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妖美なるこの世界  作者: 桂馬
イタリアの闇達
139/261

精いっぱいの誠意

 午後四時過ぎ。

 いつもなら夕飯の支度をして愛する夫の帰りを最愛の娘と共に待っているこの時間帯、アルファーノ家の食卓テーブルは静まり返っていた。

 ダイニングで集まり、事の概要を説明されたアテナ達。

 といってもそれはたまたま通りかかりその一部始終を目撃したロニーから訊いた話だ。

 現場で一番近くに居たミシェルは、机に肘を付け手で顔を覆い一言も発さず、とても冷静に話を出来る心境ではない。

 机の上には帽子がある。

 ミレーナに買ってやったばかりの真新しい帽子。それがまるで遺留品かのように、彼女の心を抉っているのは確かだろう。

 つい一時間前にはあんなに嬉しそうに被ってはしゃいでいた娘の姿が、脳裏から離れない。

「……本当にすまない」

 ミゲルは先ほどから何度目かの台詞を口にした。それに対しミシェルはずっと無言。今はなぜミレーナが攫われたかよりも、実際に攫われてしまったショックの方が大きいようだ。

 ただ、ミゲルとしても話さない訳にはいかないと思ったのだろう。

 聞かれてもいないのに、経緯のようなものを口にし始める。

「彼女に追い出されているという話、あれは嘘なんだ。本当はさっきの男達から逃げていた」

「……」

 ミシェルの反応は相変わらず無かった。まるで彼の声が聞こえていないかのように、俯いた顔を上げようとしない。本当に気の毒なことをしたと思いつつ、ミゲルは続ける。

「俺の職業、実は武器商人でな。少しばかりヘマをやらかしちまったんだ。それが連中の気に触れて、追われる羽目になった。そして一度は捕まったんだが、そこから紆余曲折を得て、あんた達の家に辿り着いちまったんだ。すぐに出て行くつもりだったんだが、中々準備が整わなかったのと、その、何と言うか、居心地が良くて……」

 最後の言葉は、別に言わなくて良かったのかもしれない。しかしそれはこれまで嘘を吐き続けてきた男が、もう騙したりはしないという感情からくる、いわば罪滅ぼしのようなものだった。

 だが――ミシェルはそれでも顔を上げてくれなかった。

 最早話のテーブルにすら着いてくれない。当然といえば当然なのかもしれなかったが、これでは展開が進まないと、ミゲルもあれこれ考えを巡らせるが――やはりまともに口も利いてくれないので、どう働きかけていいのかも分からない。

「……」

 いつしか場には沈黙しかなくなった。

 黙りこくるミシェルとミゲルに、それを考察するアテナ。雰囲気を呼んで口を挟まない龍樹に、ロニーは何やら考え事をしているようだった。リビングでは少年がジュースを飲みながら、呑気にもテレビアニメを小音量で見ている。

「……ミシェル。悪い、まさかこんな事になるだなんて思いもしなかったんだ」

 言っても無駄だと分かっていても、言わずにはいられなかった。本当に反省をしているのは声音を聞けば分かる。

 気を抜けば泣き出しそうなか細い声で、ミゲルは続ける。

「言い訳に聞こえるかもしれないが、金銭だって用意できていたはずなんだ。まあ結局は無全部取り上げられていたんだが、迷惑を掛けるつもりは無かった」

「……」

 手で顔を覆うミシェルは微動だにしない。泣いてるのか怒っているのか。それすら分からない事には、話の方向性が見えてこない。

「ミシェル。実は俺」

 思い切ったように、何かを告げようとしたミゲル。

 しかしここでようやく、

「どうでもいいよそんな事」

 ミシェルから返事があった。返事というより、応答と言った感じだったが、何にせよ言葉を発してくれた。

 だからといって、ホッと一安心、なんて事には、間違ってもならないが。

 相変わらず顔を覆ったままのミシェル。言葉を遮られ、虚を疲れたかのような顔をするミゲルに、彼女はこれまでの言葉にこう返答した。

「あんたが何者でどういう心境だったのかを知った所で、娘は帰ってこないんだから」 

「……」

 何も言えなかった。正論かどうかを比べるのも許されない、まさに現実論。

 ミシェルにミゲルという男がどういう人物なのかを話した所で、事態は確かに進行しないだろう。

 それで彼女はこれまで返事をしなかったのかもしれないし、もしくは娘が攫われた元凶の男と口をききたくないのかも知れない。

 いずれにせよ、彼女がミゲルの事を嫌いになったのだけは確実であった。

「……とりあえず要点をまとめると」

 助け舟という訳ではないが、ここで静観に徹していたアテナが口を開き始める。

 どこを見ているのか分からない伏目をしながら、ミレーナが連れ去られた経緯を整理する

「街でミゲルが奴等に見つかり、その時たまたまミシェル達が居合わせて、彼と知り合いだという事を悟られてしまった」

「ああ……そうだと思う」

 思えばあの時、ミシェルが彼の名前を呼ばなければ、こんな事にはならなかったのかもしれない。

 それを考えればミゲルにしても、ミシェルは逃走の邪魔をした人物となるが、無論、そんな事を言える訳もあるまい。

 そもそもその逃走資金だってこの家からくすねたものなのだから。

「で、ミゲル。なぜあなたはあそこにいたのかしら」

 まるで裁判官のように、アテナは事情を聴取する。

 それは当然の疑問だろう。しかしやはり、家の者がいる前でその事実を話すのは憚られた。

 ミシェルの反応を気にするミゲルは、彼女の方を見入り、押し黙ってしまう。

 こんな状況だが、もし金を取ったと言えばどんな気持ちになるのだろうか。

 致し方なく騙していた件とは違い、それは明確な悪行といえよう。

 家に置いてもらい食や寝床まで用意してもらった恩人に知られるのはどうしても躊躇われ、ミゲルは中々真実を話せなかった。

 そんな彼の心境を見透かしたのだろう。

 アテナは戸惑うミゲルの方を見ながら、こう促す。

「もう隠し事は無しにしたら。こうしている今も、ミレーナは危険な目に晒されている」

「……ああ。そうだな」

 観念したのか、力なくため息を吐くミゲル。椅子の背もたれに掛けてある先ほど着ていたコートのポッケを漁り何かを取り出すと、それを机の上に置いた。

「この家からくすねたものだ」

 ミゲルは正直に告白した。

「ミレーナの部屋を漁って、机の引き出し裏から出てきた。これを使って俺はこの国から出ようと考えた。それであの場所にいたんだ」

「……」

 ミレーナという単語が気になったのか、ミシェルは顔を覆っていた掌を解いた。久々に垣間見れたその表情は先ほどよりもやつれ、さながら放心状態のようだった。

 気の毒に思うミゲル。

 あんなに輝いて見えた彼女の姿が、今はひどくくすんで見える。

「見覚えはあるか? これだけの大金、五歳やそこらの子供じゃ蓄えられないと思うんだが……」

 机の上に並べられたユーロ札。それを見たミシェルは出所を脳内で探り、すぐにピンときた。

 その事実にショックを受けた彼女はまた手で顔を隠しながら、

「最低だな、あんた」

 皮肉げに鼻で笑った。

 反論の余地もあるまい。

 ああ、と肯定したミゲルの顔は、どこか吹っ切れているようだった。

「ミレーナの部屋にあると言ったな。だとすれば私には記憶が無い。旦那も馬鹿がつくほどまじめだからな。私に黙ってへそくりを作れるほど肝っ玉も据わっていないだろうさ」

「……それじゃあこの金は」

 ミレーナが頑張って貯めたんだろ、とミシェルは言った。

「お金の大切さを分からせようと、うちは手伝いをしたら小遣いをあげる仕組みなんだ。そりゃずっと付きっきりだから毎日のようにあげていたが、百セントなんて私達にすればはした金みたいなものだからな。それをあの子はこつこつと貯めたんだろうよ……物をほとんど買わないしたまに紙幣に換えてやっているから貯めているとは思っていたが、まさかこれほどとは」

 その計画性に感心すると同時、悲しくもなるミシェル。

 今頃は強面の知らない男達に囲まれ怯えている事を思うと、胸が痛む。

 再び生まれた沈黙。意図はしていないのだろうが、話の脈絡上、どうしても避けては通れないミレーナの件。

 何をどうしようと、口を開けば場は静まり返ってしまう。

「それで、ミレーナを連れて行った男の件だけど」

 重苦しい空気も何のその。

 ショックを受けている人間の心境など気にしてられないと言わんばかりに、話を進めるアテナ。半ば放心状態のミシェルでは駄目だと判断したのか、その傍らで屈強な目をする少年に質問する。

「ロニー。あなたは知っていると言ったわね。ミレーナを連れ去った男の一人を」

「ああ。俺の家はバールとタバッキーを兼ねた店をやっていて、そこにシガーをよく吸いに来る男に連れ添ってるのを何回か見た事がある。配達に行かされた事もあるから家も知ってるぜ」

「そう。でも今回の件はカッサローニを介していないはず。となるとやはり、それなりに秘匿率の高い場所になってくる。取引をする以上、連中は何か言っているはず。指定場所や今後の流れのようなものを聞いているんじゃない?」

 冷静に物事を進めていくアテナは、そこでミシェルを見た。彼女もその視線をちらりと見やり、よくもそこまで人事のように進められるものだと理不尽な嫌悪感を覚えつつ、ポケットから一枚の紙を取り出す。

 B4程の大きさを誇るそこには地図のようなものと十九時という端書きと妙な落書きが逆さまに記載されていた。

「……前回取引で使った場所。ここに来いと言っていたよ」

 衰弱しているミシェルの声。それは手の平越しというのも手伝って、余計にくぐもって聞こえた。

 口数が少なかったのも、その為だろう。

 それでも思い当たる節があるのか。

 差し出された紙を見るとミゲルは、

「前回の取引の場所……」

 独り言のようにそう呟いた。

 その反応を見逃さなかったのか、アテナはすかさず訊く。

「心当たりはあるのかしら?」

「ああ。もし俺が思っている場所で合っているのなら、ここからだと結構遠い。歩いていけない訳ではないが、かなりの時間が掛かっちまう」

「まあ、それぐらいの場所でなければカッサローニの目に入ると思ったんでしょ」

 そうやって辻褄を合わせていくアテナ。敵が何かを企んでいないのか、本当にそこに行けばミレーナはいるのか。

 それを自ら口にして探っているのだろう。

「それで、肝心の場所は?」 

「西側の沿岸だ。ここからだと車で一時間、交通機関を利用して一時間半ほどか」

「そう。少し待ってちょうだい――龍樹」

 久しぶりに聞いた日本語に。

 ふあ? と完全に油断していた龍樹は間抜けな返事をする。ここまで彼らはずっとイタリア語。途中どういう状況か訊こうかとも考えたが、シリアスな話なのでそれも躊躇われていた。

 そこでいきなり名前を呼ばれたのだから、その反応も無理は無いのかもしれない。

「何だよ。何かいい案が纏まったのか?」

「いいえ。それはまだだけど、あなたに頼みたい事があるの」

「俺に頼みたい事? ……何だよ」

 その問い掛けに思わず身構えてしまう龍樹。彼としても、世話になった家族の一人娘が攫われた現状、役に立てることがあるのであれば何だってしてあげるつもりだ。

 しかし同時に世界が違うとも思っていた。

 誘拐された子供を助けるためにマフィアと闘うなどどう考えても役不足である。

 運動神経は並だし、頭にいたっては他人から心配されるほどのお馬鹿さんである龍樹。

 そんな彼にデキる人間である所のアテナが頼みたい事とは一体――

「携帯で地図を表示して頂戴」

「……」

 あったな、と内心で納得する龍樹。

 恐らくは極度の機械オンチであるところのアテナ。だが彼女は全く恥と思っていないのか、その表情と態度は堂々としている。

 まあ彼女の場合は、感情が表に出ないだけなのだが。

「えーとちょっと待てよ。地図地図っと……」

 ブラウザを開き、世界の大半を網羅している有名なマップを検索する。

 ちなみに海外で定額制の事業者を自動で探してもらえるアプリはインストール済みだ。この仕組みを機械オンチのアテナに言えばどんな反応をするんだろうなと少し興味を持ったが今は場合じゃないと踏みとどまり、やはり媒体を通しているからか通信速度が落ちながらも、龍樹はどうにかスマホ画面に地図を表示した。

「開いたぞ。現在地でここの大まかな場所が表示されてる。で、何をするんだよ。開いたからには、何か検索するんだろ」

 龍樹の言葉を受けると、アテナはミゲルにまた何かを話し始めた。

 きっと具体的な場所を窺っているのだろう。

 程なく、自分の目で確かめたいのかミゲルは龍樹へと歩み寄ると、

「携帯を貸してくれだって」

 アテナ伝にそう聞き、彼もそれに従う。

 やはり日本のスマホと海外のスマホでは使用が少し違うのか、龍樹からそれを受け取ったミゲルの手は少したどたどしかった。それでもどうにか法則性は見出しているようで、何度か間違えているようだが着々と地点は入力はされていく。

「なあ。警察に相談、とかじゃダメなのか?」

 訊くならこのタイミングだと、龍樹はアテナに質問する。当然ながらそんなものは彼女でなくとも頭の中にはある方法。

 彼女はその先を考えている。

「駄目よ。警察に言って対処していたんじゃ間に合わない。相手もどうやらその辺りは熟知しているらしい。ミシェルが家に帰ってミゲルと会うおおまかな時間を計算して、約束をふっかけてきたのよ」

「そうなのか。でも場所を言ったら応援とか駆けつけてくれるんじゃないのか」

「イタリアの警察も忙しくてね。ちゃんとした証拠がないと動いてくれない。この紙だってそう。ミシェルの今の言葉がなければ、地図に時間を殴り書きした風にしか見えない。どうやら連中、相当手慣れているようね」

 ひらひらと目の前で振られる紙を見て、なるほど、と龍樹は納得する。

 言われてみればその紙はただのメモ代わりにしたように見える。おまけに約束の時刻まで二時間を切っている。今から警察に言ってあれこれやっている間に時間が来てしまい、そうなればミレーナがどうなるか分かったものではない。

「あった。ここだ」

 そうこうしているうちに、ようやくミゲルは目的の場所をピンポイントで表示したようだ。

 龍樹が開いたマップをすでに使いこなしているようで、日本語は読めないが大体の感覚でミゲルは現在地からのルートを表示させた。

「ここから……交通機関を使って一時間十六分か」

 遠いとも近いとも言える微妙な距離。

 もちろんミレーナを助けるため、距離なんてものはこの際関係なかったが、仮に乗用車で向かえばもう少し早く辿り着ける事が出来る。

 ちらっとミシェルの方を見るミゲル。彼女は相変わらず意気消沈している。今の話も聞こえなかった訳ではあるまいに。

「……誰かは付いて来て欲しい」

 ぽつりと、そんな事を口にしたミゲル。それは一人では心細いだとか助けて欲しいなどという自己的なものではない。

「現場に行けば、連中はミレーナを解放する。そうなった時に誰かが彼女を受け取らなければならない。それに一人だと逃げてしまいそうになる。監視役として、俺を見張っていて欲しい」

 覚悟を決めたのか、頭は冷静だった。その顔もどこか悟ったようにスッキリしているミゲル。それは今から危険な場所へ身を投じようとしているのを如実に表していた。

「……監視役としてって」

 その心構えに流石のミシェルも心が動いたのか。

 手の平で顔を隠しつつ、驚いたように口を開いた。

「分かっているのか。行けばあんたは死ぬんだぞ」

 何をいまさら、とでも言いたくなる言葉だった。だがそれは事実であり、だからこそミゲルは覚悟を決めたのだ。

「まあ……その倉庫は奴等直轄の建物じゃない。恐らくそこで殺されるって事はないだろうから、後は隙を付いて逃げられればいいがな」

 自虐的に笑って、それは難しいだろうなと内心で思うミゲル。

 何せ奴等はそれで一度失敗している。倉庫が奴等の直轄で無いというのすら実は適当で、とても対策を講じていないとは思えない。

 それを分かった上で、彼は出向くといったのだ。

「ミレーナの事は放っておけない。最初に言ったと思うが、本当にこうなるとは思っていなかった。元より助けられた命。少しの間だったが、その間に気持ちの整理もつけられたしな」

「……」

 男の意思を受け取ると、ミシェルはそこでようやく顔を露にする。

 確かにこうなったのはミゲルが黙ってこの家に居座ったからだ。しかしそこは招き入れた自分にも責任があると、彼女は気づいていた。

 それをあたかもミゲルが全て悪いように持っていこうとするだなんて、あつかましいにも程があるだろうと、この時ようやく彼女は自分を責めた。

「ミシェル。最後に頼みがあるんだ」

 その言葉に。

 今度は真正面から対応するミシェル。曲がりなりにも娘を助ける為命を厭わないと言ってくれる人間を無視するのは失礼だと考えを改めたのだ。

 男は真剣な剣幕でミシェルの眼を見ながら最後の頼みとやらを口にする。

「俺を現場にまで連れて行って欲しい」

 強い決意を持った、真っ直ぐな瞳。それは今まで嘘を吐いていた人間を信用するに値するにはいささか幼稚なものかもしれない。

 いや、実際そうだろう。

 結局今回の件も内面を見抜けなかったからこんな事態に陥ったというのに、それをまた上辺だけで判断するなど、愚の骨頂もいい所だ。

 だがこの時のミシェルにそう思えるだけの余裕は無かった。

 どの道娘を救うにはそれしか方法が無い。

 だが、やはり迷ってしまう。

 いくら大事な娘の為とはいえ、人一人の命が掛かってくる案件。おいそれとそうしてくれだなんて言葉を放てるほど、彼女も非道ではない。

 しかし娘は助けたい。朝見た天気予報によれば、今日もイタリアの夜は冷え込むといっていた。このまま日没を迎えると薄暗い場所で男共に囲まれて気の弱いあの子は震え上がってしまうだろう。それに満足のいく食事を与えてくれるとも限らない。そもそも約束の時間を破れば本当に殺されてしまうのかもしれない。

 その動揺が顔に出てしまっていた。

「ミシェル。時間が無いんだ」

 不自然に眼を泳がせるミシェルを見てミゲルは力強くそう言った。

 そう。

 時間を掛けるのは好ましくない。

 形的にはミゲルとの交換材料なので殺されることは無いとは思っていても、結局それは思っているだけであり、悪党の終尾ともいえる奴等の気がいつ変わってもおかしくはない。

 何より時間が延びれば延びるほど、ミレーナが恐怖を感じる時間は増えてしまう。

「頼む。最後の最後に、俺を男にさせてくれ。あんたらに与えてしまった罪を償わせてくれ」

 強く訴え掛けるミゲルに、今だどうすればいいのか結論が出せないミシェル。傍から見た光景は、どちらが被害者か分からない。

 ミゲルを差し出し簡単に娘を助けるか、二人を同時に救い出す方法を探るか。

 そんなのすぐに決められる訳が無いと、ミシェルは頭を抱える。

 そもそも二人を同時に救い出す方法なんてあるかも分からない。昼過ぎに手際の良さを経験している身としては、相手はそこらのチンピラでないのは彼女自身理解していた。

 最悪ミゲルが連中に引き渡される件はミレーナに伏せることは出来るかもしれないし、本人が望んでいるのだからそこまで罪悪感を感じることも無いのかもしれない。

(いや、駄目だ、何を考えている)

 その考えを振り落とすかのように頭を動かすミシェル。

 気づけばミゲルを差し出した際の口実を探そうとしていた。

 頭が痛くなってきた。どうすればいいのかが分からない。もういっその事誰かが取り決めてくれればいいのにと自暴自棄に陥ってしまう。

 そもそも一人で決めるのが無理なのかもしれない。

 今回の件、実はダニエルにはまだ言っていない。

 言えないといった方が正確のかもしれないが、何にせよ自分が状況を飲み込めていない状況で伝えるのには躊躇いがあった。

 だがこうなってしまった以上、話し合って決めるのが得策かもしれない。今から会社に電話してすぐに帰って来てもらい、どうするかを考えたい。

 その旨を、ミシェルはミゲルに告げようとした。

 自分一人では決められない。旦那が帰ってきたら話し合って決める。だから少しだけ待っていてくれ、と。

「駄目よ」

 とここで。

 この件に関してはあまり関係の無いであろう人物が口を挟む。

 呆れたように眼を瞑り、聞いていられないと言いたげに頭をもたげたアテナ。

 やがて薄く開かれた双眸でミシェルを見ながら、

「言ったはずよ。彼は私達に必要な情報を持っているの。それを聞き出す前に死なれたとあっては、笑えるものも笑えない」

 まるであなたに非があるとでも言いたげなアテナの言葉に、瞼を瞬かせるミシェル。

 彼女が何か言葉を返そうかと思う前に、それにはミゲルが意見をした。

「こんな時にその話かよ……まあいいさ。何が知りたいんだ。こうなっちまった以上、喋ってやるよ。ただ時間は掛けられないから手短にな。あんたにはさっき助けてもらった。その分だけでも返してやるよ」

 悪くない話だろう。

 アテナにとってミゲルはただの情報源でしかないはず。その情報さえ手に入れられれば、基本エゴイズムである彼女には何ら問題は無いだろうし、彼自身が命を賭すと覚悟を決めたのも、そこは他人の道、と切って捨てた事だろう。

「それでも駄目ね」  

 しかし、彼女はそう言った。これまでよりも少し語気強く言ったものだから、ミシェル同様、ミゲルも瞼を瞬かせる。

 だがすぐに険しい表情になり、

「じゃどうしろっていうんだ。まさかミレーナを見殺しにしろというのか? そんな事出来るはず無いだろ。俺はミレーナを助けに行く。もしそれで納得がいかないのなら好きにすれば良いさ。その場合あんたらに口を割ることはないだろうがな」

 拗ねた子供のような態度のミゲル。話にならないと言いたげに、アテナから視線を外す。そして本筋であるミレーナの件についてミシェルと話し合いを再開させようとしたのだが、

「考えが甘すぎるわ」

 先ほどとはまた違ったアプローチに、ミゲルは思わず眼を戻してしまう。

 伏目がちのアテナ。

 何を持って考えが甘いのか。無表情な彼女からはその意思を汲み取れない。

「どういう事だ?」

 眉を潜めるミゲルに、アテナは答える。

「ミゲルを引き渡せばミレーナが帰ってくる? 連中がそんなに気前のいいような人間に見えたのかしら。断言しても良いわ。彼を引き渡した所で、ミレーナは返ってこない」

「……連中が噓を吐いているってのか」

 懐疑的な様子のミゲルに対しアテナは、さあどうでしょうねと言葉を濁す。

「そもそも連中はミゲルを渡せばミレーナを返すと言ったのかしら? その辺りは現場にいた人間にしか分からないのだけれど」

 アテナは言いながら、現場にいて直接話を聞いたミシェルを見て、釣られるようにミゲルも彼女を見た。

 ミシェルは思う返すような間を空けてから、

「いや……直接的な事は言っていなかった。だが話の内容的にはそうだったぞ。とにかくミゲルが来なければミレーナを殺すと言われた。その後何かを言ったかもしれないが、情けないことにそこで私の意識は途切れてしまったんだ」

 悔しそうな表情をするミシェル。自分がもっとしっかりしていればミレーナは連れ去られずに済んだのかもしれないと後悔する。

 しかし今は場合ではない。

 落ち込むミシェルを慰めてあげたい衝動に駆られながらも、ミゲルが話を進める。

「じゃあ俺が出向いた所で、ミレーナはどうなるというんだ」

 まるでアテナが行く末を知っているかのような物言いだが、彼としては意見を求めただけだ。

 ミゲルが出向いてもミレーナは返ってこない。そう自信を持って言えるという事は、何か根拠があるのだろう。

 断言は出来ないけど。

 そう前置きをして、アテナは述べ始めた。

「まず取引というのは同じ立場だと認識していて初めて成立するもの。今回の場合、連中は取引というよりあくまでも手段としてミレーナを攫った。つまりミゲルという人間をこの世から抹殺する事が最大の目的」

「ああ……だから俺が奴等に殺されればミレーナは解放されるんじゃないのか」

 だからそれじゃ駄目なのよ、とアテナは面倒くさそうに答えた。

「冗談のつもりで言ったのかは分からないけれど、ミゲル。あなたがさっき言った隙を突いて逃げるという言葉。そして連中が策を講じていない訳が無いという言葉。恐らくそれは矛盾していて、なぜならミレーナはあなたが殺されるまで解放されない。つまり足枷に利用しようとしている可能性が高い」

「それは……」

「それにあなたを抹殺した所でミレーナが返ってくればいいけど、最悪の場合口封じのためにミシェル達も殺されるかもしれない。取引どうこうよりも、リスクが高すぎる。だから駄目だと言ったのよ」 

 返す言葉が見つからなかった。

 押し黙ってしまうミゲルとミシェル。

 確かに相手はそんじょそこらのチンピラではない。これまで幾度と無く騙し騙されの世界を渡り歩いてきたであろう連中。

 おいそれとミゲルを渡してミレーナが返ってくる保証は、確かに無い。

「じゃあどうすればいいんだ」

 藁にもすがる思いのミゲルとミシェル。不安を表情いっぱいに湛え、それは見ている者に人間という生き物のもろさを露呈されている気持ちになりそうなものだった。

 だが、女はあくまでも冷静だ。

 それもそのはずだろう。

「どうするも何も、二人とも混乱しすぎて大事な事を忘れていない」

「?」

 アテナの言葉に眉を存分に顰める二人。

 彼女には道筋が見えているようだ。

 ミゲルを助け出しなおかつミレーナを救出するという、道筋が。

「私に考えがあるの」

 今だ困惑する二人に構わず。

 女はその考えとやらを口にし始めた。

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