曲がり角を右折すると、一気に緊張が解放された。
生唾を飲み込み、高鳴る鼓動を押さえつけようと努力する。
横目でちらりと確認できた工場内の光景は、どこか奇妙だった。
気持ちの問題も大いにあるのだろうが、まずそれなりに広大な面積なはずなのに人がいる気配がしないし、家屋もどちらかというと古びれていてその不気味さに拍車を掛ける。
固く閉ざされた門が冥府への入り口に見え、龍樹の心に障壁を出現させる。
やっぱりやめようか。
そんな言葉が、思考の片隅で顔を覗かせる。
(……何言ってんだ俺は)
それじゃ飛行機代を支払った意味がないと、龍樹は自分に言い聞かせる。
退路は絶った。もう助けるか死ぬかしか道はない。
門扉には別段鍵が掛かっている様子は無かったし、カメラのような監視システムがある訳でもなさそうだ。
しかし今の龍樹にとってはそれが逆に罠に見えてしまう。
いずれにせよ真正面から馬鹿正直に侵入するという勇敢な行動を取れるほど、彼の肝っ玉は据わっていない。
ならどうしようか。
そう悩んでいた彼の後方にあるポリバケツの上に、猫が飛び乗った。
ゴトン、という予期せぬ音に驚き、咄嗟に振り返る龍樹。
「びっくりしたなーもう」
やや不機嫌そうな顔で、猫に怒りを示す龍樹。彼に目を合わす猫はすまないとでも言っているのか、ミャーオという鳴き声を発した。
それから猫はポリバケツを力強く蹴り上げると、そこにある塀へと飛び乗る。
最後に龍樹の方を見下ろし鳴き声を発すると、ここは自分の敷地だと言わんばかりに悠々と歩き始めた。
優雅に揺れる尻尾を見上げる龍樹はそれを見て閃く。
幸いにも塀には有刺鉄線のような侵入防止は付いていないし、ポリバケツを使えばそこまで無理をしなくてもよじ登れる。
そうと決まれば、早速行動に移す。
曲がってすぐの場所だと目立ってしまう可能性もあるのでなるべく奥の方へと進み、そこに例のポリバケツををセッティングする。
そして今一度周りに人影がない事を確認すると、龍樹は塀をよじ登り敷地内へと侵入した。
塀を越える程の大きさを有する樹を利用して地に降り立った龍樹。
中肉中背が丁度収まるほどの胴回りをするその樹に身を隠しながら、龍樹はとりあえず現場を確認する。
手入れされていないのか周囲にある草木は伸び放題で見境がなく、力尽きたように塀にもたれ掛かる寂れた手押し台車の中には錨のようなものが乗せられている。
見立て通り工場は稼働していないらしく、人はおろか機械が起動しているような音すらも聞こえない。
(やっぱり昨日みたいな空き工場か)
色々と悪行をこなす為だけに用意した、さしずめ悪の生産工場といったところか。
となると、問題はどの棟にカッティスが向かったかだ。
先程も述べたがこの敷地内には三つの棟がある。正確な寸法などは分からないが、見た目では全く同じ大きさに見えるそれらが川の字で並んでいる
それぞれの間隔は少しばかり空いてはいるのだが、中の構造が分からない以上大胆に動けはしないだろうと龍樹は推測を立てる。
しかし、どうやら杞憂だったようだ。
三棟あるうちの一つの棟の前には二台の車が止まっており、そのうちの一つはカッティスが乗っていたものだった。
おまけにそこの工場の入り口だけが開かれている。
連中はあの中にいる。
そう確信さえ持った龍樹は、どうにかして中に入れないかと知恵を振り絞る。
やはり正面から入るのは躊躇われた。
他に出入り口がないかと考えると、龍樹は家屋を一周回る事にする。
細心の注意を払って歩き出し、家屋を這うような格好で進んでいくと――中ほどまで差し掛かったところで、声が聞こえてきた。
イタリア語のようなその言葉の発生源は家屋内で、それは龍樹の身長よりも少し高い場所にある開けた窓から漏れてくる。
すぐさま周囲を見渡し、龍樹は踏み台になるものがないかを探す。
先程の錨などからも見て取れるように、幸いにもこの工場は船などの部品を作る工場らしく、オイルでも入っていたのか中身が無くなり寂れたドラム缶がそこかしこに放置されていた。
それを音が立たないよう慎重に窓下まで待っていく。
高さは丁度いいものになり、龍樹は早速ドラム缶に飛び乗ると、窓から中を覗き込んだ――
廃れ具合は昨日の工場に比べれば幾分か新参者といった具合だが、こちらは随分とすっきりとしていた。
元々船などの大きな部品を扱う為か精々あるのは小物を収めるため端に置かれてあるスチールラック群くらいなもので、中央に至っては床にコートの様なラインが引かれていて何かしらのスペースが空けられている。
「以上が今回の計画だ」
そこで佇むカッティスはそう告げた。対面にいる二人の男は仏頂面で話を聞いている。その内の一人、男Aが今しがた聞いた話を反復する。
「つまり何だ。今夜七時にパッソスクロの工場に連中がミゲルを連れてやってくる。俺達の使命はその場に来た全員を殺す、って事か」
「そういう事だ。実に分かりやすい話だろ。ミゲルさえこの世から抹殺できれば後はどうにでもなる。死体を処理し、アリバイ工作をすれば、いつも同様何の心配もする必要はない」
暴力を振りかざし、異分子を排斥する。
ここら一帯で巨大な勢力を誇る彼らに取ってそれは常套手段であり、まるで一つの作業であるかのような調子で人の命を奪ったという事実を死体と共に闇へと葬る。
それはこれまでに幾度となくやってきた事だ。
「だが連中がミゲルを連れてこなければどうする」
男Bが放ったその質問にカッティスは可能性は低いと述べた。
「一応念は押したらしい。それにボスが連中と電話で話した時に、ミゲルを前向きに差し出す構えだったそうだ。まあ何か企んではいるのだろうが、そういった趣がある以上、奴が現場に来なければ話にならない。まさか単純な戦力で俺達とやりあって勝てるとは思っていないだろうに」
裏を返せば、それはカッサローニが敵の力量に少なからず恐怖心を抱いているという事。
だからこそ今晩は現場に赴く気はないのだろうし、人質の娘を別離で確保しているのだろう。
囲いが薄くなるという多少のリスクは払ってでも自分の身を保全する。
何ともあの男らしいとこの期に及んでも嫌悪感が止まらないカッティスに、男Bは質問を続ける。
「もしかしてサツに頼ろうとしているんじゃないのか」
「その可能性はゼロに近いと言ってもいいだろう。もし呼ぶのなら昨日の時点で頼っていただろうし、何よりもそんな単純な事で俺達から娘を取り返せると、あの女なら考えないだろう」
そもそもの前提として、動きが制約されていた昨晩と違いそれなりに策を立てられる以上、馬鹿正直に娘を連れていくほど愚かでもない。
もし、仮にミゲル達が警察に頼っていたとしても、あそこはカッサローニ達の敷地内。どうとでも言い訳は出来るし、警察も物的証拠が無ければ取り締まる事は出来ないだろう。
しかしそれを、恐らく昨日の襲撃を裏で画策していた金髪碧眼のあの女の脳裏に浮かばない訳がないとカッティスは踏んでいる。
「あの女ってのはあんたがまんまと嵌められた女か」
男Bが痛いところを付く。
明らかに皮肉めいた言い方に、男Aも思わず吹き出す。
本人はちょっとした冗談のつもりで言ったのかもしれない。しかし当のカッティスからすればその精で色々と苦労したのだから、形式上部下に当たる男の不適切な発言に苛立ちを覚えるのも無理はない。
「何がおかしい」
苛立ちを隠さない様子のカッティスに、現場が凍り付く。今にも銃を引き抜きそうな緊迫感溢れる彼に、男達も顔を引きつらせた。
カッティスは侮蔑の笑みを引っ込めた二人を交互に見て、
「言い方を考えろ。確かに俺はボスの評価を損ねた。だがなあ。お前たちよりも信用があるのには変わりないんだ。だからこの場の指揮権も俺にあるという事は伝えられたはずだ。分かったらとっとと娘を監視していろ」
高圧的な物言いに、押し黙ってしまう男達。
何か言い返そうとする多少のしぐさはあったのだが、結局その感情を飲み込み、冗談だよ、と男Aがあくまでスキンシップから来るものだと説明し、男Bも不満そうな顔をしながらも目を伏せた。
そしてこれ以上睨み合うのは良くないと判断したのか、二人は言われた通り娘がいる部屋に向かっていった。
――と、そんな一部始終を窓から見た龍樹は、なるべく頭を低くしながら、現場に残ったカッティスを静かに眺める。
会話の内容は分からなかったが、とりあえず連中がここにいるのは確認できた。
もしかすればミレーナがいる可能性も高いのではないかと、薄暗い工場内に視線を這わせていく。
しかしその気配は無かった。
もしかしたらだが、この場を去った他の二人がミレーナの居場所に向かったのではないかと龍樹は直感する。
だとすればこうしてはいられない。
音が鳴らぬよう、ドラム缶から静かに飛び降りると、龍樹は二人が歩いたであろう進行方向へ回り込むことにする。
もちろん敷地内の構造は分からないのでむやみやたらに動き回るのは危険だが、常識的に考えた末、今彼がいるのは裏手であり、二人組が向かったのは建屋の奥だ。
奥は更に荒れた有様で、スプレー缶などのゴミが投棄されていて足の踏み場を見つけるのも一苦労だ。
つまり侵入者がいると思っていない連中がゴミ同然のドラムや錆びれた部品を必要としたりしない限り、空間が見受けられない裏手に回ってくる可能性は低く、物音さえ立てなければ問題は無いと龍樹は考える。
だが足元に注意を払いながら進むというのは簡単な事ではない。
それに裏手に当たるという事は当然中の様子が窺えない。あの二人組がどこに向かったのかを感覚で追う事しか出来ず、可能性が低いとはいえ曲がり角を曲がればバッタリ、何てことも有り得なくない。
そういう事情もあり、あまり大胆には行けず、しかし離れるわけにはいかず、結果的に綱渡りの様な動きで家屋を縫うように進んでいく龍樹だったが、数十メートルも進まない内に、とある窓から声が漏れている事に気づく。
流石にこうなると迷いは無かった。
忍び足で声のする窓まで辿り着いた龍樹。
換気の為なのかこの家屋の窓は大半が空いているようだったが、言葉の分からない龍樹に取ってはそこまで得にはならないだろう。
上下式で半開きのそのお陰で会話も拾えたのかもしれないが、むしろ少しの物音でも気づかれてしまうという点を踏まえるとマイナスにさえ働いてしまう。
ともあれ、今の龍樹に退路という選択肢は無かった。
幸いにも今度の窓は少し背を伸ばせば覗き込めるほどの高さで、先程のように土台を持ってきて、という手間は必要なかった。
窓の縁に手をやりつま先立ちをすると、龍樹は恐る恐る窓から中の様子を窺う――
「くそ!」
部屋に入るなり、目前にあった袖机を乱暴に蹴る男B。
その手にはパンと紙パックのオレンジジュースが入ったビニール袋が握られており、激しい動きに連動するように大きく揺れた。
後方にいる男Aは突然の行動に肝を冷やしながらも、
「おい、物に当たるな。カッティスの奴に聞こえたらどうする」
「どうもしねーさ」
怖気づく男Aとは対照的に、男Bは不満を露わにする。
「この際俺達の不満に気付けばいい。あの野郎。気に入られていると勘違いして調子に乗りやがって」
「実際頭は切れるからな。これまでそれなりに功績を残したのもカッティスのお陰だ。極度の心配症という点を除けば、今回の件だって丸く収まったかもしれないだろうし」
圧制統治のカッサローニに、神経質なカッティス。そもそも完璧を目指すカッティスに取っては、カッサローニの性格は相いれない。
というより、潮風に晒される鉄のように、彼の日々のストレスは相当なものだったはず。
カッサローニの傍若無人ともいえる暴風に晒されながら、それでもここまで公に反発することなくやってこれたのは、ひとえにカッティスが若かりし頃に世話になったという経緯があるからだろう。
場にいる二人はもちろんの事、その事実を知るものは組織全体を通しても、今となっては少ないが。
「まあどの道それももうすぐ終わるさ」
意味ありげにそう言った男B。
そこに含まれた意味とやらを、男Aも知っている。
「だな」
暗黙の会話を済ませると、男達は部屋の隅にある古びれた長方形のドアへと近づいていく。そこに掛けてあったダイヤル式のカギを解くと、老朽化したドアがきしみ音を立てながら開かれた。
ドアの大きさからも分かるように中はそこまで広くなく、棚が誂えられ、外からの光は一切差し込まないほどの密閉を誇る空間だった。
構造と立地的に考えて、どうやら納戸のようだ。
空けた際に侵入した空気により巻き上げられる埃がいかに使用されていないかを物語り、物資らしいものは何一つない。
そんな悪環境な場所に、小さな少女が軟禁されていた。
真っ暗な環境から眼をそらす為か体育坐りで蹲まり、ドアが開かれたという事実すら気づかず、身動き一つしない。
服装は相変わらずそのままで、一昨日から含めてかれこれ二日間風呂にも入っていない。
最早人として扱われていないミレーナ。
夜の寒さで流石に死なれては困るのか布団の様なものを供給されていて、今はそれを身体に巻いている。
「おい顔を上げろ」
幼い者にも容赦ない言い方。
例えか弱い少女だろうと、マフィア達は接し方を弱めるつもりはない。
乱暴な言葉に、ミレーナは力なく顔を上げる。
その顔はやつれていた。目の下にはクマができ、頬には薄っすらと涙の後。それはとても六歳の少女がするような表情ではなく、経験も無い状況に心身ともに限界が近い。
「朝食だ」
そう言うと男Bは手にしていたビニール袋を丸ごと放り投げた。雑に扱われたビニール袋はミレーナの目前に落ち、地面に触れた際その衝撃で中身が飛び出る。
これではまるで家畜に餌を与えるようなやり方だ。
「俺達が居る時は外に出てもいい。もちろん、外といってもこの部屋内だけだがな」
まさかそれで善人を気取っているつもりではあるまいに。
相変わらず横暴な態度を取る男達に少女が反論できる訳もなく、ただ言われた事を黙々とこなす機械のように、ミレーナは立ち上がった。
自分の少し遅めの朝飯が入ったビニール袋を拾い上げると、約十時間ぶりに納戸から足を踏み出す。
だが少女にそれを喜ぶ気力は最早残っておらず、積み上げられた木箱の残骸に腰を下ろすと、何も言わずに袋から朝食を取り出し、口にし始める。
生気の薄れたそんな少女を男達は眺めながら、
「何せ今夜だ。今夜何も知らずにノコノコやってくる連中を出合頭に強襲する。正確にはミゲルの奴をな」
自分の知り合い、ひいては家族が殺されてしまうかもしれないという会話を少女の目の前で堂々と言ってのけるというのは、どうにも配慮に欠けているとしか思えない。
当の少女はその事を理解しているのか、特に反応を示さない。
長時間の恐怖に晒され疲労困憊に晒された精神は平常な思考を妨げる。
例え男達の会話が何を意味するのかが理解できたところで、幼い少女に出来る事など何一つない。
「で、ゴミ処理が終わると今度はカッティスの番、って訳だ」
未だ敷地内にいる本人に聞こえないようにと、男Aが慎重に話す。先程もうすぐ奴の道が終わると言ったのは、それが理由だ。
今夜七時に約束の場所へとやってきたミゲル達を片づける。そうなった際に発生する問題として、その場に居合わせるであろうミシェル達の処理も行わなければならない。
戸籍変更の権利部分を握られているミゲルの場合なら何とかなる。
しかし一般市民で、世間の歯車として密接に関係してきた他の連中はそうもいかない。
会社に来なければ周りが怪しむだろうし、郵便物を届ける配達人もそのうち違和に気付く事だろう。
そうなると警察や知り合いなど色々と周りが動き始め、最悪の場合カッサローニの元へ捜査の手が及ぶ可能性もある。
そうならない為にカッティスを利用するというのが、カッサローニの考えだった。
「身内ながらえげつないよな。ある一家を殺害し、その罪をあの男に押し付ける。そして逃亡せざるを得なくなってしまった奴を、不運が襲う」
「殺人の動機を知る者と裏切り者を始末できる。ソラマメ一つで鳩を二羽捕まえるって訳だ」
イタリアではマフィアだという理由で懲役を食らう法律も制定されている。
なので表向きは実業家で通しているカッサローニ。
当局も彼がマフィアだという点については薄々感づいているだろうが、何せ尻尾を出さない立ち回り。
現場となる工場の持ち主名義もカッティスになっているし、場に居合わせないカッサローニが捜査線上に浮き上がる可能性はあっても物的証拠が無い以上踏み込む事は出来ないだろう。
仕方なく容疑者である男の行方を追うが、その男は謎の死を遂げる。
事件は迷宮入り、という訳だ。
人の掟。鉄の掟。血の掟。
ボスであるカッサローニに嘘を付いていた時点で、カッティスの運命は決まっていた。
―――話をする二人組に、その目前で腰を下ろし我関せずといった具合に食事を取る少女の姿。
悲しみもせず怒りもせず、もちろん笑いもしないその姿はさながら人形のように冷たく、彼女の笑顔を知る者としては見るに堪えない有様だ。
「……」
首を引っ込め、窓から覗いていた顔を下げる龍樹。二人がどんな会話をしていて、今はどんな状況なのかは相変わらず不明だ。
この先マフィアの連中がどんな動きをするのかは凡人の彼には想像できない。
だが、とりあえずミレーナの姿を確認できたのは大きな進展だ。
ここにミレーナがいるという事実をアテナ達に電話で伝えられれば、連中に不意打ちを与えられるかもしれないと龍樹は思い至った。
(とりあえずどこか連絡できる場所に移らないと)
壁を隔てた向こう側にマフィアがいるのでここで通話をする訳にはいかず、どこか安全圏へと身をやろうと考える龍樹。
正直見つかれば殺されるかもしれないという緊張感は、ここまでずっと彼の心身へ負担をかけてきた。
その兼ね合いもあり、一刻も早くこの場を去ろうとする。
態勢を屈めたまま、移動を開始しようとする龍樹。
しかし、きっと気持ちが急いてしまったのだろう。
はたまたつま先立ちによる筋肉の伸縮が原因か。
移動しようとまさに動き出したその時、龍樹は残骸だらけの地面に転がっていたスプレー缶に足を掛けてしまい、音を発生させてしまう。
(しまった……!)
全身から汗が噴き出す。
目を見き、固まってしまう龍樹。
やらかしてしまったと後悔するよりも先に、どうにかせねばと思考が喚き立てる。
だが辺りには隠れるような物が何も無かった。
バン! と勢いよく窓が開かれる。
長年使われていなかったから立て付けが悪かったが、そこは力でこじ開けた。
部屋の中から外の様子を探る男A。その動作に男Bは不審そうな顔をする。
「どうした?」
男Aは窓から外を眺めながら、
「今物音がした」
「物音? 気の精じゃないのか」
「いや……絶対に空耳じゃない」
窓の前には机があり、身を乗り出して外を見るにはそれを乗り上げなくてはならない。年齢的にあまりアグレッシブな事をしたくない男Aだったが、音が気の精ではないと自信を持って言えるので致し方ない。
人工的に引き起こされたものではないにしろ、だとすれば一体何の音なのか。
万が一を想定し、それを確認すべく男Aは埃をかぶった机に上ろうと片脚を乗せた。
窓の縁に手を掛け、一気に机に飛び乗る。
そして外の様子を窺う為、身を乗り出そうとしたところで、
ミャーオ、という鳴き声が、地面から聞こえてきた。
自然に視線を落とす男A。そこには毛がハネッ返り、少しばかり薄汚い自由猫が、淀んだ瞳で男Aを見上げていた。
「……正体はお前か」
肩透かしを食らったように、鼻で笑った男A。
机に乗りそこから外を眺める格好で留まった彼からは死角となり見えない下方では、本当に音を鳴らした少年が目いっぱい屈み込み、口を手で塞ぎ息を殺している。
「おい、何もないんだったらとっとと窓を閉めろ。外壁があるから大丈夫だと思うが、娘がここにいるのを誰かに見られれば厄介なことになりかねない」
仏頂面でそう言い放つ男B。彼は近くにあった椅子に腰を下ろし、机に乗っている同僚に目を向けている。
男Aも彼へと振り返りながら、
「意外と神経質な奴だな。お前も案外、カッティスに毒されちまってるんじゃないか」
皮肉めいたことを言い、窓を閉める男A。
その下方で身を伏せていた龍樹は、ガガガと最後のところでやはり立て付けが悪かった窓が完全に遮閉されたのを確認すると安堵の息を漏らした。
もちろんこれで油断をする訳にはいかないが、絶体絶命のピンチを救ってくれた猫には感謝せねばなるまい。
その恩人ならぬ恩猫は何をしているんだと言いたげに龍樹を見ていて、しばらくすると関心が無くなったのか脚で首を掻き始めた。
「ありがとよ」
小声で放たれた謝礼の言葉。猫はそれには及ばないと言いたげに龍樹へと尻を向けると、散歩の続きを再開する。




