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妖美なるこの世界  作者: 桂馬
イタリアの闇達
150/261

ミレーナ救出作戦

「まず率直に言うと、ミレーナはまだ連中に攫われたまま」


 着席して開口一番、アテナは淡々とそう述べた。

 これにはミシェル達も動揺を隠せないようだったが、そこは大人。気持ちを落ち着かせて、女の説明に耳を傾ける。

「それも今度はカッティスにではなくカッサローニに攫われた」

「何だって?」

 衝撃の事実に、思わず声が出たのはミゲルだった。

 今回の発端を少なからず知っているミシェルも驚きを隠せない様子で、質問をする。

「なぜカッサローニが……カッティスの奴が呼んだのか?」

「いいえ。その可能性は低いわ。最初にカッサローニの名前を出した時の反応を見れば分かると思うけど、あれだけ慎重な反応を取っていた人間が連絡を取るというのは考えにくい。恐らくだけど、カッティス達の不穏な動きに気づいていたんでしょうね。それで結果、あの現場に辿り着いたと思われる」

 アテナの推測に。

 有り得ない話じゃないな、と彼をよく知るミゲルは答えた。

 その理由を語る。

「奴の勘の鋭さは折り紙つきだ。それこそカッティスの奴にも落ち度はあったのかもしれないが、カッサローニの神経質ははっきり言って異常だ。俺が狙われている理由だって、正直な所あまり分かっちゃいない」

 実態を知りうる人間から聞く貴重な意見。

 ほんの少しでも自分の害になると判断した場合、まるで断捨離をするかのような気軽さで命を簡単に葬ろうとする。

 カッサローニの怖さは何といってもそこだろう。

 そして組織内でそれに対して不満を持つものは多い。にも拘らず彼に忠誠を誓うのは、豊富な資金源が可能にする羽振りの良さや後ろ盾がしっかりとしているからだ。

 気前がよく自分にとって有益になると判断されれば衣食住に困る事はないし、貧乏な若者が到底持てないような店を持つ事だって、彼の機嫌を取れば可能になる。

 実際彼が今の座から落ちれば路頭に迷う人間だって少なくない。

 いわば甘い言葉と豊富な資金で組織へと取り込み、その人間の生活の手綱を握りいつのまにか支配する。

 それがカッサローニがどれほど身勝手な行動を取っても反旗を翻されない理由だ。

 ミゲル自身、衣食住はほとんど彼に頼りっぱなしだった。カッサローニは頭が切れ、密入国や死体の処理、偽の戸籍を本物に見せるなど、非合法で生活の役に立つ術をいくつも持っている。

 そんな彼の知識と財力に頼った結果、ミゲルは今の状況に至る。マズいと思った時期もあったようだが、その居心地の良さと変わる事への恐怖心が二の足を踏ませていた。

 若い頃から汚れ仕事をやらされ、いつの間にか身よりも頼れなくなった。

 カッサロー二に取って結局彼は駒に過ぎなかったのだ。 

「適当な頃合を見計らってそろそろ出し抜くつもりだった。もしかすればそれに奴は感づいたのかもしれない。きっと一緒に動いていた仲間が殺されたのも、連中の仕業に違いない」

 自分の命を狙う人間に助けを求めていた。笑うに笑えない話だ。あげくには護送車ともいえる車に乗り、一時は銃を頭に突きつけられていた。それを考えると今生きているのが奇跡のようだと、ミゲルはその強運に少しばかり感謝する。

「とにかく危険な人物と言う事は分かったよ」

 今しがたの話を聞いて、ダニエルは感慨深そうにそう言った。

 概要はすでに妻であるミシェルから聞いていた。ミゲルが彼女に追い出されてここにいる訳ではないことも、今回ミレーナが攫われた原因は彼である事も。

「ミゲル。僕は君を許さない」

 普段はあれほどへらへらしているダニエルもこの時ばかりは険しかった。そこにいたのは弱気で意志薄弱な男ではなく、娘を奪われ怒れる父親の姿。

 彼の一言で、押し黙る一同。

 名指しを受けたミゲルはもちろんの事、夫の発言を静かに見届けるミシェルに、その間を与えるアテナ。近くに座る子供は我関せずといった具合に食事を進め、ただ一人話しに付いていけない龍樹はどこか不穏な空気を感じつつ、パンを一口かじった。

 鋭い眼光でミゲルを睨むダニエルは、続きを述べる。

「君は僕達を騙した。彼女と喧嘩をしたと噓をついて、厄介な連中から追われているのを隠し、結果ミレーナが危険な目にあってしまった。こうしている今もあの子が怯えている姿を考えると、腸が煮えくり返りそうだよ」

 拳に力を込め、どうにか怒りを押さえ込もうとしているダニエル。歯を食いしばり、我慢。そこまでしなくては、今にも殴りかかってしまいそうなのだ。

 大事な一人娘が、どこぞの訳の分からない男の精で攫われてしまったのだから当然だろう。

 ミゲルはその気持ちを十分理解した上で、彼の眼差しを真っ向から受け止めていた。

「ああ……分かっている。罪はちゃんと償うつもりさ。ただ、今はミレーナを助けるのが先決だ。カッサローニは女や子供であろうと容赦はしない。時は一刻を争う。俺が言うようなことじゃないんだろうが、罪滅ぼしの内容を決めるのは全てが終わってからだ」

 本当に彼が言えるべき立場ではないのだろうが、正論だった。

 失ったのならまだしも、事態はまだ収拾が付く段階。となれば、良法を話し合い、準備をするのが正解といえよう。

 誰でも分かる天秤の傾きに、ダニエルも口惜しそうに納得する。切り替えを図るように一瞬眼を瞑ると、これまでと違い威圧するような言葉使いで、

「とりあえず今ミレーナはそのカッサローニって奴と一緒にいるって事だな。ミゲル、あんたなら知っているんじゃないのか。カッサローニの居場所を」

「いや……悪い。俺は奴がどの辺りに住んでいるのかさえ知らない」

「知らない? 自分のボスなのにかい? おかしな話だね。まさかまだ嘘を吐いているんじゃないだろうね」

「奴は本当に用心深いんだ」

 突っかかってくるダニエルをなるべく刺激しないようにしながら、ミゲルは答える。

「更に言えば、俺は奴に顔合わせという名目で一度しか会った事がない。取引の際は部下が対応するし、色々な手引きは電話で済ませる。声だってこのあいだ聞いたので二回目だ。今思えばおかしな話だが、当時は仕事に差し支えさえなければ気にも留めなかった」

 だからカッサローニの居場所は知らないと、ミゲルはそう言った。

 随分と適当な話に難しい顔をするダニエルだが、弱々しく語った彼の表情を見て、嘘を吐いていないと判断する。

 そもそもその問題はミゲルが知らなくても、解決するという意味では少し違うかもしれないが、当てはあった。

 それはこの時丁度現れた来訪者の少年だ。

 話し合いの最中家のチャイムが鳴った。

 まさかカッサローニ達かと身構えた一同だったが、緊張の面持ちでミシェルが玄関に向かうとそうではないと気付き、誰もがホッと一息を吐き、そして招き入れた少年に今の状況をやんわりと説明すると、

「街外れにある豪邸に住んでいるよ」

 張り詰めた表情をしながら、そう言った。

 これには皆が目を丸くし、即座に聞く。

「なぜそんな事を知っているんだい」

「言っただろ。カッサローニっていう人はうちのお得意だって。家にシガーだって配達しているんだ」

 実は昨日の夜から心配で堪らなかったロニー。

 ほんの少しでも自分が役に立てればとあれこれ考え、ここへその成果を持ってきたのだ。

 カッサローニがミレーナをどこに連れて行ったのかは分からない。警戒心の強い男だ。もしかすると他の場所で抑留されているのかもしれないが、当事者であるカッサローニはそこにいるはず。

 どんな人間だろうと、自宅に帰らない者はそうそういないだろうから。

「そこにミレーナはいるのか?」

 急いたように大人達に訊くロニー。何なら親であるミシェル達よりも一番熱が入っているように見えなくもない。

 それに対し、弱気になっている大人達の言葉はどこかネガティブだ。

「まだそうと決まった訳じゃないんだがね。でも、可能性は高いと思う。後はミレーナが無事でいてくれればいいんだが……」

 言い終えてから、しまったとダニエルは後悔した。子供の前で無事でいてくれればいいだなんて、余計に不安を与えるだけではないかと。

 しかしそんなものは杞憂だったらしく、ロニーは言葉の真意にまるで気づかない様子でこう提案する。

「だったら俺が案内してやるよ」

「……カッサローニの家にかい?」

 ダニエルの問い掛けに、ああ、と自信たっぷりに言うロニー。それは彼らにとってもありがたい話なのだろうが、

「そういう訳にはいかないよ」

 そこには一つの問題が生じている。

 少年の決意に思わず口を挟んだミシェルは、さらに続ける。

「君を危険な目にあわせる訳にはいかない。住所なんかは分からないのかい? それが分かればおばさん達は凄く助かるんだが」

「数字じゃ分からないよ。言っただろ、配達しているんだ。それをどうにかうまいこと使えないかな? 何だったら俺がカッサローニの気を引くし」

「気持ちはありがたいけど……やっぱり駄目だ。もし何かあった時に親御さんに合わせる顔が無いよ」

「親なんて俺がどうなろうと知ったこっちゃ無いって。この間やられた時だって何も言わなかったんだぜ。結局自分たちに被害が出なけりゃ無関心なんだよあいつは――頼むよ。俺にも協力させてくれ」

 揚げ足を取ったと思ったのか、ロニーの何気なしに放たれた言葉に、ミシェルは絶句した。この間の件とは森で大男に暴行を受けていた件だろう。あれほどの怪我を負っていたというのに、ロニーの親はケアをしなかったという事なのだろうかと衝撃を受ける。

 次に会った日には手当てをしていたあれも自分でやったのだろうかと、一人の娘を持つ母親として心配になってくるミシェル。

 こりゃ彼の親とも話す必要性があるのかもしれないとミシェルは思ったが、今は後回しだ。

 いまだ食い下がってくる少年に、ミシェルは諭すように言う。

「いいかいロニー。君が良くても、おばさん達が嫌なんだ。カッサローニという男はとても危険な男だ。そんな奴のところに子供を行かせる訳にはいかないだろ? それにロニーは友達を気遣ってくれるとても優しい子だ。そんな子を親が嫌うはずはないし、他の友達だって一緒の気持ちさ」

「そんな事……ねーし」

 綿のような優しい問い掛けに思わず照れ、顔を逸らすロニー。年の割には擦れている分大人の言葉に敏感になっているようだ。

 だからと言って、丸め込むのにも一苦労なのだが。

 再び視線を大人達に戻したロニーは、意見を押し通そうとする政治家のように諦めが悪い。

「大丈夫だよ。俺こう見えて結構逃げ足とか早いからさ。いざとなればそうするし、絶対迷惑とか掛けないからさ」

「ロニー……」

 傷も癒えない顔で、必死に訴えかけてくるロニー。自分の娘の為にここまでしてくれるだなんてと、ミシェルのみならずダニエルも思った事だろう。

 だからこそ、頼る訳にはいかなかった。

 なので、身を挺してくれるという強い気持ちに敬意を払いつつ、こんないい子を危険な目に合わせる訳にはいかないと、ミシェルはどうにか言いくるめる言葉を探していたのだが、

「やめときなよ」

 食い下がる少年に対し、そんな言葉が掛けられた。

 近くからした声に振り向くロニー。

 そこには年の割に擦れている彼よりもっと擦れている子供がいた。

 食事を終えた様子の子供はジュースを一口飲んだ後、話に参加する。

「あんまり困らせちゃいけないよ。見たところ契約者でも無さそうだし、ただの子供がどうこう出来る相手じゃないと思うよ」

「けいやくしゃ? 何だそりゃ。訳が分かんねーけど、ただの子供って言い方は聞き捨てならないな。お子様のくせに生意気な口を利くんじゃねえ」

「む? お子様だって。それはこっちのセリフだよ。僕はこう見えて十歳なんだからな」

 コンプレックスなのか、眉を曲げ怒りを露わにする子供。

 年齢を聞いて周囲はびっくりだ。年齢を間違えたロニーはもちろんの事、見た目からの判断でもっと年下だと思っていたミシェル達も若干驚いた顔をした。

「……と、とにかくだ」

 お子様と言った手前、まさかの年上にガツガツといけなくなったロニー。どうにか気持ちで負けないようにと、持ち得る限りの見栄を張る。

「大人達から逃げた事だってあるし、車の部品の外し方も知っている。それにシガーの吸い方だってな。そこらの子供じゃそんなの分からないはずだ。それとも何か。お前はもっと凄い事をしてきたっていうのか」

 得意げに話すロニーに、年上の余裕かアップルジュースを優雅に飲みながら、子供はリビングで縛られている二人の男を指さした。

 その行動にキョトンとするロニーに対して、彼は自慢げに言う。

「あそこにいる連中、僕のお陰で捕まえられたんだ」

「え?」

 思わず声が上擦ってしまう。まさかの発言に、驚きを隠せないロニー。こんな子供があんなに強そうな大人達を捕まえただなんて、と年齢が近しい彼だからこそ驚きは大きい。

「う、嘘だ」

「ほんとだよ。皆に訊いてみなよ」

 子供がそう言うと、ロニーは皆の方を見る。今の会話を聞いていれば、明確な言葉はなくても分かるだろう。

「ああ、本当さ」

 ミゲルは当時の事を思い出すようにしながら、真実を述べるまでと軽々しく言った。

「でも、それは彼が特殊なだけで、他の人、私達だってそんな事は出来やしないんだ。だからロニーがどうこうという話じゃないよ」

 一方でロニーの心中を察し、相変わらずの柔和なニュアンスでそう付け加えるミシェル。

 だが決してそこに嘘はないだろう。銃を持った男二人を取り押さえるなんて、一般人であるところのミシェル達だけでは成し得なかった筈だ。

「そもそもあれは何が起こったんだい。見た感じだと男が仲間を撃ったようにしか見えなかったんだけど」

 ずっと不思議に思っていたことを口にするダニエル。それはその場に居合わせた皆が思っていた事であり、何だかんだでここまで明らかにされていない。

 ダニエルの質問に、ここは自慢げにではなく平坦な態度で子供は説明する。

「概ねそれで合っているよ。僕はあの男の腕に力を加えたまでだからね。実際引き金を引いたのはあの人だし」

「力を加えたって……」

 いまいち話の見えてこないダニエルは顔を顰める。

「腕を物理的に押したって事かい?」

「んーとね。いや、実際僕もよく分かっていないんだよ。悪魔と契約した時からその力が発揮できるようになったんだけど、詳しい原理なんかは教えてくれそうもないし聞いた所で分からないよ。何せそれは人外の力なんだからね」

「そう……なのかい」

 歯切れが悪いダニエルの言葉。

 話を全て聞けば少なからず納得できると思ったが、益々混乱した。それに気になる単語もいくつかある。

 形式的な事に特化した頭が混乱しているダニエルに代わり、他の二人が話を継ぐ。

 まずはミシェルから。

「悪魔と契約っていうのは何だい? その人外な力ってのはそいつから得ているものだと、そういう事かい」

「うん。それがさっき言った契約者だよ。僕が知っている範囲だけど、悪魔は人間が窮地に立たされた時に現れて魅力的な取引を持ち掛けるんだって」

「聞いた事があるぞ」

 我先にと思い出したような反応をミゲルが見せた。

「確かそうやって得た力を使い続けていくうちに身体がボロボロになっていって、その時に身体を乗っ取るのが目的だとか」

 自分で言っていて信じられない話だと驚くミゲルに、そうそうそれ、と子供は平坦に言う。

「悪魔は神様に直接この世と関わりを持てないようにされてるんだって。だから人間の体を乗っ取りたいんだろうし、一応そうならないように神様の庇護を受けているらしいけど、結局最後は自分の意志だからね。そこまでは神様も干渉できないみたい」

「……それでうちの娘もああなったのか」

 皮肉なものだしあまり思い出したくもないが、参考事例ならつい最近あった。

 今の話が本当ならミレーナはもう少しで悪魔に完全に身体を乗っ取られていたという事になる。

 ミシェル達は直接見た訳ではないが、見ていないからこそ可愛らしい娘が変貌を遂げていたという容姿を想像してゾッとする。

「そんな嘘みたいな話があるのか……」

 ようやく耐性が出来てきたのか、ぽつりとダニエルはつぶやいた。

 経典や聖書などに戒められている事柄が本当だったとはと、教会にいかない自分がほんの少し怖くなったようだ。

 ダニエルは訊く。

「だとして、今君は悪魔と契約しているんだろう。その、何というか、身体に異常はきたしていないのかい」

「うん、そこはうまい事やりくりしているから。結局どんな力も使いようなんだよね。行きすぎちゃ駄目だけど、適度に使えばこんなに便利な力はないよ。悪魔と仲良くやるには悪魔を信じない事。あ、これ常識ね」

 次々と語られていく話に釘付けの様子の大人達。決してミレーナの件を忘れている訳ではなく、その能力を知っておくというのも救出の際に必要な事かもしれない。

 いまだ感心した様子の大人達を見たロニーは、このままアピールさせては駄目だと思い至り、さっきからずっと気になっている質問をぶつけてみる。

「大体、あんたはミレーナの何なのさ」

 彼はその子供の事を弟だと思い込んでいた。しかし年齢を聞いた限りその線は無いし、お兄ちゃんというのもまた、体つきからは想像しにくかった。

 となれば一体全体誰なのか、ミレーナに好意を寄せるロニーとしては気になるところである。

 内心ドキドキしつつ答えを待つ彼に、子供はこう言い放った。

「ミレーナ? 誰それ」

 キョトンとするロニー。惨劇は免れたが、まさかそんな答えが返ってくるとは思っていなかった。

「うちの娘だよ」

 呆けるロニーに代わり答えたのはミシェルだ。

「娘? ああ、攫われた子の名前がミレーナっていうのか。いい名前だね」

「ありがとう。そう言えば君の名前を聞いていないな。場合じゃなかったとはいえひどいものだと思うが、良かったら教えてくれないかい」

 ミシェルの問い掛けに子供は、アラン、と答えた。

 それが彼の名前らしい。

「アラン、か。素敵な名前だね。アラン。昨日はありがとう。あなたがいなければこの計画はうまくいかなかったと思う。改めて礼を言わせてくれ」

 優しい笑顔で気持ちを伝えたミシェル。それにアランはご機嫌になり美酒ならぬアップルジュースを喉に通す。

 これ見よがしに胸を張るその様はこれが僕の実力さとロニーに訴えかけているのは間違いないだろう。

 ぐぬぬぬ、と完全敗北を喫したロニーは唸ることしかできない。

「ロニーにも感謝しているさ」

 子供じみたいがみ合いを察したミシェルは、彼らを平等に扱う。

 しかしそこには決して嘘はない。

「うちの娘の為にここまでしてくれようとしてくれているんだ。その気持ちだけでも、おばさんとても嬉しいよ」

「……それじゃあ」

 だがそれとこれとは別だ。

 間違った解釈をしようとしたロニーに、ミシェルは険しい表情でそう言い放った。

 その迫力に気圧されるロニー。

「君にもしもの事があってみろ。例えミレーナを救い出せたとしても、あいつが喜ばない。自分のために友達が傷ついたらロニーも嫌だろ? それと同じさ」

 重みのある大人の言葉。

 それを受けロニーは街で出会った時のことを思い返す。スリを働こうとした自分を止めに入ったミレーナの姿を。

 いつもはおどおどしている彼女が見せた真剣な眼差し。しかもあれは他ならぬロニーの為を思って起こした行動だったはず。

 そんな彼女が自分のために怪我を負われたらどう思うだろう。

 考えてみてロニーは憂鬱になった。

 きっとというか絶対にミレーナは良い顔をしない。

「……それでもいいよ」

 ぽつりと、ロニーはそう言った。

 そのあまりの声量の小ささに大人達は聞き取れなかった。

 ただ何かを呟いたのは分かったので、え、何だい、と今一度耳を傾ける彼らに対し、

「だから、それでも俺はミレーナを助けたいって言ったんだよ」

 決意の表れか、必要以上の声でロニーは叫んだ。

 その迫力に圧倒され、これには面食らう一同。

 怯む大人達に対して、ロニーは続けた。

「あいつがどう思おうが知ったこっちゃないよ。俺はあいつを助けたいんだ。まだ幼稚園の先生にチクった事許してないし、街で俺の邪魔をした事だって怒り足りてない。それに、―――それに、その、何というか、居た方が良いっていうか……その……」

 前半の威勢の良さはどこへやら。

 後半は恥ずかしくなったのか、また小さくなってしまった声量。

 だが大事な部分は伝わったはず。

 未だ呆けている面々の中、ここまで黙り込んでいたアテナが、ふいっとロニーの元へと歩み寄る。

 無表情で伏し目がちに迫ってきた彼女に、ロニーは少しばかりたじろいだ。

 街で妙な脅しを受けてから彼はアテナが苦手だ。今ももしかしたらわがままを言うんじゃないと殴られるのではないかと身構えたが、そうではなかった。

「遊びじゃないわよ」

 高圧的に投げ掛けられた言葉。それに一瞬戸惑ったロニーだが、すぐさま負けては駄目だと言い返す。

「分かっているよ」

「相手は正真正銘のマフィア。一つ間違えれば死ぬかもしれない」

「それも……分かってる」

「カッサローニはお得意様と言っていたわね。そうなってくるともちろんあなたのお父さんやお母さんにも影響が及ぶかもしれない。その可能性は頭の中にある?」

「何となく、だけど……あるよ」

 後半につれ徐々に弱くなっていく返答。しかしその目に宿る力強さは変わらない。大切な人を助けたいという強い想い。大人になっていくにつれ失ってしまうであろう純粋な光が、その眼から消える気配は無い。

 ここまでしてきた意地悪な質問は、恐らくそれを確かめる為だったのだろう。

 ロニーの返答に対し、彼の中での覚悟を見極めたであろうアテナはほんの少しだけ笑い、

「いいわ。協力してもらいましょう」

 と言い放った。

 これにはミシェル達もびっくりだ。

「協力してもらおうって、ちょっと待ってくれよ。この子はまだ子供なんだぞ」

 慌てて異論を唱えたミシェルに対し、ただし、とアテナが即座に注釈を加える。

「ロニーには道案内をしてもらうだけ。私が言った以外の事は絶対にしちゃ駄目。仮にカッサローニに会いに行ってそこで囚われのミレーナを見かけたとしても、助けようとしては駄目。これが約束できるのなら、あなたに手伝ってもらうわ」 

 どうかしら。

 周りの大人達そっちのけで提示された条件に、ロニーはその内容を小さな脳みそで一生懸命咀嚼する。

 その上で判断した結果を、彼女へと伝える。

「約束できる」

 屈強で逞しい返事。力強いその目は誰が見ても嘘とは思えず、異論を唱えようとしたミシェルも、ついつい黙りこんでしまう。

「それじゃあ早速作戦を練りましょうか」

 この辺りの切り替えは流石と言えよう。

 ロニーから目を離したアテナは、周りの承諾も得ないまま先へと進み始めた。

 今は感慨に浸る時間も惜しい、という事なのだろう。

「ミゲルの話から察するに、カッサローニは相当用心深いという話よね。だとすれば自然に奴の懐に入り込める術があるのは大きい」

 淡々と放たれたそれは、未だ困惑するミシェル達の脳にはすぐ入らない。子を持つ親としてのフィルターを経てようやく理解すると、訝しんだ顔をしてミシェルは、

「ちょっと待ってくれよ。まさかマフィアの中に一人で潜入させるってのか。こんな小さな子にそんな重役を負わせられる訳ないだろうし、物理的に無理だ」

 ここまでオブラートに包んできたが、相手が自立した人間なら別だ。

 自身の思いを率直に、感情的にぶつけるミシェル。

 いくらロニーが配達に行っているとはいえ、そこは人様の家であり勝手な行動は出来ないだろう。むしろ配達なんてものは玄関で帰されるのが一般的であり、商売の形態は分からないとはいえ、ただでさえ警戒心の強い男の家を捜索などまず出来やしない。

 となると、必然的に無理を強いることになるはず。

 ミシェルが危惧した要因はそこなのだ。

 当然、それはアテナの頭の中にも浮かんでいる事だろう。

「ミレーナを助けたいのよね」

 ミシェルに今一度問いかけるアテナ。当然ミシェルはもちろんだ、と答えを返す。だがこれとそれとは別の話だ、と。

「何が別なのかしら」

 その言葉にはほんの少しばかり敵意があった。綺麗ごとばかり抜かす人間は、彼女の嫌いな部類でもある。

 戦場を掛けてきた彼女からすれば、百三十九年生きてきた老いぼれとしては、ミシェルも立派な子供。

 だからこその敵意だったのかもしれないし、自分が何も考えていないと思われたのが嫌だったのかもしれない。

「残念ながら時間が限られている以上、使える者は使うしかない。例えそれが子供であろうと、今回の件はそれほどまでに深刻な問題なのはあなたも分かっているはず」

「それは……そうだが」

 アテナの最もな意見に、押し黙るミシェル。彼女としても、娘をこんなにも想ってくれているのはありがたい。アテナに何か策はあるのは分かっている。分かってはいるのだが、どうしても一人の子供を持つ女としての母性が働き、それを拒んでしまう。

 だからといって時間が無いのも事実。

 私は一体どうすればいいんだと、心の内で葛藤を繰り広げるミシェル。その眼も次第に泳ぎはじめ、表情も苦しそうに歪んでいく。無意識に何度も首を振り、否定的なのを態度で示すミシェル。

 そんな彼女を見ていられなかったのだろう。

「大丈夫だよおばさん」

 悩みの種であるはずの少年が、傷だらけの笑みでミシェルへと問い掛ける。

「俺なら絶対うまくやるって。あいつ弱虫だからさ。きっと今頃情けなく泣いてるぜ。しょうがないから、早く助け出してやろうよ」

「ロニー……」

 思わず声が出るミシェル。

 少年の口調からは力強い意志が感じられた。本来は彼の為を思っての考えだったが、逆にそれがこの子を苦しめるのではないかと思ってしまうほど、今のロニーは気持ちが前面に出ている。

「決まりね」

本腰を入れるように、前のめりになるアテナ。余談だが彼女は頭より先に身体が動く癖があり、それはつまり頭の中で何かしらの道筋が立てられたという事。

「何か策はあるのか?」

 ミゲルの言葉に、アテナは小さく頷く。

 あの絶体絶命の状況からカッサローニの乱入というイレギュラーが無ければミレーナを取り返せたであろうあれ以降、彼はすっかり彼女の力量を認めていた。

 現にアテナはカッサローニ達の魔の手から逃れてきている。しかも傷一つ負わず戻ってくるだなんて、それだけでも並みの人間でない事を見抜くのは難しくない。

 さておき、先程も述べたが頭よりも身体が先に動くアテナ。

 その道筋とやらを早速口にしたいだろうし、ミシェル達としてもどういった作戦なのかを知りたいだろう。

「だけどその前に、あなた達に謝らなければいけない事がある」

 ふと、そんな事を言い出したアテナ。

 てっきり今後の作戦でも述べるかと身構えていた一同は、予期せぬ言葉に何事かと耳を傾ける。

 アテナは相変わらずの無表情で、

「危険を冒してまで動いてもらったのに、ミレーナを連れ戻せなかったことに関しては本当に申し訳なかった。カッサローニの勘の鋭さを甘く見すぎていた。そこは完全に私の落ち度よ」

「何言ってるんだい。君の作戦はあの時の最善の策だったと思うし、それに乗った僕たちにも非はある。そして今度も助言を仰ぐつもりだよ」

 嘘偽りないダニエルの発言。そしてそれは彼だけではない。同じ気持ちなのか、信頼の眼でアテナを見るミシェルとミゲル。

 誰もがあの作戦の発案者である彼女を責め立てるつもりはない。

「ありがとう」

 一度失敗したにも関わらず信頼してくれる皆に礼を言うアテナ。

 実際問題、彼らにはこれといって案が浮かんでいない。先の件だって馬鹿正直にミゲルを明け渡そうとしていたし、相手がカッサローニに変わった今に至ってはそこら辺の要求すらしてきていない。

 だからその道のプロであろうアテナの意見が絶大な効力を持っている。

「だがやはりロニーを一人で行かせるのは危険すぎる気が……」

 とはいえ、気になることは訊くべきだ。反論して申し訳ないと思いつつも、物申さずにはいられないミシェル。

 それに対しアテナは次のように述べた。

「もちろん彼一人では行かせない。そこはダニエルにも同伴してもらいたい」

「え? 僕かい」

 まさかの名指しに間抜けな声を出すダニエル。

 全くもって先の読めない展開に、アテナは微細な説明を加える。

「ダニエルは顔を見られていない。だからカッサローニの前に立っても問題はないだろうし、やはり商売をするにあたって大人がいた方が話もスムーズに進むはず」

 ミゲルは言わずもがな、出向いたミシェルや戦闘を繰り広げたアテナもカッティス達に顔を見られた。

 となればイタリア語を話せない龍樹以外で直接カッサローニの前に出て大丈夫なのはダニエルだけという事になる。

「いや原理は分かるけど」

 焦るダニエル。

 そう、原理は誰でも、この場で最年少のロニーにだって理解できる。しかしまだ先が見えてこない。まさか本当にカッサローニとシガーの取引をする気ではあるまいに、と場にいる大人達は眉を顰める。

 中でも当事者であるダニエルは詳しく訊かねばと言葉を重ねる。

「そもそもカッサローニの前に出て僕は何をすればいいんだい。シガーなんてあまり詳しくないよ」

 戸惑いながらも自分の意見を伝えるダニエル。こんな時にも彼の真面目ぶりが健在だが、今は周りがそこにツッコむ余裕すらない。

 全くもって的外れなダニエルの質問にアテナはこう答えた。

「その点は大丈夫。奴の前にまで至ればほぼ目的は達成できたようなものでしょうから」 

「そう……なのかい」

 一体全体それはどういう事を意味するのか皆目見当付かない様子のダニエル。

 もちろんアテナも全てを話すようで、当事者であるダニエルだけでなく、ミシェルやミゲルにも全体的な流れのようなものを説明しようとしていた。

 しかし彼女が口を開こうとした時、どこからともなく携帯の着信音が鳴った。

 皆が一斉にそちらを見やる。

 それは拘束した二人組どちらかのポッケから聞こえていた。

 場に緊張が奔る。

 どうすればいいのだろうかとおどおどするミシェルとダニエルに、どうするのだろうかと割かし落ち着いた様子のミゲル。

 皆から頼る視線を受けたアテナは静かに立ち上がると、音源の場所へと向かっていく。それはまるで予想していたかのような薄い反応であり、現にそうだった。

 二人組の元へ歩み寄りそのうちの一人の胸ポケットから携帯を取り出すと、アテナは画面に表示された名前を見た後通話ボタンを押した。

「人質を解放する気になったのかしら」

 彼女にしては珍しいジョーク。口調は温厚ながらも、話すことでこちらには退く意思がないのをそれとなく伝えているのだろう。

 対して、電話の向こう側の人物は気持ちを隠す気はない様だ。

『ナメた口を利くんじゃねえ。俺を誰だと思っている。この街の有力者、カッサローニ様だぞ』

 まるで子供のような脅し文句だ。 

 大好物のシガーを吹かしながら、偉そうに物言うカッサローニの姿が目に浮かぶ。

「あら、随分と不用心ね。自分の名前を口にするだなんて、この会話を録音して直接警察に届ければそれだけで全て解決しそうなものだけれど」

『本当にそう思うような馬鹿なら昨日の時点でテメエは死んでいたはずさ――ここいらは俺の地元でな。中の良い政治家も多くて、そいつらが警察にも色々と手を回してくれてな。何なら俺のお陰で役人にまで上り詰めた奴もいる。俺が恐れるのは精々病気と前妻の作るリゾットくらいなものさ』

「勇ましい限りね。年端もいかない女の子を誘拐するようなクソ野郎じゃなきゃそれなりに決まったかも」

『口の利き方には気を付けろ。何なら今からでもテメエの居場所を突き止めてその場にいる奴らを皆殺しにしても構わねーんだぞ』

 怒りを露わにするカッサローニの口調。

 嘘か真かはさておき、地元ではそれなりの勢力を保つマフィアのボス。

 序列的にはそこまで大したことは無いのだが、それでも凶悪な集団の長には変わりない。

 この場に置いて彼を刺激するのはあまり効率的とは言えないだろう。

「そうね。それじゃあ本題に入りましょうか」

 意外にもあっさりと引き下がるアテナ。

 裏世界の住人である彼女の事。別段怯んだ訳ではないだろうが、厄介な事に今は人質を取られている。

 カッサローニも挨拶程度の悪態を許せる程度は大人なようで。

 ふん、という荒い鼻息を立てると、アテナの要望通り本題へと入った。

『今夜十九時に昨日の場所へミゲルを連れてこい。言っとくが俺はカッティスの馬鹿とは違う。妙なことを考えるよりも、ミゲルを大人しく差し出せ。そうすれば娘は返してやる』

「ミゲルを連れていくだけでいいのかしら?」

『ああ。何だったら首だけを持ってきてほしいところだが、他人に、しかも敵である人間に頼めばどんなヘマを仕出かすか分からねえからな。いいか。どんな理由であれミゲルは確実に連れてこい。でなきゃその時点で娘は殺す。そして外部にこの事を漏らしてもだ。それを肝に銘じておけ』

「分かったわ。それじゃあ今夜十九時に、現場で」

 やけに聞き分け良くそう返事をすると、通話は終了した。

 傍で耳をそばだてていたミシェルは早速訊く。

「何だって?」

 それに対しアテナは今しがたのカッサローニとの通話内容を皆に伝えた。そして直接は言及しなかったものの、ミレーナは無事とも。

 可能性は高かったが、彼女が無事でいる事にとりあえずは安堵するミシェル達。

 そして時間がないので今後の展開について話し合う。

「で、どうするんだい。カッサローニから連絡があった事で、何か作戦に変更は?」

 ダニエルの質問に対し、アテナは大幅な変更はないと答え、 

「強いて言うなら、少し早めに動きださなければならない事かしら。約束の時間まで後十時間。用心深い奴が何かしらの準備をすると過程すれば、決して多いとは言えないわ」

「なるほど……タイミングが遅れれば会えなくなる可能性が出てくるという訳か」

「ええ。更に言えば、例え時間を早めたところで会えない可能性もあるのだけれど。何せ奴の素性が大雑把にしか知り得ない。夜の為にどれだけの準備を費やすのかは分からないし、先程の電話の内容を丸飲みにしていないのは間違いないと思う」 

 今ミゲルやアテナの言った通り、カッサローニという男がそこまで人間を信用している訳がなかった。

 だからこそ表沙汰に姿を現さないのだろうし、年端のいかない少女を人質にするという暴挙を取れるのだろう。

 つまり先程の通話でやけに聞き分けの良かったアテナの返事にも、確実に違和を感じているはず、という訳だ。

「だからそこはダニエルとロニーの演技力に掛かってくる」

 アテナは名前の挙がった二人を見ながらそうプレッシャーを掛けた。

「と言っても、本当に自然体でいいわ。さっきも言ったけど、危ない真似だけはしないでちょうだい。あなた達の役目はカッサローニの動きを封じる事。昨日の時点で感じたことだけれど、組織はカッサローニという絶対君主の元で成り立っている。つまり頭である奴を叩けば、それだけで相当機能が鈍くなるはず」

 界隈で名を馳せるマフィアが、たった一人の男を封じる事で機能しなくなる。

 にわかに信じがたい話だが、それには彼女なりに根拠があった。

 昨日のカッティス達との交戦や、カッサローニの奇襲から逃れてきた本人の見解なのだから現実味はある。

 常日頃から恐怖で支配された人間の無能っぷりは明らかであり、まるでこれまで国家が滅んできた最たる体制をそのまま反映しているかのような様相だ。

「カッサローニを封じれば、後は私達がどうにかする」

 私達。それが具体的に誰を意味するのかこの時は誰も分かっていなかったが、あえて言及する者はいない。

 方針が固まると、早速話を進めようとする。

 ダニエルにシガーのそれらしい知識を叩き込み、個々の役割分担を説明、シミレーションする。

 時間の割に、やるべき事は少なくない。

「それで、あなたはどうする?」

 放たれた日本語は特定の人間に向けられた事を意味する。蚊帳の外状態にしおれていた龍樹。

突然の問い掛けに首をすくめると、久方ぶりに口を開く。

「どうする、っていうのは?」

 質問に質問で返す龍樹。何せ今までの会話の内容が全く分からない身。今の状況ないしミレーナ救出の方法が固まった事さえ、彼は知らない。

 アテナは勘ぐるような視線を龍樹に当てながら、

「今後の事よ。今話し合った結果、ミレーナを救出する為にカッサローニの家に奇襲を掛ける事にした。やられたらやり返すって訳じゃないけれど、馬鹿正直に立ち向かうには少しばかり手を焼きそうな相手だからね」

 他の者には理解できないのをいい事に、本音を口にするアテナ。実の所昨日カッサローニから逃げる際には苦労した。数の問題はもちろんあるが、ミレーナを取り戻そうとして危うい場面もいくつかあった。

 ちなみにここで言う危ういというのは、命にそのまま直結する事を意味している。

「俺は……」

 口ごもる龍樹。ミレーナを助けるという活動を本当は手伝いたい。そもそも彼女が捕まったのは自分の精だと彼は思っている。

 しかしまた邪魔になるのが嫌だった。

 もしまた自分の精で失敗に終われば、今度こそ取り返しのつかない事になるだろう。

 そう考えると、答えは自然と出てしまう。

「もう日本に帰るよ。邪魔になってもいけないだろうしさ」

 皮肉気に笑い、自分の意見を述べる龍樹。それを受けアテナは彼を観察するような目で見ていた。ひょっとすればその心境を読み取っているのかもしれない。

 アテナはしばらくの間を空け、

「そう。分かったわ」

 と龍樹の思いを承諾した。どこかがっかりしたように目を瞑ったのはきっと気の精だろう。再び目を開けたアテナはテキパキと物事を進めようとする。

「お金はまたミシェルが貸してくれるそうよ。返すのはいつでもいいと言っている」

「ああ。昨日キャンセルした分も含めて帰ったらすぐに送るよ」

「それじゃあ空港に電話して日本行きのチケットを」

「いいよそれは」

 アテナのせっかくの心配りを丁重に断る龍樹。理由はもっとも彼らしい。

「もうこれ以上迷惑かけたくないしさ。さっき調べたんだけど、あそこの空港なら日本語を話せるスタッフもいるらしい。だからその人に聞くよ」

 自分一人で出来るならと下調べするなんて、龍樹にしてはやけに準備のいい事だ。

 裏を読めば、それだけ彼は負い目を感じているという事。

「……そう」

 なぜか申し訳なさそうに歯切れの悪い返事をするアテナ。綺麗事を言った時は厳しい彼女だが、今回のように自分の弱さを認めへこむような人間にはあまり強く言えないようだ。

 それが本当に同情している証拠なのだろうと、龍樹は更にへこむ訳だが。

「ほら、まだ話の途中だったんだろ。俺の事は気にせず進めろよ。こうしている今もミレーナちゃんは助けを待っているんだ。俺に構っている場合じゃないだろ」

 一理ある事を言う龍樹。

 本音を言えばこれ以上惨めな自分にスポットを当ててもらいたくなかったし、何よりもその為に時間を割くのが嫌だった。

 それすら今の状況では、邪魔になってしまうのだから。

 納得したのか、特に反応を示さずにアテナはミシェル達へと向き直った。もしかしたらだが、彼女なりの気遣いだったのかもしれない。

 なにわともあれ、これで正解なのだろうと龍樹は一安心する。

 思えばずっとそうやって生きてきたじゃないか。

 何かを成し遂げるには相当の力量が必要な訳で、それが無ければ大人しくしていようという考えで生きてきた龍樹。

 最近は傍にアテナという多芸多才な人間がいて少しばかり感化されてしまったが、元はといえば何の取り柄もないただの高校生。

 昨日の件はまさに冴えない少年が勘違いをして振る舞った結果として、その代償を示した形だろう。

 傍にいろと言われたのに妙な正義感を振りかざし勝手な行動を取ったし、よくよく考えればアテナが朝に帰ってきたのも、きっと龍樹に金銭を全て渡したのが原因。

(……ほんと駄目だな俺は) 

 極度の自暴自棄に陥る龍樹。自分の全てが嫌になる。力がないのはもちろん、知力の無い頭に、気遣いに気付けない心の狭さ。有事の際にどうすることもできない金銭力。あげくにはこんな時にも鳴ってしまう腹の虫。

 こうなりゃ落ちるところまで落ちてやる。

 目前で繰り広げられているであろう会議をあえて気にしないようにして、開き直った龍樹は遠慮気味だった食べ掛けの朝食に手を伸ばす。

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